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悪との向き合い方

世の中、良いこと・善いことばかりだったらいいですが、それって理想ですよね。 自分の周辺にもいますが、存在が悪という人(思考様式が悪)がいます。 そういう人の存在も世の中の一部ですよね。 当然、自分にも悪は存在するでしょうし。 私は悪い部分を否定し、善を目指しました。ある意味理想郷にいて、悟りをひらいてます。しかし悪い部分もあるはずで否定じゃなくて受容してみたいのですが。 悪い人をどういった目でみればいいのでしょう。 また自分の悪い部分をどう認識すればいいのでしょうか。 悪との向き合い方がわかりません。 そして統合すればいいのでしょうか。

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  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.14

善人から良いものを悪人が取ったなら、悪人がそれを持っているはずです。 そうなると悪人も善人らしく更新されていることでしょう。 「悪」の定義ですが、自由意志により善より先立って被害者意識を持っていることです。 なので善人の存在が悪の前提となり、回避するより報復措置が対応策の結果となります。 ここで両者の善悪の繋がりは終わりです。 善人は自分に罪がなくとも 罰を受けることで善悪を自動的にチャラにしてもらえたことなので 罪を認識することで与え前提を変えることができます。善人は許されるでしょう。 与えること=許すと同義です。

noname#209756
質問者

お礼

悪の定義が被害者の主観によって感じられる。 悪を判断するのは何よりも被害者。 自分ももし被害があれば判断に自信持ちたいと思います。 それって大事な感覚だと思います。だれも思いつきません。 ご回答ありがとうございます。

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その他の回答 (13)

回答No.3

善悪が人々の中で共通しているという考えのようなので、 物事を善悪ではなく自分の正義に反するか否かで考えれば良いんではないでしょうか。 あなたの正義はあなたのもので、誰の正義とも法律とも同じではありません。 誰かの意見や法律に影響されることはあっても、あなたの正義はあなたの正義です。 あなたの正義の中にはあなたにとっての善と悪どちらもあり、それは誰かの正義の中にも同様です。 自分の正義を作りましょう、決断しましょう。 その後、自分の正義を更新する勇気も持ちましょう。

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回答No.2

善悪の定義があやふやな、まるで思春期の子どものような文章です。 昨今、ポルノ規制がどうとかと言うバカ親と同じ臭いがします。あれは善悪ではなくて、 自分自身が受容できないからヒステリーを起こしているに過ぎません。 自分と異なる質の者と対面してもそれなりにやっていけるかどうかは人生経験の 問題です。多種多様な者と接していきましょう。善悪二元論だけで語れるものでない ことが分かります。質問者に不足しているのは人生経験そのものです。

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  • k_mutou
  • ベストアンサー率12% (101/783)
回答No.1

“他者の【悪】の部分”を見て《拒絶感》《拒否感》《否定的》な感覚があるなら、その“他者の【悪】の部分”が質問者さんの中にも[限りなく小さくなっていたとしても存在する同じ性質]なのだと思います。 悲惨な事件の原因になった《心的要因》は見たり聞いたりしたら《拒否感》というか《拒絶感》というか《否定的》な気持ちになりますが、“同じような事をやってしまう自分”というの存在がいるからそのような【感情】がわくのだと思います。 認識するには、【他者の悪】と質問者さんが判断した事を他者ではなく質問者本人が誰かにやっている、誰かに思っていると想像してみるしかないかと。

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  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

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    例えば、アンパンマンを善、ばいきんまんを悪とした場合、この仮定は 本当に成り立つと思いますか?ばいきんまんは、自分の利益のために人に悪いことをしますが、アンパンマンは人を守って、ばいきんまんを退治してくれます。しかし、これには落とし穴があると思うのです。アンパンマンは、アンパンチすなわちパンチをすることでばいきんまんを吹き飛ばして退治してしまうのです。つまり、ばいきんまんはアンパンマンに暴力を振るわれるのです。この場合の暴力は善として見ていいのですか?また、少し前にイラク戦争がありましたが、この場合、戦争をしかけたブッシュが善、戦争されたフセインが悪としていいでしょうか? 大量破壊兵器は見つかりませんでしたが。アンパンマンでもブッシュさんでもいいので、悪と善の関係について教えていただければ幸いです。