• ベストアンサー

老子 無為之治

現代仮名遣いがわからないので教えて下さい。 老子の「無為之治」の最初の部分です。 「賢を尚ばざれば、民をして争わざらしむ。 得難き貨を貴ばざれば、民をして盗為らざらしむ。」 教科書には「尚(たふと)ばざれば」「貴(たふと)ばざれば」 とかながふってありました。 これは、現代仮名遣いでよめば「とうとばざれば」でいいんですよね? ネットで調べてみたら、「たっとぶ」とかながふってあるのがありました。 どっちが正解ですか?

noname#153265
noname#153265

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

「尚(たふと)ばざれば」「貴(たふと)ばざれば」と仮名が振ってあり、それを見ながら声を出して読むのなら、「とうとばざれば」になるでしょう。 振り仮名がなければどちらで読んでも構いません。 たっと・ぶ【尊ぶ・貴ぶ】 〔他五〕 (タフトブの音便)(→)「とうとぶ」に同じ。 ――『広辞苑』

noname#153265
質問者

お礼

ありがとうございます。

関連するQ&A

  • 歴史的仮名遣いを現代仮名遣いにするときに

    現代仮名遣いについて 中学生の国語の問題集からです。 歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに書きかえる問題なのですが、 「昔、恵心僧都、一日、庭前に草を食する鹿を、人をして 打ち追はしむ。」 の「打ち追はしむ」の部分は、「うちおわしむ」が正解になっております。 この場合、「うちおわしん」は不正解になるのでしょうか。 お願いします。

  • 老子:37章 道は常に無為にして⇒《非知》か

     ▼ ちょんまげ英語日誌:老子 第三十七章   道は常に無為にして、而も為さざるは無し   http://blog.mage8.com/roushi-37    ▽ 原文 ~~~~~~~~~~~~~~  (あ) 道常無爲、而無不爲。  (い) 侯王若能守之、萬物將自化。  (う) 化而欲作、吾將鎭之以無名之樸。  (え) 無名之樸、夫亦將無欲。  (お) 不欲以靜、天下將自定。  ▽ 書き下し文 ~~~~~~~~~~~  (あ) 道は常に無為にして、而(しか)も為さざるは無し。  (い) 侯王(こうおう)若(も)し能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自ら化せんとす。  (う) 化して作(おこ)らんと欲すれば、われ将にこれを鎮むるに無名の樸(ぼく)を以(も)ってせんとす。  (え) 無名の樸は、それまた将に無欲ならんとす。  (お) 欲あらずして以って静かなれば、天下将に自ら定まらんとす。  ▽ 英訳文 ~~~~~~~~~~~~~~~  (あ) “The way” never does anything voluntary, but it can accomplish everything.  (い) If a monarch follows “the way”, all things grow up spontaneously.  (う) If there are some trying to forestall others, I calm them with the spirit of a nameless raw wood.  (え) If people have the spirit of a nameless raw wood, they will renounce excessive desire.  (お) If people do not have excessive desire and their minds are calm, the world will be stable.  ▽ 現代語訳 ~~~~~~~~~~~~  (あ) 「道」は自分からとくに何かをする訳では無いが、「道」によって成し遂げられない事は無い。  (い) 人の上に立つ君主がこの事を弁えていれば、全てのものが自分から成長しようとするだろう。  (う) 成長する過程で自分だけ飛びぬけようとするものがあれば、私は名も無い切り出したばかりの丸太の様な素朴さをもってその心を鎮めよう。  (え) 丸太の様な素朴な心であれば、無駄な欲望を持つ事も無い。  (お) 皆が無駄な欲望を捨て去り、心が静かであれば、世の中は自然と安定するだろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  特に次のくだりの意味をおしえてください。  ▽ (あ) 道常無爲、而無不爲。  ☆ 《無為》であるが 《不為は無い》?  試訳:《非知⇒非在》なるナゾであるが 《不在は無い》。つまり 《遍在》する。  《為す》という概念を用いているので なかなかピッタリとは解釈しにくい。創造神でもないものを。  (い) 侯王(こうおう)若(も)し能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自ら化せんとす。  ☆ これ以下は よく分からない。つまり 《無為》と言っていたものがただちに《守る》という概念で捉えられている。人間が守るという捉え方である。分からんわい。  ・・・・

  • 古文の文中の「む」を「ん」と変更する条件について。

    お世話になります。 現在、古文の勉強をしておりまして、 歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに変更する部分で疑問が生じました。 疑問は、中学校の教科書にもある、 竹取物語の これやわが求むる山ならむ(ん)と思ひて、 についてです。 この際に、 山ならむ の 「む」 は 推量の助動詞、 む です。 歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに直す場合は、 文語の助動詞の 「む」 「らむ」 「けむ」 「むず」 については、 「む」 を 「ん」 に置き換えるのは理解しています。 その前の 求「む」る の 「む」 については、 何故、そのまま 現代語訳を行っても 「む」 の表記なのでしょうか? また、助動詞以外には 「む」 を そのままにしておくと、仮定した場合すると その場合ですと、「やむごとなし」 が  現代仮名遣いで「やんごとなし」 になるなど、矛盾してしまいました。 このように、 古文の 歴史的仮名遣い「む」 を  現代仮名遣い「ん」 に 変更する場合の条件を 理論的にご存知の方がおられましたら、ご教授くださいませ。 お願い致します。

