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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:不可知とは どういうことですか?)

不可知とは?

noname#131237の回答

noname#131237
noname#131237
回答No.44

序論 「不可知という言葉とagnosticの最近の英語用法の間には、関係がない」という指摘をしました。 前項「無脳」の例以下の文章を参照ください。日本語の読解能力を疑わざるをえません。 Hidocchi大明神へ 間違いは間違い。自分の間違い勘違いを認めなさい。 貴方の掲げた用例は、 agnostic の本来の意味を無視した用法であり、ジャーナリスティックな用語誤認がもともとの原因。似た例としては、日本語の「結果」という単語と「結果をだす」というスポーツ新聞による誤った用法があげられるでしょう。たとえばagnostic をunknowableとするのは間違いです。用例及び回答を見てもわかる通り、unknown/unknowableの混同が起こっている。当該生物学者の英語力のなさを示しているだけ。誤用を凡例として援用するのを間違いと指摘しているだけです。 中国人に関して 自称ネイティヴのパキスタン人・インド人と同様、発音が気持ち悪いといっているのであって、中国人の英語はミンなダメとは一言も言っていないでしょ。意見操作をしているのはそっちです。国語能力がないのかもしれませんが、勘違いをしたフリをして大声で叫び、レッテル張りで他人を落としいれようとしているのは、親ビンと貴方です。「なんでも反対同盟」は時代遅れです。やめなさい。親ビンのいう「前提の間違い=中国人の英語は全てだらしがない」というのは、質問者および勘違い回答者自身の拡大解釈であって私の言葉の中にはない。 うそだと思うのであるならば、 何処にあるか示してみなさい。 人をうそつき呼ばわりするのはやめなさい。もう少しちゃんと日本語を理解してから、「撤回要求」を語るべきです。マナーが成ってない。ここに改めて謝罪を要求します。 意図的に拡大解釈をして、他人から意見を募り、自分に都合のよいように加工して、利用していくオピニオンロンダリングの手法としかいいえません。見え透いたことはやめなさい。 自分の間違いを間違いと認めないのを威張り腐っているといっているのであって、Hidocchiさまの現実様態を事実に沿って表現しているだけです。あなたは、自分の間違いを何処で認めているのですか?勘違いの回答をしているのは貴方です。負けを認めなさい。改めて謝罪を要求いたします。 「自分は理系だから、私の意見は新たな解釈である」というのもとんでもない欺瞞です。新聞誤植を読んで、集めるのが趣味という人もいますが、 (質問)!「貴方の哲学はいったい何ですか?」! No.1、No.2の回答者は、懐疑論・独我論的見解であるから哲学的意見といえるが、理系論文の英語用法は、哲学とは関係がないでしょ。 無脳の例に戻ると、用例として人工無脳ということばと無脳症という言葉があるが、どちらもも、無脳という言葉自体とは関係がないのです。無脳の意味を捻じ曲げた誤訳という事で「人工無脳の用例」は、不可知の英語用例誤認に近い形といえるし、認知症の認知も同様の例であり、「認知一般と哲学的認知」・「無脳一般と哲学的無脳」とは、まったく関係がないと断言できる。同様に、agnostic一般及び理工系論文で使用されているagnosticと哲学的agnosticは、まったく関係ない議論です。私は理系!というオレオレ理論屋だけが、「関係がある」と(親ビン様宜しくお願いしマス!ネいいでしょ!関係がないわけではないwwwでしょ!という卑屈なコメントを通じて)主張している。 「愚症も意見を主張したい」と躍起になっても、学問的事実をひっくり返すことは出来ないのです。よって哲学のない人間の無意味な解答は論外と言い及ぶことが出来るようです。いいとしをして、哲学のての字も知らないつたない自分の立場をわきまえるべきです。あやまれば、いまなら、ゆるしてあげますよ。www

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 一人ぼっちである  ☆ ここだけが 当たっている。  ただし そのことと  ★ 親ビン〔であること〕  ☆ とは相い容れないことだ。  これ以上おまえの馬鹿さ加減につきあうつもりはない。

