• ベストアンサー

「空気を読む」ことの功罪

「空気を読む」という言葉は、逆の意味である「KY」の使われ方をみると、否定の否定は肯定という意味で、比較的良い属性として捉えられることが多いように思います。 ところが、知事の一言に反応してヤラセという行動を起こしたり、マスコミが騒ぐのに乗せられてある人物を集中的にバッシングしたり、学校で特定の子供を集団でいじめたりするのは、「空気を読む」ことの悪い面が出る例ではないかと思われます。 結局のところ、日本人特有といわれる「空気を読む」という行為は善なのでしょうか?それとも悪なのでしょうか?

noname#152422
noname#152422

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.3

空気を読む=集団主義は方法論であり、それ自身に善悪はありません。 深い認識による自律的社会性が伴えば、協調性に充ちた助け合いとしての社会になり、そうでなければ、情動的なファシズムや(あなたのご指摘の)スキャンダリズムに堕す。

noname#152422
質問者

お礼

KYな回答ありがとうございます。 見事な分析で感服しました。

その他の回答 (4)

noname#150036
noname#150036
回答No.5

”空気を読む” についての考察 空気は見えない 見えないものを読むとは これいかに。 この集団的事象に於ける”空気を読む”とは 周囲に合わせる という事であるが これは人々の欲望から発せられる空気で あるため 当然 自分の意志に沿わない場合もある。 そんなときには その場から立ち去るか 又は空気をかき回して 固まった空気をほぐさなければならないのだ。 はなはだ迷惑な空気である。 ただ これと似ているものに 伝統行事がある。 伝統行事に於いては作法が決まっているので それに従わざる をえないのだが これは”空気”とは別物である また ”空気を読む”という言葉じたいが間違っている と考えたほうがより良い結果を生むこともある。 なんでもかんでも新しい言葉に翻訳するのは グローバル化の 弊害である。むしろ柳田国男の遠野物語のような民族的表現が 心に伝わりやすいことも確かにあるのだ。 文法が適切で表現が明瞭であっても意味が伝わらない。 心に感じさせる文章なのか 身につまされる文章なのか 心と身の違いが分からないような翻訳は ”空気が見えない” とでもいうのだろうか。ああ 人間的 あまりに人間的な。 かつて言葉は神であった。そして言葉は愛であった。 今はどうだ 言葉は攻撃であり欲望の雄叫びであろう。 神仏なくして人は成らないのではないだろうか。 十全たる文化を失った日本に はたして輝きはあるのだろうか。 結果として やはり悪であると言わざるをえないのだ。 教養俗物的用語社会現象というべきか。

noname#152422
質問者

お礼

哲学的な回答ありがとうございました。

回答No.4

 こんにちは。  ★ 結局のところ、日本人特有といわれる「空気を読む」という行為は善なのでしょうか?それとも悪なのでしょうか?  ☆ 或る程度 情況に応じて判断しなければならない問題で 複雑と言えば複雑であり 微妙なところもあるかと考えます。  1. 基本的に考えられることとしては:  ○ もしそのクウキを読み得る情況にある当事者すべての人が その《クウキを読み 言葉によらないで互いの意志疎通を果たそう》という前もっての約束(あるいは ナラワシとしての黙契)がないとすれば 悪です。  2. ところが日本社会にあっては 一般に日本人どうしの集まりや組織においてこの《黙契》がナラワシになっていると見られています。  長い者には巻かれろ・寄らば大樹の陰あるいは 何ごともお上のお墨つきがあればことの運びがうまく行くといった慣習のもとで その場のクウキを読むということが ひとつの行為形式となっている。こう受けとめられています。  3. では 黙契があれば・あるのだから 悪ではないか?  ――ところが一般に このクウキを読むというテダテを用いるのは けっきょく少々の悪を含む事案でもそれを皆に認めさせよう・通そうというときです。  4. ということは この暗黙の内に人びとの気持ちや思いやあるいは時にはきちんとした考えは その場の何となく出来上がって来ている雰囲気に合わせよう・従おうというかたち。このような集団としての意志決定の方式 これには 悪を許容する隙がある。ということを意味していると思われます。    5. それは 理由は かんたんです。一人ひとりの考えをしっかりと述べ合いその中から 皆が納得した内容をひとつの共同主観としようとして決めるのが 集団にとってもその意志決定の基本的に従わなければならない形式だからです。  この意見を述べ合うという民主制の手続きをはぶいてしまうなら それは それとして悪です。(自由意志による判断とその集約という言わば善を侵します)。  6. まぁ たとえば窮地に落ち入った同志たちが――あるいはふたりの恋人たちが―― なんとかその場を切り抜けようとして 互いの目配せだとかあるいは以心伝心によって考えと思いを突き合わせこれにこころを合わせて事に当たる。というようなクウキを読むなら たのしいのではないでしょうか。  7. よろしかったら どうぞ参考になさってください。  ○ 【Q: KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか】 ~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6117420.html  民主制には わざわざ空気を読む必要はなく 空気をかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。  KY というときの空気は このいわば白紙であるという意味での空気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとしたその結果であり その手段じたいであろう。  いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程にいまひとつ別の手段を持ち込もうとするときの思潮のあやつり手段である。  さいわいこの国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世志向)ならびにアマテラス予備軍症候群(アマテラス公民の無謬性神話を無条件に信奉する)》なる風潮がはびこっていて この風潮に乗れば KY としての空気も 上昇気流となること請け合いであるようだ。  たぶん その場合にも KY としての空気も読むことだけは読んだほうがよいはずだが 読んだ結果として KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。  ~~~~~~~~~~~~~~  8. 《 KY という現象を起こしたほうがひとは よりいっそう自由である》と言い直します。  クウキを読む および クウキを読めない( KY )とをともに超えて(つまり むしろ原点に戻って)さらに前へすすみましょう。  つまり 実際には《クウキ読み》と《 KY 》との弁証法的・らせん状の絡み合いの過程を経ての総合へと展開して行きましょう。

