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キリスト教の「愛」と「天国」について
クリスチャンにとって死後天国へ行くことはどの程度重要なのでしょうか? もし天国へ行くこと、神の近くで永遠に暮らすことが最終目的であり信仰の理由の全てなら 「愛」を謳うキリスト教の教義とは逆にすごく自己中心的な気がしてしまいます。 敬虔なクリスチャンが周囲に無償の愛の振舞いをするのは、 あくまで天国へいくための手段であり、教義がそうなっているから、という理由だけなのでしょうか?
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わたしもキリスト教文化圏に同和しているヒンドゥの哲理団体にいます。 死後にせよ生前にしろ、いわゆる「愛」というものを自身完全にいっしょになることが「天国」だというのではないでしょうか。 「愛」とか「天国」とかいうのは、どうも私たち日本人にはわかりにくいですね。 そして自己性とか個人性というのも、どうもかのキリスト教文化圏の方々のこだわりは私たちには伝わり難いですね。 そしてあっちの文化圏の人って、なにかと自己とか個人性、そして根拠性とかどうしてどうしてが付き纏いますね。 だから質問者さんが言うように【「愛」を謳うキリスト教の教義とは逆にすごく自己中心的な気がしてしまいます】。 【敬虔なクリスチャン】として【無償の愛の振舞い】ができることは、自己性をきちんともっていても、自己中心ではないということなのでしょうね。 それは代償や報果としておこなうのではなく、それをこえた存在。そういう自己性だということでしょうね。 そういうことのために【無償の愛の振舞い】を説くのは、単に自分が天国というなんか安楽なところにいくということではなく、自分への任務として真理を求めるということではないでしょうか? 人生を生きるって、何だっていう。 そこらは実際の生活で日々実践すると疑問も混乱も消滅するけど、理屈で考えていると判りませんね。
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- kigurumi
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>クリスチャンにとって死後天国へ行くことはどの程度重要なのでしょうか? これはわからないです。 例えば100歳で死んだとしますよね。 イエスが再来したとき、死んだ人も墓からよみがえさせられ、永遠にイエスと暮らせるとされている。 で、基本キリスト教は土葬だそうですから、死んでもしも死体が腐敗しなかったとして、100歳のままずっと墓の中で死んでいて、イエスが来て墓から蘇らせ永遠の命を与えられたとき、100歳の姿ですよね。 >もし天国へ行くこと、神の近くで永遠に暮らすことが最終目的であり信仰の理由の全てなら >「愛」を謳うキリスト教の教義とは逆にすごく自己中心的な気がしてしまいます。 >敬虔なクリスチャンが周囲に無償の愛の振舞いをするのは、 >あくまで天国へいくための手段であり、教義がそうなっているから、という理由だけなのでしょうか? プラトンは、極悪人とは、悪事を働いておきながら、誰にもそれがバレとおらず、良い評判を得ている人だと考えた。 その人が良い人だという評判および評判に伴う利益狙いで、良い行いとされるものをやっているのか、そういう利益狙いではなく本質が良い人だから良い振る舞いをしているだけなのか、どっちなのかどうやってわかるかって考えたんです。 どっちか知るには、その人に与えられた良い評判の一切を剥ぎ取り(紫の衣を剥ぎ取り)、罪が無いのに罪人だとし、十字刑に処して鞭打って槍でついてもなお、義人のふるまい(神よ どうかこのものたちを罰しないでください、彼らは自分が何をしているのか理解していないんですから) をしたなら、その人は良い評判やそれに伴う利益目的で、良い行いとされるものをやっているのではなく、本質そのものが良い人だからやっているとわかる。 って。 これくらいしないと 見掛けのふるまいや評判だけじゃ その人が義人なのかどうかはわかりっこないってことを言ったわけです。 紀元前400年頃に。 その義人の証明はなるほどと思うが、なんか どっかでその内容を見た気が、、、、 紀元前400年くらいの人が国家って書物に書いた内容を、後世の人がパクって実在したかのように人々を騙してきたとなると、、、、 いやいや きっとプラトンはおじさんがエジプト通だったから、エジプトの神話をもとに、その理論を作ったのだと思う。 だってホルス神話って何から何までイエスの人生そっくりだから。 少なくとも紀元前3000年頃には既にあった話なので、、、 「なんだ イエス話はエジプト神話のパクリで、実在しなかったのか」とほっとする人が結構いるかもと思った。
お礼
御回答ありがとうございます。 たしかに私もキリスト教において土葬が重要視されている理由についてはよく理解できないところがあります(尤も最近は火葬も増えてきているようですが)。決して死んだときの姿のまま復活するのではなく、あくまで魂の入れ物なのだと考えても、なぜ肉体を伴っている必要があるのか。天国で暮らすのも、地獄で苦しむのにも肉体が必要なのか。そもそも天国とは超自然的なものではなく、物質的な肉体が必要な場所なのか、不思議ですね。 キリスト教神学へのプラトン哲学(というよりネオプラトニズムですが)の影響は、特に古代においては顕著だったと本で読んだことがあります。 またイエスの物語はエジプト神話だけでなく、その他その時代に存在していた様々な宗教説話や伝説からの借用であるという説はあるようですね。非常に興味深いです。
- ShowMeHow
