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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:不可知とは どういうことですか?)

不可知とは?

yosiochanの回答

  • yosiochan
  • ベストアンサー率20% (27/135)
回答No.5

よしおです。こうやって続けて書いていいかわからないけど、おもしろいので、書きたいので書きます。 《不可知》とは 《可知の領域における未知の分野》でないというのが、私の見解です。 私にとって、可知はないのです。 科学や経験で可知と思われている事柄でも、それが絶対正しいとは限らない。たとえ、それが科学的で、経験に基づいて証明されてもです。 じゃあ、何が正しいの?真実なの?ということなら、「正しいことなんて無い」ではなく、正しいことを知りえない。真実(本当のこと、物事の本当の有り様、存在の仕方)を絶対正しく知ることは、無理。という意味で不可知なのです。 だからといって、科学が無駄というわけじゃありません。ある条件下では有用なので、有効です。役に立っている意味で、「科学は真実(経験的にほんとだぁ!)」と思われていると思っています。 実用主義というのでしょうか、「神も役に立てば、真理」というのを読んだことがあります。そんな感じです。 真理・真実はその人、それを認識する主体によって違うのです。 だから、従来の客観性はありません。 主体抜きの客観的事実はないのです。 というか、ないということさえ、わかりえないのです。 なぜか?認識する我々を介して、物事を認識してるからです。 我々の認識の仕方や物事の存在の在り方(これも我々が認識する)に不可知にならざろうを得ない原因?があるからです。 と、私は考えています。

bragelonne
質問者

お礼

 よしおさん ご回答をありがとうございます。  なるほど。わたしの理解が独り善がりでした。  あらためて ご返事を差し上げてまいります。  ふたつの段階があると思います。  (1) ひとつは 《可知》というときその認識の真実性ないし妥当性には 度合いがある。ひとによって違うものだ。という見方です。   (2) もうひとつは そのように認識の真実性に浅い深いがありさらには どうもズレさえあるのではないかと見られるとき そうは言うものの その認識すべき対象についてほんとうにほんとうのところ(事実または真実)はあると考えられる。したがって そのものごとのほんとうのあり方を知ることをめぐっては 不可知という見方が持たれる。  さてわたしは (1)はここでは扱っていないのです。言いかえると 人びとのあいだで大きく差しさわりの出ない範囲で 互いに共通の物差しを持てているなら それでよしとするものです。あなたとわたしとで 背が高い低い 顔の色が黒い白い 重い軽い・・・という比較対照が出来て 互いに認識を共有できればよしとします。  したがって (2)がもんだいです。じつはこれも わたしはほとんど扱っていないのです。ただし このことは その説明が必要です。なぜ扱わないかの説明です。その説明において 不可知とは何でないか〔とわたしは思っているか〕が明らかになると思います。  ちょうど(1)の議論で 認識の真実性については おおむね妥当であれば あとはその深浅を問うことは二の次とするとしたことに表われているかとも思うのですが いわゆる《もの自体》を知ることが出来るかどうかは これも二の次とするという考え方です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  じゃあ、何が正しいの?真実なの?ということなら、「正しいことなんて無い」ではなく、正しいことを知りえない。真実(本当のこと、物事の本当の有り様、存在の仕方)を絶対正しく知ることは、無理。という意味で不可知なのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これに合わせて言えば 《正しいことを知るかどうかは どうでもよい》となります。《ものごとを正しく知ることは 無理であろうが有理であろうが どうでもよい》という意味です。  ですから 認識の真偽をものごとに沿って正しく判断することについて それは《不可知》だとも《可知》だとも言わない。となります。放っておくという意味です。  なぜか?   という問いを立てることは よしおさんに反論することになると思いますが こうです。  (あ) まづ それこそあなたの言うように 認識する人によってズレや浅い深いの差が生じる。  (い) しかも わたしの場合には それでも互いに最大公約数のごとく共通の認識内容が得られればよしとする。それで 意志疎通は図れると思うからである。  (う) しかるに 認識ということに正しいということはあるのか?   (え) 最大公約数の共有と言ったとて それは 時代によって価値が変わるほどである。不可変的な認識というものがあるのか?  (お) わたしの場合 その判断を保留するという意味は 可知だとも不可知だとも決めていないことです。  (か) なぜなら では何故 可知だとか不可知だとかが 分かるのですか? という問いに答えがあると思っているのです。  ★ 我々の認識の仕方や物事の存在の在り方(これも我々が認識する)に不可知にならざろうを得ない原因?があるからです。  ☆ おそらくそのようではないかとわたしも思いますが けれども 不可知だと決めることができますか? また何故決めなければならないのですか?  ですから ずるいやり方で 《未知》には 《正しい認識が出来るか》についての可知か不可知かの判断を保留するという意味での《まだ分からない》が含まれるとしておけば どうにか共通の了解が得られるのではないですか? どうでしょう?  つまり もしこの線で行けば 不可知とは いったいどこにあるのか? となります。

