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美しいものを美しいということに意味はあるのか?
amaguappaの回答
- amaguappa
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美しいと思うモノを美しいと言うコトは、個人の経験に根差します。 しかし、個人とは閉じた系に存在する様式や形式の容器ではありません。 個人の経験する世界には、milieuによる力学とmondeによる力学があります。 milieuの因子を探ることは、社会の分析を要求し、 mondeの因子を探ることは、自己の分析を要求します。 言説に分け入って、その思索の道筋、判断の由来、表現の溢出を意味付けるということは、 その言説が属する社会の波長と、その発話の駆動力とのあいだに、 平均的な結びつきがどのようにあるかを見出すと同時に、特殊な結びつきもまた見出すことであり、 そのように特殊な結びつきをパーソナリティと分かちがたくしている個人を、篩にかける手段となりえます。 > 誰にでも出来る のは精神神経科にかかわるケースを除いてといわざるを得ませんが、 周知のように、人間は、美しいと思うことができなくなる場合もあれば、思うモノを言えなくなるコトもあります。 「誰にでも出来る」ように思われるその事がどれだけの機序に負うて成り立っているか、ここでいう力学のもとにどんな方向を付けられているのかを知ろうとすることは、 ethiqueの範疇にあるあらゆる分野を貫く基本的姿勢であると思います。また、 >凡庸 なのはほんとうに、「美しいものを美しいと言うことが誰にでも出来るからこそ」でしょうか。 上述のような、言説を作り上げる内部構造の結びつきから来る印象ではないでしょうか。 たとえばそれは、西洋美術でいえば、シュルレアリストたちが意外性を求めて痙攣的と称し、 あるいはモダニズムが、内容を逃れて享楽的に表層性を評価し、 さらにポストモダニズムが、アイコンやコンセプトを再検討することで、 揺さぶりかけようとしてきたところの凡庸さなのではないでしょうか。 そうでなければ、 東洋的な沈黙において、 美しいものを美しいと言わずに空気を張り巡らせるような言説の操作があることを、 kusa-muraさんは思い浮かべたのでしょうか。 そうだとすれば、たしかに西アジアから東アジアにいたる非西欧文化に認められるヴェールをかぶせた美意識は、漢詩と俳句において一層研ぎ澄まされていると思いますが、 粒子の波動のように繋がった観者と自然の心の僅かな一致を知覚するという意味で、たいへん官能的であり人間の極致に触れているとわたしは思います。
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