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江戸時代の統治制度が上手く機能した理由?

江戸時代の統治制度 ・士農工商その他の身分制度 ・農民を相互監視させたこと ・参勤交代などの各大名に反乱を起こさせない工夫 等があると思いますが、人口の大多数を占める農民が 統治制度に従った理由は、なんでしょうか? それなりに生活が安定していた反乱を起こす必要がなかった、 もしくは、反乱を起こす気力を奪う恐怖の刷り込みで等が行われていたからでしょうか?

  • 歴史
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  • ベストアンサー
  • fumkum
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回答No.2

戦国時代の農民と比較して考えると、 1、農民の自治組織であった惣の組織を統治の末端として利用した。下は他の質問に私が回答した内容ですが、趣旨はおなじなので。 『江戸時代の農村には基本的に武士はおらず、村役人と呼ばれる庄屋・肝煎・百姓代が行政の末端に位置付けられ、訴訟・戸籍(寺請)・納税(村請)などの業務をしており、彼らを中心とした本百姓の自治的側面が強い。これは中世の惣の組織に由来し、戦国時代から織豊時代にかけて解体されるのではなくて、組織を換骨奪胎され、支配のための組織になっていった。年貢についても村請により、村全体が年貢納入の連帯責任を負う体制と言う、武士に都合の良い形態になっていった。武士は本来農村より出てきたもので、惣の中にも多くの武士(土豪等)層がおり、指導的立場にあることも多かったが、戦国時代を通じて、ある者は戦国大名などの家臣化して(戦国大名になった者もいるが)農村を離れ、ある者はそのまま農村に留まり帰農化と二分化していった。この傾向を決定的にしたのが豊臣政権下の一連の身分統制令で、武士と農民が分離され、武士は完全に農村を離れて城下に集住するようになった。(島津氏などの中世以来の伝統を持つ大名領では不徹底ではあるが)そのために農村に武士はいないという状況が出現した。百姓の支配と言うと難しいが、代官―村役人―農民と言う構図が一般的なはずです。これは幕府及び各藩共に変わらないはずです。』 2、年貢が相対的に安くなった。 戦国時代でも関東の北条氏は戦国大名の農民統治の完成形といわれていますが、4公6民程度の年貢率だったと言われています。これは例外で、多くは6割以上の年貢率だったようです。収穫物を3つの山に分け、そのうちの2つは領主が、1つを農民が取ると書かれていますから、7割近い高率だったようです。江戸時代前期の開発時代は、河川の付け替え、用水の整備、新田開発などに多額の資金がかかることもあって高率の年貢率だったようですが(その結果が農民の生活を潤したこともあります)、開発が一段落すると年貢率は下がり、幕領では4割どころか3割を切るような状態になります。しかし、大名・旗本・武士の生活が苦しくなり、年貢率が上昇すると農民一揆が頻発するようになりますから、年貢は重要なファクターだったと思います。 以上、参考程度に。

その他の回答 (2)

回答No.3

 大名や領土を持つ旗本をうまく管理できたからでしょう。  江戸時代初期には徳川に反旗を翻しそうな領主は次々に改易され、牢人が多出したことから問題がおきました。  これがどうにかおさまりだしたときに出された武家諸法度(天和令)で、従来あった「弓馬」が除かれて「忠孝」が追加されました。  戦場での実践につながることから、「弓馬」が削除されたのです。  紀州家と尾州家による堂射(三十三間堂による旧術の競技)の熾烈な争いもまもなく集結しましたが、元禄十四年の四月から公議(幕府)は頻繁に射撃訓練を行うようになりました。  戦争勃発の可能性があったようです。  あの浅野内匠頭の刃傷事件を、当時の天子(東山天皇)はじめ禁裏(朝廷)は喜んだという記録があります。  禁裏はあの事件を徳川方の不敬とし、賛同する大名を集めて政権をとろうとした動きがあった。  六月には、両者で和議が成立したのでしょう。  3か月続いた集中的な射撃訓練は、六月でピタッと止みました。  4年後に将軍綱吉は禁裏御料を従来の二万石から三万石にアップしていますが、それ以前にいろいろ駆け引きがあったと思われます。  徳川家が政権をにぎってから、天子が御所の外に出たのは一度だけ。  征夷大将軍を認める権威ある第三者として、天子は生かさず殺さずでした。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

基本的に経済成長が続いて、取り分が増えるならば、文句は言わない。 17世紀は経済成長の時代で、100年で石高=GDPが二倍になっています。 人口も二倍 で、個別の農村政策では「自作農の創設」というのが進められました。 多数を占める小規模農家、小作人、農奴とも言える階層が、自作農になる(=社会的地位を上げて、経済的に満たされる) これが、領主と個別の小規模農民の共通の目標。 農村の現場では、対立構造は 地主 <> 小作人 この構造の中では、領主の立場は 小作人サイドです。 18世紀になると農民一揆が増えます。 成長が止まったこと。 農村がみんな、自作農になったために、農村の現場での対立構造は 自作農 <> 領主 という対立軸が強まります。 この成長の停止と、対立軸の変更によって、18世紀になると百姓一揆の件数が増えます。

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