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ナザレのイエスについて、素朴な疑問です。

puregrapeの回答

  • puregrape
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回答No.2

マタイ福音はイエスキリストをユダヤ人の王様として提示します。だから、ユダヤ人の王様の系図が書かれているのです。                                                                                      マルコ福音はイエスキリストを僕として提示します。僕には系図が無いので系図が書かれてありません。                                                                                                ルカ福音はイエスキリストを人の子として提示します。だから、アダムまでの系図が書かれてあります。                                                                                             反面、ヨハネ福音はイエスキリストを神様の御子として提示します。だから、世の中の全ての人々のために書かれているのです。                                                                                             ルカ福音に書かれたイエスキリストは人の子でも我々みたいな小文字のson of manでは無く、大文字のthe Son of manです。                                                                          即ち、100%の人間では無く、100%の神様です。                                                                                          罪がほんの少しでもある人は地獄に行きます。罪が支払う代価は死だからです(ローマ書6:23)。                                                                                          だから、旧約では律法を守りながらそれを犯した場合は傷が一つも無い子羊の血を罪人の罪の身代わりとして捧げ罪を赦してもらいました(レビ記)。傷が一つも無いと言う意味は、罪が一つも無いという意味です。                                                                                                これは新約の模型した。                                                                                              即ち、罪人は罪人の罪の身代わりになる事は出来ないとの意味です。アダムの子孫である全ての人々は罪人です。即ち、人々の罪の身代わりになれません。イエスキリストは我々みたいな人間から生まれたのでは無く、聖霊によって宿られ生まれました(マタイ福音1:20)。罪が一つも無い聖霊によって生まれたから私達の罪の身代わりになる事が出来たのです。だから、浸礼者ヨハネはイエスキリストを見て‘世の罪を取り除く神様の子羊だ’と証拠したのです(ヨハネ福音1:29)。                                                                             神様はエゼキエルをいつもson of manと呼びました。誤解が無いようにエゼキエル2:1を翻訳します。{And he said unto me,Son of man,stand upon thy feet,and I will speak unto thee.彼が私に言われ「人の子よ、立ち上がりなさい。私が貴方に言います」とされた。}ここでのSon of manは疑問文の初文字だから大文字で書いただけで、実は小文字です。                                                              ヨハネ福音の神様の御子もthe Son of Godです。ですから、聖書を翻訳した者達がthe Son of manを太字で書いたなら貴方に誤解をまぬくことは無かったでしょう。                                                                                                         英語は単数と複数の区別や大文字と小文字の意味がはっきりされた優れた言語です。反面、間違いに使うと全然違う意味になってしまいます。たとえば、gooでのID名をApostleと使う人を見た事があります。聖書にapostleは多くいましたが、Apostleは一人しかいないイエスキリストを意味します。だから、彼がイエスキリストで無いならば、敵キリスト(Anti-Christ)になってしまいます。                                                                                                        以上の説明によって聖書を読む時、イエスキリストをユダヤ人の王様、マルコ福音はイエスキリストを僕、ルカはthe Son of man,ヨハネ福音は神様の御子という視点から読むと分かりやすくなりますが、ヨハネ福音3章は人は生まれ変わらないと神様の国を見る事が出来ないといわれます。                                                                                                      イエスキリストが自分の罪の身代わりになって十字架で血を流してくれたから自分は罪が無いので楽園に行けると信じる人は生まれ変わった人です。それを信じない人は聖書を読んでも意味を分かる事は出来ません。だから、聖書は生まれ変わって無い人々を盲人(ルカ6:39)、死んだ人と呼ぶのです(マタイ8:22)。                                                                                        神様の国は、天国や三番目の空にある楽園ではなく、神様の事について分かる事が出来る霊的な国です。聖書はその霊的な国について書かれています。生まれ変わって無い人が聖書を読むと、彼は死んでいるので自分勝手な解釈をやってしまいます。そして、生まれ変わって無い人が盲人の解釈を読むとなるほどと納得します。そして、二人とも地獄に行きます(ルカ6:39)。                                                                                                                  これが、世の中に救われた人が極めて少ない理由です。                                                                                                                  the Son of manは傷一つ無い子羊としてのイエスキリストであり、100%神様です。新約にはthe Son of manが87回書かれています。

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