• ベストアンサー

占守島の戦いの意味

占守島の戦いの意味 日本の降伏直後に行われた占守島の戦いの意味について教えて下さい。 日本の占守島の守備隊は攻めてくるソ連軍に対して、強く抵抗して一時は撃退したそうですが、結局は日本政府の命令で降伏し、武装解除して捕虜としてシベリアに連れ去らることになりました。抵抗することにどのようなメリットがあったのでしょうか? 本土に逃げ帰るという選択肢は無かったのでしょうか? それなら捕虜として強制労働させられることはなかったのでは。 また、ソ連の方も、最終的には武装解除して無血占領できるはずの占守島を大きな犠牲をはらってまで攻撃した理由は何でしょうか?

  • 歴史
  • 回答数8
  • ありがとう数5

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mk57pvls
  • ベストアンサー率58% (428/728)
回答No.7

こんにちは > 抵抗することにどのようなメリットがあったのでしょうか? 当時千島の防衛を担当していた第5方面軍から、占守、幌筵、両島の 担任部隊である第91師団に対して 「8月18日16時の時点で停戦し、こちらから軍使を派遣せよ」 「もし敵が戦闘をしかけて来たら"自衛のための戦闘は妨げず"」 という命令が既に出ており、17日中には島内の各部隊にはその命令 が伝わっていたそうです。 従って、現地部隊とすれば"「自衛のための戦闘」という命令に従った 行動をした"という事になり、メリット云々を考えることは(またその 余裕も)無かったと思われます。 ただ、同島に派遣されていた戦車第11連隊の池田連隊長は、上陸して きたソ連軍に対する反撃戦を遂行する前に、部下達を集めて 「我々は大詔を奉じ家郷に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めて きた。しかしことここに至り、もはや降魔の剣を振るうほか無い」 「そこであえて皆に問う」 「諸氏は今"赤穂浪士となり、恥を忍んで将来に仇を報ぜんとするか 、あるいは白虎隊となり、玉砕を持って民族の防波堤となり、後世 の歴史に問わんとするか」 「赤穂浪士たらんとする者は一歩前に、白虎隊たらんとする者は手 を挙げよ」 と、問うたところ、 全員が間髪入れずに「おう!」と手を挙げたのを見て、一言「ありが とう」と言って涙を流したそうです。 池田連隊長を語る数々のエピソードからすると、もしも"一歩前に" 歩み出た者がいたとしても、決して咎めずに対応したと思います。 (実際に この戦闘の直前に、学徒出陣で徴兵された見習い士官に 対して「お前は戦闘に参加することはならず、帰還してお国の為に 働くように」と言って、前線から返した そうです) このように指揮官以下、末端の兵まで含めて 「俺たちがここで頑張らないでどうする」 という強い気持ちが同島守備隊にはあったのであろう、と思います。 > 本土に逃げ帰るという選択肢は無かったのでしょうか? 当時 同島部隊は、軍隊としての指揮統制がきちんと効いていました ので、上級司令部(第5方面軍)からの撤退(転進)命令、ないしは 現地91師団がこれ以上の戦闘継続が不可能、と判断しない限りは同島 からの撤収(行き先は別として)はあり得ないでしょう。 > ソ連の方も、最終的には武装解除して無血占領できるはずの占守島 > を大きな犠牲をはらってまで攻撃した理由は何でしょうか? 終戦間際になってのアメリカとの協議では、当初は千島や樺太はソ連で 管轄する、という話になっていたのが、途中からアメリカがだんだん と、ソ連の影響を排除しようとする動きを見せたため"占領という既成 事実を作り上げるため"にとった作戦ですね。 地勢上ソ連は外洋に出るポイント(海峡)が日本やアメリカにがっちり と抑えられており、また冬季には使用出来る港も限られてしまいますの で、千島、樺太、北海道を自国の勢力下に置くことは非常に大きなメリ ットがあります。 実はソ連は終戦の1年以上前に、占守島東部の小泊岬の沖で輸送船を座礁 させたらしいのですが、日本側からの再三の救助の打診にも関わらず (日ソ中立条約を結んでいましたから)何故かそれを拒否し続け、結局 乗員がソ連艦船により救出されたのが、半年以上も後のことだったそう です。 帝国陸軍の現地部隊のある将校さんが、戦後の回想記の中で 「多分 あの船(輸送船)は、ワザと座礁したんじゃないか? 乗員は 我々(陸軍部隊)の配置や行動の偵察を長期間に渡り行っていたんじゃ ないかと思う」 と書いておられました。 もしもこれが事実だとすれば、彼ら(ソ連)も占守島が戦略上極めて 重要な地、ということはだいぶ前から認識していたのでしょう。