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    0. 標題のごとくに自負して考えるのですが なお仮説ですので よろしくご教授ください。 疑問については是非ぜんぶお知らせください。 神論は その問い求めによって 世界におけるわれわれ人間の立ち位置が現実によく分かるようになるのだと思いますが どうでしょう。 神の世界に相い向き合うからだと思われます。 1. 神は 《人間の知性を超えている》。 2. 人間の知性で分かったと主張するその神は 人間がつくった――観念の――神に過ぎない。 2-1. そもそも その《分かったということ》は証明し得ない。その否定も じつは証明し得ない。 3. 人間の知性で分からない(不可知だ)と説く神は これも 人知でそのようにつくっている(決めつけている)。 3-1. 不可知とは 知り得ないと証明し得て初めて言えるもの。知り得ないと証明し得たなら 或る意味で人知の範囲内だ。 4. 人知を超えたところとは 《知り得るか知り得ないかが 知り得ないナゾ:非知 incomprehensible incomprehensibility 》です。 ・ 可知(既知&未知)&不可知 に対して 非知 5. 非知なるものは 非経験(その場ないしチカラ)であり 絶対性および無限である。 ・ 経験    に対して 非経験   (自然および経験)  (超自然および超経験) ・ 相対性   に対して 絶対性 ・ 有限    に対して 無限 6. 無限とは 二で割っても三で割っても 商はもとのままの無限であることを言う。 6-1. 一神教か多神教かまたは汎神論かの――神の数にかんする――問いは 無意味である。 6-2. すべては――やほよろづの神々はみな――《全体として一つの神・ただ一つの柱で全体をふくむ普遍神》の分身であるゆえ。 7. 絶対性とは 《何ものにも拠ることなく ひとり満ち足りているもの》を言い それと相対世界とは 絶対のへだたりがある。 8. 非経験は たとえば《有るか無いか》という規定が適用される経験的な事象(事物および現象)を超えている。 8-1. 《有る》と《無い》とを超え しかも両状態をおおいつつむ。 8-2. 《有ると無いとが つねに――つねにである――重ね合わせになっている》。 9. 事物が有るか無いか つまり 現象が起きたか起きていないか つまり ものごとの因果の関係として捉えられること(そして その知性)を超えているのが 非経験・絶対性・無限である。 10. 人間は このように《人知を超えているものを人知で推し測っている》。 11. 人知で捉え得たと思っている神について ひとはいろいろ忖度する。 11-1. 余計なことはやめろと言われても 余計か本計かを究めあぐねる。 11-2. 忖度するような対象ではないと考える向きは 端的に言って《無い神〔という神〕》が 心にいだかれている。cf. [8-2]。 12. 忖度のいろいろは こうだ: ① その属性として:    〔つねに真偽をまぬかれない人間の主観真実を超えた〕真理    〔善悪を超えた善悪の彼岸としての〕至高の善(スムム・ボヌム)    〔相対的な美醜を超えた〕美    〔愛憎を超えた〕愛(アガペー)    〔真理がすべてにおいてすべてであることを実現させる〕全知全能 ② 絶対性からそれを擬人化して:絶対者 ③ 全知全能なる絶対者を物語化して:創造主(非経験と経験世界とは絶対の                   へだたりがあることを言っている) ④ 創造主のチカラのおよぶところとして:摂理(因果律を超えているチカラ                      による人間への因果応報なる説) 13. 神についての忖度は すべて おのおの心の内面に主観真実としておさめている限りは 自由である。良心・信教の自由。 13-1. 神についての忖度――神観――が 良心・信教の自由のもとに自由であり それとして主観真実におさめられることを 《特殊絶対性》と言う。一般性とは別次元にある。 13-2. 忖度に成る神観を成るたけ避け一般性を問い求め得た神論は 《一般絶対性》なる理論であり これを個人として抱くゆえ 《個別絶対性》とよぶ。 13-3. 神観が 或る種体系的な神学となりこれがオシへとされ得る。さらにしかもオシへが神と同等のものだと説く場合がじんるいの歴史にあった。そのような神学ないし自称神論はアウトである。人間が神をこしらえている。《文字もしくは聖なる書》という偶像が建立される。 13-4. オシへを神と説くシュウキョウというシュウキョウは その説くという発想が無意味であり ぜんぶアホンダラ教である。 14. なお《一般絶対性かつ個別絶対性》の具体的なあり方は 次のように図示できるはずだ。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我(生命性)   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如(生命性‐生命体一如)    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然および〔その依り代としての〕自然)    霊:われ(自然本性 + α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:タオ(?)    人:われ 14-1. 個別絶対性とは 信仰である。《非知なるナゾを 無条件で無根拠にてわが心に受け容れること》を言う。 14-2. 《信じる》は 《感じる・考える》を超えている。言いかえると 《信じている》ときに《感じ考える》ことを同時におこなえる。無思考や思考停止ではない。 14-3.  【梵・仏・霊】  :信じる(生命性):非思考の庭 ------------------------ 【我(霊の分有)】:考える(知性) :思考の緑野           感じる(感性) :感性の原野

  • 一般および個別絶対性理論:普遍神およびその信仰

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知(間違いだったと分かることもある)        未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)      不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。    【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心    -------------------------    【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト     【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  5. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  6. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  7. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  8. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  9. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。一般にこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く宗教は いまのこの理論の外である。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。  ☆ 以上が 標題についての仮説であり 問い求めのためのたたき台です。吟味・検証しつつさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をどうぞ。

  • 「宇宙」「世界」の姿がわかったらどうするのか?

    現在、科学分野の学問は確かに進んでいると思います。そして、特に哲学的な領域にも近い「天文」「地学」「物理」「化学」「数学」その他科学諸分野(もちろん考古や歴史文学も含みます)はその完成度を高め、ついにはおおよそ「人間が生きている世界はこんなものだよ」ということが描ききれるところに近いのではないかという印象を持ちます。 そこで、いろいろな自然現象を記述し理解することができるようになりますと、次には「何でこういう自然なんだ」「これにはどういう意味があるんだ」という疑問がわきあがりますが、これは不問に付すべきなのでしょうか。それとも、人間にはあまりに難解であるこれらの問いを発し続けるべきなのでしょうか? 個人的には、「ああ、世界はこうなっているんだ」とわかってくる感覚に対して、「行き場のない」感動感激で終わってしまい、ただ虚空に向かってその感動を叫ぶだけということになってしまいそうで、どうもあまり気が進みません。