noname#152422
質問者

お礼

空気を読むという性癖を集団催眠術に応用するのは為政者の常套手段ですね。 ありがとうございました。

noname#180065
noname#180065
回答No.2

空気を読むを利用して、考えを言わず自分の意のままに操ろうとする傾向は日本にはあると思います。 その結果、ある程度の客観的事実を適切に話す能力が落ちているような。 相手の気持ちがわからなくなった途端に もしかしたら自分に負のメリットがあるかもしれないと 人間は身を守ろうとする行動に走ります。 日本は、適切に話す訓練をしないといけないのではないかと 海外の友人と話していると感じます。

noname#152422
質問者

お礼

必ずしも日本人全員が空気という呪縛に縛られているわけでもないと思いますが、震災でデマに素直に従っている様子をみると、多いのだなと思います。 ありがとうございました。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.1

空気を読め、ということは、他人の気持ちになって 他人の立場から見ることにはじまり その他人が大多数の場合に己の言動をその大多数の 他人に会わせるということだと思います。 他人の立場に立つ、他人の気持ちを考える、というのは かなり高度な知的作用で、外国人の中にはこういう 作業が苦手な人もいるみたいです。 私には中国人の知人友人が多いのですが、日本人と 比較するとホント、これを感じます。 私は、これは日本人の集団主義に基づくものと理解 しています。 その善悪ですが、これは善の場合もあれば悪の場合も あるだろう、としか言えないと思います。 欧米キリスト教文化圏では、個人は独りづつ神と対峙し 神との約束に律せられます。 だから他人が何といっても、世間からどう見られようとも それに同調せず己の意思を貫きます。 その為、偉大な人もでますが、もの凄い悪人も輩出する 訳です。 日本人はその逆でしょう。 勿論総てこうなる訳ではなく、あくまでもそういう傾向が ある、というに過ぎませんが。

noname#152422
質問者

お礼

素直に読んでいただいて少し申し訳ない気持ちです。 ネットでも空気が読めるという例。 とにかく回答ありがとうございました。

関連するQ&A

  • KYの意味

    ここ最近、やたらと「KY=空気読めない」をメディアが連発するようになりましたが、 何かマスコミにとって都合の悪い真実を誤魔化すために「KY=空気読めない」という意味を捏造していると聞きました。 何を隠蔽しようとしているのか、ご存じでしたら教えてください。

