ニーチェとカントの出会いって?

このQ&Aのポイント
  • ニーチェとカントの出会いについて解説してください。
  • ニーチェとカントはハーバーマスとデリダを通じて出会った。
  • ニーチェは個性と差異を擁護し、カントは世界市民権を説く哲学的社会論者だった。二人は異なる立場にいたが、デリダとハーバーマスの翻訳を通じて交流した。
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ニーチェとカントの出会い って?

 ニーチェとカントの出会い?  ▼ (三島憲一:ハーバーマスとデリダのヨーロッパ) ~~~~~~~~   デリダの〔ハーバーマス七十五歳の誕生日に際しての〕お祝いの手紙が 《我々の誠実さ》というニーチェの引用で始まっていることを忘れてはならない。デリダとハーバーマスにおいて(ひょっとしてハーバーマスは多少ともいやいやながら) ニーチェとカントが出会っているのである。  理性の欺瞞を告発し 個性と差異を情熱と芸術の名によって擁護したニーチェと 人間を目的として扱うことを哲学的社会論・政治論へと翻訳し 世界市民権を説いたカント 理性と力の癒着の告発がともすると力の理不尽な肯定という迷誤に陥ったニーチェと 理性の哲学がときとして謹厳実直な特定のライフスタイルへの固定化を誘引しがちな道徳主義的カント 政治的にはこれまでまったく違った陣営に位置づけられていた両者が デリダとハーバーマスの《翻訳》を通じて二一世紀にもっと激しく出会うならば――そして すでに二〇世紀の最後の一〇年で確実に出会っているのだが―― それぞれの迷誤と誘引をもう知らない世代の希望が出てくるというものである。  そうすれば ヨーロッパ憲法の挫折はエピソードに終わり 国際秩序の立憲化という《ユートピアなき理想主義》への道がひょっとすると見えてくるかもしれない。  これがデリダとハーバーマスのヨーロッパ つまりエアバスと武器輸出のヨーロッパではない ヨーロッパの自己像である。  そして ひょっとすると 日本の思想の世界でも 《なんとか大学なんとか学会》の習慣も 〔* 日本の学者たちがそれぞれ自分たちの奉じる外国の学者や思想家をそれにたてまつったところの〕神様や偶像を引くだけの《神々の戦い》の時代も終わるかもしれない。ヱーバーがこの表現を使った経験は もう過去のものに属するのだから。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 終章 ハーバーマスとデリダのヨーロッパ p.227 )  ~~~~~~~~~~~~~~~  ハーバーマスおよびデリダについて知りません。どなたか解説してくださいませんか。  そのほか ご感想やご見解をも述べてください。  質問者の物言いは わづかに《世界市民権》が 市井の一市民にあるというだけではなくそのことが 社会制度としても――つまり 国家やあるいは国際連合などに必ずしも頼ることなく 地域のムラ(市町村)じたいの体制としても――成っているということ このことを必須の条件とすると考えられることである。    自由なご批判をどうぞ。  

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noname#221368
noname#221368
回答No.7

 #6です。スキーヤーから会社員に復帰しましたが、今月末から草レースが増えていき、また次第に筋肉頭になっていきます・・・(^^;)。  今回のお題は合理化です。まず論点を絞ってみますが、自分の知識は科学史(それも物理史)に偏っている事は、お断りしておきます。 (1)近代科学  科学はたぶんガリレイの頃から、本質を問う事をやめ(諦め)、「いかに」と「どのように」だけを記述するようになりました。  例えば近代科学は、重力が「何故伝わるのか?」という本質は問いません。「どのように伝わるのか?」だけを記述します。  これに対して表向きは近代科学の父の顔を持っていたニュートンは、最後の魔術師の本領を発揮し、秘密にしていた遺稿の中で、「宇宙全体をその体の一部とする神の神経のような、エージェントが重力を即時的に伝える」と語り出します。  エージェントとは、ニュートンの考える物理的性質を全て持つだけでなく、神に関する意志を持つ、精霊と考えても、そんなに間違いではない気がします。  ガリレイはニュートンより1.5世紀ほど前の人で、敬虔なクリスチャンであったにも関わらず、そのような人知を越えた超越的彼岸の原因や存在(本質)を、苛烈に拒否しました。彼の神は、宇宙を開闢した以外の奇跡は、起こしません。それはデカルトも同じでした。  その結果何が起こったかと言うと、山本義隆によれば、 「人間は、何故重力が伝わるかは一つも知らないくせに、どのように伝わるのか?、だけでもって人工の天体を造った」 「ウェーバーによれば、それが合理化,主知化という事であり、それは極めて近代的な事だ」 「近代科学は、永遠に本質には達しえない事、部分合理的体系であり続ける事を積極的に肯定し、それを必要悪とした」 「何故ならそれによって初めて、技術的適用可能性が開けるから」 という事態になります。ウェーバーは次のように言います。 「我々は、地下鉄の動作機構は具体的に何一つ知らないくせに、安心して電車に乗る」 「それは時刻表さえ知っていれば良いと、確信できるからだ」 「この原則として未来は予想し得るものだという確信、これこそが近代化であり主知化であり、魔術からの解放という合理化である」  次は上記の裏の意図を、自分なりに言ってみたものです。 「しかしホッテントットはそうでない。彼らは、電車の具体的動作機構(つまり世界の全て)を了解できなければ、安心して電車に乗れないはずだ」  ウェーバーはその理念型モデルにより、強烈な文化相対主義者だったので、上記はホッテントットを辱めて言った言葉ではない事は、明記しておきます。彼にとって文明や文化のレベルという考えは、無意味なものだったと思えます。  という訳で自分は、山本義隆ファンなんです。山本義隆は、今や誰も知らない学生運動のリーダーだっただけあって、アジるのが確かに上手い。しかも彼は湯川秀樹に「100年に一度の天才」と言わしめた程の物理学者でした(当時は学生)。なので、 「人間は、何故重力が伝わるかは一つも知らないくせに、どのように伝わるのか?、だけでもって人工の天体を造った」 なんていう一文に出会うと、思わず感激してしまうんですよ(^^;)。  現在考えているプログラムは、上記視点から、構造主義,現代数学,マルクスなどのスナップショットを切り取ってみたい、と思っています。  その上で、ラトゥールの「虚構の近代」に話を持って行きたいと思っています。というのは、「奉り事が、御二階へ上がってしまった」構造と、ラトゥールの言う「虚構の構造」に親近感を感じるからです。  それは浅田彰の言う「突出構造」でもあるのですが、まぁ~、浅田彰とトリックスター達の話は、余談と思って下さい。自分も彼らは、ばっさり切って捨ててます。

