• 締切済み

イエスの大嘘

 イエス・キリストの大嘘について どう思いますか?  ナザレのひと・イエスは ヨセフという父親とマリアという母親とから――むろんその交渉をつうじて――生まれたふつうの一人の人間であったわけですが 自身はそうであると同時に(つまり 人間であると同時に) 神の子でありみづからも神であると言ったのです。――これが ひとつのウソです。  もっともこのウソのからくりについて 人びとが納得の行くように説明することも出来ます。  つまりは 何のことはない 例のブッダター(仏性)というあれです。アートマン(霊我)でもよいわけです。この神の霊が 人間にはやどっているといった・人びとの常識にまで成った想定の話を少し拡大して イエスは 《わたしが その神の霊である。つまり ブッダターである。つまり アートマンである》と言ったわけです。  すなわち ふつうは人は 神の霊であるアートマンやブッダターなる霊を わが身と心とにやどす・つまりそれは 分有するということなのですが イエスの場合は 分有ではなく 自分がその神の霊そのものであると言ったのです。  すなわち イエスはふつうの人間であると同時に その身と心〔と非思考の庭〕とで百パーセントが神の霊であると言いました。――これが 第一のウソです。  第二のウソは 神は どんな名であろうと全体として ただひとつであると言いました。それには ひとつの手法として 十字架にハリツケになって そのまま去って行くというかたちを採った。これによって 神という神は すべてひとつであることが 確認された。  なぜなら 神である(=キリストである)イエスが その十字架上から もしおまえが神の子なら降りて来いとなじられても 降りて行かなかった。降りて行ったなら それは おまえが神であるから出来たことだ 神の奇蹟などは おれたちにはお呼びではないと人びとは思い言い合って おしまいになる。ゆえに 奇蹟を起こさなかった。  またもしただ人間としてハリツケに遭って死んだというだけなら それは せいぜいよくやったな がんばったぢゃないか おまえのことは覚えておいてやるから 往生しーやと言われておしまいである。そうではなく 神がハリツケにされたのである。と語ったわけである。これが 第二のウソだ。  このウソによれば 人びとは 笑おうが泣こうが とにもかくにも 元気が出る。ハリツケのイエス・キリストを見れば ひとは元気を取り戻す。ということになっちゃった。――これがウソの効用。  しかも やがては 名の違う神どうしのケンカは もう用無しとなるはずである。そのために 大嘘をついた。イエスという男。  宗教のオシエは どうでもよい。のです。

みんなの回答

  • dropyork
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回答No.9

イエスは神の道具と望まれた。だから神のおん声を聞いた。 自らは神と定めなかった。 神の道具であるがゆえに神を示すのである。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆  イエスが みづから自分はヤハヱーなる神の子であり 父の子は 子の父と一体であるとも言っているところです:      ▼ (マタイによる福音 16:20) ~~~~~~~  それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。     * 16:16 ペテロの言葉として《生ける神の子》があり イエスは それを《わたしの天の父が表わした》と答えている。  ▼ (ヨハネによる福音4:25-26) ~~~~~~  〔* サマリアの〕女が言った。   「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。   その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」  イエスは言われた。   「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」  ▼ (ヨハネによる福音書 14:6-14) ~~~~  イエスは言われた。    「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、    だれも父のもとに行くことができない。     あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることに    なる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」  フィリポが    「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」  と言うと、イエスは言われた。    「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていない    のか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を    お示しください』と言うのか。    わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じない    のか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではな    い。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。     わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言う    のを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じな    さい。     はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、    また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くから    である。     わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、    父は子によって栄光をお受けになる。     わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあ    げよう。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • lv4u
  • ベストアンサー率27% (1862/6715)
回答No.8

No.2です。 No.7さんのお礼の最後にある >>★ イエスは嘘つきではありません。 >> ☆ 神語と人間語のあいだで ウソは発生するのだと説明しています。 ということは、質問のタイトルである「イエスの大嘘」や、質問文の最後にある「そのために 大嘘をついた。イエスという男。 宗教のオシエは どうでもよい。のです。」といいうのは全て質問者さんの間違いであったと認められたわけですね。 無事、質問が間違いであると認識されて、問題解決してよかったです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 無事、質問が間違いであると認識されて、問題解決してよかったです。  ☆ 《質問がマチガイである》ことになるとは 言っていません。  ☆☆(No.7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~   >>★ イエスは嘘つきではありません。   >>☆ 神語と人間語のあいだで ウソは発生するのだと説明しています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから この説明と同時に 次の説明も受け留めてください。  ☆☆(No.7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~   9. 人間にとっては 人間語であらわされたイエスの言葉が 大うそである。そのような大嘘をとおしてでも 神とは 全体としてひとつであること また名が違っても――アッラーフと言い エローヒームと言い 名が同じ( ’LH )であっても ヤハヱーと言い違っていても――神はおなじひとつであるというマコトを告げました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち   ○ 人間にとっては 人間語であらわされたイエスの言葉が 大うそである。  です。人間の貌(かお)としては ウソである。神の貌としては 神にとっての真実である。このふたつが 同時に成り立つという見方です。