  • 善悪

    世間では何か1つでも悪事をすると、その悪事だけで無く、働いた人の人格その物も全否定する様な言動を耳にします。又、普段から善事を普通にしてる人が何らかのミスしてもミスをカバーし激励する所かミスした本人以外に責任の所在を求め本人は何故か全肯定される傾向も聞きます。 法律や常識、マナー違反…これは全て過去の偉大な方々が長年の経験や歴史の流れから築き上げた物で有り否定致しませんが例えば交通事故の様に素人目に片方が百%悪く見えても10-0は珍しく例えそれが万分の1でも関係者全員に何かの善も悪も責任も権利も両方有する事が殆どで有り自覚して無いだけでは?と思うのですが… 故意で有るか不可抗力で有るか?…に関わらず人間の行う全ての行動の中で百%善、百%悪…が御座いましたら教えて下さい。 悪事を働いたから人格まで完璧に全否定された場合、悪事を働いた本人の悪事への責任以外の人格まで何故全否定されなければ成らないのでしょうか?…他の関係者に何の悪も回避責任も何も無いのでしょうか?… 本人が99.99%の責任が有ったとしても残りの0.01%は殆ど議論すらされず本人に百%としての責任が求められ更に長年に渡り人格まで全否定されるのは、どう思われますか?善も悪も両方に善悪が有るのでは?

  • 「空気を読め」ってどう思いますか?

    最近、空気を読めという言葉がよく出てきます。 また、空気の読めない人を人格的に否定する人がよく居ます。 でも、自分は空気を読む事を要求するよりは、曖昧な表現や遠回しな表現、何通りにも受け取れるルールを適用したりせず、直接分かる様に表現するべきだと思います。 なぜなら、そうした方がコミュニケーションが正確に円滑に、後で色々と尾を引かずに続けられると思うからです。 また、空気の読めない人を人格的に否定する人がよくいますけど、自分が思うに空気を読まなきゃ理解しにくい様な表現をした側にも非があるのではないかと思うんですが、どうでしょうか? 例えば、来週テストがある人が、夜な夜なステレオの音がうるさい隣人に対して、「来週テストで難しそうなんだー」とほのめかすよりは、「来週テストで勉強に集中できないから、ステレオの音を絞ってよ」と直接注意した方がベターだと思います。 相手が空気の読める人なら問題はないでしょうけど、読めない人の場合、結局音を絞ってもらえない隣人の被害を受けるのは、結局は遠回しな苦情を言った側になってしまいますし、隣人に理解されなかった事で相互のコミュニケーションがますます険悪になってしまうでしょう。 そういった意味から、空気を読む事を要求するより、事前に明瞭なルールを設けておく、また気に入らないと思った事やTPOにあわない事をされたと思う時には、その場その場で注意して欲しい事や、どうしてそれがNGなのかの理由をきちんと説明して心に留めてモヤモヤしない方が断然良いと思うのですが、どう思いますか?

  • 悪との向き合い方

    世の中、良いこと・善いことばかりだったらいいですが、それって理想ですよね。 自分の周辺にもいますが、存在が悪という人(思考様式が悪)がいます。 そういう人の存在も世の中の一部ですよね。 当然、自分にも悪は存在するでしょうし。 私は悪い部分を否定し、善を目指しました。ある意味理想郷にいて、悟りをひらいてます。しかし悪い部分もあるはずで否定じゃなくて受容してみたいのですが。 悪い人をどういった目でみればいいのでしょう。 また自分の悪い部分をどう認識すればいいのでしょうか。 悪との向き合い方がわかりません。 そして統合すればいいのでしょうか。

  • 悪という概念の役割について

    江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 いじめを肯定する意図はありません。 ただ、悪とは何かについて考えた結果です 皆さんはどう考えますか。

  • マスコミの高給は何故批判されないのですか?

    大手の新聞社・テレビ局・出版社の社員は30歳で年収1000万円、40歳で年収2000万円くらいが相場です。何故そんなに高いかといえば再販制度、免許制度などの「護送船団方式」によって保護され、新聞販売店、番組製作会社等を苛め抜いて「搾取」し、高い広告費をむさぼり、商品の価格に「転嫁」させているからです。 マスコミは「弱者の味方面」をして「経営者=悪、労働者=善」あるいは「公務員バッシング」など、常に社会の不満のはけ口を探し出し、叩かれている人たちよりはるかに儲けています。何故、誰も批判しないのでしょうか?政治家なんかがうっかりマスコミ高給批判なんかをやったら、今や「権力のチェック機能(第四の権力)」ではなく「最大権力」になったマスコミに睨まれ、あることないこと書かれて失脚するのがおちだからですかね。

  • なぜ人は生きるのか?