bragelonne
質問者

お礼

 あらためまして こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ニュートンは、・・・「宇宙全体をその体の一部とする神の神経のような、エージェントが重力を即時的に伝える」と語り出します。  ☆ スピノザみたいなのですかね。《神即自然》というような。  ★  エージェントとは、ニュートンの考える物理的性質を全て持つだけでなく、神に関する意志を持つ、精霊と考えても、そんなに間違いではない気がします。  山本義隆は 名前は知っていますが 読んだことはありません。  ヱーバーについて《近代人》の主題でまなんだとは思いますが 《合理化》に特化させて捉えたというようには そう言えば あまり思っていませんねぇ。どういうわけか。    ヨセなる超歴史知性が平屋建てであった社会の中から第二階へアマアガリして行ったことも関連しているそうで あらためてつづってみておきます。      *  古代日本人は むしろ無神論をいだいていたのではないかという暴論を試みます。  大野晋によると 日本語の《かみ(神)》は文献〔あるいは民俗学等々〕で分かる限りでは 次のような意味を持ったと言います。  ○ かみの原義 ~~~~~   1. カミは唯一の存在ではなく 多数存在している。   2. カミは何か具体的な姿・形を持っているものではない。   3. カミは漂動・彷徨し ときに来臨して カミガカリ(神憑り)する。   4. カミは それぞれの場所や物・事柄を領有し 支配する働きを持っていた。〔産土(うぶすな)神・山つ霊(み)・海(わた)つ霊〕   5. カミは――雷神・猛獣・妖怪・山などのように――超人的な威力を持つ恐ろしい存在である。   6. カミはいろいろと人格化して現われる。〔明(あき)つ神・現人(あらひと)神〕  ~~~~~~~~~~~~~  この(6)の《神の顕現 ないし 人格神》は (3)の《神憑り》――つまりいわゆるアニミズム=すなわち《ものごとにヨリ(憑り)をする》原始心性の――を一段高いところに立って再び採り入れたものと考えられます。それに従えば ほんとうは《見えない》〔つまり(2)〕けれど 仮りに姿を見せたという捉え方および表わし方をおこなった。  つまりすでにこのように問い求めた定義からすれば われらがおや(祖先)たちは 《超自然・非経験》の領域を 何も表わさなかった。つまり強いて言えば《無い神》を立てていた。  古事記の初めには アメノミナカヌシ以下三神が登場しますが これらは《独り神となりまして 身を隠したまひき》とあります。一般に思われているアマテラスオホミカミは もっともっとのちの神です。  どうもこのように――わざと 無神論を見ようと――して来ると 日本人には 《表わさない》=《言挙げせず》という基本線があるのかも知れません。  朝 日向かしの空より昇る真っ赤なおてんとさまを見て あるいは西の山の端に沈みゆく夕焼けをながめて   ――あはっ。(ああ! Ah ! Oh ! )  と口をついて出た。そこに 絶対の神を見たのかも知れません。見なかったかも知れません。これが言われている《ものの〈あは〉れ》であり《随神(かんながら)の道》なのだとも思われます。《隠れたる神 Deus absconditus 》。  ▲ (柿本人麻呂 万葉集 巻三・235番) ~~~   おほきみは 神にしませば   天雲の いかづちの上に 廬(いほ)らせるかも  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  という歌には 思想もしくは信仰が現われていると考えます。わたしの解釈では こうです。《世の中の通念は 大君が神であると言う。なるほどそれゆえ 雲の上・雷の丘の上にお住まいである。そうかもね》と。  人麻呂には神について 絶対の概念があったからではないですか。《通念は 絶対の神と 相対の神々の世界とを混同している》と述べていませんか。人麻呂にとっては 神が《目に見えない。しかも心の目にさえ見えない》ことは当然のことだったのでは? (精神論でさえないと)。  (ただし 外(と)つ国へ出かける友に向けては 別れのあいさつを言挙げぞすると言っています)。  もっともカミがまったく姿を現わさないかと言えば 例外の事例があります。ヒトコトヌシ(一言主)のカミが 現実の姿になったところを 雄略ワカタケルは葛城山で見たし 話しをしたと言う。一言主の神は こう名乗ったそうです。     あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言     言離(ことさか・言い放つ)の神 葛城の一言主の大神ぞ     (古事記)  でも雄略ワカタケルは日本書紀では 同族を暗殺して《大悪天皇》と呼ばれている人物です。そのことを理解するために カミとヒトおよびモノとコトとの位置づけを見ておきます。  ○ (モノとコト e = mc^2 ) ~~~~~  モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主)  コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主)   ↓        ↓            ↓  自然・社会・・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・かみ  * あるいは次の図式も得られます。  モノの木――――――ねこ(根子)――――――生命の木  日の移り行くコト――ひこ・ひめ(日子・日女)――日(光源)  ~~~~~~~~~~~~~~  つまりは 先の(6)のカミは 明つ神もしくは現人神として 《オホモノヌシ=ヒトコトヌシ》なるカミの座に人間が就いたことを意味すると考えられます。これが ヨセなるスーパー歴史知性のアマアガリだと考えます。  つまりは 神はほんとうは《無い神(隠れたる神)》であって あとは仮りの分身なる神々。とふつうの歴史知性としてのイリ市民たちは思っていた。〔ヨリ(憑り)なる歴史知性以前すなわち原始心性のばあいは 《自然や社会的自然のすべてに見えない神の仮りの分身のごとき神々を見た》〕。  ヨセ超知性は ヨリ心性とイリ知性とを へんなかたちで アウフヘーベンしてしまった。《へんな合理化》である。たぶんそれは――ヱーバーの主題のひとつとしての―― 神義論がうまく人びとのあいだに行き渡らなかったゆえ すでに人間不信の状態が起きていたからではないか?  つまり 神がいるのなら なぜ悪人が栄え 善人が不幸な人生を送るようになるのか? に答えるテオディツェ―(神義論)。の未熟。・・・

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noname#195588
noname#195588
回答No.8

こんにちは。 今回はこちらに失礼します。 悟りとは何か? この質問は形而上学になるのでしょうか? 悟りは理性的なもの?感覚的なもの? 理性は、神がいるとかいないとか、そういうことまで 考えてしまうし、誤った推論もすることがある。 感覚は、錯覚のように間違うことがある。 苦しみや苦しみがなくなることは感覚的なことだと思います。 すると悟りは感覚的なことでしょうか? 感覚は、たとえば視力が2.0の人と1.0の人では見え方が異なりますが そのように悟りも感覚が異なるのでしょうか? また、それが確かに悟りだとなぜわかるのでしょうか? 人々は悟っていないから、悟りを知らないはずなのに、 ゴータマ・ブッダが悟ったと考える。 なぜ、知らないはずのものを知っているのか? なぜ、知らないはずのものを探すことができるのか? なぜ、あの人は悟ったが、あの人は悟っていないと判断できるのか?

