• 締切済み

差別の心

1)差別をしない人間はいると思われますか? 2)「差別をしてない」、といった時点ですでに「差別をしている人に対して差別をしている」という矛盾についてどう思われますか?(もしこれが矛盾であると思われるなら、という前提がありますが) 3)今の社会の風潮として、 イ)差別はしない方がよい というものがあると私は感じるのですが、 ロ)差別しない人なんていない という事を認めた方がよい社会になりえると思われますか?

みんなの回答

  • yuika111
  • ベストアンサー率36% (9/25)
回答No.12

分かりやすく説明できてるか不安ですが・・・↓↓↓ 様々なハンディを持つ人々が、健常な人々と何か同じように行動する時にそのハンディが負荷となる場合、公平を保てるように援助することが、平等だとした場合に、ハンディを持つ人に対してその援助を行わず、まったく同じような扱いをすることが、差別だというように、民法の先生から教えられました。 もともと法律用語らしく、海外における差別の考え方はこういう視点からの判断で、日本に輸入され、差別という言葉が使用された際にネガティブな感覚と共に、広まったと大学の教授(民法の先生)がおっしゃっておられました。ご参考までに。

  • longname
  • ベストアンサー率28% (18/64)
回答No.11

1)自分と違う価値観や属性の人を受付けなかったり、不快に思う感情や感覚を持たない人はいないと思います。 そういう心の動きを客観視して、不快に感じたり苦手な人に対しても分け隔てなく接することが出来る、接しようと心がけている人はいます。 2)「差別」は制度や行動に現れるものだと思うので、差別をしてないと主張することそのものに矛盾は感じません。 3)「いじめ」はなくならないと思っています。「差別」はなくせます。なくさないといけない。 前述の通り「差別」は制度や行動にあらわれるものを差すと思います。「○○地区のものには売らない」「○○人とは付き合わない」「女性は仕事が出来ない」その人の適正やポテンシャルではなく、慣習や通念で判断してしまう事や、それを許す制度はなくせます。 逆に今後は通念や慣習による「差別」で物事を判断する人は、自分自身が不利益をこうむるのではないか? 賞罰ではなく、機会や可能性を失うという意味で。 感情的な違和感や、不快感というのは根強く残ると思います。というか消せない。人間は社会生活を営む動物であり、いろんなフェイズでグループを形成する。家族・友達・村(居住地域)・国(人種)...。誰かとグループを形成するということは、「グループに属さない人」という属性のグループができる。極端に言えば誰かと仲間になるということは誰かを敵にするということではないでしょうか。 だから感情的な側面が強い「いじめ」はなくならないと思います。「いじめによる不幸な事件」はなくさないといけない。 その点に関しては、「いじめ」をなくすのではなく、人間の性質として「いじめ」の存在を認識し、悲劇に発展しないようコントロールする方が大切なのかなと思います。 自殺するほど追い込んだり、集団リンチにより死亡者がでないようにする。 スポーツ選手、タレント、現在活躍する多くの人が子供時代いじめられっこだったと告白しています。いじめられること自体は長い目で見れば必ずしも不幸ではないと思います。「いじめ」る人は悪いとか、「いじめられる」人に問題があるとか、「傍観者」もいじめる側と同じだとか、そのような議論は不毛だと思います。学校、会社などそのコミュニティでどんなグループが形成されているか把握し、陰湿・過激ないじめに発展しないようにコントロールする。「コントロールする」という部分が難しいのかもしれませんが。 まとめると、「差別心」など感情的な部分は消せない、あってしかるべきものだが、制度・行動面で公平さを保つことは出来るはずだ!