moritan2
質問者

お礼

たいへん詳しいご回答有難うございました。いままで疑問に思っていた事が、よく理解できました。

その他の回答 (7)

noname#138477
noname#138477
回答No.8

今の状況を見て分かりませんか?未だに返還されませんよね。 ちなみに、千島列島(北方領土除く)は、千島・樺太交換条約により、侵略と言われる要素が、まったくない獲得をしています。

  • gadovoa
  • ベストアンサー率28% (835/2910)
回答No.6

アッツ島にしても、占守島にしても、 全員を撤退させる船はありませんでした。 こちらから迎えに行く船もなかったし。 抵抗以外、自らの命を守る方法はなかったと思います。 情報が遮断されていた日本では敵前逃亡はありえなかったし。

  • makocyan
  • ベストアンサー率39% (1039/2623)
回答No.5

 悲しくなるようなご質問ですね。  抵抗することにどのようなメリットがあったのかということについては、ここで頑強に抵抗してくれたからこそ、曲がりなりにも現在の日本があるということだと私は思います。もし無抵抗であったとしたら、もしかすると現在の北海道旅行にはパスポートが必要だったかもしれません。  本土に逃げ帰るという選択肢については、他の方のおっしゃるとおり、物理的なリソースが無かったということだと思いますが、これに加え、ここで防御戦闘を行なうことで千島列島に居留する民間人が避難する時間を稼ぐ、という考えもあったのではないでしょうか。  またソ連があえてこの島を攻撃した理由については、しょせん火事場泥棒の発想ですので本当のところはちょっとわかりません。  実際には占守島攻略部隊とは別に北海道侵攻部隊が準備されていたらしいですが、いきなり北海道侵攻は激しい抵抗が予想されるため、何人かのソ連軍の将官が反対、手始めとして抵抗が軽微であろう(一日で占領できると踏んでいたらしい)占守島を選んだという説もあります。

  • nishikasai
  • ベストアンサー率24% (1545/6343)
回答No.4

占守島の守備隊はよくやってくれた! 心から感謝し貴方方の英雄的な戦いぶりを高く評価いたします。 もし占守島守備隊の激しい抗戦がなかったらソ連は、 1.まず樺太と千島列島 2.次に北海道でした。 アメリカが原爆を落としたことを日本人は恨みますが、もちろん原爆は非道なもので許されるものではありませんが広島・長崎の尊い犠牲のおかげで日本が分断されるのを防ぎました。もし原爆が投下されていなかったら日本は戦いを続けていました。 そして占守島の守備隊の英雄的抗戦がなければ、ソ連は領土的野心がありましたから北海道のみならず南下し、東京を占領して皇居を境に北は北日本人民共和国ができて金日成のような共産主義の独裁者が出てきて今頃は南日本がせっせと北にコメを送っていたのかもしれません。そうならなくて本当に良かったです。占守島の守備隊の皆様、ありがとうございました。 そしてマッカーサーが弱腰であったなら北海道はソ連に取られていました。たとえ弱腰でなかったとしてもソ連は強硬に北海道占領を主張したでしょう。ソ連が強硬に主張しなかったのはアメリカが原爆をもっていたからです。ソ連は原爆がどれくらい恐ろしいものかを広島・長崎で知りましたからアメリカには譲歩しました。広島・長崎の尊い犠牲は日本が分断されることを防いでくれました。

回答No.3

あのぉ… 日本の降伏は9月2日ですが… 8月15日の玉音放送は日本側の一方的攻撃停止宣言(日本は組織として特攻部隊を出撃させたり、沖縄やフィリピン、満洲、中国の部隊が連合軍に攻撃しないという意味)ですけど… 米国が日本の停戦宣言を受けて停戦したのが8月21日です。 ソ連は日本の停戦宣言を受けても仁義なく占守島へ攻勢をかけたのです。 ちなみに日本軍の完全武装解除は11月のサイパンにいた大場大尉率いる残存部隊です。

