神を知ることは世界を知ること

このQ&Aのポイント
  • 神を知ることは世界を知ることです。
  • 質問文章は神を知ろうとする姿と、世界を知ることの関係について考えるためのものです。
  • 信仰心を持ち、神と対話することによって、世界の全体像を理解することができます。
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神を知る事こそ世界を知ることだ

やあ。 ぶっちゃけた話、私は無を悟っている。 そこで旧態依然とした仏教を科学の時代に合った検証でさらに先に進めようとする質問だと解釈してくれたまえ。 万物流転、すなわち世は無常であり生命は輪廻する。 無常は簡単だ。大体においてそうだと気づく事もあるだろう。 輪廻はこの言葉だけでは簡単だ。 生態系の循環や相互依存を意味する。 すなわち命は死すれども、その死すらも新たな生を育み絶える事が無い。 そんな世界のみが科学的発見の無い2500年前には世界の全てであった。 転生は、そんな世界の姿に信仰を寄せた古代人の愛だ。 輪廻転生と言う言葉でその全てを否定する前に、転生のみを抜き取って検証すると、どうも無理っぽいのは冷静なら誰もが理解できる。 お釈迦様は自らは転生しないと言った。 そんなのありゃしねーとは言わなかったがそんなのかんけーねーとは言ったのだ。 それこそが答えであり、転生は迷信であるが、その信仰心に感謝があれば神は見捨てまい。 したがって、信仰の確かが判る範囲でお釈迦様すらも、そんなのありゃしねーと言いきらなかった。 ただ無を悟れと謎めいた言葉を残しただけだ。 これらは地上で起こること、これを狭い意味の縁起と言うが、それこそが世界の全てであった古代において人が神に手向けた愛、すなわち信仰の姿であり、世界がより広く宇宙と言う難解な全体像に対して問いかける現代においては、すなわち世界を知ることは、自らが探究するだけでは及びもつかず、神と語らうよりほかは無い。その行いは古代からの経験則によれば、世界の全てを愛すれば世界が判る。 このように神を知ろうとする事が世界を知る事であった。 以上が今回のテーマです。 事と次第によっては猿回しもするが世界観と言うやつと信仰の関係についてご意見募集です。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#143207
noname#143207
回答No.11

 こんばんは、おひさしぶりです。ひどっち でございます。 > そこで 「旧態依然とした仏教を科学の時代に合った検証でさらに先に進めようとする質問」 だと解釈してくれたまえ。

 了解致しました。

> ただ無を悟れと謎めいた言葉を残しただけだ。  おそらくこれは、釈尊の思想(教え)”諸法無我”に起因するものと考えられます。 
> これらは地上で起こること、これを狭い意味の縁起と言うが、それこそが世界の全てであった古代において人が神に手向けた愛、すなわち信仰の姿であり、  特に、大乗仏教におきましては、この縁起(=空)が重要視されます。もちろん、この空ですが、釈尊自身により、既に祇園精舎にて例えを用いて説明されたともされています。  ですが、”愛”という言葉を持ってきてしまったため、他の回答者様がキリスト教と混乱してしまったのかもしれません。 > このように神を知ろうとする事が世界を知る事であった。
  はい。これは歴史的史実でございます。ガリレオはじめ、ニュートンも、この自然界を貫く法則を知ることにより、間接的にではあっても神を知ろうとした訳でございます(定説です)。極論を申しますと、神を知ろうとする想いがなければ、今日の科学的発見はなかった、もしくは遅れていたかと考えれます。 > 世界がより広く宇宙と言う難解な全体像に対して問いかける現代においては、すなわち世界を知ることは、自らが探究するだけでは及びもつかず、神と語らうよりほかは無い。  このご見解につきましては、一理あろうかと考えられます。そもそも、 物理学の領域において存在すると思われている(信じられている) 物理法則なるものも、経験則をその礎としています。つまり、昨日、今日がそうだったから、明日も当然そうだ、と考える訳です。ですが、あくまで経験上それを知ったからと言っても、その根本原因は、現代の科学では全く分かっていません。万一、明日、 万有引力の法則や慣性の法則(経験則です)が破綻してしまい、人類が宇宙空間に放り出されることが絶対にないとは、誰もがそれを保証・証明できません。従いまして、物理法則がなぜ成立し続けてきたのか、さらには今後も成立し続けるのかは全くのナゾでございます。  さらに申しますと、上の例ですと、人類が宇宙空間に放り出されることが絶対にないと保証しうるのは何・誰なのでしょうか?、人がこの日常空間において、活動可能なのは何を根拠としているのでしょうか? おそらく、それは神以外には考えられない、というのが愚見でございます。もし、人類が宇宙空間に放り出されることが絶対にないと責任を持って断言できるというオメデタイ方がおられましたら、是非ともそのお顔を拝んでみたいものと思っております。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