bragelonne
質問者

お礼

 かざみどりさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  疑問文のかたちで投げ入れていただいたご回答の内容は おおよそ質問者も次のように問うたことのある主題であり課題であると考えます。  省エネ返答ですが さらなる一歩へ向けてです。  ☆☆【Q:感性は 理性よりもえらい。】 ~~~~~~~~~    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7437802.html  まづ 定義から入ります。  序  《理性》は 広くは《精神》全般を表わすこともあり 狭くは 或るコトから別のコトを論理的に導く(つまり推論する)能力を言うようです。  ひとの存在を 《身と心》に分けたとき その心のことを広義には 理性という言葉が表わす場合もあり 狭義には或るコトの意味の論理的な展開をおこなう能力を言うのだと見ます。    ひととおり定義をしておいて そのあと 表題について問います。  1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性  2. 自然本性: 身と心それぞれの性質と能力を言う。  3. 感性: 身の五感が知覚すること。  4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。  5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。  6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。おおむね善悪である。  7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。  あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。  ここまでが 知解という作業である。  8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。  8-1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。  9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。  9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。  9-2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。  9-3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。  9-4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。  10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。  11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたかたちである。      *  さて 《感性は 理性よりえらい》について 次のように問います。  12. 狭義には理性は 良し悪しにかかわる判断を含まないから そのような倫理としての意志行為とは別である。  13. 広義には 意志やら知恵やらを含めた精神全般を指して言うのなら 理性は 善悪判断をおこなう倫理や道徳にかかわっている。  14. ただし この善悪の判断というのは 自然本性のあり方としてそれぞれの《わたし》の意志にもとづく主観的なものだと考えられるゆえ その主観としてはむしろ基本的には身体の感性において 良し悪しが――ひそかに・言葉に先行するようなかたちで――告げられていると思われる。  15. わが心にさからってウソをつくなら 顔をあからめることになる。さらにイツワリをはたらこうものなら 発言に際して言葉はしどろもどろになり 冷や汗が出る。  16. たぶんこのように感性は 理性に先行してハタラキを成し 理性よりえらいと思われる。  17. なぜなら ウソをつくにもイツワリをしでかそうとするにも ポーカーフェイスをよそおうのは バレるのを避けるという推論の結果であって そのように――むろん意志による判断とともにであるが――理性がチョンボをおこなっているのだと見られる。  18. ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうには流されるのではなく しかもそのような様相を呈しながら むしろ理性が意志を巻き込んでそれを欲し横暴をきわめるのだと考えられる。すべて理性のしわざだと見られる。意志をしのいでしまうようである。  19. この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも 有力になるということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志もつい負けて飲んでしまうようである。感性は そのウソに気づいているのではないか。  ~~~~~~~~~~~~~~~  感性の内の感情の中のさまざまな欲望が 理性をねじ伏せてしまうのか。  あるいは 理性そのものが あたかも怒りという感情をむしろみづからの内に起こすようなかたちで みづからの自信や自尊心やの誇りを守ろうとして 独走するようになるのか。  そのとき 意志は どうしているのか。  まとめて 《わたし》は何を考え何をおこなおうとしているのか。  ★ なぜ、知らないはずのものを知っているのか?  ☆ ということは 生まれつきそなわった自然本性において すでに我れの知らぬところで 何かそのような《こころのふるさと》のような状態がやどっていて これを我れは欲するのであろうか?    それを 神の霊なりアートマンなる霊我なりあるいはブッダターなりと言ったのであろうか?

noname#221368
noname#221368
回答No.6

 #5です。  北海道はいまスキーのハイシーズンで、自称アルペン選手である私は(←あくまで自称でアマチュアです(^^;))、サラリーマンのくせに年甲斐もなく、スキー合宿で山籠りしておりました・・・(有給は冬のためにある!)。  もしよろしければ、もう少し待って下さい。合宿中はスピード出す事しか考えてない、筋肉頭脳でしたので・・・(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 ご投稿をありがとうございます。  へえええ。よさそうですね。  スポーツどころか 旅に出たりすることもしなくなって来ていますので ただただ はああと言っています。  ただし昔は 活発でした。  大学で二年間 それまで特にやっていなかったのに 硬式野球部に入っていましたし。  スキーは一回やったかな。寒いのがきらいだから だめでしょうね。