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  • 神とは何か?

    神とは何か?  決定保存版にしたいと思いますので 添削あるいは根本的な批判をよろしく願います。  ○ 信仰類型論において 神とは何かを問い求める  §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y =考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X =考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない。 X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。(つづく)  ☆ つづきがあります。お手数ですが ニ千字制限により  【Q:不可知とは どういうことですか?】 回答No.36のお礼欄へとつづきます。   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6002224.html  ☆ あるいは余裕のある方は 次の質疑応答も参考にしていただけるはずです。  【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6010202.html  ☆ それではよろしくどうぞ。

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    0. 標題のごとくに自負して考えるのですが なお仮説ですので よろしくご教授ください。 疑問については是非ぜんぶお知らせください。 神論は その問い求めによって 世界におけるわれわれ人間の立ち位置が現実によく分かるようになるのだと思いますが どうでしょう。 神の世界に相い向き合うからだと思われます。 1. 神は 《人間の知性を超えている》。 2. 人間の知性で分かったと主張するその神は 人間がつくった――観念の――神に過ぎない。 2-1. そもそも その《分かったということ》は証明し得ない。その否定も じつは証明し得ない。 3. 人間の知性で分からない(不可知だ)と説く神は これも 人知でそのようにつくっている(決めつけている)。 3-1. 不可知とは 知り得ないと証明し得て初めて言えるもの。知り得ないと証明し得たなら 或る意味で人知の範囲内だ。 4. 人知を超えたところとは 《知り得るか知り得ないかが 知り得ないナゾ:非知 incomprehensible incomprehensibility 》です。 ・ 可知(既知&未知)&不可知 に対して 非知 5. 非知なるものは 非経験(その場ないしチカラ)であり 絶対性および無限である。 ・ 経験    に対して 非経験   (自然および経験)  (超自然および超経験) ・ 相対性   に対して 絶対性 ・ 有限    に対して 無限 6. 無限とは 二で割っても三で割っても 商はもとのままの無限であることを言う。 6-1. 一神教か多神教かまたは汎神論かの――神の数にかんする――問いは 無意味である。 6-2. すべては――やほよろづの神々はみな――《全体として一つの神・ただ一つの柱で全体をふくむ普遍神》の分身であるゆえ。 7. 絶対性とは 《何ものにも拠ることなく ひとり満ち足りているもの》を言い それと相対世界とは 絶対のへだたりがある。 8. 非経験は たとえば《有るか無いか》という規定が適用される経験的な事象(事物および現象)を超えている。 8-1. 《有る》と《無い》とを超え しかも両状態をおおいつつむ。 8-2. 《有ると無いとが つねに――つねにである――重ね合わせになっている》。 9. 事物が有るか無いか つまり 現象が起きたか起きていないか つまり ものごとの因果の関係として捉えられること(そして その知性)を超えているのが 非経験・絶対性・無限である。 10. 人間は このように《人知を超えているものを人知で推し測っている》。 11. 人知で捉え得たと思っている神について ひとはいろいろ忖度する。 11-1. 余計なことはやめろと言われても 余計か本計かを究めあぐねる。 11-2. 忖度するような対象ではないと考える向きは 端的に言って《無い神〔という神〕》が 心にいだかれている。cf. [8-2]。 12. 忖度のいろいろは こうだ: ① その属性として:    〔つねに真偽をまぬかれない人間の主観真実を超えた〕真理    〔善悪を超えた善悪の彼岸としての〕至高の善(スムム・ボヌム)    〔相対的な美醜を超えた〕美    〔愛憎を超えた〕愛(アガペー)    〔真理がすべてにおいてすべてであることを実現させる〕全知全能 ② 絶対性からそれを擬人化して:絶対者 ③ 全知全能なる絶対者を物語化して:創造主(非経験と経験世界とは絶対の                   へだたりがあることを言っている) ④ 創造主のチカラのおよぶところとして:摂理(因果律を超えているチカラ                      による人間への因果応報なる説) 13. 神についての忖度は すべて おのおの心の内面に主観真実としておさめている限りは 自由である。良心・信教の自由。 13-1. 