  • masazai
  • ベストアンサー率36% (55/150)
回答No.7

私はムスリム(イスラム教徒)です。 ムスリムは、ムスリムも、イエス・キリストが神から遣わされた特別な存在だということを信じています・・・キリスト教徒とは違う認識で。 そんなムスリムとしての視点から書きたいと思います。 聖書はイエスの言行だけでなく、ほかの聖典で言うところの「解説」「注釈」が彼の言行の記述との差が分からないぐらい並行して書かれています(海外の聖書研究者の言)。 そして、神のメッセージを人々に伝えた彼が「天に昇った(30歳強ぐらいの時?)」後100年以上経ってから記述という形で保存されるようになり、純粋な神のメッセージではない、イエスの使徒の「感じたこと」「思っていること」が「聖なる経典(聖書)」の大きな部分を占めています。 おかしくないですか? イエスが本当に神から遣わされて使命を全うしたとしても、現在私達が「キリスト教における神の言葉」と信じられている聖書に、髪の直接のメッセージ以外の、いわば「神の言葉に関する、使徒のレビュー」みたいなものも神の下した聖典の言葉として扱われているなんて。 このようにして、ムスリムは「神が詩篇や福音を下した」ことは信じていますが、現存する「詩篇」や「福音書」の内容全部を認めているわけではありません。 何故ならイエスの目の前でどこまでが神の言葉かを確認したわけでもなく、イエスの使徒ですら死んでしまった後の、イエスに直接会っていない世代の人々が聖書を編成したのですから。 また、イエスの誕生に関して。 名前は忘れましたが、ある有名な物理学者がこう言ったそうです。 「この世界(宇宙や自然)が自然に今のような形になることは、公園のゴミカゴに自然発生で竜巻が起こり、自然にそのゴミからボーイング機が出来上がるのと同じぐらい難しい」 トポロジーの観点からも(ゴメンナサイ、私自身はガチガチの文系脳です)、自然というのは完全に「自然発生」したのではなく、「ある外部からの力」が加わったことによって自然ができ始めた、と考えるそうです。 その「外部からの力」って何でしょうね? 私達は特に宗教など超自然現象に関して語られると「そんなの科学的でない」と一蹴する割には、自然の成り立ちは「あれは自然にああなった」と、科学的見地を無視します。 それならば、前述のように「自然が自然に出来上がることは不可能に等しい」のに、何故こんな複雑な森羅万象が動いているのでしょう? それは、現代科学では証明不可能な「ある別の力=神」が存在するからです。 それを宗教は認めているんです・・・科学至上主義者の方々が何と言おうと。 だから神が「このようになれ」と命じられれば、何でも起こるのです。 だから、キリスト教徒だけでなくムスリムもイエスは「父無しで、神の命令によってのみ誕生した」と信じるのです。 ということで、イエスの誕生は嘘ではない、普通ではありえないことだが、神の力で「充分起こり得た」ことなのです。 ということで、繰り返しますが。 イエスはウソをついていない。 彼は神の力によって父無しで誕生した。 彼を神格化したがった後世の者たちが、彼を神格化するために、あれこれ「イエスが神から授かった言葉のオリジナル」に手を加えたことが問題。それが原因で彼が嘘つき呼ばわりされてしまっている。 ご存知かもしれませんが、有名な話。 クリスチャンの祈りの言葉で有名なのをご存知ですか? 「天にまします、我らが父よ。願わくは・・・」というもの。 クリスチャンは日常的に神を「父」と呼ぶのです。他にも「父なる主」という言い方もしますよね・・・クリスチャンは皆イエス同様に「神の子」だと? 違います。これはイエスの時代やそれ以前もそうで、それだけ人々と神の距離が近い、ということの表れでしかないのです。 イエスだけが神を「私の父」と呼んでいたのではないんです。 だから、彼は特別な人間だったとしても、「神の子」ではなく、皆と同じ人間だったのです。 それを「彼だけは神の子」と事実を歪めたのは、彼が天に昇った後の人々。 イエスは嘘つきではありません。 イエスの後世の人達に嘘つきがいて、聖書の言葉を歪めたのです。

