• ベストアンサー

悪との向き合い方

世の中、良いこと・善いことばかりだったらいいですが、それって理想ですよね。 自分の周辺にもいますが、存在が悪という人(思考様式が悪)がいます。 そういう人の存在も世の中の一部ですよね。 当然、自分にも悪は存在するでしょうし。 私は悪い部分を否定し、善を目指しました。ある意味理想郷にいて、悟りをひらいてます。しかし悪い部分もあるはずで否定じゃなくて受容してみたいのですが。 悪い人をどういった目でみればいいのでしょう。 また自分の悪い部分をどう認識すればいいのでしょうか。 悪との向き合い方がわかりません。 そして統合すればいいのでしょうか。

noname#209756
noname#209756

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.14

善人から良いものを悪人が取ったなら、悪人がそれを持っているはずです。 そうなると悪人も善人らしく更新されていることでしょう。 「悪」の定義ですが、自由意志により善より先立って被害者意識を持っていることです。 なので善人の存在が悪の前提となり、回避するより報復措置が対応策の結果となります。 ここで両者の善悪の繋がりは終わりです。 善人は自分に罪がなくとも 罰を受けることで善悪を自動的にチャラにしてもらえたことなので 罪を認識することで与え前提を変えることができます。善人は許されるでしょう。 与えること=許すと同義です。

noname#209756
質問者

お礼

悪の定義が被害者の主観によって感じられる。 悪を判断するのは何よりも被害者。 自分ももし被害があれば判断に自信持ちたいと思います。 それって大事な感覚だと思います。だれも思いつきません。 ご回答ありがとうございます。

その他の回答 (13)

回答No.13

根源的には、人の生きる目的は精神的充足感の追求である 以上、価値とは「精神的充足量の増進に寄与するかどうか」 です。 ところが、そうした直截的な価値に対し、社会性の発達において、 社会全体に共通の利益が生じ、短絡的ではない(場合により 自己中心的な充足追求に反する)価値=善悪が発生したのです。 それはその社会集団の中でのみ共有されるもので、たとえば イスラム教徒にとって、キリスト教徒の善は、悪の権化です。 そうしたトラップを避けるには、自己の持つ社会性を先入化せず、 「悪いからしない」のではなく、「それをする事で社会を阻害し、 結果的に自己も損するからしない」という、ゲーム理論の応用 として、自律的に社会行動をとるのが良いでしょう(お金をもらう ためにイヤイヤ働くのではなく、助け合うために働く)。

noname#183245
noname#183245
回答No.12

悪の定義によるんですけど。 人に迷惑なことはしないことです。 行動についてはシンプルです。 沸き起こる悪の心については、冷静に眺めることです。 たとえば、嫉妬しはじめたら、「あっ、自分嫉妬してる」って 天井から眺めるイメージです。 こうやって、自分の悪の心を自覚することで、 冷静になれます。 冷静になれば、「なくさなきゃ、なくさなきゃ」ってあせるよりも、 ヒュンって消えます。 悪い人はとにかく関わらないことです。 他人を変えることはできません。 変えられるのは自分だけ。 心が豊かな自分になれば、心が貧しい人が寄ってこなくなります。 身近にいるなら、「オレもまだまだだなぁ」って思って、 距離を置くことですね。

  • koiprin
  • ベストアンサー率23% (72/306)
回答No.11

悪の定義を何に置くのか、ということだと思いますよ。 善や悪は立場によって見解が違います。 アメリカにとっての善とイスラム原理主義にとっての善は全く違いますよね。 なので、悪を受容するには、今までの悪の定義を変える必要があります。 悪が受容できない理由はなんでしょうか? 受容できない原因が悪の定義の根本にありますので、その解釈を変えることで受容できる状態に転換できるはずです。

回答No.10

 こんにちは。    ▲ (コリント前書 14:20) 兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。  というのが あります。