  • 歴史的仮名づかい

    子供の教科書に「男女」に(をとこをむな)と書かれていました。 現代かなづかいにすると「おとこおんな」になると思うのですが、参考書の説明に「む」が「ん」になるという説明がありません。 「おとこおむな」だと、おかしいですよね。 子供は、気にしていないのですが、わたしと主人が気になり始め、仕方ありません。 正しい現代かなづかいはどちらでしょうか? また、古典の辞典を調べれば、書いてありますか? もし、そうなら本屋に走ります。 語尾において「む」が「ん」になるということは、いろいろを調べた結果、理解したのですが、これは語尾ではありません。 「など」の部分に含まれるのでしょうか? 分かる部分だけでも結構です。 教えてください。 よろしくお願いいたします。

  • 泉鏡花など、古い文学作品が読めるようになりたい

    ネットで調べたり、高校の時の教科書などを読み返して「文語体」「歴史的仮名遣い」「旧仮名遣い」などの言葉は分かったのですが、古文とも違う、現代小説とも違う文章が、すぐに頭の中で想像できません。 ガイドブックや読み方アドバイスのような本・サイトってありますか?

  • 古典です。「煙」の現代仮名遣いについて!

    古文で、「煙」を“現代仮名遣いで”ひらがなで表す場合、「けむり」「けぶり」どちらでしょうか? 教科書では、「けぶり」と振り仮名がふってありますが・・・。

  • 老子:第七九章 《天道は親無く》は阿呆の思想か?

     《天はえこひいきしない》という意味だそうですが 果たして何を言っているのでしょう?  ▼ (龍青三 オフィシャルサイト::老子:第七十九章任契)  http://ryuseizan.tsuvasa.com/845  ▽ 白文 / 読み下し文 ------------------------  和大怨。必有餘怨。   大怨を和するも、必ず余怨有り。  安可以爲善。       安んぞ以て善と為すべけんや。  是以聖人。執左契。   是を以て聖人は、左契を執りて  而不責於人。        人に責めず。  有徳司契。        徳有る者は契を司り、  無徳司徹。        徳無き者は徹を司る。  天道無親。常與善人。 天道は親無く、常に善人に与す。  ▽ 現代語訳   --------------------------------  深く結ばれた怨みをいくら和解させても、  必ずそのあとにしこりが残る。  それでは本当に善処したとはいえず、  はじめから怨みを結ばぬことこそ肝心だ。  だから無為の聖人は、  割符の左半分だけを握って、  他人にせっかりな督促をしない。  諺にもいうように、  徳の有る者は手形で決済し、  徳の無い者は現物で取り立てる、のだ。  天の理法にえこひいきはなく、  長い目で見れば、いつも善人に味方している。    ※朝日選書:老子(福永光司)より引用  ---------------------------------------  (あ) 《しこりが残る》ことと《怨みの痕跡として――じつは和解が成って けれども――痣やシミソバカスが残る》こと これらは互いに 別であるはずだ。  後者は 理解できるが 前者は 言い切った命題としては みとめたくない。  (い) 《はじめから怨みを結ばぬことこそ肝心だ。》――理由を述べるまでもなく こんな阿呆な議論はない。怨みを買ったところ(あるいは 怨みを持ったとき)から問題は始まる。  例の国民でさえ《千年経てば 和解出来る》と言っているではないか。  (う) ▽ ~~~~~~~~~~  だから無為の聖人は、  割符の左半分だけを握って、  他人にせっかり(せっかち)な督促をしない。  ~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 督促をしないのなら それでよいと思われるけれど・そしてその判断と行為とは 初めにおける《深い怨みは 和解させ切ることは出来ない》という命題に合っているけれど それでよいのか? そういう答えしかないのだろうか?  (え) ▽ ~~~~~~~~~~~~  天の理法にえこひいきはなく、  長い目で見れば、いつも善人に味方している。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ こんな予定調和のごとき命題で 果たして有効な思想でありうるか?  (お) (え)につづいてですが これを裏返せば 《天もえこひいきをしているのではないかと疑わせるような出来事が世の中には多い》と確かに言っているはずである。その疑いについて出した答えとしては あまりにも安易である。せいぜい気休めになるくらいであって ほかに意味はない。と言わねばならない。  (か) 老子とは――この一章を見ると――いかに阿呆な思想であるかと感じたのですが 果たしてどうなっていましょうか?

  • こんにちは 私の高校のレポートから質問です 「次の旧仮名遣いの部分を現

    こんにちは 私の高校のレポートから質問です 「次の旧仮名遣いの部分を現代仮名遣いに直して書きなさい。」 1、惑ひにけり 2、しのぶもぢずり 3、たれゆゑに 4、心ばへなり 回答お願いします!

  • 中学の歴史的仮名遣いに関する問題について

    現代仮名遣いに直せという問題で、 1.食らふ ( くらう ) 2.候ふ  ( そうろう ) と、解答には()のようにあります。  _ auはoと読むと解説にあり、   _ _                    _ 候ふ(さうらふ): saurafu は soro(fは無視するとあるのでafuはo)というのは納得できるのですが、                      _ 食らふ(くらふ): kurafu は、kuro となり、「くろう」が 正解なのではないかと思うのですが、「くらう」が正解とあり、 どう違うのか分からず悩んでいます。 どなたか分かりやすく説明していただけませんか?

  • 本が現代の仮名遣いになったのはいつからでしょうか?

    数学の絶版本をネットで注文したのですが、ページを開いたら昔の歴史的仮名遣いの本でとてもがっかりしました。(昭和12年と21年) もうこんな後悔はしたくないので、 何年ぐらいの本から現代の仮名遣いになったのか知りたいです。 どなたかご存知の方がいましたら教えてください。 よろしくお願いします。