Flareon
質問者

お礼

やあどうも。 初対面と言う事にはなっていますが、やはり、お久しぶりです。 Flareonはブースターとお読みください。 またしてもポケモンから引用です。 私は質問者と回答者が双方とも独自の思索を進める助けになればよいと考えて質問しています。 ですから判ったも判らないもありませんが、回答を読んで自分ではかなり練りこんで独自の見解をあらわしたつもりでいたが、なんてことは無く普通の事を言っていただけだと判りました。

Flareon
質問者

補足

悪魔を愛した私が悪魔その者と受け止められるのは心外なので補足です。 > そこで科学的な思考で誰もが判断を下す現代においても、それに耐えられる信仰を模索してあげようと言う趣旨です。 実のところそれは私の信仰で無くて猿回しなのだが実際の仏道を歩んでいるならばいい助けにもなるでしょう。 今では私の信仰ではないが仏道を歩む者は私の後輩です。 要するに宗教では無くて哲学であるのが仏道であり日本で考える行いを人生の中のひとこまとするには、仏道は避けて通れないので、冷静になろうではないかと持ちかけた次第です。

その他の回答 (11)

noname#143207
noname#143207
回答No.12

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。  お元気そうで何よりでございます。ですが、けんかにはくれぐれもご注意くださいませ。 > 今では私の信仰ではないが仏道を歩む者は私の後輩です。  そうでございましたか。了解致しました。 > 要するに宗教では無くて哲学であるのが仏道であり日本で考える行いを人生の中のひとこまとするには、仏道は避けて通れないので、冷静になろうではないかと持ちかけた次第です。  日本人である以上は、確かに仏道は重要な位置をしめているものと考えております。 > Flareonはブースターとお読みください。
またしてもポケモンから引用です。
  了解致しました。ブースター様ですね。 > 私は質問者と回答者が双方とも独自の思索を進める助けになればよいと考えて質問しています。
  かような質問者ー回答者間の対話を通して、各自が思索を深めていくという姿勢には賛成でございます。 > ですから判ったも判らないもありませんが、回答を読んで自分ではかなり練りこんで独自の見解をあらわしたつもりでいたが、なんてことは無く普通の事を言っていただけだと判りました。  いえいえ。例えば、”なぜ未だに神を信じている人々がいるのか?”といった質問も未だになされている訳でございます。しかし、おそらく彼ら科学が万能だと信じている人達(もちろん、万能かどうか等は証明なんてされていませんし、証明されうるかすらもわかりません)は、往々にして、無神論者でもござます。ですが、マルキシズムだって、一種の宗教ですし、よく口にする”量子論”も根源を遡りますと、物理法則(物理学で存在すると信じられております経験則)に突き当たります(今回は具体例を示しませんでしたが)。つまり、結局はナゾにブチ当たる訳でございます。ただ、自分たちが科学を用いて科学的に知っていると、勘違いしているのだと思っております。そもそも、神を知りたいという過去の諸賢人がいなければ、科学の進歩自体がそもそも疑わしかった訳ですから・・・    ご参考になれば、幸いでございます。


Flareon
質問者

お礼

やあどうも 今回はこんなあいさつで終始しますが「ありがとう」と言えるような雰囲気になればいいとは考えます。 質問する立場ではこのカテゴリーでの収穫の乏しさははなはだしいのですがひどっちさんのおかげで今回は一息入れる事が出来ました。

Flareon
質問者

補足

質問の補足です。 備忘録じみています。 万物流転と言う言葉と共通項の多いお釈迦様独自の哲学に、その当時の人々は世界の全てを悟ったと確信した。 西洋的に言う真理そのものであった。 しかしそれは世界の全てとは言い切れなっていき末法の世となる。 他者の信仰をサルまねするだけでは時代から置き去りにされるのは当然だろう。