神についての忖度――神観――が 良心・信教の自由のもとに自由であり それとして主観真実におさめられることを 《特殊絶対性》と言う。一般性とは別次元にある。 13-2. 忖度に成る神観を成るたけ避け一般性を問い求め得た神論は 《一般絶対性》なる理論であり これを個人として抱くゆえ 《個別絶対性》とよぶ。 13-3. 神観が 或る種体系的な神学となりこれがオシへとされ得る。さらにしかもオシへが神と同等のものだと説く場合がじんるいの歴史にあった。そのような神学ないし自称神論はアウトである。人間が神をこしらえている。《文字もしくは聖なる書》という偶像が建立される。 13-4. オシへを神と説くシュウキョウというシュウキョウは その説くという発想が無意味であり ぜんぶアホンダラ教である。 14. なお《一般絶対性かつ個別絶対性》の具体的なあり方は 次のように図示できるはずだ。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我(生命性)   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如(生命性‐生命体一如)    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然および〔その依り代としての〕自然)    霊:われ(自然本性 + α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:タオ(?)    人:われ 14-1. 個別絶対性とは 信仰である。《非知なるナゾを 無条件で無根拠にてわが心に受け容れること》を言う。 14-2. 《信じる》は 《感じる・考える》を超えている。言いかえると 《信じている》ときに《感じ考える》ことを同時におこなえる。無思考や思考停止ではない。 14-3.  【梵・仏・霊】  :信じる(生命性):非思考の庭 ------------------------ 【我(霊の分有)】:考える(知性) :思考の緑野           感じる(感性) :感性の原野

  • 一般および個別絶対性理論:普遍神およびその信仰

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知(間違いだったと分かることもある)        未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)      不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。    【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心    -------------------------    【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト     【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  5. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  6. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  7. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  8. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  9. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。一般にこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く宗教は いまのこの理論の外である。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。  ☆ 以上が 標題についての仮説であり 問い求めのためのたたき台です。吟味・検証しつつさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をどうぞ。

  • 「宇宙」「世界」の姿がわかったらどうするのか?

    現在、科学分野の学問は確かに進んでいると思います。そして、特に哲学的な領域にも近い「天文」「地学」「物理」「化学」「数学」その他科学諸分野(もちろん考古や歴史文学も含みます)はその完成度を高め、ついにはおおよそ「人間が生きている世界はこんなものだよ」ということが描ききれるところに近いのではないかという印象を持ちます。 そこで、いろいろな自然現象を記述し理解することができるようになりますと、次には「何でこういう自然なんだ」「これにはどういう意味があるんだ」という疑問がわきあがりますが、これは不問に付すべきなのでしょうか。それとも、人間にはあまりに難解であるこれらの問いを発し続けるべきなのでしょうか? 個人的には、「ああ、世界はこうなっているんだ」とわかってくる感覚に対して、「行き場のない」感動感激で終わってしまい、ただ虚空に向かってその感動を叫ぶだけということになってしまいそうで、どうもあまり気が進みません。