bragelonne
質問者

お礼

 まさざいさん السلام عليكم  (ヰキぺから引きました)。こんにちは。初めまして。ご回答をありがとうございます。  ムスリムなのですね。わたしも キリスト・イエスの指し示した神を受け容れ〔ることが出来〕て 《心がやわらがしめられた( muSLiM )者です。神に帰依しています( iSLaaM )。  さて 互いの情報を突きあわせて よりよい認識と互いの理解へとおしすすめたいと考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  神のメッセージを人々に伝えた彼が「天に昇った(30歳強ぐらいの時?)」後100年以上経ってから記述という形で保存されるようになり、純粋な神のメッセージではない、イエスの使徒の「感じたこと」「思っていること」が「聖なる経典(聖書)」の大きな部分を占めています。  おかしくないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 説明いたします。  1. イエスの生前には かれが自分は神の子でありみづからも神であると語っていたにもかかわらず 弟子たちを初めとして誰も そのことに気づかなかった。言葉では聞いていたとしても 理解できなかった。  2. 弟子たちは やっと・つまりイエスが十字架上に去ったそのあと そのイエスの語った言葉は腑に落ちたのです。すべてを知りました。  3. つまりそのときが イエスが  ★ 天に昇った  ☆ ときだと言っても マチガイではありません。それまでは ただ立派な人間が迫害に遭って一命を落としてしまったくらいに思っていただけです。  4. イエスの語録が集められて行ったのは ほどなくだったでしょう。百年も経たないあいだに 福音書が編まれました。またすでに並行して パウロの書簡が書かれるようになって来ています。  5. ★ 純粋な神のメッセージではない、イエスの使徒の「感じたこと」「思っていること」が「聖なる経典(聖書)」の大きな部分を占めています。  ☆ いえ。それは そういう見方をするのならば すべてが聖書記者の思うところにしたがって書かれたのだと言うべきでしょう。  6. 《神のメッセージ》は 《純粋な》ものは 人間の言葉では表わし得ません。そもそも 神語を人間語にそのまま写すのは無理です。翻訳や解釈が とうぜん伴なわれています。  7. しかもそんなことは――つまりどういう編集方針であって その結果実際の語録がどこまで忠実に反映されているかなどなどのことは―― ほとんど問題になりません。全体として――パウロの書簡をも含めて 全体として―― イエスが どうしてキリストであるかを捉えるために読めばよいのです。  8. 《法律(律法)》がモーセによってもたらされたわけですが キリスト・イエスは 《まこと と めぐみ》をもたらしたと言われます(ヨハネ福音のはじめ)。  9. 人間にとっては 人間語であらわされたイエスの言葉が 大うそである。そのような大嘘をとおしてでも 神とは 全体としてひとつであること また名が違っても――アッラーフと言い エローヒームと言い 名が同じ( ’LH )であっても ヤハヱーと言い違っていても――神はおなじひとつであるというマコトを告げました。  10. また 《わたしは 道であり まことであり いのちである》と言って その生命のチカラを 泉の水のごとく内から湧き出るように元気づけました。めぐみです。    11. さらには 《めぐみの上にめぐみ》をも与えました。よみがえり・復活です。たぶん 現代人にとっては 平均寿命が 二百歳にでもなれば もう《永遠のいのち》でしょう。  12. というように オシエが――ローマ教会等々によって――どのように説かれようが それらにはお構いなく 神が示され 尽きせぬ元気があたえられ続けるなら それでよいわけです。  ★ 何故ならイエスの目の前でどこまでが神の言葉かを確認したわけでもなく、イエスの使徒ですら死んでしまった後の、イエスに直接会っていない世代の人々が聖書を編成したのですから。  ☆ そのくらいのことが神に出来ないと思うことのほうが おかしいと考えます。世界のすべての出来事が 言わば神からの手紙ですから。  ★ それは、現代科学では証明不可能な「ある別の力=神」が存在するからです。  ☆ どれもこれも 反論をおこないますが:  たぶんこのときのチカラは 《外の・別の》ではなく 世界をすべて覆い尽くすような神のチカラ(もしくは 自然生成としてのチカラ)だと考えられます。  神は この経験世界と《別の・外の》ではないところが ミソです。  ★ 彼は神の力によって父無しで誕生した。  ☆ わたしの聞くところによりますと   【Q:聖母マリアは 聖霊と精子との両方により身ごもった】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8395100.html  そうです。すなわち  ★ だから、彼は特別な人間だったとしても、「神の子」ではなく、皆と同じ人間だったのです。  ☆ イエスというふつうの人間であると同時に キリストと呼ばれるようになった神の子でありみづからも神である存在です。イエスとしては ヨセフとマリアを父母として生まれ キリストとしては マリアが聖霊によって身ごもって生まれたということになっています。  これによって 最初に(1)から(12)までつづった説明も照応しており 有効であると――想定上・理論上――見ます。  ★ イエスは嘘つきではありません。  ☆ 神語と人間語のあいだで ウソは発生するのだと説明しています。

noname#195588
noname#195588
回答No.6

そういえば私の聖書の研究はマルコ福音書16章で終わっていたと思って、 久しぶりに聖書を開いたわけですが、これ以上はギリシャ語の勉強をしないと。 写本とか比較できるようになればいいんだろうけど。 マルコ福音書16章 16:6 ὁ δὲ λέγει αὐταῖς Μὴ ἐκθαμβεῖσθε Ἰησοῦν ζητεῖτε τὸν Ναζαρηνὸν τὸν ἐσταυρωμένον ἠγέρθη οὐκ ἔστιν ὧδε ἴδε ὁ τόπος ὅπου ἔθηκαν αὐτόν http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Mar&c=16&t=KJV#s=t_conc_973006 ἐγείρω egeirō 甦るのギリシャ語を調べてみた。 エゲイローですか? 目覚めるという意味もあるようですね。 寝ている状態から起き上がる。 死の眠りから目覚めるというかんじでしょうか? そうなると、涅槃に入ったはずのブッダがなぜか説法を開始した のも、ギリシャ語ではegeirōになるんでしょうか。 それはさておき 神は人間になって、死んでしまったのだから 宗教は2000年前に終わってしまったのかもしれない。 でも世の中は続いているから、神も復活したことになっている。