noname#150036
noname#150036
回答No.10

はじめまして。 ボクは 無を知り 空を悟って 有に至りました。 だから現在 有を楽しんでいます。 お釈迦様は 空の世界観を 人に教えましたが 実は有に至っていたんじゃないかと ボクは秘かに 疑っています。 なぜかというと 人は本当に大切なことを 他人には 教えないまま死んでいくものだからです。 それゆえに 故人の 生前の行いを ふとした きっかけで思い出した時に 故人の生き方に 哲理を 見出すのです。 君は無を悟ってしまったから そこで行き止まりです。 しかし それが与えられた人生なので そこで満足 するならば それが幸せというものです。 ああ 苦悩に生きる者たちに幸あれ。 歴史に踏み固められた 強固な地盤に その腰をおろし 雷雲たちこめる漆黒の空を うち仰ぎ 雫の時を待つのだ。 閃光とともに一滴がもたらされる時 道は開かれるであろう。 人は ただ祈り その時を待つのだ。

Flareon
質問者

お礼

やあどうも。

回答No.9

まず最初に,貴方の質問に対し真剣に返答している人達へのお礼が失礼です。 頭だけは良いようですが,人として失格です。 貴方の場合,科学とは別に”苦”というものを経験する必要があると思いますが,たぶん理解できないでしょう。 仏教,キリスト教,その他宗教はたくさんありますが,言葉じりや問答することではないのです。 質問文から貴方は何も悟っていないことが読み取れます。悟った気でいるだけです。 どこがとか,この返答に対しても受け流したり挑戦的な返礼をすると思います。 視線が高いんです。 少しだけレベルを下げて言えば,貴方は経験値が低いんです。 貴方の経験則が世界観を形成するうえで,次元の壁を経験できなかったんだと思います。 もっと枠を取り払い考えることをおすすめします。 何でもいいので,種を一つ蒔いてみることをおすすめします。(本質的な真理を理解しましょう)

Flareon
質問者

補足

スペースが空いているので補足だ。 > 神は死んだなどとも言われてそれがもてはやされているが、信仰が確かならば、私たち人類は科学と言う自らの力を持って、また一つ迷信を捨て神のもとに近づく事が出来た。そのように言い抜ける事が出来たならとても人間らしいだろう。 上記の文はキリスト教徒への八つ当たりだが、科学の時代に生きた信仰心を表す者の無い仏教も同様なのだ。 君たちを猿回しするのは私の愛だ。 感謝したまえ。

noname#180065
noname#180065
回答No.8

それだけの世界で幸せだった。 それはあるかもしれないですね。 仏教を土台に新しい信仰で救う? それはあるのかもしれない。 ここまで世界が動いているから。 でも、ならばキリスト教も土台に新しい方向に向かう可能性もあるのでは? 仏教限定?

Flareon
質問者

お礼

やあどうも。 好きな事を書いていいが一つだけどうしても訂正しておきます。 救うつもりはない。 科学の時代に正当な検証をしようと言うだけです。

Flareon
質問者

補足

補足だよ。 小学校のころ図書室にギリシャ神話の全集のような子供向け読み物があって、読んだ。 物語として面白かったよ。 神話的世界観について猿回ししてほしいのなら、残念だが今回はよそに行ってくれ。 イエス元死刑囚と言う暴言は取り下げない。 彼は刑が執行されたから元死刑囚なのか。 それとも、 彼の信仰は復活したから元死刑囚なのか。

回答No.7

仏教は良く知らないんですけど、 時間と空間が一体なのは、ご存知でしょうか? 「今」という一瞬に宇宙137億年の時空が折り畳まれているそうです。 その宇宙すら、観測者がいてはじめて存在する、相対的なものです。 本当の無とは「観測者がいない」次元であり、空間的なものでもない。 たぶん「無とは全知全能のこと」です。

