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一定の事象に対する、個々人の知覚の仕方の差異とその構造について知りたい

一定の事象に対する、個々人の知覚の仕方の差異とその構造について知りたいと思います。 対象は主に芸術全般としたいですが、何か良書はありますでしょうか。 認知心理学は知覚全般を扱っており範囲が広すぎる感じがします。 また、美学についてはカントがいいのかなと思いましたが、未読です。 両者を兼ね備えたような学問ってありますか? 回答よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.1

事象の知覚をめぐるアプローチには、ふたつの方法があると思います。ひとつは批評哲学によるものであり、もうひとつは応用科学によるものです。 知覚についての認知研究の基礎となったのは、ゲシュタルト心理学です。知覚システムの偏好の法則をとりあげ、今日でもそれらは解明をみていません。 芸術のような表象の形式には、知覚、認知、記憶に加え、象徴解釈の問題があります。 こんにち、概念をシンボリックなものであるとする考えもあれば、神経回路の活性的な結びつきによるパターンだとする考え(コネクショニストモデル)もあり、概念というもの自体、まだ統一的な理論が付されていません。 認知というのは知覚から意味を取り出す力ですが、それを、人間の世界や歴史を構造的に創出しているものであるという重要性から見るか、または、健常な脳機能の生理学的解明や人工知能への応用という重要性から見るかで、ふたつのアプローチはさながら夢の類型論と夢の見方の違いといったような腑分けになるといえるでしょう。 批評哲学的アプローチは、知覚から意味・象徴の解釈へ至る人間の人間たるゆえんを照らし、M・メルロ=ポンティ、E・カッシーラー、P・リクール、E・H・ゴンブリッチ、E・パノフスキーなどがそうした視点から芸術について論じています。いずれも読みごたえのある重要な著作が並びます。 後者の応用科学的アプローチについては新曜社の認知科学選書が面白くわかりやすいと思います。新曜社は現象学や認知心理学の本を多く手掛けていますので、ご興味があるなら出版目録を持っておくとよいかもしれません。 「インダクション―推論・学習・発見の統合理論へ向けて」ホランド他 「アナロジーの力」K・J.ホリオーク、P・R.サガード 「誰のためのデザイン? 」ドナルド・A.ノーマン 「美を脳から考える」インゴ・レンチュラー他 「脳は絵をどのように理解するか」R・L.ソルソ すべて新曜社。 

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