回答No.9

 回答してみたいと思ったので、いろいろと考えてみました。  pkuobeさんはよりよく生きる為の指針として、道徳を置いているように思います。  善悪の基準を道徳に置いているようにも思います。  悪との付き合い方、とは自分の中にある悪や、道徳から外れた生き方をする他者とどう接すれば、あるいはどう受け止めればよいのかということかと思います。  道徳的生き方はとても良いことだと思いますが、そのことに拘りすぎると道徳的でない生き方をする他者を、批判の目で見ることになりがちで、まずはその“悪”に気づきましょう。  「存在が悪という人がいる」という表現を使うことは、裏を見れば自分の存在は悪ではないと、思っているはずで、これは少々うぬぼれと思われます。  でも無理に消す必要はありません。(自然消滅が理想です)  自分の悪い部分を否定してきたので今は理想郷にいるけどまだ悪い部分が残っていて、それは受容してみたい、とのことですが認めたい悪、の存在があるんですね。  人の主義・主張は、好き嫌いという「好みの大木」から生える枝葉のようなもの、と思ってみてください。  道徳的にみて自分の中の許容(受容)したい悪、とは好みから発生した悪でしょうか。  よく分かりませんが、善悪に対する人の主観はその人の「好み、あるいは性格」に大きく影響を受けると思えば、他者の生き方もある程度受容できるように思います。自身の内部の“悪”も許容できるのだから。    

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.8

「「存在が悪」という人」は、居ません。 ・・・「罪を憎んで人を憎まず」というやつです。

  • zebura23
  • ベストアンサー率30% (252/820)
回答No.7

私は「善」と「悪」があるというようには考えません。 あるのはより良くなろうとする状態だけがあると考えます。 ですから自分も、たくさんのことに気がついていなかった時があるように、 他の人も、まだ気がついていない状態の人がいると考えます。 たとえば人を中傷して噂する人は、 その行為が他人を悲しませるだけでなく、 自分の行為はやがて、自分に返ってくることを未だ知らない人なのです。 でもこの人もいずれは、否応なく自分のした行為に気がつくようになり、 そのような自分を変えたいと望むようになる「時」が訪れます。 歩みの早さの違いこそありますが、 すべての人々が、上に述べたような歩みのどこかの途上にあると考えられます。 ですから未だ「気づく」ことなく「おれおれ詐欺」をしている人を、 「悪」と決め付けることはできないと思うのです。 そこにいるのは、他人の悲しみが未だ理解できない人であり、 自分のした行為は、必ず自分に戻ってくるという「宇宙の法則」を 未だに知らず、気づいていない人なのです。 でもいずれこの人にも間違いなく、自分の行為を悔やむ「時」が訪れます。 自分の中の気に入らない部分を「悪」ではなく、 学ぶ必要のある、まだ未熟な幼い部分と捉えるのがいいと思います。 なぜなら私たちは日々変化しており、絶えず異なる瞬間瞬間を呼吸しながら、 自分を変容させているからです。 私たちがそうであるように、 すべての人が、自分の今いる認識のレベルにおいて、 自分にできる最善を尽くして生きていると思います。 そのような「眼差し」で自分を、他人を眺めることができると、 人を、自分を批判したり嫌悪する苦しさから解放されて生きることができます。

noname#191845
noname#191845
回答No.6

どのような人間として生まれるかは、自分では選べません。 自分も悪人として生まれる可能性があったという事実を謙虚に受け止めれば、そこから先は各人が考えることだと思います。 私は無関心でいることしかできませんが。