Flareon
質問者

お礼

やあどうも

Flareon
質問者

補足

好きなことを皆さんが書いているがそれでいいと思うよ。 質問の補足です。 古代のインドと言う一地方において、無常などに代表されるお釈迦様の世界観を知るだけで、それが世界の全てだと認識し得た。 疑いようもなくそれが世界の全てだと開眼した。 この全てであったは絶対であったと同じでそれだけで幸せだった。 これが仏教の幸福な時代で現代に残る古臭い経文の同じ物お読んだだけで古代人は十分であった。 そのような地方の土着宗教の垣根を越えて伝播するにあたって世界の全てとは言い切れなくなっていく。 現在の仏教的世界観は世界の全てでは無くて世間を渡る処世術や人生論の類とまでなり果てている。 このような信じるだけで済まなくなっている現状が末法でしょう。 そこで科学的な思考で誰もが判断を下す現代においても、それに耐えられる信仰を模索してあげようと言う趣旨です。 実のところそれは私の信仰で無くて猿回しなのだが実際の仏道を歩んでいるならばいい助けにもなるでしょう。 今では私の信仰ではないが仏道を歩む者は私の後輩です。 キリスト教の世界観をバッサリと切るが、あれは同一民族である事を確認する試練の類で理性的ではない。 それに気づいたからこそ西洋人は、神よりも科学を信じるのだろう。 神は死んだなどとも言われてそれがもてはやされているが、信仰が確かならば、私たち人類は科学と言う自らの力を持って、また一つ迷信を捨て神のもとに近づく事が出来た。そのように言い抜ける事が出来たならとても人間らしいだろう。 しかし手遅れだ。 キリスト教でどうしょうもない世界観を本気で信じようと努力したお笑い芸人はイエス元死刑囚だけだ。 聖書はゴミだ。 それに比べて仏教の土台はいい線を行っているので、どの程度役に立つかこねくり回してみようではありませんか。

回答No.6

やあ。元気?

  • sakurazz
  • ベストアンサー率4% (1/23)
回答No.5

やあどうも >さあな せめて中学校ぐらいは卒業できるといいね

  • sakurazz
  • ベストアンサー率4% (1/23)
回答No.4

やあどうも。 >ただ無を悟れと謎めいた言葉を残した 初耳なんだけど、どこで読めるの、その言葉? どこで仕入れた知識?

Flareon
質問者

お礼

さあな

回答No.3

量子論的世界像において、有限な存在性(=宇宙)は、 認識されることによって派生しています。 換言すれば、「自我仮説(心)と時空仮説(存在)が、 (不確定性原理の相補的不確定性を介して)相補分化 している=全てのものは、あなたが存在するための (物理的根源にまで遡った)補完である」という事です。 無いとは分からない事が有であり、本質的に無に還元 するプロセスが物理なのです。

Flareon
質問者

お礼

やあどうも

回答No.2

 >お釈迦様は自らは転生しないと言った。  >そんなのありゃしねーとは言わなかったがそんなのかんけーねーとは言ったのだ。  釈迦は常人における執着も、満たさなければならない欲望も超えた自己存在であったので、自らの必要と動機では転生しないといったまでです。  転生は所詮、迷い妄想ですから真実なるものではない。だから質問者がいうように(釈迦はいってはいないが)、ありゃしねーともいわなかった。  必要であればこの地上に来ることなく、自己の観念を操作するだけで必要なことをやれるだから、地上のためにも自己の役割のためにも来る必要、転生は無用である。  無論、自己の執着や欲望という自己の迷いと地上に出てくる必要もない、そんな強制を出ている。  神と語らう存在は経験界自己を出た世界であり、神に同調し没入してしまった経験界の全てがなくなった意識と存在だけの自己である。  この世界は経験界超越であるが、経験界の下が意識の眠りと無知とうろたえである。

Flareon
質問者

お礼

やあどうも

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    一連の知的SMプレイの最新版です。 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 無の悟りとは単純明快である http://okwave.jp/qa/q7612407.html 私は「わが信仰の大道を行け」と薦めているが、理屈が全く分からない人ばっかりだろうから、論理を整えてみたよ。 お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚し歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人間同士が共生する文明の芽吹きがあった。そのようなさなか人間同士の社会生活と個人の自然本性が共存する新しい生き方を歩むにあたって、その難問を仲介する神と表せる、人間の理性的資質の所在をめぐり、人々は様々な自説を述べ、神の案内する、人間の社会性の構築の理想像についてお互いに意見を戦わせた。 それは自らを知る行いが神をしる行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間の社会生活の発祥であろう。 そこにお互いに何を信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる悟りである。 2500年前ヒンズー教の源流を司るバラモンの僧たちは、神の姿を明白に定義しようと苦心していた。 そしてそれを成し遂げたのがお釈迦様である。 お釈迦さまが信仰に生きることを可能にしたのは彼自身が神の全てを受け入れたからだ。 すなわちお釈迦様は太古のインド社会の源流に現れる神の姿を受け入れたのだ。 他者の信仰をも許す、慈悲心の原点だ。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事も無いくせに、信仰を語ることが権力闘争と化した当時のバラモンの僧は現代の生臭坊主とかわらず、神はかくの如しという噂話が好きだ。 そんなうわさ話を、お釈迦様は「信仰心とはそうではない」と、神を尊ぶゆえに、過ちの多いバラモンの信仰にケチをつけた、神を損なわず人の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 すなわち君達バラモン僧は自らに信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 この無は「そんなのありゃしねー」の無であり、何年か前に「そんなのかんけーねー」と裸踊りをしたお笑い芸人がいたが、ふっ飛ばし方は同様であり、かのお笑い芸人こそが現代で最もお釈迦様の言葉を正しく実践する、聖人だ。 そして、ならばと、お釈迦様自の神への志、すなわち信仰を問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 すなわちこれは、「てめーのしったことじゃねー」の無であり、お笑い芸人の「そんなのかんけーねー」と一致する ここで果てしなく、押し問答が繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 そこで無の論理を心得るならば、すなわち目指すのは、自らのみの信仰心のの探究であり「救ってください」「助けてください」これは無い事になる。 彼らはそれを恐れるのだ。 仏教の迷走はここにあり、禁を破った大乗はむしろ日本版ヒンズー教である。 自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは無の悟りではなくて「信仰の我が大道を行け」これである。 てめーのしったことじゃねー。 てめーでなんとかしろ。 これである。 ありがたいだろう。 さて今回も一種の作文であるが、改めて無の悟りを掘り下げてみた。 信じると言う行為や心の働きをいかにとらえるかご意見をお願いします。 そのほかに私こそが無を悟っている。 君(私の事)の無はまちがいだ。 そんなつわものの、モンキーダンスも歓迎いたします。