noname#6165
noname#6165
回答No.10

もっかいきてしまいましたが、なぜかというと。 ・差別偏見、蔑視、これらの行為を質問とされていることは分かります。 ・商品の差別化、ある企業や売り手が、商品を、あえてコスト高にし、さらにより高値をつけ販売することで、「高級感」なるものを出して商品を売るという、他商品に対する差別化。 より、平均的な、より普通なことを、自然であるとあえて強調し、「無難さ」を他商品に対する差別的地位として商品イメージに植え付け、販売するという差別化。   以上の二つの差別で、後者だけは今も社会的に容認されていますが、原理は、前者(差別蔑視偏見)も後者(「販売戦略」)も共に同じです。 存在する差異(違い)に、実体では無い「価値の上下」を吹聴し、「このような価値(お得)もありますよ」と、提示しているのです。耳を貸すか貸さないかは、聞く方の問題です。 このように、経済社会では、実体の無い価値というものが、「意味を持ちえる」のです。   そして、猫に小判、現代人以外の動物に、そのような価値のための差別化はほとんど通じないでしょう(おそらく)。 なぜなら、 価値と言うものには、直接的な実体が伴わないからです。   例えば、鯛と秋刀魚があって、猫がどちらを選ぶかというと、食いやすいほうを選びます。 僕もそうします。どちらもほしくなければ、タダでもくわないでしょう。足りなければ、両方くいます。   しかし、鯛が高級だからという理由で確かに鯛を選ぶという、「経済判断をするもの」も、存在するでしょう。   差別の無意味さも、ここにあるように思います。 差別には、実体、証拠、そういったものが伴わないのです。 (無差別がよいかというと、無差別殺戮などといって、非道である場合にも使われますし、では差別的殺戮はいたし方ないのかというと、非道であることにはかわりませんが、事実、社会には容認されています。 無差別殺戮を、差別殺戮に対して、差別視しています。 敵は殺してもいたし方ない。と。 でも、敵でない無関係な人は殺すべきではないと。)   しかし、実体を伴わない差別で、敵が生み出されている、ある方にとって敵と見なされている社会実態も、現にあります。 そうなってしまえば、敵存在だと言う想いが敵存在を産み、どんどんお互いに生き難くなるでしょう。 生産性は落ち、危険は増え、全体は貧困になります。   差別と選択は違うと言うことです。 実体が無いという点、証拠、論拠が無いという点で、差別と選択は違うのです。 差別は蒙昧で、本来選択は明白だともいえます。 差別という、実際意味を持たない判断材料が、選択を鈍らすのです。   そんな理由で、差別が選択を左右していては、美味く生きられないであろうと、私は考えます。   差別の混じった、蒙昧で際どい判断が、この世界を困窮に陥らせた、そのような、そうとう大きい原因としての差別も、あるでしょう。   差別など、角度を変えれば立場は逆転するようなものばかりで、視野の狭いものであると言えます。 そんな差別によって生まれた敵は、つまり、明日の同類に、容易に変われます。   差別は、昔の遺物です。 それを行えば行うほど、うまくいかない。 もう人間が生きることにおいて、重要な役には立ちません。資料として標本にするぐらいです。 邪魔をするだけだと、私は思います。 差別は必要なく、 こうだと言う事実、没価値的観測、それだけでよいのです。それを利用し、価値を付加することは無意味さを増大さすようなものです。 分からないという事実、それまでなのです。 選択の信憑性は、それを手段として行う限り、それは妥当性の判断です。 妥当性の判断であるから、その選択は柔軟で軽く、後の変化にも対応しやすいものと考えます。 差別と選択は、分けられるべきと、考えます。 差別を超え、妥当性を超え、平等性を、超えて行けたら、いいんじゃない?と、思いますね。

  • sowow
  • ベストアンサー率20% (18/90)
回答No.9

powerandterrorさん、こんばんわ。 僕の意見もみなさんと同じことですが・・・ 「モノを区別して、その価値を判断し、行動を起こす」ということは「生きること」とほぼ同じ意味だろうとおもいます。 そして、その価値判断によって傷つく人が存在するなら、それは「差別」と呼ばれてしまうでしょう。 「差別はしない方がよい」というのは、ちょっとおバカさんな意見であって、むちゃをゆーなと言いたいです。 「人をむやみに傷つけない」ならいいと思います。 あと「むやみに傷つかない」ことも大切です。 どっちにしても要勉強です。 めんどくさいナー。

