神を知ることは世界を知ること

このQ&Aのポイント
  • 神を知ることは世界を知ることです。
  • 質問文章は神を知ろうとする姿と、世界を知ることの関係について考えるためのものです。
  • 信仰心を持ち、神と対話することによって、世界の全体像を理解することができます。
回答を見る
  • ベストアンサー

神を知る事こそ世界を知ることだ

やあ。 ぶっちゃけた話、私は無を悟っている。 そこで旧態依然とした仏教を科学の時代に合った検証でさらに先に進めようとする質問だと解釈してくれたまえ。 万物流転、すなわち世は無常であり生命は輪廻する。 無常は簡単だ。大体においてそうだと気づく事もあるだろう。 輪廻はこの言葉だけでは簡単だ。 生態系の循環や相互依存を意味する。 すなわち命は死すれども、その死すらも新たな生を育み絶える事が無い。 そんな世界のみが科学的発見の無い2500年前には世界の全てであった。 転生は、そんな世界の姿に信仰を寄せた古代人の愛だ。 輪廻転生と言う言葉でその全てを否定する前に、転生のみを抜き取って検証すると、どうも無理っぽいのは冷静なら誰もが理解できる。 お釈迦様は自らは転生しないと言った。 そんなのありゃしねーとは言わなかったがそんなのかんけーねーとは言ったのだ。 それこそが答えであり、転生は迷信であるが、その信仰心に感謝があれば神は見捨てまい。 したがって、信仰の確かが判る範囲でお釈迦様すらも、そんなのありゃしねーと言いきらなかった。 ただ無を悟れと謎めいた言葉を残しただけだ。 これらは地上で起こること、これを狭い意味の縁起と言うが、それこそが世界の全てであった古代において人が神に手向けた愛、すなわち信仰の姿であり、世界がより広く宇宙と言う難解な全体像に対して問いかける現代においては、すなわち世界を知ることは、自らが探究するだけでは及びもつかず、神と語らうよりほかは無い。その行いは古代からの経験則によれば、世界の全てを愛すれば世界が判る。 このように神を知ろうとする事が世界を知る事であった。 以上が今回のテーマです。 事と次第によっては猿回しもするが世界観と言うやつと信仰の関係についてご意見募集です。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#143207
noname#143207
回答No.11

 こんばんは、おひさしぶりです。ひどっち でございます。 > そこで 「旧態依然とした仏教を科学の時代に合った検証でさらに先に進めようとする質問」 だと解釈してくれたまえ。

 了解致しました。

> ただ無を悟れと謎めいた言葉を残しただけだ。  おそらくこれは、釈尊の思想(教え)”諸法無我”に起因するものと考えられます。 
> これらは地上で起こること、これを狭い意味の縁起と言うが、それこそが世界の全てであった古代において人が神に手向けた愛、すなわち信仰の姿であり、  特に、大乗仏教におきましては、この縁起(=空)が重要視されます。もちろん、この空ですが、釈尊自身により、既に祇園精舎にて例えを用いて説明されたともされています。  ですが、”愛”という言葉を持ってきてしまったため、他の回答者様がキリスト教と混乱してしまったのかもしれません。 > このように神を知ろうとする事が世界を知る事であった。
  はい。これは歴史的史実でございます。ガリレオはじめ、ニュートンも、この自然界を貫く法則を知ることにより、間接的にではあっても神を知ろうとした訳でございます(定説です)。極論を申しますと、神を知ろうとする想いがなければ、今日の科学的発見はなかった、もしくは遅れていたかと考えれます。 > 世界がより広く宇宙と言う難解な全体像に対して問いかける現代においては、すなわち世界を知ることは、自らが探究するだけでは及びもつかず、神と語らうよりほかは無い。  このご見解につきましては、一理あろうかと考えられます。そもそも、 物理学の領域において存在すると思われている(信じられている) 物理法則なるものも、経験則をその礎としています。つまり、昨日、今日がそうだったから、明日も当然そうだ、と考える訳です。ですが、あくまで経験上それを知ったからと言っても、その根本原因は、現代の科学では全く分かっていません。万一、明日、 万有引力の法則や慣性の法則(経験則です)が破綻してしまい、人類が宇宙空間に放り出されることが絶対にないとは、誰もがそれを保証・証明できません。従いまして、物理法則がなぜ成立し続けてきたのか、さらには今後も成立し続けるのかは全くのナゾでございます。  さらに申しますと、上の例ですと、人類が宇宙空間に放り出されることが絶対にないと保証しうるのは何・誰なのでしょうか?、人がこの日常空間において、活動可能なのは何を根拠としているのでしょうか? おそらく、それは神以外には考えられない、というのが愚見でございます。もし、人類が宇宙空間に放り出されることが絶対にないと責任を持って断言できるというオメデタイ方がおられましたら、是非ともそのお顔を拝んでみたいものと思っております。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