bragelonne
質問者

お礼

 かざみどり365さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ▼ (マルコによる福音書/ 16章 6節 口語訳) ~~~~~  するとこの若者は言った、    「驚くことはない。    あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜して    いるのであろうが、    イエスは ≫よみがえって( ἠγέρθη /KJV: he is risen )≪、    ここにはおられない。    ごらんなさい、ここがお納めした場所である。  ▲ (ἐγείρω egeiroo ) ~~~~~~~~~~~   http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aalphabetic+letter%3D*e%3Aentry+group%3D4%3Aentry%3De%29gei%2Frw  I. Act., awaken, rouse   2. rouse, stir up   3. raise from the dead   4. raise, erect a building  II. Pass., wake   2. rouse or stir oneself, be excited by passion, etc.,  III. intr. in Act., arouse oneself  △ ἐγείρω egeirō > ε-εγειρ-θη > ἠγέρθη ēgerthē   Tense: Aorist   Voice: Passive ( 上記 I Active 3 raise from the dead の受け身なのでしょうか)   Mood: Indicative   Person: 3 sg.  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  (あ) 神は人間になって、死んでしまったのだから  (い) 宗教は2000年前に終わってしまったのかもしれない。  (う) でも世の中は続いているから、神も復活したことになっている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 失礼ながら わっかんないことをおっしゃる。  でも 集団の――モーセの法律およびそれのもとでの社会生活としての――宗教は そのとき終わったのかも知れない。つまりは 民族としての宗教が 理論じょう終わったのでしょうね。  神にとっては 千年が一日というくらいですから それから二日経ったわけです。  (う)の《世の中が続いているから》という理由が分かりづらいです。それゆえ《神も復活したことになっている》というのは どういう推論か。  (あ)は 要するに チカラで戦わなかったのだと考えられます。だから 去って行ったあと 人びとの心に復活した。  話の都合じょう悪魔という言葉を出せば 悪魔は その十字架じょうの死の淵までは よう来なかった。それまでは イエスと同じ足取りで同じ軌跡をたどっていた。ハリツケの寸前にまで寄り添って来ていた。  ところが 死の淵にまでは そのみづからの能力によって来ることが出来なかった。  それでこそ悪魔であった。すでに死んでおり あらゆるものを否定し死にみちびく親分である悪魔も 自分がふたたび死ぬことは 出来ない相談であった。  もしそうすれば 即座に一たんよみがえって ふつうのまともな存在となる。と思ったとたん 中から炉心溶融を起こして溶けて行ってしまうとちゃんと知っていた。  ゆえに イエスの死の淵にまでは よう来なかった。  去って行ったイエスに度肝を抜かれた。よって それまでに罪を犯した者どもを自分の胃袋の中に抱え込んでいたのが すべて吐き出さざるを得なくなった。腑抜けになったのである。

  • kazu707
  • ベストアンサー率16% (23/142)
回答No.5

だれも父のもとに行くことができない←これが事実です ただ イエスでは無く キリストの事だけど

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~   ▼ (ヨハネ福音14:6)  ~~~~~~~~~~~~~~     ▽ (新共同訳) わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ こんなことを言うのは 人間イエスとしては 大うそではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ★ だれも父のもとに行くことができない←これが事実です ただ イエスでは無く キリストの事だけど  ☆ うたがうためにではありませんが 信仰の内容にかかわっていて にわかに最終の判断がつく問題ではないと まづ考えます。だって たとえば《父》とは 誰のことか? それは この経験世界におけるものごとなのか? とただちに問われますから。  つまり  ★ 事実です  ☆ ということは 信仰の中で受け取っていたとしても 哲学・思想のもんだいとしては 互いの議論に取り上げることは 無理です。  ちなみに信仰として言えば 《父のもとに行く》というのは 人間すべてについて言っていると思いますよ。キリストにあやかれば。  でも こういったイエスの語りは 人間語から見れば 大うそです。といった主題を取り上げて みなさんの見解を得たいという質問です。どうでしょう。