  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

  • 無の境地について考察しました。添削してください。

    そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないしそもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは無くて、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚であれ、本格的な無の悟りであれ、快楽主義者である君達はその心の快適さにばかりっ関心を向ける。 すなわち無の境地とは何ぞや。 悟りに至る道とは何ぞや。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされているが、迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も平静となれる。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 さて私は現在本格的に出版に向けた執筆をつづけていて、今回は新たに境地と言う言葉について考察しようと考えています。 そもそも私の一連の投稿で君達はすでに無を悟ってしかるべきなのだ。 しかし実感が無いだろう。 その実感を境地と言う言葉に置き換えて何が障害になっているか考察するとっかかりを探そうとしています。 サル踊りには慣れているのでそれでもかまいませんが、本格的な意見があると成果が上がりますので、常連さん以外で志のある方のご回答を期待いたします。

  • 現世の人(俺、18歳)が霊界にいる神とテレパシーし

    現世の人(俺、18歳)が霊界にいる神とテレパシーしていて、 A神に恨まれて、今俺が亀人間の世界に転生させられるのを怖がってるのがバレたら反感から死後転生されかねないぞと思い、それを俺の記憶を見て知った人がA神に言おうとしたから他の神に頼んで記憶見た人を無にさせて途中で神が止めた犯罪を神が裁くならどう裁きどの位重いですか? 因みに神同士は平等で良識に従って双方が納得するように裁きます。現世の裁き方がそれに当てはまるので参考にしたりもします。 無にするは普通に考えたら個人が消滅する行為なので自分自身の人格はおろか、これからの・これまでの転生も消えます。なので現世でおける死後の世界があるかもしれない殺人より重いです。 無にする途中で止めたら全て戻って1ミリも被害を受けません。 無にするは現世における殺人より重いですが無にするを殺人と捉えるなら殺人未遂の教唆をしてる事になります。 どう裁かれますか? 因みに法律はないです。 神が良識的に悪いと思って俺を裁いてます。 かなり簡略化しました。 よろしくお願いします。

  • 無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。

    無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。 無の悟りとは無いものは無いと明白にする、有無に照らした分別の身を指します。(持論) そこで無我について考えてみました。 煩悩を考察する例え話です。 たとえばテレビでフェラーリを見てかっこいいから欲しくなった。 冷静であればお金が無いからやっぱりやーめた。 このようになります。 ところがどうしても欲しいと、中古品の旧車で安いのは無いか、、いっそのことミニカーでも買ってみようか。 このようにくよくよします。 そのようなくよくよがなく、「そんなもんありゃしねー」とすっぱりと切るのが無です。 この場合の無とは、「我には無い」と言う意味です。 でも世の中にはフェラーリと言う車が流通しそれに乗る御金持もいます。 我には無い、されど世にはあるです。 無我に照らせばフェラーリはあるです。 我に照らせばフェラーリは無いです。 ならば無我に照らし、さらには無しとする「無」はあるのでしょうか。 世の中をあまねく照らせば全てはあるです。 無は信仰のみにしか無い。 ところがあまねく照らすアマテラスさんはほほ笑みかけます。 「私があなたを知らないわけがない」と。 そうすると想像の産物、想像の世界とは、人間にとっては無と言いうる側面がかつてあった。 しかし神に照らせば全てはある。 ならば無とは偽りであり、無の悟りとは神への反逆である。 お釈迦様は自らの信仰を他者に伝え仏教の始祖となりましたが、その信仰の内容とは無神論そのものであり、信仰の根ざす事柄は無への信仰である。 私は無我とは偽りであると主張します。 それでも無我を主張する仏教の教えについてご教授ください。