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本題とはずれた話だけど、 自分の子供が危険な状況にあったら、自らの命をかえりみず助けるというのは生物学的に自分の遺伝子を残すために大切なことで、本能的に行ってしまうものである。 これは、他の動物にも見られる行動である。 また、集団で子供を守るという行動を本能的に行う動物もいる。 このような行為を、人間は愛と呼ぶことがある。 一見、自分の利益より、他人の利益につながるとも思える本能的な衝動による行動のことである。 人間は他の動物と比べると、将来に対する予測や心配の度合いが極端に大きいといえるのではないかと思う。 この予測や期待、心配が、本能以外の価値観というものを作り、他の動物には見られない、自己犠牲の衝動や行動を引き起こすのではないかと個人的には思っている。 キリスト教に限らず、宗教や道徳の考え方が、この行動や衝動の原因になる価値観を形成することに、大きく関わる場合がある。 自己犠牲については、人間が個人的な価値観からそれをせざるを得なくなる状況というものが存在すると思う。 たとえそれが本人の利己主義的な行動であるといっても、価値がないとか言うことはできない。 価値を判断するのはあくまでも固有の価値観をもった、個体であるわけだから。 それが、多くの人間の共感を呼ぶ場合、その価値観は尊ばれ、共有され、場合によってはそれが宗教となっていくこともあるかもしれない。
お礼
ご回答ありがとうございます。 人間的な愛や道徳心はなくとも本能的にわが子を守ったり、自らの命よりも種や群れ全体のこと優先する行動をとる生物はいますよね。 最近は進化心理学という学問分野において、人間の道徳心や宗教心の起源や発達の過程を進化論的に説明しようとする試みがなされてますが、もしかしたら今後、人間には宗教を生み出す本能(そんなタイトルの本がありましたが)のようなものがあることが判明するかもしれませんね。
- angel25gt
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クリスちゃんだけではなくカトリックにおいても同様の教義によって、無償の愛が義務づけられています。両者ともとても温和で、そのたぐいの教義にはとても従順なのですが、両者が出会うと途端に凶暴になり、ののしり合いが始まります。理性を失うと天国などどうでもよくなるみたいです。その程度に重要なことです。
お礼
御回答ありがとうございます。 たしかに僕の知ってるクリスチャンの方々、またキリスト教系の新宗教の方々も基本的には非常に温和なのですが、他の宗派や宗教の話になるとののしり合いとまではいかないにしても自らの信仰の優越性のようなものを主張する傾向は少なからずあるように思います。 特にアメリカの神学校で学ぶ知人が言った「イスラム教の教義は薄い」という発言にはすごく驚きました。 ただそれも人間の不完全性故のことだと考え、後々彼らが「愛」に忠実になることを願いたいですね。
- cincinnati
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聖書によりますと「愛」とは以下のようなものです。 「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」<新約聖書 コリント人への手紙 第一 13章4節~8節> また聖書によりますと天国とは以下のようなものです。 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイの福音書13:44~46) 6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 「神の国は見られる形で来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などともいえない。神の国は実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(ルカの福音書17:20-21) 人は何を行っても、ほとんどの場合自己中心な思いで何事かをしておりますので、おっしゃる通り聖書と矛盾するような生活をしている場合がほとんどと思います。それゆえにそのような罪は赦される必要があったと思います。私はプロテスタントのクリスチャンですが、罪びとのまま天国を保証していただきました。 「あなたがたが救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなた がた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるものではない。 それは、だれも誇ることがないためなのである。」(エペソ2章8-9節)
お礼
御回答ありがとうございます。 私も聖書は持っているのですが、どこを読めば自分が知りたいことが書かれているのかわからないことが多いので、聖書からの引用は非常にありがたいです。 たしかに人間である以上、罪と無関係なまま生きていくことはできないので、その中でいかに悔い改めていくかが重要なのでしょうね。 天国に関する記述は私には些か抽象的で簡単には理解できませんが、参考になりました。
- ShowMeHow
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>自らの財産や生命をなげうってまで「愛」を行います。 これはたぶん、そうしないことによって自分が後悔するからせざるを得ないんだよね。 きっと。 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9840120719 この本にそんなことが書いてあったかな。 穿った見方(誤用な意味合いでの)かもしれないけど。
お礼