noname#221368
noname#221368
回答No.5

 #4です。  今回も思うところを書いてみます。まだあなたの意見(物言い?(^^))を聞いてみたいからです。 (1)ヨセとは、たぶんあなたは賛成してくれないと思いますが、浅田彰の「構造と力」の最後の結論に現れる、スサノヲ市民社会からの「突出構造」に相当するものだと思いました。ちなみに自分は、1980年代の思想界のトリックスター達、浅田彰,柄谷行人,上野千鶴子,舛添要一,栗本慎一郎らの、話は面白いが(そして可能性をアジってはくれるが)、ポスト・モダン(脱構築)とは、結論と脱構築後の展望がない点に失望を感じました。 (2)ところでポスト・モダンですが、構造主義はモダン主義(構築主義)の最終回答だと自分は思っています。何故ならそこでは、「個」さえも関係(関数)の一種になるからです。実在が、その本性として自然的な意味を担いながら、全体として組織化する。そのような幻想は、やはり一回は払底する必要があったように思います。そこにあるのは、人間の意志であるはずです。もちろん、やりすぎはありました。  シニフェとシニフィアンの実際は、かなり必然的に対応してるのは事実だと思います。そうでなかったら、Native Languageなんてあり得ませんよ。しかしそれらから、かなりの高確率で同一の数学的構造を取りだせる・・・。そういう意味で、シニフェとシニフィアンの対応は恣意的なものだ、という結論だと思います。  構造主義のもう一つの問題は、静的構造(共時的状況)では、けっこう素晴らしい分析性能を発揮するが、通時的ケース(歴史の分析)は難しい、という点です。例えば関係性に基づく「個」の定義は、時間軸に照らすと常に流動的になる。世界全体を一瞬で共時的に捉え、そこでの自己矛盾しない関係性の把握が、構造主義の前提だと思いますが、方法論的に無理があります。世界は常に流動的だからです。そしてこれはウェーバーの理念型モデルの欠点にもなります。  ウェーバーの理念型モデルでは通時性がごちゃまぜです。家産性支配も、伝統的・因習的支配も、法的支配も経済的支配も、世界同時並行で可能になります。理解社会学が注目するのは、そういう社会を成立させた動機(エートス)のみなので、歴史性は全く無視されます。マルクスはそうではありません。でも、そうも言ってられないところが、今の世界情勢の面白いところなんですかね?(不謹慎ですが)。 (3)マルクスは、通時性を重視しました。余り注目されませんが、マルクスは絶対的な進歩史観の持ち主だったと思います。科学技術に対する限りなき信頼です。それが機械論草稿などの初期の基礎研究の意義だと思います。  科学技術の限りなき進歩により、生産力は常に高まり物質的豊かさをもたらす。だからこその権力闘争です。それ以外にも彼は、「資本主義の原動力とはバブルである事(資本の自己運動)」も、「資本主義のグローバル化」も予測しました。 (4)「資本主義のグローバル化」に関しては、ウェーバー的な視点の方が捉えやすいと思います。ウェーバーによれば、近代資本主義成立のエートスとは、(時計に象徴される)「ヨーロッパ的な近代化」=「合理化」=「魔術からの解放」だと思いますが、ここで「合理化」は、極めてヨーロッパ特有の考えだと思います。「合理化」の権化の一つは、現代数学です。  現代数学の究極の目標の一つは、究極のバカチョン方式を作る事です(誰も言いませんけど)。誰がやっても、意味なんか考えなくたって正しい結果を導ける、「プログラム」を作る事です。その成果が、現在のIT社会です。  究極のバカチョン方式とは、一定の訓練さえ踏めば、誰でも同じ結果を出せる方法という事になります。そのような方法が、その応用結果である物質的豊かさと供に資本主義(自由主義経済)として、少なくともデモンストレーションされる訳です(豊かになれる方法が、そこにある!)。こんなのには、誰も抵抗できないと思うんですよ。「資本主義のグローバル化」は、ある意味当然だろう、と自分は思います。  そして悪魔と手を結ぶ訳です。責任倫理さえ守れば良いのさ、と言いながら・・・。しかし責任倫理は本当に不明確なものであり、論理的な解決を諦めた時点で発生します。かつそこでの行動指針は、大多数が酷い目に合わないように「実践的に頑張れ」、だけです・・・。 (5)最後に二枚舌についてですが、最近面白い本を読みました。ブルーノ・ラトゥールの「虚構の近代」という本です。  じつは近代構築主義というのはなかったし、幻想だったという趣旨です。ウェーバーもレヴィ・ストロースもマルクスも、ある意味文化相対主義者なのだけれど、何故か西欧科学や資本主義の発生に関しては、分析し切れていなかった。その理由とは何か?。そしてポスト・モダンは、問題提起しただけで展望(再構築の方法論)がない、と切って捨ててくれます。面白かったです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。(ご存じかどうか じつは今は 別の質問で六連投とか十連投とかの回答を寄せてもらって――回答はありがたいものです。とくに批判を貰えるのはいちばんありがたいものです。次に賛同です―― かなりがんばっていましたが きょうはだいじょうぶです)。  さて  ★ (1)ヨセとは、たぶんあなたは賛成してくれないと思いますが、浅田彰の「構造と力」の最後の結論に現れる、スサノヲ市民社会からの「突出構造」に相当するものだと思いました。  ☆ 《突出構造》が もう分からないでいます。忘れています。  浅田彰と言えば もしそれが事実であり真実であるとしたらというような留保条件つきでですが 《ヒトの生は まづその生命〔活動〕じたいとのズレがありき》と見てそこからすべての世界認識を始めていたと思います。  これは 仮りに議論をするなら わたしの見方としては《自然本性》を初めに立てますから その生まれつきのヒトのあり方としては ズレていない。つまり 自由意志は わが心にしたがう自由もさからう自由もあるので ズレ得るが ズレていない状態で生まれて来ていると見ます。  たぶん初めにズレがあったとするなら それこそアマテラス普遍性を持ったアマテラス科学語もしくはアマテラス人格語によって 規範や規律を導き出して掲げ これによって 生まれつきズレのある自然本性としての人びとを束ね寄せることをしなければ 人間社会の秩序は保てない。と見るのでしょうね。  このようなアマテラス語化としてのアマアガリ――アマクダリがあるなら それより前にアマアガリがあったはずだ――を その秩序を作り出そうとする者たちは果たしたはずです。そしてこのアマアガリの志向性および実際の出世街道をのぼることを 《突出構造》と言っていましょうか?  いえ。よく覚えていません。分かりません。《アマアガリ》のことだとしたら むろんそのまま《ヨセ》なる超歴史知性のことを言うと思います。  ★ 1980年代の思想界のトリックスター達、  ☆ については それほどわたしも思いもないのですが――中で舛添はテレビで話を聞きましたが 著書は読んでいないと思います―― 何かの拍子に何らかの評言が出来るかも知れません。出て来ないかも知れないのですが 今回は見送っておくこととします。つまりまたの機会にということで。  ★ (2)ところでポスト・モダンですが、構造主義はモダン主義(構築主義)の最終回答だと自分は思っています。何故ならそこでは、「個」さえも関係(関数)の一種になるからです。  ☆ そういう見方ですか。つまりその《関係》は けっきょく網の目の目ではなく節ですね 結節点(結び目)としての節がないと言っていることになるわけですから――つまり《主体なき過程》でしょうから―― 社会の《構築》はせず すべて言わばふにゃふにゃの《構造》にしたいのかと思っていましたが そう思っていたのですが 《関係》を説くことは 《モダン》な《構築主義》の一環だというわけですね。  ふにゃふにゃの構造だとすれば 構築される人はすでにのっぺらぼうになるかとは思います。    おそらくつまり 《構造主義はモダン主義(構築主義)の最終回答だ》というのは 《脱構築》では必ずしもなく《ズラシ》でもなく むしろ《主体無し・顔無し》の人間関係を堂々とわるびれず胸を張って最後の栄光をあびるべく《構築》しようとした。こういうことでしょうか?  ★ シニフェとシニフィアンの実際は・・・  ☆ うんぬんについては わたしに一家言があります。ですがこれは No.3お礼欄のソシュール批判の参照質問でのやり取りにゆづります。  ★ 構造主義のもう一つの問題は、静的構造(共時的状況)では、けっこう素晴らしい分析性能を発揮するが、通時的ケース(歴史の分析)は難しい、という点です。  ☆ この共時的状況ですが どうしてこのように一時期に限るのかが 初めから今までずっと分かりません。通時的系列をもけっきょくとしては 同時に一緒に捉えるものと思っています。そういうものだということで 理由があいまいままにです。  ★ 世界は常に流動的だからです。そしてこれはウェーバーの理念型モデルの欠点にもなります。  ☆ そうですか。《理念型》は よくもわるくも作業仮説であり そのうちの概念用語であると思っています。通時的な分析にも使用しうるとは思います。  というよりもあるいは いちいち《理念型》という特別の用語を用いることすら要らないと思いますが。  ★  ウェーバーの理念型モデルでは通時性がごちゃまぜです。  ☆ これでいいのだと思います。特にさしさわりはないと。  ★ 家産性支配も、伝統的・因習的支配も、法的支配も経済的支配も、世界同時並行で可能になります。理解社会学が注目するのは、そういう社会を成立させた動機(エートス)のみなので、歴史性は全く無視されます。   ☆ あぁ そういうことですか。つまり たとえばわたしが アマテラス普遍性を持ったアマテラス科学語とかアマテラス人格語という用語を持ち出すとき・さらにつまり イリなる歴史知性やヨセなる超歴史知性やを引き連れて来るとき 確かにどの時代の歴史とどのように対応しているのか。こういったことを詳しく述べて その術語の概念内容を明らかにしておかねばならない。こういったことでしょうか?  それはそうでしょうね。  まぁ わたしは発想のみを提出して 学問的作業は専門の方々にお任せするという横着な姿勢でいるわけですけれど。  スサノヲ市民のその素朴で粗野でしかも自然本性のへそを曲げない 曲げてもやがてその元の道に立ち帰るその自由さ。これを 人格語や科学語に対して スサノヲ人間語と言っていますが そういう対比によって 抽象化したかたちで 通時的な議論に耐えることが出来ればよいと思っています。  マルクスも――80年代のトリックスターたちの場合と同じということでもないでしょうが―― どう応答してよいやら またどこから話を始めればよいやら 分かりがたいので まづは保留とします。  ★ (3)マルクスは、通時性を重視しました。余り注目されませんが、マルクスは絶対的な進歩史観の持ち主だったと思います。科学技術に対する限りなき信頼です。それが機械論草稿などの初期の基礎研究の意義だと思います。  ☆ なるほど そういうもんですか。資本主義が発展していくと見ていたわけですからね。その途中では その《発展》によるヒズミに対して それから来る苦しみをやわらげる政策を打つことはできると言ったのだと思います。その当時はいまただちに革命が起きるわけではない。と。  簿記の発明にしても それを評価していましたね。機械や道具の進歩をそれとしておもんじた。でしょうか。  ★ それ以外にも彼は、「資本主義の原動力とはバブルである事(資本の自己運動)」も、「資本主義のグローバル化」も予測しました。  ☆ そうでしょうね。何でしたっけ? 剰余価値の再生産における自己増殖?  世界の隅々にまで資本主義のクルマが自己運動して行きわたったところでようやく 《一挙に》コミュニズムの革命が起きるのだとか何とか。  ★ ウェーバーによれば、近代資本主義成立のエートスとは、(時計に象徴される)「ヨーロッパ的な近代化」=「合理化」=「魔術からの解放」だと思いますが、ここで「合理化」は、極めてヨーロッパ特有の考えだと思います。「合理化」の権化の一つは、現代数学です。  ☆ 議論の中身を判定するのは 《経験合理性》だということでしょうね。《推論》の緻密さでしょうか。  もっとも 例のパスカルは そのような《幾何学の精神》と相並んで《繊細の精神》も同じくあると言っていましたが。  ★ ~~~~  現代数学の究極の目標の一つは、究極のバカチョン方式を作る事です(誰も言いませんけど)。  ・・・  究極のバカチョン方式とは、一定の訓練さえ踏めば、誰でも同じ結果を出せる方法という事になります。  ~~~~~~  ☆ そうでしょうね。わたしなんか パソコンもテレビの操作のようにかんたんにして欲しいくらいですから。  ★ こんなのには、誰も抵抗できないと思うんですよ。「資本主義のグローバル化」は、ある意味当然だろう、と自分は思います。  ☆ ぢゃあ さっきの繊細の精神(エスプリ・ド・フィネッス)の出番であるかも知れません。日本人は 文句なしに 待ってましたと言えるでしょう。  次のご指摘は 重要でしょうね。  ★ そして悪魔と手を結ぶ訳です。責任倫理さえ守れば良いのさ、と言いながら・・・。しかし責任倫理は本当に不明確なものであり、論理的な解決を諦めた時点で発生します。かつそこでの行動指針は、大多数が酷い目に合わないように「実践的に頑張れ」、だけです・・・。  ★ 何故か西欧科学や資本主義の発生に関しては、分析し切れていなかった。  ☆ わたしは手前味噌で 《勤勉》つまり勤勉志向は重要だと思っています。資本主義とひとことで言っても 言わば自然本性に見合った資本志向はあるわけで 昨日よりは今日 今日よりは明日を目指す勤勉に特別のさしさわりはないと思うからです。  ★ ブルーノ・ラトゥールの「虚構の近代」  ☆ の論旨と二枚舌との関係が いまひとつ分かりにくかったですが 何かもうひとつきっかけがあったら手にしてみたいと思います。