Flareon
質問者

お礼

やあどうも。 初対面と言う事にはなっていますが、やはり、お久しぶりです。 Flareonはブースターとお読みください。 またしてもポケモンから引用です。 私は質問者と回答者が双方とも独自の思索を進める助けになればよいと考えて質問しています。 ですから判ったも判らないもありませんが、回答を読んで自分ではかなり練りこんで独自の見解をあらわしたつもりでいたが、なんてことは無く普通の事を言っていただけだと判りました。

Flareon
質問者

補足

悪魔を愛した私が悪魔その者と受け止められるのは心外なので補足です。 > そこで科学的な思考で誰もが判断を下す現代においても、それに耐えられる信仰を模索してあげようと言う趣旨です。 実のところそれは私の信仰で無くて猿回しなのだが実際の仏道を歩んでいるならばいい助けにもなるでしょう。 今では私の信仰ではないが仏道を歩む者は私の後輩です。 要するに宗教では無くて哲学であるのが仏道であり日本で考える行いを人生の中のひとこまとするには、仏道は避けて通れないので、冷静になろうではないかと持ちかけた次第です。

その他の回答 (11)

回答No.1

私は仏教学者ではありませんので、その解釈を間違っているのかも知れませんが、お釈迦は『私が説く事柄は宗教では無い事、或は、私自身を信仰の対象にするべきでは無い事』を説いたと解釈しています。 その良い例が『自灯明』です。自分自身の心を『拠りどころとして生きてゆきなさい』です。或は『禅』です。禅の要諦は『自分自身の命の働き(仏性)と折り合いを付けてゆきなさい』と私は解釈しています。 そこでその『仏性』に付いて考察したいと思います。その仏性の存在が分かる事を『見性』したと言っています、他の言葉で言うなら『悟りを開く』ですが、その証拠が在ります。二つの例を挙げてみます。 一つはウイキペデアからです。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が  『それぞれ独立した意識』  を持っていることを実証した。” 人間の脳内には本人が気が付こうが付くまいが、脳梁を切断した場合二つの意識が存在しています。と云う事は脳梁を切断しなくとも『意識(人格)が二つ在る事』を科学は証明した事を意味します。 もう一つは農家学者である人が、自らの経験から、人間の脳内のは『二つの意識』がある事を体験して語っています。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM この人の体験は『悟りを開いた』経験とその後の『涅槃』と言う境涯を共に語っています。 涅槃と言う境涯とは『心が争わなくなる事』を意味します。裏を返すなら人間の苦しみとは『心の矛盾』を『生き難い想い』として感じている事を意味します。 もっと具体的な例を挙げるなら『死ぬ事に付いての不安や恐怖』或は『生きてゆく事に付いてや、老いてゆく事や、病気になる事や、死に行く事』における不安や恐怖を人間は、多かれ少なかれ『心の矛盾』として感じている事を意味します。 この心理的な不安や恐怖を『心と言う感情が湧き上がるシステムの、根本から解消しようとする事が』お釈迦であり、禅であり、ジル・ボルト・テイラーさんという事になります。 と言う意味は『心の矛盾』と言う場合苦しんでいる自我意識は『有限しか理解出来ない心』=自我意識=左脳の意識と言う意味があります。 左脳の機能から言うならば、自我意識は如何、逆立ちをしたところで『永遠』を理解出来ないと云う事を意味します。理解出来ないばかりではなくて、手にする事が出来ないという意味です。 それに引き替え『右脳の意識』は生まれる事が無い事から滅する事がない存在、と言う意味があります。右脳の意識は全ての『生きとし生けるもの』に備わっている『命そのものの働き』です。処が脳梁を切断した場合『確かに存在しています』 見性した場合、その人達は異口同音に述べている事が在ります。『今更お前は誰かと聞く必要など無かった』誰でも毎日何百回も『自分の命の働き』と出会って会話をしています、ただその事自体を忘れているだけです。 命そのものは、生じた段階から、細胞分裂を繰り返しています。そうして生まれた段階では確かに働いています。人間にあっては、不安や恐怖や安心する事を誰にも習わなくとも既に知っている事をあげる事が出来ます。 そうして心臓も肺もホルモンの調節もあらゆる生命活動も『一つの意識の元に』行なわれています。その意識を『仏性』と言います。脳科学から言うなら『右脳に存在する意識』です。 腹が減った事も、暑い事も、寒い事も、そうして自我意識たる心にその時に何を求めるのかを『心に指示さえ出しています』ただ自我意識たる心は『その事(理由)を知らないでいます。』 その訳を知る時『不安や恐怖』を湧けも無く恐れる事がなくなります。その境涯を『涅槃』と形容しています。