後悔するのはクリスチャンとしてなのでしょうか。 それとも人間としてなのでしょうか・・・? 本のご紹介ありがとうございます! Amazonで本の内容やレビューを見てみると、随分と悲観的なことが書かれている本のようですね(笑) でも興味があるので近々読んでみたいと思います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 死後だとか天国地獄だとかは 方便で言っているだけです。現実があるのみです。 キリスト者は 肉を欲情や欲望もろとも 十字架につけてしまったのです。 それでも むろん自己はあります。その自己の判断にもとづき考え行動します。 食べて行くということは 有限の選択肢から一つひとつをえらばなければなりません。それは 社会という人びとの行為関係が錯綜し構造をも築いているその流れの中で かなりの程度において必然性に影響されます。おのれの自由意志はみづからの元に確保していますが どれだけその意志にもとづいて選択することが出来るかは 個人にとってまことに心もとない話であり現実です。 ですから この現実の世の中に生きているという条件において キリスト者であっても それほどにほかの人たちと変わりはありません。 問題は ★☆(回答者として編集しました) 最終目的が どうのこうのであったり 信仰者に成ったならばその教義からして あれそれのことをしなければならなかったりすることは いっさいありません。 ☆ 強いて言えば なんぢの隣り人を愛せよ これのみです。愛し方は 決まっていません。たとえば自分のことを思う前に一秒だけ相手のことを思え こういったかたちであり得ます。 それだけのことです。 キリスト者に ★ 敬虔な ☆ もへったくれもありません。最初の定義のみです。 ★ 無償の愛の振る舞い ☆ はあくまで結果です。しかも人間は努力しますが 最後まで努力しつづけますが その務めが果たして花を咲かせるかどうかは 神のみちびきによります。人間わざではありません。結果として人間がおこなったその軌跡じたいはあるのだし 残るでしょうが。 ★ 自己中心的 ☆ でない人はいませんよ。ですから上の例で行けば 《無償の愛をおこなう》ように人間の考えと能力とで努めたとしましょう。そのように人間の力によるのならば その人が考えるところの《愛》なのであり それはその人の《自己中心的な判断》によるものです。 いかに人びとによろこばれたとしても それは その人の自己中心的な判断であり行為でありその愛です。 言いかえると キリスト者というのは 人間には 最終的なかたちにおいては 何も出来ないと知っている人だとも言い得ます。 でも時として――時として―― 人びとのこころをやわらがしめる人間のおこないというものも現われるかも分かりません。この今の現実における身と心との復活が 成就されることが起きるかも分かりません。のぞみがないわけではありません。 死後はどうでもよろしいと考えます。 * なおキリスト教というのは ただそのオシエのことを言っています。道徳やら倫理規範やらとしてなら どうでもよいものです。
お礼
詳しい御回答ありがとうございます。 (決して悪い意味ではなく)読んでいると神学の講義を受けているような気分になりました(笑) たしかにどんな善意も、そして自己犠牲ですらあくまでそれを行う不完全な人間の主観によるものなので、それが必ずしもいい結果になるとは限らないことを考えると、単なる結果であって、また第三者の評価でしかないですよね…。 それによって天国行きか地獄行きか決まるなんて考えると(語弊があるかもしれませんが)おかしな話だと思います。 そう考えるとイエスキリストと同化した本来的な意味でのキリスト者には死後の平安や天国地獄というものは全く重要ではない、ということなのでしょうね。
- ShowMeHow
- ベストアンサー率28% (1424/5027)
私は、「自分が幸福になるためには、周りの人が自分のことを愛してくれたらよい。 みんなが幸福になるためには、すべての人が他人を愛すればよい。 自分ができることからはじめよう。」 が、キリスト教の真髄だと思っている。 自分が幸福になるという目的は利己主義なものかもしれないけど、人間のすべての行動の元にあるものは利己主義なものだと思う。 それが、どの程度正しいものであるかは、社会に対してどのような結果を生むかによって社会が判断すべきじゃないかな。 天国云々は、全く関係ないかな。 キリスト教的に言うと、人間の考える正義なんてどれも50歩100歩、正しいもんなんかありゃしないってことだったかな。
お礼
さっそくの御回答ありがとうございます。 仰る通り人間は、というか生物は概ね利己主義的なものだと私も思いますし、 ShowMeHowさんの考えは、私にはそれがキリスト教の真髄かどうかはわかりませんが、 素晴らしく、また正しい考えだと思います。 ただ一部の敬虔なキリスト教徒は自らの財産や生命をなげうってまで「愛」を行います。 それは互恵的な行動ではなく、まさしく一方的な無償の愛だと思います。 でもそういった自己犠牲は別にキリスト教徒に限ったことではないので、半ば人間の本能であって やはり天国云々は一部の信者を惹きつけるための方便にすぎない…? ならばキリスト教の愛とは単に人間が本来持っている道徳心を文章化、教義化したもの…? 自分で質問しておきながらよくわかんなくなってきました(笑)
お礼
ご回答ありがとうございます。 たしかにキリスト教文化圏の文化や習慣には馴染めても、その精神性までは容易には理解できないですね(笑) krya1998さんの仰る「それは代償や報果としておこなうのではなく、それをこえた存在」というのは、やはり神だということを考えると、No.4のcincinnatiさんの聖書からの引用である「それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」ということばの意味がよくわかるような気がします。 他人から受けた愛だけでなく、自分の内から出た他人に対する愛でさえ神からの賜物であるわけですから、神の偉大さと同時に親しみさえ感じてしまいます。 もし普段生活していく上でそのように身近に神の愛を感じることができたならば、クリスチャンにとっては大きな喜びだと思いますし、それと天国へ行くこととは無関係なのかもしれません。 なんだかkrya1998さんの回答を呼んで考えているうちに一人で勝手に感動してしまいました(笑) どうもありがとうございました!