noname#215306
noname#215306
回答No.5

> 私は悪い部分を否定し、善を目指しました。ある意味理想郷にいて、 悟りをひらいてます。しかし悪い部分もあるはずで否定じゃなくて 受容してみたいのですが。 受容というよりも?、、自然・本質的?な人間心への上乗せの部分だと 思うんですけど?、、否定・排除はもとより、変容という一色でもなく? 上乗せによる本質部分の変容という、、層・構造体というか? というのは、私は意識体・人間心が、白から青のグラデーションの 細い棒を束ねた円柱状に見えたり、地層のように見える為なのですが、、 > 悪い人をどういった目でみればいいのでしょう。 これは霊的見地になりますけど、、存在というのは全て、天界という 充満の御体内に於ける(充満物質・モニター?)、天界の想念による 表現であり、、それらは意味・印象・概念という無形の本質を 核・本(魂・意識体)とし、、 そこからの多くは?、、放射物・写しとしての映像としての存在(有形・我々・物質) 本は全てが充満の御体であり、、どのような意識体・性格・レベル であるかは、天の想念次第であり、、たとえどのような悪の意識体・性格 であっても、実の所は誰にも責任や罪という物はないと一応言え、 問えないだろうと、、 責任・罪などを問うのは、現世などの制限と限界の次元・社会にとって 必要・求められ、欠かせぬ定義でしかないだろうと・・・如何でしょ? つまり、天の采配・さじ加減で、人はどのような存在・性格・人間性 にもなり得るという事などを自分なりに確認・理解・認識すると、 悪に対しての新たな・本質的、重要な見方が上乗せになるだろうと思うのですが 私は人々の愚かさにすっかり汚された、愛とか許しという言葉が嫌いですが、 高次元の存在や魂は、霊的な本質の理解がある為に(采配・さじ加減で 人はどのような存在にもなり得る)悪・悪の意識体・悪の事象・愚かさ などに対して、それも・全てが天の表現であるという理解があり、 為に、どのような悪・愚の存在・事象に対しても、親しみ・慈しみを感じるのだとか、、 つまりこれが愛と許しの具体的・詳細な仕組みと理解なのだと なにも知らずに、ただ愛を唱えるのではなく、耐える許しでもなく、 理解と上乗せ(それによる変容への歩み)、それが愛と許しだろうと どう向き合うべきか?というと、普通は受動的になるしかないでしょうが? 理解から時に来る、外的介入・導き・守護も勿論あるにはあるでしょうけど? 能動的にいうと?私は割りと積極的に、霊的働き掛けを自他共に試行します そうせざるを得ない面もありますけど

回答No.4

「悪い人」という味方をしないことだと思います。 質問文に書かれているように、人は皆、善と悪を兼ね備えています。 だから、行為や言葉そのものの善悪を判断し、それを人と結びつけないことでしょう。 例えば、私は昔いじめられていましたが、別に今さら当時のいじめっ子に謝ってほしいとは思いません。 別に許したわけじゃありませんが、私をいじめたのは、過去のその人であって、今のその人じゃないから。 今の悪には立ち向かえばよいし、許す必要もないです。 でも、過去の悪を今の人に結びつけたりすると、ややこしくなりますね。 ありきたりですが、「罪を憎んで人を憎まず」 これは許すってことじゃありません。 あくまで、憎むのは罪ってことです。

関連するQ&A

  • 神とは「悪」なのか?

    私はいつも善と悪について考えています。 それを生んだ神という存在についても考えています。(この神とは何々教の神ではありませんし、神の存在について問うものではありません。創造されて何かがこの世界にある。森羅万象を作る源と扱います) これまで「善」=「神」だと思っていました。 人間については性善説ではなく、性悪説をとっています。 善と悪の戦いです。ですが、あまりにもの世の中の不条理に出会うたび、神はいないのではないかと思うのです。つまり神に失望したのです。 もし神が善なる存在でしたら悪は排除されるはず(べき)です。 では、神に対する人は希望なのでしょうか。 人が悪に対する希望だとしましょう。しかし人が善を求め、成長するために心や魂をもつものとしたら悪はそのための概念です(物語は絶えず悪を排除し、カタルシスを求めるところに人は善を求めている証しもみられる)。しかし悪というものの実態は破壊そのものであり存在意義すら許されることではありません。 善は善のままであってもよいはず。二律背反の法則で(?)悪があるとしたら、善そのものの美(という表現が適切かどうかはわかりませんが)が悪のためによって傷つけられ、汚され、破壊されるのが「現実」です。それでしたら善が善である存在意義がありません。 なぜ悪はあるのか。そして強烈に悪をしらしめるのがこの世の実相でしたら、もうこれは愛や創造のためではなく、破壊がこの世の、人のなかに前提として存在を許された(では「誰」に?)ものなのでしょうか。 このようなことを考えると、神はもしかしたら悪なのではないかと思ってきました…

  • 善と悪の捉え方

      善と悪の捉え方について見たとき、人間には3種類いるよーである。 1つは善と悪は絶対的なものであり、人の立場や社会情勢に関わらず常に明確に区別できると考える人。 2つは善と悪は相対的なものであり、その時々の人の立場や社会情勢により善が悪にもなり悪が善にもなると考える人。 3つはもともとこの世に善も悪も存在しないと考える人。 果たしてどちらがより真っ当であると言えよーか、 どちらがより真理に近いと言えよーか。  

  • 悪は 善と同じように存在していますか?