Flareon
質問者

お礼

やあどうも

関連するQ&A

  • 無の悟りとは単純明快である。

    前回はこれ↓ 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 私にとっては中古品リサイクルショップに売り飛ばしてしましたいほど、どうでもいい論理だが一部の人はこんなもんをいまだにありがたがるようだね。 言葉を整えてみたので、思考可能なつわものから意見が聞きたい。 お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。 その内訳は、信仰心こそが我が心そのものだと言う確信であった。 すなわちお釈迦様は神を受け入れたのだ。 信仰心に目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもはとかく噂話が好きだ。 そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達は信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 そしてどの道無だから一切が無と言う説明のみが信仰に関しては成り立つ。 自らの信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。 ただそれだけの事だが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、釈迦の悟った無の哲学の真骨頂だ。 2500年前の人類の歴史が創造されようとするころ、信仰のみに生きた釈迦の志は画期的であろう。 そのような哲学は十分現代でも通用するが、肝心の彼の言葉お受け継ぐ仏教徒たちは、所詮お釈迦様が「そんなもんありゃしねー」と言っただけの迷信にしがみつき、無と言わしめた本来の、「自らの信仰」これをおろそかにしているのではないか。 お釈迦様自らの信仰では「私は涅槃に赴く」そして君達のそんなもんありゃしねーは「六道輪廻に落ちる」そう言っているのだよ。 すなわち、私こと釈迦の信仰心は、君達にとって受け入れがたい無であると言った。 君達のそんなもんありゃしねーは、要するに当時のインドの土着習慣では輪廻がある。 お釈迦様が語った宗教観は彼に問いかける人々への洞察であり、当時のインド社会での神に対する煩悩や迷いを説明したものである。 すなわち現代日本において仏教的世界観とは、遠い過去の遠い外国の迷信が主体であり、自らの信仰とは違う、それを理解すると仏道とはただ通り抜けるだけの、遊園地のお化け屋敷のようなモノで、自らの信仰心に目覚めたなら捨て去るだけである。 そうして捨て去る迷信が、仏教であり、解脱、悟れば何も語らない、こういう現象となる。 自信満々に言うがね、伝承上の弥勒菩薩たる実力を私は備えておるよ。 しかしそれはくだらないことだ。