  • kuni-chan
  • ベストアンサー率22% (674/3049)
回答No.2

 日本が8月15日に無条件降伏しました。  その時、アメリカ、イギリス等は停戦しましたが、ソ連だけは降伏文章に調印していないとして戦闘を続行しています。  日本軍の指示は停戦ですが、自衛の為の戦闘は許可されていました。  占守島ですが、もしソ連が平和的に武装解除の為に上陸してきたなら戦闘にはならなかったはずです。砲撃をして上陸してきたのですから戦闘になります。これは正当防衛です。  当時の状況から逃げるのは不可能です。  シベリア抑留は結果論で、その時にそうなると決まっていた事ではありません。捕虜を過酷な労働で死に至らしめる事は捕虜虐待になり国際法違反です。当時のソ連は守る気は無かったと思いますが、それも結果論です。  ソ連が武力侵攻した理由についていろいろ言い訳していますが、目的は侵略です。そうでなければ国際法に違反してまで宣戦布告しませんし、降伏後の武力上陸はあり得ません。  占守島は第一歩に過ぎません。最終目的地は北海道でした。  軍を進めて占領すれば、戦後処理で領土を得る事が可能になります。  ソ連にとって計算外だったのは、占守島の戦闘で時間がかかり南下が大きく遅れ北海道侵攻は不可能になりました。  9月2日に降伏文章に調印してしまうとこれ以上拡大できませんから、あわてて北方領土を押さえに来ました。

  • tande
  • ベストアンサー率12% (22/179)
回答No.1

メリットも何も、敵が攻めてきていて交戦しないというのがよくわからないのですが。 占守島の守備を任され、交戦能力はまだある、上からの命令で交戦するなと言われてない これだけ条件揃っていて交戦しない軍隊はそうそう存在しないでしょう。 >本土に逃げ帰るという選択肢は無かったのでしょうか? それは泳げってことですか? 占守島から北海道まで直線距離で約1000キロ、一番近い温禰古丹島まででも60キロあります。 「泳いで撤退したらどうだ?」なんて質問者はなかなかの鬼畜ですね。

moritan2
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 どうも私が大きな勘違いをしていたようで、8月15日の後も軍隊としての指揮命令系統は完全に維持されていたのですね。 あと、撤退のための輸送船なども、当然持っているものと思っていましたが、それも無かったとは。 撤退の集団が無いとは、今では信じられないような無謀な行動ですね。相手が強かったら、逃げるか降伏しかないわけですが、逃げる事ができない、日本軍では降伏を教えてない、ようするに死ぬまで闘えってことですか。

関連するQ&A

  • あんとき日本超ヤバかった!

    日本史において、国の存亡の危機って何度かありましたね。存亡とまではいかなくとも、ちょっとしたボタンの掛け違いや指導者のミスがあったらかなりヤバかったってのも含めると、結構色々あると思います。あなたが思う「あんとき日本超ヤバかった!」を教えてください♪ 私が最近知ったのは、1945年8月14日ポツダム宣言受諾後の「占守島の戦い」。千島列島最北端の占守島を日本敗戦のドサクサでソ連が攻めてきました。それを予期していた樋口季一郎中将の独断で、日本軍武装解除期限の8月18日16時までは敵襲があったら応戦するとし現地守備隊は準備、すると案の定ソ連軍が奇襲上陸、占守島守備隊は善戦しソ連軍に大損害を与え日本軍優勢で推移するも軍命により21日に降伏。もしここでソ連軍を足止めしていなかったら、北海道までソ連に盗られていた可能性があります。奮戦した日本軍兵士はその後シベリア抑留され多くの命が失われ大変ご苦労され感謝してもしきれません。占守島で奮戦した「士魂戦車大隊」の意志を継ぐ北海道駐屯陸上自衛隊戦車隊は、今も戦車に「士魂」の2文字を刻んでいます。また樋口季一郎中将は他にもナイス判断をしていて、ユダヤ人2万人以上を救ったりキスカ島撤退作戦成功に寄与した名将です。

  • スターリンはシベリア抑留する際

    スターリンはシベリア抑留する際、 捕虜をソ連に連れてきても、日本にばれないと思っていたのでしょうか?

  • ドイツ軍捕虜の強制労働とシベリア抑留

    ソ連の日本軍捕虜に対する強制労働は、シベリア抑留として有名ですが、 一方で、ドイツ軍捕虜も沢山いたはずです。 スターリングラードの捕虜10万人のうち無事帰国できたのは5千人と聞きました。 ソ連のドイツ軍捕虜に対する強制労働は、日本軍のそれに対して過酷だったのでしょうか。 よろしくお願いします。

  • ソ連の捕虜取り扱い

    ソ連は、第二次世界大戦終了後、武装解除した日本軍をシベリアその他で強制労働させましたが、ドイツ軍、イタリア軍はどう扱ったのでしょう?