    最近よく考えます。 別にイジメられてるからとか、人間関係が上手くいかないとか そういった負の干渉によって生きる事に憎悪を抱いてるのではなく ただ漠然に「生きる」という事に疑問を持ち始めました。 何故生きる事を肯定するのか? 何故何億、はたまた何兆、途方もない確率で 個人個人が生を授かったか? 何故人類を創造したとされる神が 同じ生きる為に生まれさせた人間が 殺し合い善と悪が生まれるのか? 私は学力があまり良くないので 思ってる全てを言語化で出来ません 文章も読み辛いかと思います。 皆さんの思う生きる意味 何故そう思うようになったのかお聞かせ下さい

  • 1日1000回ありがとう・・・ 気持ち悪い?

    1日1000回「ありがとう」と口に出そう! といった話が世間にあります。 ここの質問や回答でもたまに目にしますね。 で、これに否定的な方は「宗教だ、気色悪い、何の意味もない」などとおっしゃるわけです。 私としては、幅跳びの選手が「私は跳べる。絶対跳べる。跳ぶ・跳ぶ・・・」と鼓舞したり、集中力を高める等と似たような物かと思うので、「気色悪い、意味がない」とは感じていないのですが。 では、質問です。 (1) 1000回ありがとうをいう 的な物に肯定的・否定的どちらですか? (2) 肯定的な方、実行したことがありますか? また実行してどうでしたか? (3) 否定的な方、その度合いはどの程度でしょうか?  興味がない~たまらなく気色悪い など。 (4) 否定的な方、「幅跳びの 跳べる・跳べる」 的な物は許容できますか? (5) その他なにかございましたら。

  • 『選民思想』とは善なのですか?それとも悪なのですか?

    只今、選民思想について調べていたのですが、 調べているうちに選民思想が善なのか悪なのか分からなくなってきたので、質問します。 まず『善』の方ですと、ユダヤ人関連がそれにあたります。 『ユダヤ教においては、選民であるという考え方は、ユダヤ人が神と契約を結ぶために選ばれた人々である』という、迫害され続けてきたユダヤ人に対する『救い』の言葉として、選民思想という単語が存在しているようです。 そして『悪』の方ですと、テイルズオブデスティニーのミクトランがそれに該当します。 『極端な選民思想の持ち主。 天上王を名乗って徹底した恐怖政治で天上全体を支配していた。 地上の民に全く価値を認めておらず、選ばれた民である自分たち天上人が穢れている地上とその民を完全に支配(或いは抹殺)するべきであると考えている』 このように、天上人の為なら地上の民など皆殺しにしてもいいと公言しております。 どちらも『選民思想』という単語を使っているにも関わらず、こうも意味が違います。 因みに私は『選民思想』という単語は後者のミクトランのような人物の事を指す単語―――要約すると、神とかに選ばれた民以外は死のうが苦しもうが構わないという思想―――とばかり思っていたので、前者のユダヤ人に対しての使われ方には驚きました。 果たして、選民思想は善なのでしょうか?悪なのでしょうか?

  • 角界を今後どうする?。

    角界を今後どうする?。 「殺人」、「薬」、「賭博」、「暴力団との癒着」など、とても『国技』を行う集団とは思えません!!。 こんなに犯罪が多発する会社であれば、「取り潰し」の結果となりますよ!。 なぜ「角界」だけがこんな悠長な扱いをされるのか!。 「悠長」と書いたのは、「国技」だとか「人気」だとかで、ほとんど黒のグレーな集団ではあるが、誰かの個人的な感情で「まぁまぁ、少し様子を見させてくれ」と言わんばかりの扱いだとは思いませんか?。 「罪に対しての連帯責任」について、私は大変な不公平さを感じます。 高校野球の潔い態度が「美しく」見えます。逆に球児が可愛そうに思えてきます。 あのような決して「公益法人」に相応しくない集団を、「国技」を行う敬う立場とされる集団としていていいのかなぁ?。 「名古屋場所」どころの話じゃないと思いますが、未だ平然として議論されている状態を見ていると、論点が違うんじゃないかなぁ~と感じます。 そしてある意味「暴力団」と言われる集団より『恐ろしい』感じを受けます。 「善か悪」かの判断ができない、「超力持ち」の集団なんですよ!。 誰でも罪を犯す可能性はあるのですが、「反省」と言う態度がまったく感じられない。 単なる「懲りもしない犯罪集団」ですね。 「国技」と言われている国の国民として、この「裏切り行為」に近い諸行に対して、どう対応するべきなのでしょうか。 煮えくり返るほど怒っているのは私だけでしょうか!!。