noname#221368
noname#221368
回答No.4

 #3です。返信を読みました。  以前、【Q:最新の現代思想、哲学で今の世界を解釈してください。】回答No.2は読んだのですが、その時は胡散臭いと無視しました。けれどこのような文脈で再会すると、共感できます。  お礼欄に書かれたようになって欲しいですよ。それはもちろん・・・。ただまた、悲観的な事を言ってしまいそうです。そこは、お許し下さい・・・。  村社会は、原始共産性を彷彿とさせました(自分には)。でも現代での話ですから、技術レベルは全然違います。そうなるとこれは、SF的なユートピアですよね?。もちろん、それを否定する訳ではありせん。そうねって欲しいですよ、本当に・・・。  ウェーバーの言った、共産主義の組織論的欠陥とは、ソ連のまわり中が自由主義だという点です。そのような状況下にあっては、共産主義国家は国家資本主義にならざる得ないと。世界にたった一つの共産主義国家は、まわり中と自由競争する必要に迫られる。そこに勝てなければ、国民を養っていけないから。  しかし共産主義国家は、共産党一党独裁である。一党独裁なので、それは計画経済というものに親和性が良い。そこに自由主義経済圏との競争という外圧が加われば、計画経済は必然になる。ところが計画経済と官僚制というのは、「制御する」というエートスにおいて、両輪のように働く。結果として現れるのは、官僚エリートという利権集団である。  この利権集団は、一党独裁であるが故に、歯止めを持たない。結果として、物を生みださない官僚組織、管理機構だけが肥大し続けるであろう。国家の生産力が、肥大化し続ける管理機構を支えられなくなった時、共産主義は破産する。  上記に対するマルクス研究者からの反論は、「世界同時プロレタリアート革命が起こるから、それは一過性のものだ」でしたが、現代史を見る限り残念ながら、そうはなりませんでした。自分はソ連の崩壊は、ウェーバーのシナリオ通りだったと思っています。  個人的な思いで言えば、ソビエト連邦が崩壊したからと言って、(哲学者で歴史家でもあり科学者でもあった)マルクスの壮大な未来予測が外れたとは、思っていません。彼の理論は、今だ未検証です。マルクス/エンゲルスは、いささか性急だったし、前世紀の科学的/技術的進歩を予想できなかっただけだと思います。  その意味で、あなたの理想は、これからだと思います。ひどい話ですが、もう一回世界大戦でもやって、人間は痛い目を見ないと、そのコンセンサスは形成できないのかも知れませんが・・・。ユーロはいま色々と問題を抱えてますが、ユーロの根底には、二つの世界大戦の反省があったのは、絶対確かです・・・。  現在の日本文化の底辺部には、村社会への回帰なり憧れを(エートスを)標榜する作品が目白押しです。そういうものがある限り、諦めなくても良いですよね、きっと・・・(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  でしたら よけいに奇妙奇天烈なお話をかかげてみます。  ◆ ~~~~~~~~~~   今回の質問を、  「あれ、bragelonneさん、どうしてしまったんだろう? 壊れてしまった?」  などと失礼なことを考えつつ、  笑いながら、拝読させていただきました。  ~~~~~~~~~~~  ☆ という前置きから回答を寄せてもらった質問での趣旨説明欄の引用です。  【Q:アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7485189.html  すなわち インタムライズムを推し進めるためには 日本が先頭を切って先駆者とならなければならないという考え方です。    ☆☆(上記質問の趣旨説明欄) ~~~~~~~  アマテラスお二階さんは 一階のスサノヲ市民社会に大政奉還すべし。  いわゆる地域主権について問うものです。  ムラ=市町村 の主体性を発揮する時代へと移行しましょうか?  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずだ。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人 この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前がある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. 大政奉還のもんだいは 《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制としてのマのあり方を問う。  6-1. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイをめぐる正し方 こういった問題である。  6-2. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  6-3. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは 《 S (大政主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-4. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろ理念に合わせたものなのではないか?  6-5. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-6. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。  6-7. つまりそれが アマテラス科学語およびアマテラス人格語であるが これは アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。つまりその神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-8. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象である。  6-9. ゆえにアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。  6-10. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとする反措定に対する反措定であるから 綜合であり人間のふつうの存在(知性)の肯定であると考えてよいのではないか?   6-11. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマチガイからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。(かな?)  ~~~~~~~~~~~~~~~     *  《ソ連》の問題は マルクスの捉えた社会主義の登場の仕方ではなかった。資本主義の先進国においてこそその動きが起こって革命が成るのだとマルクスは見ていた。  ですから ソ連の場合は 《段階の飛び越し》という見方で――つまり それが可能か不可かという問題として――捉えられたと思います。  計画経済も問題だと思いますが この場合も 経済の動きを政治がどう 社会公共としての市民生活のあり方へとみちびくか? という問題でもあったのではないか。  その点 おっしゃるように政治家も官僚も グルになって やはり《 A (アマテラス公民圏主導)- S (スサノヲ市民圏従属)》といった二階と一階との逆立ちした連関制を保守しつつやりくりするしかなかった。  このことでひとつ思うことは けっきょく唯物論的弁証法的史観の方程式にのっとるかどうかは問題ではなく 各国あるいはその地域社会が 好きなように自分たちの社会を形成し再形成するのだということです。  その内容が また 問題ですが。