  • 無の悟りは、このくらいわかりやすく説明すればいい

    いつものやつの続きで、本気で出版を考えて整えたモノ。 まあ、このくらい説明すればわかりやすいだろう。 論理について何か思うところを書いてください。 参考にします。 > お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚して歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人と人が共生する文明の芽吹きがあった。 そのようなさなか、人と人の社会生活と、個人が動物のように利己的に生きたそれまでの自然本性から発展させて共生を目指す、人間同士としてのお互いに共通認識をもった、文明に根ざした新しい生き方を歩むにあたって、その理想を仲介する事は文明社会では神への信仰に集約され、人の理性的資質の所在をめぐり人々は様々な自説を述べ、神の案内する人間としての社会性の構築の理想像について、お互いに意見を交わした。 人と人を結ぶ神を道標に、人はお互いに解り合い自己の社会性を理解して人間になろうとした。 それは自らを知る行いが神を知る行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間同士の社会生活の発祥であろう。 宗教と言う社会活動はそのような意味がある。 神の発見が、人に自己であるという自覚をもたらし、社会性を備える人間としての存在に進化させたのだ。 そこにお互いに人としてどのように信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる仏陀の悟りである。 2500年前のインドの風土でヒンズー教の源流を司る修行僧たちは、語る人によってさまざまであった神の姿を明白に定義しようと努めていた。 このような神を知る行いは、僧によって現在も続いている。 世界中見渡しても、同じことをしている。 その神を知る行為の実際は、自らの信仰を通して神の証明を試みる事であり、自己を完成させ、それを認知されることが、インドにおいては目覚めたものとして仏陀になる事であった。 お釈迦様はそれを成し遂げて自己完結し自らの信仰を打ち立てた。 彼が聖人であったからには、信仰により語る人によって様々であった神の姿の全てを受け入れたのだろう。 それは、神を語る言葉はないという、釈迦独自の無の信仰であった 無の信仰を持って神を受け入れ、他者の信仰心の不備も、無であると指摘した。 他者の信仰を無として許し、自らも無であるという共通項に、慈悲心の原点がある。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事が出来ないで、信仰を語ることが権力闘争と化した当時の僧は、現代の生臭坊主と同じく、我が神はかくの如しという噂話が好きだ。 彼らには僧として、それが社会的に求められたからこそ神を語るのだが、そんな神はかくの如し、と言う噂話に、お釈迦様の無の悟りでは「正しい信仰心とはそうではない」とばかりに、神を理解するゆえに、過ちの多い当時の僧の言葉に批判した、神を損なわず僧の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 それは、当時の修行僧の大半には、当時生殖やとして重要だった、仏陀の境地に行きついていなく、自らに信仰のこころざしが空疎であり、むしろ神を損なう負の信仰であるので、それは無であると否定する慈悲心であった。 そして、ならばと、目覚めぬ者が、神を信仰しつつも無と語る、お釈迦さま独自の神への志を改めて問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする冒涜を犯し、その答えは「それは私の心そのものであり、他者に語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 お釈迦様の、無の悟りとはこのようである。 そして慈悲心とは、無の共通項によって、お釈迦さまに理解されていたからこその行いだ。 等しく無を信じるならば、他社の信仰心の不備は、批判するものではなく、慰め、釈迦の心理足る無の悟りを持って知らしめるものである。 すなわち、他者をとらえて、「その信仰は神を語っていない」(全く無い) 自らをとらえて、「神を語る言葉はない」(実はある) この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと処世術である。 無の悟りと自覚は、語る言葉に関しては一切ないという話で、実は心には留められているという、我には信仰が有るということである。 それがお釈迦様の仏陀の悟りなのだ。 そもそも仏陀の語源の一つである「目覚めた者」とは、さらに言葉を膨らませると、自らの信仰に目覚めそれによって自らを自覚した者のことだ。 仏陀は当時も今もインド社会に数多く居た。 お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、私は無ではなく神と共に確かに存在する。 しかし、世界に向けてそれを語る言葉は無い。 そういう意味である。