  • シベリア残留日本兵について

    シベリア残留日本兵について、いくつか質問したいのでよろしくおねがいします。 1.何故旧ソ連はシベリアに日本兵を連行したのか。 2.どういうふうに連れて行かれたのか。 3.シベリアでは極寒でどういうことをされていたのか。(かわいそうにおもいます) 4.当時の日本政府はそのことを知っていたのか。知っていたならなぜ 対策をうたれなかったか。 5.捕虜が解放された経緯 6.今のロシアのこの事に対する対応。 7.その捕虜は軍人恩給の対象になるのか。 よろしくお願いします

  • シベリア捕虜収容について

    終戦直後に武装解除しソ連軍によってシベリアの捕虜収容所に送られた兵士たちの消息は (1)兵士の家族に知らされていたのでしょうか?(国交がないので通告は無かったと推測しますが) (2)無いとした場合、留守家族が戦死したものと死亡届をして戸籍から抹消したなんてケースはなかったのでしょうか?(例えば、残った妻が再婚(よく当該者の兄弟と再婚すると聞きますが)する場合) (3)抑留者の帰還は長い人でどの位の年月だったのでしょうか? 以上、シベリア抑留について教えてください。

  • 終戦間近の中国方面の状況はどうだったのでしょうか?

    太平洋戦争などではアメリカが太平洋の島々を撃破し硫黄島など激戦して沖縄上陸と歴史書やTVを観れば解るのですが。 中国方面はどうだったのでしょうか? (1)南京などでは終戦して武装解除後に中国軍が攻め込んできてあけ渡した?(日本本土みたいに武装解除後だったので激しい戦闘がなかった?) (2)終戦前に激しい戦闘の末に中国軍に攻め落とされて捕虜の状態だった? (3)すでに大分前に中国からは撤退していた? (4)日本人を守る自衛的戦闘以外はすでに行われていなかった?(その残った兵隊が捕虜になった?) 南京と満州では状況が違うと思いますができれば両方お願いします。

  • 負ける戦いと判明したときに.原子力発電所を爆破することは.有効な戦力?

    教えて!goo のあるコーナーの回答で以下のような文が有りました。 もちろん本人に聞けばいいのですが、そうすると親の質問の内容「日本は核武装をするべきかどうか」からずれるので、、、、 ご存じの方がいれば教えてください。 >日本が本土決戦となったときに.負ける戦いと判明したときに.みずからの手によって原子力発電所を爆破することは.有効な戦力なるでしょう。 なお.ソ連では.原子力関係施設の放射能漏れにより.国土のかなり多く(%か割程度)の部分が放射線汚染を受け実質的に利用不能な地区になっていることを書き添えましょう。 自衛隊は方針として本土決戦しか想定していません。  そのうえで、負けるという定義にもよりますが、限定戦争ではなくtotal warであったとします。  この原子力発電所爆破により放射能汚染をおこし、日本国土を不毛の大地にするという方法は「(回答者が言うところの)兵器」として有効なのでしょうか?  実行の可能性、また他国に対する抑止力(能力があっても意志が無ければ抑止力にはならない)なんかも絡んできそうですが・・・

  • 太平洋戦争敗戦。日本国内の武装解除。

    日本本土の武装解除について。 いつ頃、どの部隊?師団?から始まって、いつ頃終わったのですか。 ほとんど混乱も無く、整然と武装解除されたそうですが、何か、トピックスをご存知であれば教えてください。 よろしくお願いいたします。

  • ヴィットリオ・ヴェネトの戦いのオーストリア軍と1945年のソ連進攻に際しての日本軍

    1918年の第一次大戦終結時の、イタリアが、休戦して武装解除を待っているオーストリア軍に対して大勝利したのは、抵抗がなかったからでしょう。なぜ1945年の日本軍のように、武装解除を待つ状態でも抵抗したようにしなかったんでしょうか?抵抗していたら、イタリアは失地を回復できないまま休戦を迎えることになり、戦後交渉がやりやすくなるのではないでしょうか。内部崩壊して軍そのものが消滅していたのでしょうか?