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悟りとは主観と客観の一致である。
agripapaの回答
- agripapa
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ぎゃはは わざとらし過ぎ さて。。。 ;しかし、純粋知覚や、個人を超えた意識とは何か?と問われても、 ;そういうものがあるとしか答え様がありません。 ;それはいくら考えても理解出来る様なものでは無いので、 ;自ら体験して納得してもらうより他は無いです というあたかも分かったかのように表現するその純粋知覚とか個人を超えた意識とかのさとりを通して ;この「あるがままの世界」こそが、 ;悟りの世界であり、世の実相なんです どのような実相を見 ;その様にして世界の本来の姿を覚知した人、即ち「悟った人」は、 ;世界を解釈するのも、しないのも、自由自在となるので、 ;後は自分の思う様に生きていきます 世界を解釈するのも自由自在となるので、思うように生きています となっていくのかなぁ。。 どのようにこの世の実相を見 阿羅漢から何を思って あえて世俗という苦の中に入り どんな関わり方をするかということこそ 小乗から大乗へと移行する時に意味を与える重大事であると言えるのに。。。。 今日本が抱える様々な問題をどう解決していくかといったことに対して 例えばユークリッド幾何において点から始まり、線、面と展開していくことで、より複雑そうに見える問題も解法させていけるようになるように 今ある社会を受け入れ、思考の連続性を保ちながら、より上位に来る命題を一つひとつ堅持していくことで 様々に抱える問題を総合的に解決させうる可能性のある具体的な姿とそこに至る具体的な道筋を整合性を以って自らのイデア界に結像する時 時の為政者と対峙する大慾に至るということになる それがどんなに遠回りであってもめぐりめぐって今の自らの苦を解放することにつながると思っているから 政治とはそういうものであると この過程は 訳の分からない純粋知覚とか、個人を超えた意識とかいうような意図的に誤謬を含ませたような表現のものから導き出されるようなものなのではなく、自らが実相をみ、聞き、洞察されることから自然法とか道理とかによって導き構成したものであり 言語化することで他者の意識の俎上に上りそれぞれの内部において検証されるといったようなものです さとりとは主観と客観が一致することというのは、さとりを開いたかどうかということの判断ではなく、その後に来るものの主観と客観が一致した時ということができるということになるのかも知れない さとりにおいて純粋知覚とか、個人を超えた意識というような表現をしてしまうこと自体が実相をそのまま見るということから逸脱し何らかの先入観から自らが勝手に想像し迷妄を生み始めてるはじまりと言えるのではないかな さとりとは阿羅漢としてであろうと菩薩としてであろうとさとりを開いたその後のあり方の方に本来の意味があるのであって 実相として自らの身を通して世界をどのように見、何を思い、何を感じ、どう考えてきたかといった総合的なものが集約されて導かれるようなもので、今までどのように生きてきたかといったことが組み合わされてその後を分かつ かのように ;世界を解釈するのも、しないのも、自由自在となるので、 ;後は自分の思う様に生きていきます というさとりの境地から俗世への移行するときの軽さは、さとりを開きそこへ至ることを求めて踏み込んだ動機やその道程に比べて、そのさとりを開いた状態の後に来るものの比が軽すぎて、いかにもそのさとりは偽物ですと言ってるかのようにみえます そしてあるがままの実相を見る時 毒矢の喩のように、宇宙の起源がどうの量子がどうのといっている場合ではなく 現代は今、人類の存続に係わることに直面しているといえるのではないの。。 かな? そいでもって さとりとは現実から乖離した詭弁とも言える精神論を展開するキリスト者のいう信仰という地点からは決して見ることのない次元の違いを確認しそこに明確な境界を見る みたいな 追伸 森田療法については以前読んだことがあります その手法を否定するものでは決してなく、むしろ有効かと思っております 表題の一節に関してだけの考察でありますのでご了承ください ・
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