  • hikaricom
  • ベストアンサー率25% (195/772)
回答No.4

まず、大切なことは「他の人の信仰を尊重しましょう」という道徳律が存在します。そこから外れると、単なる唯物論か批判者に陥るだけです。 文句や否定、非難は、議論にもなりません。もっともあなたは、単にそれが言いたいだけなのかもしれませんが。 しかし、勉強熱心で疑問をもって事にあたるあなたの姿勢はとても結構ですね。そのくらいの勢いがあっていいと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ひかりこむさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。いきなり反論しますが:  ★ まず、大切なことは「他の人の信仰を尊重しましょう」という道徳律が存在します。  ☆ 《信教・良心の自由》および《表現の自由》にもとづき 互いにおのれの信仰内容をも何とか言葉にして表わし これらを自由に互いに批評し批判をも し合う。あたらしい共通の了解に達するならば その上なくさいわいである。――こういったコトが 《他の人の信仰を尊重する》ことであると考えますが いかがでしょう?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  文句や否定、非難は、議論にもなりません。もっともあなたは、単にそれが言いたいだけなのかもしれませんが。  しかし、勉強熱心で疑問をもって事にあたるあなたの姿勢はとても結構ですね。そのくらいの勢いがあっていいと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 賛成票と受け留めました。ありがとう。  ほかのみなさんの中にも 賛成票とまでは行かないが このような見方によって カチカチの信仰・じつは単なる思い込み〔が 現代社会においてもはびこっていますから そのコチコチ主義〕が少しでもやわらぐとよいと思っておられる方が少なくないのではないでしょうか。

回答No.3

宗教なんて、すべてウソなんだから キリストだろうが天使だろうがウソなんだから 今さら何か新しく発見したように言うのはいかがなものか。 宗教を科学的、理論的に批判しても無意味です。 明らかに間違っていることを、良く言えば間違いを超越して 悪く言えば目をつぶって、信じこむことが宗教なんで、 そこに価値があるんです。

bragelonne
質問者

お礼

 ばぐす3さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 今さら何か新しく発見したように言うのはいかがなものか。  ☆ いけませんか?  誰も言っていないことですけれど。  ★ 宗教なんて、すべてウソなんだから  ☆ ここにはきちんと考えておくべき論点がいくつかあります。    1. 《ウソ》の用い方またその効用ないし罪過を 哲学なら ちらっとでも目をやって考えておくのがふつうですよね。つまり《ウソ》論を用意しておいて その理論にもとづき 批判する。こういう用意と議論の形式が 望まれます。  2. 質問者は《宗教》は 論外だと考えています。理由は割愛します。  3. ただし宗教のオシエは 個人の信仰から得られた観想を言葉にして表現したものです。その限りで オシエともされてしまっている原文は それでも 信仰をめぐる思索やそれを一般的な思想として捉えて哲学が交通整理し解説するために活用されて とうぜんです。  4. ただし 回答者さんは その信仰についての原文が すべてウソだとおっしゃる。  5. 信仰と言えば 信じる神について・その神の言葉を 人間が直観やヒラメキをつうじて観想(テオーリア)として持ったときには 人間の言葉になっています。  6. つまりは 乱暴な言い方になりますが 神語を人間語で語ったものであり これをさらに人間語に翻訳し解釈することによって 哲学・思想と成ります。  7. つまりは 早い話が 人間語から見ると 原文の表現はみなウソである。と成るのではないかというお話のようなのです。  8. むろんいま質問者も 人間語の側から《ウソ》という見方を採用しているわけです。そういう扱い方ですが そうは言っても解釈のかたち(内容)がそのひとつの見方に限るというわけではないのではないでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  宗教を科学的、理論的に批判しても無意味です。  明らかに間違っていることを、良く言えば間違いを超越して  悪く言えば目をつぶって、信じこむことが宗教なんで、  そこに価値があるんです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから《宗教》は 論外としています。信仰の問題として哲学の立ち場から質問しています。ご理解あれかし。

  • lv4u
  • ベストアンサー率27% (1862/6715)
回答No.2

>>イエス・キリストの大嘘について どう思いますか? これは、イエス・キリストの大嘘というよりも、キリスト教の教会、あるいは、キリスト教の聖書の大嘘といったほうがいいと思います。 聖書には、イロイロと教会指導者たちにとって、都合のいいような捏造が入っているものと思います。 また、イエスの言ったことで、不都合なものは、消されて、それを信じる人たちは、異端として皆殺しにされました。 イエスには、罪は無いと思います。 ちなみに、現在、イエスは、キリスト教ではなく、幸福の科学を指導しているそうです。 >>宗教のオシエは どうでもよい。のです。 古い宗教は、そろそろ、お引き取り願ってもいいと思います。 それに代わって、幸福の科学が世界宗教になるでしょう。 イスラム教徒は、改宗(棄教)すると原則として死刑だそうです。 幸福の科学は、そのことを知っていますから、イスラム圏の国には布教していなかったといいます。 でも、すこし前に、イスラム教の方が幸福の科学へ改宗されたそうで、ちょっと私も驚きました。 その方が母国に戻って幸福の科学の布教活動をされたそうですけど、イスラム世界には、”宗教警察”ってのがあって、布教活動していると、踏み込まれていきなり銃撃されて殺されるケースもあるそうです。 幸福の科学の日本講師は、彼の母国に行って、銃撃の危険を感じながら布教活動してきたみたいです。 ちなみに、イスラム教の教えは、「神の声を聴く」というスタイルで始まったため、幸福の科学のスタートと似ていて親和性があるようです。 あちらの世界に幸福の科学の教えを広げて、自爆テロを無くしたいものです。