noname#221368
noname#221368
回答No.3

#2です。なんか全然「ニーチェとカントとの出会い」には応えていない気がしますが、ちょっと意見を伺いたくなりました。返信が遅くなって、すいません。 >あとは 経済という土台を政治(共同自治)がどこまで 勤勉志向を基本とするかたちに再編するか。だと考えますが そんなことを言っていてもとどかないかぁ。 についてです。なのですが・・・。  ところで、あなたと私は(過去の経験から)、たとえ同じ事を述べていても、使用する言葉が全く違います。そしてお互いに、わかりにくいです。不要な誤解を、お互いに避けたいので、以下の余談に少々おつきあい下さい。 「余談」  我々は「民主制」を信じている、・・・言い過ぎであれば少なくとも受け入れている、とは思います。しかし我々の受け入れる「民主制」が成立するためには、けっこう広い範囲でのコンセンサスの成立が不可欠だったと、自分には思えるんです。  史実に残っている最初の「民主制」はローマ時代まで遡れますが、ローマ時代の「民主制」は、我々の受け入れる「民主制」とは違うと思うのです。それは塩野七生の「ローマ人の物語」によれば、古代ローマの「民主制」は、権力闘争の「手段」だったからです。  平民が貴族院の政治体制に楔を打ち込むための手段でした。それはあくまでも手段なので、小国寡民でしか成立し得ず、ローマがヨーロッパの田舎町から少しでも大きくなると、本意を隠した軍事独裁政権獲得への手段として、すぐに変貌して行きます。その結果は、ローマ帝国となって結実します。  しかし我々は「民主制」をそうは思ってはいない(と信じたい)。我々のコンセンサスは、「最良ではないが、他よりはましだ」だと思います。だから自民党も民主党も(一瞬だけ)、半世紀以上にわたって許してきたんですよ。  そして、「民主的」な「イスラム法治国家」であっても、(キリストや)モハメッドを侮辱する言動は、国家が積極的に罰するかも知れない(たぶん死刑)。政教分離がなされていないからですが、そのような国に生きる人達にとって、政教一体なのは、当たり前でしょう。なので彼らは、アメリカの態度を理解できない。  我々は、アメリカの態度を理解できる。それは、そう教育された効果は絶大なのですが、我々にとって政教分離は当然だからです。何故なら、政教が分離していない政治体制は、我々の信じる「民主制」を、常に脅かす可能性を持っているからです。  そう考えると、我々の信じる「民主制」というのは、我々の感覚では「歴史的経験によって成立したコンセンサス」に基づく「進歩」なのかも知れませんが、それはほぼ欧米圏です。なにせ日本は過去、「脱亜入欧」でしたから・・・。  逆に言うと、我々の信じる「民主制」は、非常に日本という国の歴史的時代的制約を受けており、それを輸入した先の欧米圏の歴史的時代的制約を受けたものだ、という事ができます。ここでその価値判断は行いません。とにかく我々は、それを受け入れています・・・。 「質問」  ・・・で、やっと質問です。 >あとは 経済という土台を政治(共同自治)がどこまで 勤勉志向を基本とするかたちに再編するか。 と言う時、あなたは、どういうコンセンサスを想定しているのでしょうか?。

bragelonne
質問者

お礼

 ddtddtddt さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。ご返答が遅くなりました。  やや考えましたが 《政治経済学》として一丁前の知見を示すまでのチカラがわたしは足りません。  かなり長期的な視点で捉えることはおこなっていますので それでもよいと考えて かかげます。  というのは いま現在実現性にとぼしいとしても ぎゃくに言って すでにいま展望を持って見守っていくのであるし じっさいいまおこなっている事柄にしても 長期の視点を入れてみるとあんがいおもしろいかも知れない。こう思われたところから その 粗いですが 展望をしるします。         *  【Q:最新の現代思想、哲学で今の世界を解釈してください。】回答No.2   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7834723.html  1. 資本主義のグローバル化が加速度を増してすすんでいる段階だと見ます。  先進国群が 経済成長を遂げたあと あらたに高度成長を遂げる国々が興り グローブなる地球の隅々にまであるいはその内側へも外側へも資本の論理をおよぼそうとしている段階であると。  経済の論理としては この運動を止めることは出来ないと思われます。  共同自治――政治ですがつまり社会のお二階から指導するようなかたちではなく むしろ一階の市民社会つまりふつうの人びとの生活とその思想が主導するかたちの自治共同――これが台頭して 経済の軌道を修正出来るかどうか。  2. 国家が おそらくその誕生のときから千年・二千年あるいはもっと長く時を経てそろそろその終焉をむかえているのではないか。  前項における市民社会あるいはつまりムラ(市町村)の主導による共同自治が始まるなら やがてその使命を終えて消えて行くでしょう。  3. 思想は 生活観として再編成されていくでしょう。  ポスト・モダンの思想のうち 構造主義は 《主体》を批判するにチカラ有り余って 産湯といっしょに赤子をも流して捨て去ってしまったかに思われます。  関係主義はそれでよいのでしょうが その網の目のつながりのほかにその結び目もあるということ。これは やはり自由意志を中軸とする主体としての人間だと考えられます。  網の目の結節点が 人間という一人ひとりの存在であるということ。これが 抜け落ちてしまったと考えられます。  ソシュールが出ていますが 語におけるシニフィアンとシニフィエとの結合は 決して自然のそして論理的なきづながそこにないというわけではありません。言語記号の恣意性は ただの神話であって マチガイだと考えます。詳しくは 次の質問の趣旨説明などを参照してください。  【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html    4. 生活観が思想となるということは いわゆる宗教が消えます。  現実性のない観念論としての思想は 省みられません。哲学は 可能性のあるところにはどこにでも・またどこまでも出かけて行きますから その抽象性とそれが誘因であることはなくなりません。  けれども けっきょくのところとして 思想としての現実味のない内容つまりオシエをもった宗教は もうはっきりとお呼びではないとなります。  じっさいの社会生活として 自分たちの共同自治が出来ないという無力感のもとには たとえインチキな宗教であっても何がしかの存在意義があったと見るべきかどうなのか? 生き続けていたことは 事実なのでしょうね。  5. やがて ムラのオサ(長)は 市民のあいだからの当番制となりましょう。  そういう自治体が 世界中で互いに手を結び合って 経済的にも文化的にも 安寧とそれとしての繁栄を目指して共生して行きましょう。  政治的にも共生するのであって ムラ議会には よそのくにの人びとも議員となって――つまり互選方式で連携しあって―― 互いによりよい社会生活を目指すことでしょう。インタムライズムと言います。インタナショナルなインタムライズムです。国連は要らないか または このインタムライズムに仕える付属機関となります。       *  6. ムラは いくつかの国のムラと連携します。TPP かどうかは分かりません。(これは 冗談です)。  人間の交流をおおいにすすめるのがよいでしょうね。  そして そのインタムライズムに企業をも巻き込むことに成ると考えます。仲良くやっていくしかないと思います。  企業のオサ(長)は 適材適所で決められましょうが ムラのオサは 究極には当番制でよいのではないか? 裁判員制のようなものですね。任期を決めて 当番で当たる。少なくとも考え方としてそういう発想を持っているのがよいと思います。  7. よいアイディアが寄せられるといいのですが。・・・