powerandterror
質問者

お礼

sowowさん、こんばんは。回答有難うございます。回答を読んでいく中で私が自分なりに感激したのは、「人を傷つけない」という概念に度々触れるができた事です。差別(discrimination)というのはもしかしたらあまり日本的な概念ではないのかもしれませんね。日本人(これにも定義が必要だという事は承知の上ですが、ここでは一般的に使わせていただきます)は差別するとかしないとかよりも、人を傷つけない、和を大事にする、ということに重点を置いているように感じます。聖徳太子の十七条憲法の第一条は「和を以って貴しとなす」で始まりますが和というのは日本人の中に受け継がれてきたとても希有な概念であると同時に、差別の問題を解決するヒントが隠されているような気がしてなりません。日々勉強ですね、sowowさん。お互いがんばりましょう。また機会があれば私の愚問にお答えを頂ければ嬉しいです。

noname#15693
noname#15693
回答No.8

差別と区別のちがいなどはわかりかねますが、人(他人)が見ていて不快にならない生活をするのが一番ですので、みなさん差別の対象にやさしくすることで割り切っていると思います。  話が脱線しましてすみません    1についてですが、世界に自分のみしかいないと信じている人であれば、していないと思います。  しかし、その聖人ともいうべきおかたのみが差別をしないひとであるか、差別をする人がいない場合は差別という言葉自体が成立しません。  ですので、あなたの考えからいくと自己満足にとどまると思います。  2はわかりません  3のイは、同感です。  ロは、多くの日本人が、多数派に流されて差別が一層ひどくなる可能性があります。偽善心でも、意味がないとか毛嫌いするのもすっきりしません。

powerandterror
質問者

お礼

最後の点ですが、私も同意します。「差別をする人はいない」と認める事からどうするか、これが大事なのですよね。みんな差別しているのだから別に差別してもいいではないか、なにが悪い!と開き直ってしまうのも一つの選択。自分も差別をするという人間の一人なのだから、それはそれで割り切って自分にできる限りの事をしようという選択。もう一つはその差別心を超越したいと思う、ということでしょうか。回答者さんの冒頭の部分は日本人の和の精神が出ていてなんだかとても嬉しかったです。自分は海外へ留学中なのですが、他人の事なんて気にしなくてもいい、というような態度をよく見るので、回答者さんのような精神、行動が懐かしい思いです。私も和を大切にして生きていけるようにしたいものです。回答有難うございました。

  • shshshhe
  • ベストアンサー率30% (13/42)
回答No.7

はじめまして。他の方と重複するかもしれませんが、答えさせてくださいませ。もし、的外れなことを言っているのであれば、申し訳ないです。 さて、差別とは何か、皆さんご存知であるかもしれませんが、あえてgooの辞書機能で出てきた一般的な定義を挙げさせていただきます。 一、ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また、その違い。 「いづれを択ぶとも、さしたる―なし/十和田湖(桂月)」 二、偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。 さて、一の場合の差別ですが、差をつけて区別するというのは、「ある人はAをBよりも肯定的に(美しい、または素晴らしい、あるいは道徳的に優れている等と)評価する」あるいは「あるひとはAをBよりも否定的に(醜い、あるいは道徳的に劣っているなどと)評価する」ということですね。  このような差別は、私たちが道徳や美的感覚などの価値観を持っている以上どうしても生じてしまうことだと思います。  ある道徳に従って生きるということは「私は善行を悪行よりも高く評価します」という差別することですから。(ここの所分かりにくくて申し訳ないです。)  生まれたての赤ん坊は道徳などの価値観を持ち合わせてはいません。が、赤ん坊以外のすべての人間は、人によって差があるとはいえ、みな何らかの道徳などの基準に基づいていると思います。  けれど、質問者様のおっしゃっている差別は一の差別ではなく二で定義された差別だと思われます。  さて、二番の差別についてですが、「先入観や偏見」は、誤っていたり合理的ではなかったりする判断基準のことだと思います。ということは「特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをしたとしても、その扱いが合理的な判断基準からなされたものであれば差別ではない(少なくとも二の定義の差別ではない)」ということになるのではないでしょうか? 何を以て誤っているのか? 何を持って合理的ではないと言うのか? 非常に難しいです。 ですが、次のようなことはいえるのではないかと思います。「ある人が合理的だと考えている基準でも、別の人から見れば、あるいは一般的な常識から見れば合理的な基準ではない可能性は常にある。 したがって、すべての人は差別をする可能性があるといえるのではないでしょうか。 また、質問者様の(3)の問について 「誤った判断基準に基づいて、他者に不利益を与えること」は私はいけないことだと考えます。故に、「(二番の定義の)差別はいけない」という社会の風潮はけして悪いものではないと考えます。 しかし、同時に「自分も人を差別しうる」ということを認めたほうがいい社会になる気はします。 自分なりに頭を働かせたつもりですが、的外れなことを言っていたら申し訳ないです。