  • 釈迦の無の悟りはこのように解釈するとちょうどいい

    初期の仏教には今も同じ問いかけが成されている。 神を語らないことに、今も続く押し問答が、果てしなく繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 これこそが無の悟りとは何かという問いかけである。 そこで私の述べる一切無の悟りを心得るならば、目指すのは、お釈迦さまと同じく、自らが仏陀となる修行の道のりであり、個人的な信仰心の探究であり「救ってください」「助けてください」これは無効になり、それもまた無である。 それでは、聖職者は問う者に答えないことで、その無を語ることが、それ自体を答えとする考え方だ。 釈迦に問うた者どもは、むしろそれを恐れている。だからこそいまだに悟りに至らないのだ。 お釈迦さまを始祖とする仏教の迷走はここにあり、禁を破り、仏を神に列した後世の仏教は誤りで、仏陀と言う人としての最高の状態であることが、それでこそ人間であるという境地だ。 お釈迦様の信仰をまねることとは、後世の仏教徒にとって、自らの信仰を殺し、それによって自らの精神が死に、しかる後に釈迦の信仰を受け入れる死と転生だ。このように自らを滅し、死を理解する後に仏陀となることが、長らく釈迦の弟子であるということになっている。 仏教の初期から現代までこのことに異論をはさんだ者はいない。 それは信仰を心に宿す手法として、死にまい進し、死の自覚によって悟る修行だ。 こうして、死を理解してこそ仏陀になるという荒々しい修行は仏教に限らず、釈迦誕生以前から現在も続くインドの伝統である。 生きてこそ人であり、信仰に到達したならば仏陀だ。 旧来のように死にまい進することは、自らを自覚した仏陀の信仰を打ち立てることは全く正反対である。 それは信仰を携えて生きることではなく、お釈迦さまに感化されるあまりに、自らが死に改めて仏陀として転生を体験する考え方だ。 お釈迦様と同じく自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは、お釈迦様の信仰をまねること、すなわち現在の自らが死ぬ無の悟りではなくて、自らの唯一の信仰を切り開くこと、「信仰の道を我が大道としてゆけ」これである。 それは西洋哲学の標榜する自由の概念と同じであろう。 仏教とは常にお釈迦様のお葬式を挙げている。 そして死を繰り返す。 処で日本語とは面白い言語で、私の表した「我が信仰の大道を行け」この言葉を噛んで含めると、「あなたたちそれぞれが自らのみとを我が信仰の大道としなさいよ」こうなるが、「我」という言葉に「みんな」という意味があるのが私の言い回しである。 以上は現在執筆中の「いかに猿は踊るか」こういうタイトルの原稿から抜粋した。 文章の推敲の助けとなる意見を聞かせてくれ。

  • 無の悟りは信仰心を表し大乗はあやまりである

    一連の知的SMプレイの最新版です。 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 無の悟りとは単純明快である http://okwave.jp/qa/q7612407.html 私は「わが信仰の大道を行け」と薦めているが、理屈が全く分からない人ばっかりだろうから、論理を整えてみたよ。 お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚し歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人間同士が共生する文明の芽吹きがあった。そのようなさなか人間同士の社会生活と個人の自然本性が共存する新しい生き方を歩むにあたって、その難問を仲介する神と表せる、人間の理性的資質の所在をめぐり、人々は様々な自説を述べ、神の案内する、人間の社会性の構築の理想像についてお互いに意見を戦わせた。 それは自らを知る行いが神をしる行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間の社会生活の発祥であろう。 そこにお互いに何を信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる悟りである。 2500年前ヒンズー教の源流を司るバラモンの僧たちは、神の姿を明白に定義しようと苦心していた。 そしてそれを成し遂げたのがお釈迦様である。 お釈迦さまが信仰に生きることを可能にしたのは彼自身が神の全てを受け入れたからだ。 すなわちお釈迦様は太古のインド社会の源流に現れる神の姿を受け入れたのだ。 他者の信仰をも許す、慈悲心の原点だ。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事も無いくせに、信仰を語ることが権力闘争と化した当時のバラモンの僧は現代の生臭坊主とかわらず、神はかくの如しという噂話が好きだ。 そんなうわさ話を、お釈迦様は「信仰心とはそうではない」と、神を尊ぶゆえに、過ちの多いバラモンの信仰にケチをつけた、神を損なわず人の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 すなわち君達バラモン僧は自らに信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 この無は「そんなのありゃしねー」の無であり、何年か前に「そんなのかんけーねー」と裸踊りをしたお笑い芸人がいたが、ふっ飛ばし方は同様であり、かのお笑い芸人こそが現代で最もお釈迦様の言葉を正しく実践する、聖人だ。 そして、ならばと、お釈迦様自の神への志、すなわち信仰を問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 すなわちこれは、「てめーのしったことじゃねー」の無であり、お笑い芸人の「そんなのかんけーねー」と一致する ここで果てしなく、押し問答が繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 そこで無の論理を心得るならば、すなわち目指すのは、自らのみの信仰心のの探究であり「救ってください」「助けてください」これは無い事になる。 彼らはそれを恐れるのだ。 仏教の迷走はここにあり、禁を破った大乗はむしろ日本版ヒンズー教である。 自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは無の悟りではなくて「信仰の我が大道を行け」これである。 てめーのしったことじゃねー。 てめーでなんとかしろ。 これである。 ありがたいだろう。 さて今回も一種の作文であるが、改めて無の悟りを掘り下げてみた。 信じると言う行為や心の働きをいかにとらえるかご意見をお願いします。 そのほかに私こそが無を悟っている。 君(私の事)の無はまちがいだ。 そんなつわものの、モンキーダンスも歓迎いたします。