noname#221368
noname#221368
回答No.2

 #1です。  これまで何度か言った事を、感想として述べただけです。余り深くとらないで下さい。 >☆ 資本主義の行き着いた先のことでしょうか?    ◆ (ヱーバー:プロテスタ・・・倫理) ~~~   精神のない専門人、心情のない享楽人。   この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階まですでに登りつめたと、自惚れるだろう。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  これ 読むと 何ともやりきれない思いにかられるのですが・・・。  何でこんな言い方をするのか? >発言者は いったいどこに位置しているか? まさか人工衛星に乗って地球をながめているんぢゃないですよね?  上記はたぶん、当時のプロイセン帝国に向けて言った言葉でしょう。国に思想がないと。  確かにウェーバーには大仰なところがありますね。自分の所属していた歴史学派に向かって、「お前らのやってる事は科学じゃない」と決別の言葉を投げた彼ですが、その学風はしっかり受け継いでます。ちゃんと読んだ事はありませんが、シュモラーやモムゼンの大仰な言葉「(神の手になる)文化的総合に由来する必然的歴史的進歩」などを目にすると、ウェーバーの物の言い方も、この路線なのだろうなと思います。 >☆ 資本主義の行き着いた先のことでしょうか?  言いかえると 解決に向けての心が見えない。  自分の哲学は あえて言えば皆無ではないでしょうか?  ですから  その倫理と資本主義の精神の芽生えの段階において その欠陥を指摘し 警告を発するかたちで議論は展開せねばならない。 >  ウェーバーは論理的な解決策はないと信じた。哲学によっても学問によっても科学によっても、その範疇では答えが出ないと。「なので後は、実践的に頑張れ」と言い残しただけだと思います。確かにその意味で、哲学は無いですね。  もう一つは、ウェーバーは資本主義を推奨する。何故なら彼の関心事は、上からの近代化でなく、自然発生的な近代的資本主義をドイツに根づかせる事だったから。なので資本主義の欠陥を指摘するものはほとんどない。「近代化」=「魔術からの解放」が、「精神のない専門人、心情のない享楽人」を生み出しやすいのは見抜いていたと思いますが、主にあるのは、近代資本主義的でない精神への批判で、ここが彼の政治論へつらなっている気がします(「精神なき専門人、心情なき享楽人」への防護柵でもある気がします)。  逆に共産主義に対しては、組織論的な考察から欠陥を指摘し、崩壊を予想する。ソ連の崩壊過程は、概ね彼のシナリオに一致するように、自分には見えます。 > ◆ (ヱーバー:プロテスタ・・・倫理) ~~~ > 精神のない専門人、心情のない享楽人。  現代性を感じると言ったのは、そこではないんです。つまり《神々の戦い》の部分です。誤解したかも知れませんが、解決不可能な価値の闘いの事です。  19世紀,20世紀初頭は言うに及ばず1950年~1980年頃は、冷戦体制の存在とインターネットも衛星テレビもなかったおかげで、衝突し得る価値を持つ集団は、世界のそれぞれのテリトリーで局在することができた。1990年代までは、ぎりぎりそれが可能だった。  それが不可能になって起こったのが、9.11やアラブの春だと思います。先日のテロ事件も。まさに資本主義がその目的を達成するために、グローバル化を進めていると、言って言えない事はない。今やかつてないほど、和解不可能な価値が世界中で競合している。そんな風に感じます。(否定的な意味で)そこに現代性を感じました。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~  現代性を感じると言ったのは、そこではないんです。つまり《神々の戦い》の部分です。誤解したかも知れませんが、解決不可能な価値の闘いの事です。  19世紀,20世紀初頭は言うに及ばず1950年~1980年頃は、冷戦体制の存在とインターネットも衛星テレビもなかったおかげで、衝突し得る価値を持つ集団は、世界のそれぞれのテリトリーで局在することができた。1990年代までは、ぎりぎりそれが可能だった。  ~~~~~~~~  ☆ そうですか。ここらへんは 何ともしっかりとした評論はしたことがありません。  ddtddtddt さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。つづいて  ★ ~~~~   それが不可能になって起こったのが、9.11やアラブの春だと思います。先日のテロ事件も。まさに資本主義がその目的を達成するために、グローバル化を進めていると、言って言えない事はない。今やかつてないほど、和解不可能な価値が世界中で競合している。そんな風に感じます。(否定的な意味で)そこに現代性を感じました。  ~~~~~~  ☆ 時事ですとか あるいは戦争史や外交問題 こういうのが苦手です。  《アラブの春》と言いますか イスラームとの交通がうまく行くのは わたしの世代では無理ではないかと思って来ましたので これは 《想定外》の動きかも知れません。  ★ 和解不可能な価値が世界中で競合している。  ☆ ですか。この質疑応答の場においてさえ衝突が絶えませんから さもありなんとは思います。思いますが 共通の基盤がなくはない。それをさがす旅にあるのが ここでのやり取りではあります。  そうですね。資本主義としては すでに書いたことがあると思いますが 勤勉志向とそして勤勉志向主義としてのガリ勉 このふたつの思考=および行為形式があるとは考えます。  資本志向と それの自己目的化されたような資本志向主義とです。  勤勉志向のキャピタリズムなら ヱーバーが肯定したとしても分かります。    あとは 経済という土台を政治(共同自治)がどこまで 勤勉志向を基本とするかたちに再編するか。だと考えますが そんなことを言っていてもとどかないかぁ。  でも 政治は――ヱーバーに言わせれば―― 悪魔と手をむすぶわざだそうですから どうなりますやら。  いえ 希望は捨てませんが。  

noname#221368
noname#221368
回答No.1

>前略・・・デリダとハーバーマスの《翻訳》を通じて二一世紀にもっと激しく出会うならば――そして すでに二〇世紀の最後の一〇年で確実に出会っているのだが―― それぞれの迷誤と誘引をもう知らない世代の希望が出てくるというものである。  そうすれば ヨーロッパ憲法の挫折はエピソードに終わり 国際秩序の立憲化という《ユートピアなき理想主義》への道がひょっとすると見えてくるかもしれない。  自分もデリダとハーバーマスの《翻訳》について知らないのですが、本当にそうだったら良いなぁ~、と思います。 >そして ひょっとすると 日本の思想の世界でも 《なんとか大学なんとか学会》の習慣も 〔* 日本の学者たちがそれぞれ自分たちの奉じる外国の学者や思想家をそれにたてまつったところの〕神様や偶像を引くだけの《神々の戦い》の時代も終わるかもしれない。  (何でもいいですが)所謂学会からはここ10年ほど離れていますが、理数系,工学系のせいか、奉る神様や偶像なんか見た事がありません。あるとすれば、数学の神様でしょうか?。「我々はカントールの楽園を出る事はない(ヒルベルト)」・・・です(^^;)。 >ヱーバーがこの表現を使った経験は もう過去のものに属するのだから。  そうかなぁ~、と思うんです。何回か言いましたが、現状を見る限り、ウェーバーの言った通りに今の世界はなってしまった、と自分は思うんです。グローバル化のおかげで・・・。自分はそこにウェーバーの現代性を感じる訳です。