powerandterror
質問者

お礼

回答有難うございます。的外れな事などはまったくなく、とても適切な答えだと思います。私が回答を読ませていただいて強く感じた事は、人間生きている限りは差別をしているのだ、そしてそれを踏まえて常に謙虚にしていなければいけない、ということです。この態度には一種の危険性があると思うのですが、それは自分を見失う可能性があるという事だと思います。自分の判断基準は他人からみたら違うのかもしれない、だから自分が感じている事は間違っているかもしれない、と。柔軟に相手の意見を受け入れる事ができ、さらにそれを超えて自分自身の信念は曲げない、というようにバランス良く生きていきたいです。とにもかくにも、再度、回答有難うございました。

noname#15238
noname#15238
回答No.6

差別と差異を混同していませんか。 差別はもともと、不当な概念です。 慈愛心のない人間もいませんし、利己心のない人間もいません。(私が信じているだけかもしれませんが) 人間は、基本的に、変化や違いには敏感ですが、定常性(いいかげんに言えば、同じと言うような意味)の価値が判らない、出来そこないですね。もちろん私もそうです。

powerandterror
質問者

お礼

回答有難うございます。回答者さん、ご自分を出来そこないなどとおっしゃらずに、もっといろいろと書いていただきたかったです。とても大切な事を言っておられるような気がしますし、もう少し詳しく説明をしていただけたなら、おっしゃっている事がもっと分かる事が出来たような気がします。慈愛心のない、利己心のない人間はいないというのは素晴らしいご指摘だと思います。人間の感情で、一見社会の枠内ではマイナスのような感情も、大きい枠内でとらえると、とても大事なものだという事に気付きますものね。私は回答者さんだけではなく人間で出来損ないな人などいないと思いますし、それそれが素晴らしい人間であると同時に、尊敬すべき存在であると思います。再度、回答有難うございました。

  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3286)
回答No.5

>1)差別をしない人間はいると思われますか? 難しいですね。 差別をせず全ての人を公平に接するには、聖人君子並みの 人格が求められます。 >2)「差別をしてない」、といった時点ですでに「差別 >をしている人に対して差別をしている」という矛盾につ >いてどう思われますか?(もしこれが矛盾であると思わ >れるなら、という前提がありますが) 本当に差別をしていない人は、いちいちそんなことを口に しないでしょうね。 マザーテレサのように、黙々と愛の実践に取り組んでいる ものと思われます。 ですので矛盾という指摘は、そのとうりかと思われます。 >3)今の社会の風潮として、 >イ)差別はしない方がよい >というものがあると私は感じるのですが、 >ロ)差別しない人なんていない >という事を認めた方がよい社会になりえると思われます >か? 認めるも何も、差別をしない人などほとんどいないという のが現実です。 その現実を認めた上で、青少年の教育や個人の修養を通して 個々人の人格向上に地道に務めるしか道はないかと思われ ます。

powerandterror
質問者

お礼

回答有難うございます。まさにご指摘の通り私自身に差別心があるからこそこのような質問を考え付くことができるのですよね。清く正しく生きていき、黙々と愛の実践に取り組んでいるマザー・テレサさんのようになれるように、謙虚にそして必死に生きていきたいです。