  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

  • 無の境地について考察しました。添削してください。

    そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないしそもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは無くて、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚であれ、本格的な無の悟りであれ、快楽主義者である君達はその心の快適さにばかりっ関心を向ける。 すなわち無の境地とは何ぞや。 悟りに至る道とは何ぞや。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされているが、迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も平静となれる。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 さて私は現在本格的に出版に向けた執筆をつづけていて、今回は新たに境地と言う言葉について考察しようと考えています。 そもそも私の一連の投稿で君達はすでに無を悟ってしかるべきなのだ。 しかし実感が無いだろう。 その実感を境地と言う言葉に置き換えて何が障害になっているか考察するとっかかりを探そうとしています。 サル踊りには慣れているのでそれでもかまいませんが、本格的な意見があると成果が上がりますので、常連さん以外で志のある方のご回答を期待いたします。

  • 現世の人(俺、18歳)が霊界にいる神とテレパシーし

    現世の人(俺、18歳)が霊界にいる神とテレパシーしていて、 A神に恨まれて、今俺が亀人間の世界に転生させられるのを怖がってるのがバレたら反感から死後転生されかねないぞと思い、それを俺の記憶を見て知った人がA神に言おうとしたから他の神に頼んで記憶見た人を無にさせて途中で神が止めた犯罪を神が裁くならどう裁きどの位重いですか? 因みに神同士は平等で良識に従って双方が納得するように裁きます。現世の裁き方がそれに当てはまるので参考にしたりもします。 無にするは普通に考えたら個人が消滅する行為なので自分自身の人格はおろか、これからの・これまでの転生も消えます。なので現世でおける死後の世界があるかもしれない殺人より重いです。 無にする途中で止めたら全て戻って1ミリも被害を受けません。 無にするは現世における殺人より重いですが無にするを殺人と捉えるなら殺人未遂の教唆をしてる事になります。 どう裁かれますか? 因みに法律はないです。 神が良識的に悪いと思って俺を裁いてます。 かなり簡略化しました。 よろしくお願いします。

  • 無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。

    無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。 無の悟りとは無いものは無いと明白にする、有無に照らした分別の身を指します。(持論) そこで無我について考えてみました。 煩悩を考察する例え話です。 たとえばテレビでフェラーリを見てかっこいいから欲しくなった。 冷静であればお金が無いからやっぱりやーめた。 このようになります。 ところがどうしても欲しいと、中古品の旧車で安いのは無いか、、いっそのことミニカーでも買ってみようか。 このようにくよくよします。 そのようなくよくよがなく、「そんなもんありゃしねー」とすっぱりと切るのが無です。 この場合の無とは、「我には無い」と言う意味です。 でも世の中にはフェラーリと言う車が流通しそれに乗る御金持もいます。 我には無い、されど世にはあるです。 無我に照らせばフェラーリはあるです。 我に照らせばフェラーリは無いです。 ならば無我に照らし、さらには無しとする「無」はあるのでしょうか。 世の中をあまねく照らせば全てはあるです。 無は信仰のみにしか無い。 ところがあまねく照らすアマテラスさんはほほ笑みかけます。 「私があなたを知らないわけがない」と。 そうすると想像の産物、想像の世界とは、人間にとっては無と言いうる側面がかつてあった。 しかし神に照らせば全てはある。 ならば無とは偽りであり、無の悟りとは神への反逆である。 お釈迦様は自らの信仰を他者に伝え仏教の始祖となりましたが、その信仰の内容とは無神論そのものであり、信仰の根ざす事柄は無への信仰である。 私は無我とは偽りであると主張します。 それでも無我を主張する仏教の教えについてご教授ください。