bragelonne
質問者

お礼

 えるゐーふぉーゆーさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ですが ここは 質疑応答の場です。そして 哲学カテです。  哲学は世界のあらゆるものごとについて認識し交通整理をしそこからおのおのの行為形式や行動方針をも得るようにします。  言いかえると 生活態度としての思想を築くというわけですが この思想は 人それぞれに異なっています。同じようであって重なるところもあります。  問題は そのおのれの思想を互いに自由に発表し批評し批判し ともに一段階うえの境地を目指すということでしょう。  ご投稿の中で 自由な批判は ちらっとあるにはありますが その理由説明がとぼしい。あとは おのれの思想の勝手な宣伝に終始しています。  もし百歩ゆづって そのような宣教も――表現の自由において――自由だとしますと そうだとしても その内容説明が成っていません。   * 宣教は自由ですが このOKヱーヴという場で百歩ゆづって自由だとするとという意味です。  だいたい かつてのゴータマが 《さとり》についてその家本体はいっさい説明せず家を築く足場だけをどうたらこうたら延々と説明しつづけたその手法に似ているかも分かりません。  何とかの科学については 鵺(ぬえ)のようなものと受け留めていますのでこれまできちんと勉強したことがありません。ですから いちどしっかりとお尋ねしてみたいものです。  さしづめ 誰々は誰々の生まれ変わりだという法をやめて欲しいものです。  保留せざるを得ません。機会をとらえてご批判申し上げます。

  • kazu707
  • ベストアンサー率16% (23/142)
回答No.1

せっかく聖書を勉強したのに 問題点が 其処?? あれだけの書物で そんな読み方しか出来なかった あなたに イエスの何が判るのでしょう?

bragelonne
質問者

お礼

 かず707さん こんにちは。初めまして。そして ご回答をありがとうございます。  あなたには イエスの示したこと・語ったことが分かりますか?  ▼ (ヨハネ福音14:6)  ~~~~~~~~~  ▽ Ἐγώ  εἰμι  ἡ  ὁδὸς  καὶ  ἡ  ἀλήθεια  καὶ  ἡ  ζωή   οὐδεὶς  ἔρχεται  πρὸς  τὸν  πατέρα  εἰ  μὴ  δι᾽ ἐμοῦ  ▽ (KJV)  I am the way,  the truth,  and the life:  no man cometh unto the Father,  but by me.  ▽ (新共同訳) わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こんなことを言うのは 人間イエスとしては 大うそではないですか?  神の子でありみづからも神である〔と人間イエスが言ったところの〕キリストとしては 神について・神のことばを 人間のことばで語ったことになります。  つまり言いかえると このように神語を語った人間語を さらに人間語によって解釈(=預言)し翻訳することは 人間のムラである地球に駐在する神の国大使館に勤務する外交官(アポストロス)にとっては そのふつうのつとめです。なのではありますまいか。  ★ せっかく聖書を勉強したのに 問題点が  ☆ 見つかりませんでしたか?  そんなにうらやましがらずに ご自分の考えで自由に思う存分批判してみてください。

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     イエス・キリストの大嘘について どう思いますか?  (あ) ナザレのひと・イエスは ヨセフという父親とマリアという母親とから――むろんその交渉をつうじて――生まれたふつうの一人の人間であったわけですが 自身はそうであると同時に(つまり 人間であると同時に) 神の子でありみづからも神であると言ったのです。――これが ひとつのウソです。  (い) もっともこのウソのからくりについて 人びとが納得の行くように説明することも出来ます。  つまりは 何のことはない 例のブッダター(仏性)というあれです。アートマン(霊我)でもよいわけです。この神の霊が 人間にはやどっているといった・人びとの常識にまで成った想定の話を少し拡大して イエスは 《わたしが その神の霊である。つまり ブッダターである。つまり アートマンである》と言ったわけです。  (う) すなわち ふつうは人は 神の霊であるアートマンやブッダターなる霊を わが身と心とにやどす・つまりそれは 分有するということなのですが イエスの場合は 分有ではなく 自分がその神の霊そのものであると言ったのです。  (え) すなわち イエスはふつうの人間であると同時に その身と心〔と非思考の庭〕とで百パーセントが神の霊であると言いました。――これが 第一のウソです。  (お)第二のウソは 神は どんな名であろうと全体として ただひとつであると言いました。それには ひとつの手法として 十字架にハリツケになって そのまま去って行くというかたちを採った。これによって 神という神は すべてひとつであることが 確認された。  (か) なぜなら 神である(=キリストである)イエスが その十字架上から もしおまえが神の子なら降りて来いとなじられても 降りて行かなかった。降りて行ったなら それは おまえが神であるから出来たことだ 神の奇蹟などは おれたちにはお呼びではないと人びとは思い言い合って おしまいになる。ゆえに 奇蹟を起こさなかった。  (き) またもしただ人間としてハリツケに遭って死んだというだけなら それは せいぜいよくやったな がんばったぢゃないか おまえのことは覚えておいてやるから 往生しーやと言われておしまいである。そうではなく 神がハリツケにされたのである。と語ったわけである。これが 第二のウソだ。  (く) このウソによれば 人びとは 笑おうが泣こうが とにもかくにも 元気が出る。ハリツケのイエス・キリストを見れば ひとは元気を取り戻す。ということになっちゃった。――これがウソの効用。  (け) しかも やがては 名の違う神どうしのケンカは もう用無しとなるはずである。そのために 大嘘をついた。イエスという男。   宗教のオシエは どうでもよい。のです。