noname#6165
noname#6165
回答No.4

1.いてもおかしくないと思います。 赤ちゃんなどは、していないのではないですか? また、犬や猫が差別をしていないなら、人間も差別をしないように生きることは可能だと思います。 膨大な影響力を持つ文化が、差別を含有して発展しているという点で、何が差別的で何が差別的で無いかを「識別」できれば、差別を外部的に見ることが可能になります。    2.「差別をしていない」と言った者が、差別をしている人を優位に立たせる、または卑下しているなら、差別しています。 しかし、差別をしていないことの優位性が、差別をすることのそれよりも確かに優位であると確認された場合(ようは、無差別主義が生き残って、差別主義が淘汰された場合)、無差別主義は差別主義を超越していると言うことになります。 適者生存ではなく、無差別主義の持つ歴史の課程に、差別主義もあったということです。 この場合、無差別主義と、差別主義では、差別主義から無差別主義が生まれ、台頭してきたのであり、差別主義の中に、無差別主義の萌芽があったとも見れます。 また、「主義」を掲げる時点で差別が発生するか?という問題ですが、そういう意味で無差別主義は、無主義の立場とはまた違っており、差別主義に対する無差別主義という構図ならば、また差別を生むでしょう。 つまり、無差別主義は、差別主義に対峙する存在としてある限り、真に無差別主義ではありえないのです。   3.差別なんてしない人なんていない、だけれども、差別的でなくなることはできる(差別の無いほうがよいという観測の元で)。   差別をする人間というよりも、差別は社会にあるのであって、人間にあるのではないと思います。 社会は何処にあるか?という考察も、「差別の所在」を明らかにするためには、わたしならば必要と思います。 そのような広大な考察まで広がる差別意識ですが、一種の思い込みであるという点だけを見れば、さして克服不可能な課題とは思えません。 むしろ、差別は克服できて当然という見方もあります。   要介護者や、外国人などに対する差別偏見は、無知と偏狭(当人の世界の狭さ)によるものと思われます。 また、社会の全体に、その外国人や要介護者、また特異人物の存在を容認する姿勢が完全に広がっておらず、「そういう人も存在するのだ」 という事実の受け入れが、未だ、少なからずの場面でなされていません。 「分からない」で済ますのではなく、自分の知らなさを大いに認め、積極的な認知姿勢をとり、それを推奨することが、社会における差別を取り除く効果を、大きく発揮すると思います。   分からない、時代が違う、そのような言葉を言い訳として使うことにより、社会進化の停滞が生まれているようにも思います。 「もっと考えてもいいのですよ」 という、考えることを容認し、それを害さない社会の構築と言うのが、当面の目標かもしれません。   それを害しているのは、不甲斐無さでもあり、不甲斐無さを生んでいるのが、都市環境であると私は思います。 都市環境を生んでいるのは、都市に「囚われた属僚」であり、囚われているという在り方を見つめ、その在り方から脱することが、都市存在を活かす、社会人の存在を増やすのだと、思います。   それが、後には、差別の無い社会につながるのだと思います。   当面の差別の原因は、差別する者が既に、何者かに差別されているという事実があるのではないか? この質問で、そういう風に私は考えました。 「人のことを差別している場合じゃ無いぞ、「自分(あなた)自身」が差別されてるんじゃねぇの?」 このような台詞も、お互い差別しあっているという現状を示唆するものです。   >ロ)差別しない人なんていない という事を認めた方がよい社会になりえると思われますか?   誰かに差別をされているがゆえに、誰かを差別をしている。 その差別の在り方の事実を如に観ることが、その解明へとつながり、よい社会へと続いていると言えます。   (差別をすることで益を得ている集団(権威集団)もまた、差別されているのです(どういう風に?例えば、「卑怯者」だと言うレッテルを貼られ、差別されています。) それ(差別し差別されていること)は、けっして善いとはいえないし、自由であるともいえません。)

powerandterror
質問者

お礼

回答有難うございました。差別はバイナリーで働いているというのは私も賛成です。差別をしている人はすでに差別という土壌の中ということですね。その土壌から脱し、まさに無差別の土壌、バイナリーが存在しない土壌、に入れることができるよう、日々努力していきたいです。

  • izumokun
  • ベストアンサー率30% (1129/3679)
回答No.3

4)について  大いに意味があります。かつてカントが、「人間は教育によって人間になる」という名言を残していますが、人間は基本的に差別する存在なので、差別をなくそうとする=教育をしないと、解決しません。したがって、大いに意味があることです。 5)について  1 差別の現実を学ぶ  2 科学的認識能力を高める  3 事実判断と価値判断を峻別できる力を育てる  4 第三者的な立場は差別する側とほぼ同じであることに気づかせる などだと思います。

powerandterror
質問者

お礼

再度の投稿、回答有難うございました。差別の現状をあらゆる角度から認識するということが大事だということですね。常に習うことはあるのだ、と日々思えるようがんばります。

関連するQ&A

専門家に質問してみよう