  • 無の悟り、無の境地を説明するとこういう事だ

    やあ皆さん、私がいつも言っている事の最新版への更新だよ。 これは私の行っている哲学研究の一部で、質問と言うより研究として意見が聞きたい。 まあ読みやすいかどうかとか簡単な読書感想文でいいよ。 自らの信仰に到達する事は、おおむねどこの社会でも尊敬され、聖人として尊敬されることで古代インドではそれを仏陀と言っていた。 その中で、釈迦という古代の仏陀は無の悟りとその教えという特異な伝承を残している。 この内訳を考察するにあたって、仏陀と承認されるもっともな特徴が信仰への到達である事が重要である。これは西洋の神学や哲学すらも聖人と認める人類的共通項だ。 釈迦の結論はこうだ。 信仰とはわが心そのものであり、それを他者に語る言葉はない。 すなわち無だ。 神学の創立と文明の勃興の熱気あふれる古代インドで、多くを論じるバラモンを指して、彼らの語る言葉には内容がない。 すなわち無だ。 したがって無が結論である。 これを教える事が彼の人生であり、哲学として無の論理から多くの覚者を産んではいただろう。 それは2500年ほど前、文字もなく人類の文明がまだ幼かったころの話だ。 仏教の経典の最も古い物は2000年ほど前の編纂だ。 その間500年の口伝による伝承が有った。 この間、釈迦の教えはインドの風土で変化し、無の悟りの内訳を理解する事は困難になっていた。 その口伝500年の結論で新たに浮上したのが「空」の言う宗教的概念だ。 もはや源流の途絶えた無の概念は判らなくても、私の心は信仰で潤っている。 これは、そのまま信仰の自覚であり無に代わる仏教における到達点だ。 そのほかに輪廻転生説とは、釈迦の生きた時代以前より脈々と受け継がれるインドの信仰の源流であり、口伝500年を釈迦の教えが伝承されるにあたって、語り継ぐ古代インド人にとって、論理の整合性を保つため、無の教えとインドの伝統とで接点が必要になったため、主に後世で補足されたことであろう。 自らが涅槃に立脚した釈迦自身は、輪廻の伝承と異質の独自の信仰心を持っていた。 生前に何らかを語った事はあったかもしれないが、伝承されるにあたって、釈迦の言葉や行いよりも、語り継ぐ者たちにとってこそ輪廻の教えが必要だった。 そこで伝説化されているのが、 私は涅槃に行き二度と生まれかららない。 君達は何度も生まれては死ぬ。 それは哀れな事だ。 こうした慈悲の行いである。 さて、君たちが賛同するかどうかはともかく、この無の悟りへの独自見解は実に論理的でいままでになかったものだろう。 私はこれをまとめて本にでもするつもりで研究を続けているんだ。 研究ノートはもう本一冊分を超えるほど君達の協力で集まっているが、私はこの時間酒に酔っ払って、君達をオカマバーのホステス扱いして哲学しているんだ。 この姿勢、闇の仏陀黒き明星では、ご存じのとおり面白い読み物にはなっても、喜んで心が潤う良著とはならないだろう。 黒き明星の癖は私にとって深刻でね、気楽で書きやすい文章がアニキなツンデレだ。 まあ、それをぼちぼち改めていこうかと作文の練習だ。 色々と相談に乗ってくれ。

  • ズバリ!見えない世界(精神世界)を信じてますか?

    1.ズバリ!見えない世界(精神世界)を信じてますか? 2.その理由 私は 1.信じてます 2.理由は、偉大な方々も精神世界(輪廻転生や神の存在、スピリチュアルなことをおっしゃられてるからです)。でないと、彼らが死ぬ間際に大嘘を残していったとは考えられないからです。この世には偉大なるなにかの精神的な力が働いてるように思います。宗教はやってません。