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは医学や科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり同時に人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。経験事象としての光やそれを本質的に見させる光――おおむね 理性ないし精神――であるだけで終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあてこれを照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その聖霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。  そうして この質問はいちど問うています。それでもなお問いたいというそのわけは こうです。     (κ) もし虚構ではなく まさしく歴史事実であるとした場合 あるいはその史実を捉えた人間の心の真実であるとした場合 そうだとすると いづれの場合でもその事実認識や心の真実として イエス・キリストというコトが 人間の思考によって規定されてしまわないか? 神は 人間の思考によって捉えられうるか? 経験合理性の知識体系の中におさまるものであるのか?   という問いをつけ加えたいからです。よろしくどうぞ。    

  • なぜ、イエスは神なの!?

    今、キリストについて学んでいます。 神がいて、神を人間と似たてイエスという人間の身体として他の人間に神の愛をつたえたのですよね? しかし、わからないことがあります。 どうしてイエスは‘私たちの罪のために十字架に担がれ殺されてしまった‘のですか?? これが‘私たちのに対する愛とするならばなぜ殺されることが愛なんですか??‘イエスは神なんですか??‘

  • イエスの哲学は 《存在》論である。宗教を卒業しよう

     1. アブラム(のちのアブラハム)という人は 或る日 すでに七十歳をすぎているのに 神から――あたかもお告げがあるかのように――      故郷の地を去って 行きなさい。  と言われ そのようにしました。行き先も告げられずに。  2. その子孫としてモーセという男は その神に名を尋ねたとき      《わたしはある》 それが わたしである。     (エフィエー アシェル エフィエー.)  という答えを得たと言います。    3. 伝えによると ダヰデという人は      きょう わたしは おまえを生んだ。  という言葉を その神から聞いたそうです。すでに父母からは生まれているんですけれどねぇ。    4. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。     これは主がわたしに油を注いで      貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね      わたしを遣わして心の傷める者をいやし      捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。                  (『イザヤ書』61:1-3)  5. その後 さらに時は飛んで イエスという人が出たと言うわけです。  6. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。         すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ     る箇所が目に留まった。       主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。       主がわたしを遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え        捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。》                   (つまり『イザヤ書』61:1-2)     イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと     は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは        ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに        実現した。     と話し始めた。         (ルカ福音4:17-21)  7. 《神と人間――おのおの我れ――とのカカハリ》が――人間の言葉による表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。  8. ひと言で言って 《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論の問題である。そしてこれで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  9. さらにその後 イエスは この存在論の実証をしたと伝えにはあるようです。  10. 十字架上において はりつけになるというコトを みづから欲して そのとおりになったことにおいてだと言います。  11. 生前には かれがユダヤ当局に捕らわれたとき かれを見捨てて逃げた弟子たちも その死後においては かれは 神であったと言い始めたそうです。じっさいイエスは 自分が神だと言っていた。  12. もしかれが 神ではなくただ人間であるだけであったとすれば そのような存在論の実証は もし信念の強い殊勝な人がいれば その限りで誰でも出来ると思われたでしょう。ようやったな 弱い人びとにとって必要があれば また誰かあとに続くだろうとうわさして おしまいである。  13. 存在論は 実証が《完成》していないことになります。アブラハムやモーセらは 自分たちからイザヤらにつらなった存在論の系譜とその言わば悲願は さらに 別の人によって実現するのを待つということになります。  14. もしイエスが 人間ではなく仮りに神であるだけだったとすれば そのままそれは 《うそ》ですから 張り付けの十字架から降りて行って 奇蹟を起こしたということに話は成るのかも分かりません。神のやることはおれたち人間には関係ねえよで おしまいとなります。  15. 父ヨハネと母マリアから生まれた人間であると同時に 聖霊によって身ごもった子つまりキリストと呼ばれる神の子でありみづからも神であると言うというところに その歴史的な一大事件としての《虚構》があり どうもそこで存在論を実証したのではないか。とうわさされているのかも分かりません。  16. アブラハムから始まった神の信仰は 一たんキリストの登場を俟つというかたちのキリスト史観として承け継がれた。そしてそのキリストが出たからにはこの《時を俟つ》キリスト史観は もう要らない。  17. われらが《存在》の成就である。さまざまな《貧困》の解消が 宗教抜きで成されるという課題が残った。  18. 言いかえると このキリスト・イエスをも 宗教の種にして おのれの支配欲を満たそうというヤカラがいつづけているということだ。  ご批判をどうぞ。