  • 無の悟り、無の境地を説明するとこういう事だ

    やあ皆さん、私がいつも言っている事の最新版への更新だよ。 これは私の行っている哲学研究の一部で、質問と言うより研究として意見が聞きたい。 まあ読みやすいかどうかとか簡単な読書感想文でいいよ。 自らの信仰に到達する事は、おおむねどこの社会でも尊敬され、聖人として尊敬されることで古代インドではそれを仏陀と言っていた。 その中で、釈迦という古代の仏陀は無の悟りとその教えという特異な伝承を残している。 この内訳を考察するにあたって、仏陀と承認されるもっともな特徴が信仰への到達である事が重要である。これは西洋の神学や哲学すらも聖人と認める人類的共通項だ。 釈迦の結論はこうだ。 信仰とはわが心そのものであり、それを他者に語る言葉はない。 すなわち無だ。 神学の創立と文明の勃興の熱気あふれる古代インドで、多くを論じるバラモンを指して、彼らの語る言葉には内容がない。 すなわち無だ。 したがって無が結論である。 これを教える事が彼の人生であり、哲学として無の論理から多くの覚者を産んではいただろう。 それは2500年ほど前、文字もなく人類の文明がまだ幼かったころの話だ。 仏教の経典の最も古い物は2000年ほど前の編纂だ。 その間500年の口伝による伝承が有った。 この間、釈迦の教えはインドの風土で変化し、無の悟りの内訳を理解する事は困難になっていた。 その口伝500年の結論で新たに浮上したのが「空」の言う宗教的概念だ。 もはや源流の途絶えた無の概念は判らなくても、私の心は信仰で潤っている。 これは、そのまま信仰の自覚であり無に代わる仏教における到達点だ。 そのほかに輪廻転生説とは、釈迦の生きた時代以前より脈々と受け継がれるインドの信仰の源流であり、口伝500年を釈迦の教えが伝承されるにあたって、語り継ぐ古代インド人にとって、論理の整合性を保つため、無の教えとインドの伝統とで接点が必要になったため、主に後世で補足されたことであろう。 自らが涅槃に立脚した釈迦自身は、輪廻の伝承と異質の独自の信仰心を持っていた。 生前に何らかを語った事はあったかもしれないが、伝承されるにあたって、釈迦の言葉や行いよりも、語り継ぐ者たちにとってこそ輪廻の教えが必要だった。 そこで伝説化されているのが、 私は涅槃に行き二度と生まれかららない。 君達は何度も生まれては死ぬ。 それは哀れな事だ。 こうした慈悲の行いである。 さて、君たちが賛同するかどうかはともかく、この無の悟りへの独自見解は実に論理的でいままでになかったものだろう。 私はこれをまとめて本にでもするつもりで研究を続けているんだ。 研究ノートはもう本一冊分を超えるほど君達の協力で集まっているが、私はこの時間酒に酔っ払って、君達をオカマバーのホステス扱いして哲学しているんだ。 この姿勢、闇の仏陀黒き明星では、ご存じのとおり面白い読み物にはなっても、喜んで心が潤う良著とはならないだろう。 黒き明星の癖は私にとって深刻でね、気楽で書きやすい文章がアニキなツンデレだ。 まあ、それをぼちぼち改めていこうかと作文の練習だ。 色々と相談に乗ってくれ。

  • ズバリ!見えない世界(精神世界)を信じてますか?

    1.ズバリ!見えない世界(精神世界)を信じてますか? 2.その理由 私は 1.信じてます 2.理由は、偉大な方々も精神世界(輪廻転生や神の存在、スピリチュアルなことをおっしゃられてるからです)。でないと、彼らが死ぬ間際に大嘘を残していったとは考えられないからです。この世には偉大なるなにかの精神的な力が働いてるように思います。宗教はやってません。