     1. ひとには 良し悪しという感覚とそしてやはりそれとしての主観的なともかくの判断があります。  2. 《良し》と見なしたことを 広く《善》と呼ぶとします。  3. この善なるものごとは 存在しています。何らかの危険に遭って助かったというとき そのわれなる存在の存続は 善だと一般に呼べるはずですから。  4. このとき・だとすると 《助からない》ことが 善ではなく負の善であり 一般に悪とよばれることだと捉えます。とにかく《良くない》ことでしょう。  5. このように捉えた悪は それとして善が存在するのと同じように 存在しますか?  6. 回答は ふたつに分かれると思います。   6-1. この趣旨説明での悪の規定にしたがって それが善と同じように存在する・または存在しないとして見解を述べる場合が ひとつ。     6-2. もうひとつは いやいや そのような悪の定義では 話が成らない。ゆえに これこれの定義を提示します。それによると 悪も存在すると見るか または 別の定義によっても 悪は存在しないと見るか。として見解を述べる場合です。  どうでしょう。  

  • この世に 悪は 存在しない。

     ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。  この問いを あらためて問います。    たたき台を あらためてさらにおぎないます。    ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。  ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。  ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。   

  • 悪は存在しない。善の欠け=悪 と呼ぶ現象のみだ。

     たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。ウソ・イツハリのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 動悸を速め 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎない。という考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことをも 悪と呼ぶ。     5. 悪は 存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。

  • 悪に片向くことは 煮詰めて言えば 愛である。

     この詭弁におつきあいください。そして その当否について吟味・検証しつつ ご教授ください。        *  ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?  なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?  その心の片向きは 弱さから来るのか?  思うようにならないことにやけを起こすことからか?  ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?  けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。  おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起きる。  やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。  はっきり言えば おのれの死〔への道行き〕を意志がえらぶ。  けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。  愛である。  社会に生きるというその存在の互いの関係性にもとづく愛である。  おそらく生きることを欲するゆえに 生きることとしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見なかったことにはできない。という愛 からである。  世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。  なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。  愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして そういう生き方をわたしたちはえらんでいる。    知らなかったけれども 《わたし》はそれを欲したようなのである。悪を引き受けるという選択を。        *  《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在であるから 死を死ぬというさだめにある――性質がある。  この《うまれて来て 生きて やがて寿命をまっとうして死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はない。  それは 言うなれば善であると思われる。  その善なる基礎としての自然本性・そしてそのうちの自由意志には この朽ちるウゴキをみづからが早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。  これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えた。  さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという〔言ってみればコジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキがある。のか?  悪に同調することと悪を引き受けることと。    考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。       *  《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。  愛は すでに理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラであるらしい。  《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》  悪につき合う悪。  それは 死のほうへ寄って行くようなことだが  しかも愛だ。        *  愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。

  • 究極の悪とは――存在について――

     《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。  ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。  ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。  悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。  ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。  つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。  さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。  これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。  言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。  ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。  ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。  これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。  果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。  * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。

  • 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。

     次の二つの理由で あらためて問います。  新しい回答者から別解が得られるかも知れない。そして 究極の悪という現象に関して まだうまく捉え切れていない。  たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。     かつての質問は つぎです。  【Q:究極の悪とは――存在について――】   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4708484.html  【Q:悪は 存在しない】   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html

  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 善と悪について

    例えば、アンパンマンを善、ばいきんまんを悪とした場合、この仮定は 本当に成り立つと思いますか?ばいきんまんは、自分の利益のために人に悪いことをしますが、アンパンマンは人を守って、ばいきんまんを退治してくれます。しかし、これには落とし穴があると思うのです。アンパンマンは、アンパンチすなわちパンチをすることでばいきんまんを吹き飛ばして退治してしまうのです。つまり、ばいきんまんはアンパンマンに暴力を振るわれるのです。この場合の暴力は善として見ていいのですか?また、少し前にイラク戦争がありましたが、この場合、戦争をしかけたブッシュが善、戦争されたフセインが悪としていいでしょうか? 大量破壊兵器は見つかりませんでしたが。アンパンマンでもブッシュさんでもいいので、悪と善の関係について教えていただければ幸いです。