  • イエスとアクマ

     キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラで戦わなかったのだと考えられます。  だから 十字架上に去って行ったあと 人びとの心に復活した。  話の都合じょう悪魔という言葉を出せば 悪魔は その十字架じょうの死の淵までは よう ついて来なかった。  それまでは イエスと同じ足取りで同じ軌跡をたどっていた。  イエスが何をするか その行動を追跡していた。  ハリツケの寸前にまで影のごとく寄り添って来ていた。  ところが 死の淵にまでは そのみづからの能力によってついて行くことが出来なかった。  それでこそ悪魔であった。  すでに死んでおり あらゆるものを否定し死にみちびく親分である悪魔も 自分がふたたび死ぬことは 出来ない相談であった。  もしそうすれば 即座に一たんよみがえって ふつうのまともな存在となる。と思ったとたん 中から炉心溶融を起こして溶けて行ってしまうとちゃんと知っていた。  ゆえに イエスの死の淵にまではもう よう来なかった。  去って行ったイエスに度肝を抜かれた。  よって それまでに罪を犯した者どもを自分の胃袋の中に抱え込んでいたのが すべて吐き出さざるを得なくなった。  文字通り アクマは 腑抜けになったのである。  添削をどうぞ。思いっきりのご批判をも。賛成票をも。

  • イエスが なぜキリストか。

     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ◆(α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  ◆(β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと 関係ないというところの《非思考の庭》がわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか?  ご教授ください。

  • イエスキリストは人間のクズであるが、神でもあるとは

      ある人の考え。 ある人によるとイエス・キリストなる男は大酒飲みであり、大食漢であり、おまけに大嘘つきであったとゆー。 ある人によるとイエス・キリストなる男は常日頃から自分は神であると嘘ぶいていたとゆー。 ある人によるとイエス・キリストなるその男は人間のクズの部類であったとゆー。 ところがそのある人によるとイエス・キリストなるその男は人間のクズであると同時に神でもあったとゆーのである。 私にはなぜ人間のクズが神になれるのか、さっぱり分からないのである。 まったくどんな発想をすればこのよーな考えが生まれ得るのかも分からないのある。 どなたかこれを解説できる人がいたなら解説して下さい。       

  • イエスの生前にはかれがキリストであるとは誰も・・・

     イエスの生前にはかれがキリストであるとは誰も分からなかった。  この見方について問います。そうなのか? です。  1. イエスの生前には かれが自分は神の子でありみづからも神であると語っていたにもかかわらず 弟子たちを初めとして誰も そのことに気づかなかった。言葉では聞いていたとしても 理解できなかった。  2. 弟子たちは やっと・つまりイエスが十字架上に去ったそのあと そのイエスの語った言葉は腑に落ちたのだ。そこで すべてを知りました。  3. つまりそれまでは ただ立派な人間が迫害に遭って一命を落としてしまったくらいに思っていただけです。(いわんや 反対派においてをや)。  4. イエスの言行録がほどなく集められて行った。またすでに並行して パウロの書簡が書かれるようになっている。  5. すなわち そのようにイエスという人間が キリストと呼ばれる神であったということを伝えるために 言行録が編まれて行った。むろん すべてが聖書記者の信じ思うところにしたがって書かれたものだ。  6. ただしつまりは 神のことばは 人間の言葉では表わし得ない。そもそも 神語を人間語にそのまま写すのは無理。翻訳や解釈が とうぜん伴なわれている。  7. しかもそんなことは――つまりどういう編集方針であって その結果実際の語録がどこまで忠実に反映されているかなどなどのことは―― ほとんど問題にならない。全体として――パウロの書簡をも含めて 聖書全体として―― イエスが どうしてキリストであるかを捉えるために読めばよい。  8. 《法律(律法)》がモーセによってもたらされたのに対して キリスト・イエスは 《まこと と めぐみ》をもたらしたと言われます(ヨハネ福音のはじめ)。  9. 人間にとっては 人間語であらわされたイエスの言葉に 大うそがある。人間のことを神だといった。しかもそのような大嘘をとおしてでも 神とは 全体としてひとつであること また名が違っても――アッラーフ(’aLLaaH )と言い エローヒーム( 'eLoHim )と言い 名が同じ(イラーフ=エローハ ’LH )であっても ヤハヱーと言い違っていても――神はおなじひとつであるというマコトを告げた。  10. また 《わたしは 道であり まことであり いのちである》と言って その生命のチカラが 泉の水のごとく内から湧き出るように元気づけた。めぐみである。  11. さらには 《めぐみの上にめぐみ》をも与えた。よみがえり・復活。たぶん 現代人にとっては 平均寿命が 二百歳にでもなれば もう《永遠のいのち》であるはずだ。  12. というように オシエが――ローマ教会等々によって――どのように説かれようが それらにはお構いなく 神が示され 尽きせぬ元気があたえられ続けるなら それでよいわけである。  13. なおこの《生前には誰もキリストのことが分からなかった》については 次の聖句を参照するよう言われることがあります。  ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~    21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 去って行ったあとの《背面は見える》というわけのようである。去って行くまでは みな誰もに覆いがかけられていたのだと。  くわしいかたちで・あるいはヒラメキのようなかたちで 何かありましたらご教授ください。