bragelonne
質問者

お礼

 ddtddtddt さん こんばんは。ご回答ありがとうございます。  ★ 自分もデリダとハーバーマスの《翻訳》について知らないのですが、本当にそうだったら良いなぁ~、と思います。  ☆ いやぁ ほんとうにいいことを言っていますよね。おどろいたのです。  フランスの哲学関係はほとんどばかばかしくなってしまいがちだったのですが こういうウゴキもあるのだと思ったところです。  でもデリダは 読もうとして挫折するを繰り返し ハーバーマスはところどころに名前とその紹介が触れられているのを目にすることはあっても読んだことはありません。  ちらっとでも何らかの解説が ここでの直接のやり取りで得られたらなぁと思っての問い求めです。(ちょっと横着な)。  ★ (何でもいいですが)所謂学会からはここ10年ほど離れていますが、理数系,工学系のせいか、奉る神様や偶像なんか見た事がありません。  ☆ そうなんですか。理系では 日本の研究者も欧米と対等だということでしょうか。  文系の関係について少し引用してみておきましょうか。  ▲(三島憲一:神々のパッチワーク) ~~~~  哲学や社会学のみならず 文化系や社会科学系の分野一般で 学問の精神とはまったく相反する神様遊びと偶像崇拝がわが国に横行して久しい。西欧の偉大な思想家や理論家を 自分が世界を見る枠組みにしてそれで《事足れり》としている気配が 今なおいたるところに濃厚な事態のことである。  それはヘーゲル ルソー マルクス フッサール ニーチェといった古典であったりする場合もあるし マックス・ヴェーバー ハイデガー バーリン シュトラウス あるいはハンナ・アーレント ハーバーマス フレーザー バトラーといった比較的新しい名前であったりする場合もある。  多くの人は ときには卒論以来一貫してそういう名前とつきあってきて もはや その神様が作ったものの見方や概念以外では頭が動かなくなっている。もしも神様が批判されると 《一部だけ読んで批判されても》とか 《最近出ている遺稿を見ると そういう単純な批判はできない》とか 《それを彼に要求するのは無理だよ》といったかたちで なんとか自分のアイドルの名誉を救おうとするのが よくある台詞である(・・・)。  当該の神様=思想家の書いたものをたくさん読んでいる方が その神様=思想家をちょっとかじった人間より ものがよく見えるという特権性が自動的に発生するという思い込みは 日本独特と言ってもよい。マックス・ヴェーバーのようにかつて極度に偶像化されていた場合には 今度はヴェーバー教団の内部で 本家と分家の とても学者同士とは思えない激しい個人的誹謗中傷も含めた乱暴な言葉が交わされるが それは大なり小なり他の教団や宗派にもあてはまる。  また こうした教団や宗派の総括責任者は ときには神様のヴェーバーやニーチェやハイデガーより偉いことがある――本願寺の宗務総長がときによってはお釈迦様より偉いのと同じかも知れない。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 終章 ハーバーマスとデリダのヨーロッパ pp.189-190 )  ~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~~~  現状を見る限り、ウェーバーの言った通りに今の世界はなってしまった、と自分は思うんです。グローバル化のおかげで・・・。自分はそこにウェーバーの現代性を感じる訳です。  ~~~~~~~   ☆ 資本主義の行き着いた先のことでしょうか?    ◆ (ヱーバー:プロテスタ・・・倫理) ~~~   精神のない専門人、心情のない享楽人。   この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階まですでに登りつめたと、自惚れるだろう。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  これ 読むと 何ともやりきれない思いにかられるのですが・・・。  何でこんな言い方をするのか?  発言者は いったいどこに位置しているか? まさか人工衛星に乗って地球をながめているんぢゃないですよね?  言いかえると 解決に向けての心が見えない。  自分の哲学は あえて言えば皆無ではないでしょうか?  ですから  その倫理と資本主義の精神の芽生えの段階において その欠陥を指摘し 警告を発するかたちで議論は展開せねばならない。  《鉄の檻》は すでに《時は金なり》という命題を宣言したときからつくられつつあったのだと。わが心にそのような枠組みをはめて生きようとしたのでしょうから。  とは思いませんか? それとも  ★ ウェーバーの現代性を感じる  ☆ とおっしゃるのは 違った意味合いででしょうか? どういう内容でしょう? できたらご披露ください。

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    カントの入門本『カント 信じるための哲学―「わたし」から「世界」を考える』石川輝吉を読みました。 カントは純粋理性批判で世界や有限や無限に関するアンチノミー(二律背反)を提示していますが、これらは19世紀~20世紀の科学を通過した現在では議論は成立しないのではないでしょうか? ・無限は存在し、濃度の差がある 集合論 カントール ・時間と空間は相対的である 相対論 アインシュタイン ・物質はエネルギーである 相対論 アインシュタイン ・物質は粒子と波の性質を持つ  量子論 ハイゼンベルク ・物質の位置と運動量を同時にわかることはできない 量子論 ハイゼンベルク  など の科学的な成果を哲学のほうではどう捉えているのでしょうか? 入門本ではカント以後の展開として、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、アーレントを 取り上げてて科学のほうは完全に無視されていました。

  • ニーチェの《生きる》からソクラテスのそれへ!?

     ニーチェ論において次のような課題つきの回答をもらったところ その次にかかげるような応答をしました。  この問答そのものを主題として問いたいと思います。    無条件にご自由にご見解を述べておしえてください。  ◆ 《或る回答》 ~~~~~~~~~~~~~  ニーチェの思想に対抗するなら  ソクラテスの思想になると思います。  「それはつまり、大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、  善く生きるということなのだというのだ。」  この「善く生きる」でしょう。  ソクラテスの自殺。  もしくは無理やり仏教の話題を出すなら  ブッダである、サーリプッタの自殺。  長生きしたゴータマ・シッダッタよりは  サーリプッタのほうが、生への執着を断っていると思います。  このヨーロッパとインドの自殺。  善く生きるなんて言ってソクラテスは自殺した。  さすがアイロニーの使い手のソクラテス。  結論が自殺なんですから。  ソクラテスの思想は難しいですね。  ☆ 《応答》 ~~~~~~~~~~  おおきな主題を投げ入れてもらいました。  てめえで考えよというところも 結果的にあるようですが それはわたしはいぢわるですからハッキリと言っておきますが  ◆ 善く生きるなんて言ってソクラテスは自殺した。  ◆ ソクラテスの思想は難しいですね。  ☆ というふうに触れておられるからには ご自身もこの主題を立てつつさらに問い求めるという姿勢でいられるものと思います。  そうですね。ボールはこちらのコートに入ったからには これはねじり鉢巻きで打ち返さねばなりませんね。  1.ニーチェにおいて《生きる》とは? ソクラテスの《善く生きる》とは?  ● (渡邊二郎:補論 ニーチェ――生きる勇気を与える思想)~~~~  もうひとつ 『悦ばしき知識』におけるニーチェのもっと恐ろしい言葉を掲げよう。     *註 《もっと恐ろしい》:この議論は次の《恐ろしい言葉》の指摘のあとを承けている。          《小さな復讐は たいていの場合 まったく復讐しない      ことよりも なにかいっそう人間的なものである》     ( Eine kleine Rache ist zumeist etwas Mensch-     licheres als gar keine Rache. )      (『ツァラトゥストラ』I 《まむしのかみ傷》)    《生きる( Leben )》とは 何かと言えば それは      《死のうとする何ものかをたえず自分から突き放すこと》   ( fortwaehrend Etwas von sich abstossen, die sterben will )  である。したがって   《われわれの持つ 否われわれだけが持つばかりではない あらゆる弱化   するもの 老化するものに対して 残酷で仮借ない態度を取ること》   ( grausam und unerbitterlich gegen Alles sein, was schwach    und alt an uns, und nicht nur an uns, wird )  である。それゆえ《生きる》とは   《死んでゆく者たち 哀れな者たち 年老いた者たちに対して 敬虔な念を   持たないこと》   ( ohne Pietaet gegen Sterbende, Elende und Greise sein )  ではないのか それなのに 老いたモーセは 《汝 殺すなかれ!》と言ったが それは矛盾ではないのか と ここでニーチェは仮借なく鋭鋒を振りかざして しかも問題の矛盾点を指摘したまま ぷっつりと断想を打ち切ってしまうのである(『悦ばしき知識』26)。  (渡邊二郎編解説:『ニーチェ・セレクション』 2005 pp.302 )  ~~~~~~~~~~~~~~~  論者の言おうとするところは ニーチェが恐ろしく過激な言い回しを用いているが 真意はそこにはない。です。  そう見ておいて たしかにニーチェも《生きる》ことについて考えを述べています。  回答者さんの主眼点は しかももしたとえその定義をふくむ議論を受け容れたとしても なおその上に問題は《善く生きる》という主題がわれわれ人間には持たれているのだ。にありましょうか?  ◆ 「それはつまり、大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、  善く生きるということなのだというのだ。」  2. 《善く生きる》には 《自死》を避けることがむつかしいか?  しかも・しかも 《善く生きる》とき人は この人間の社会にあっては《自死》というかたちを取ることさえあるのではないか?  《アース役》を超えるか? の主題でもあるようです。  2-1. 幼い時からの親友でゴータマ・ブッダの同輩弟子であるマウドゥガリヤーヤナ(モッガラーナ)が死に臨むとき シャーリプトラ(サーリプッタ)は 《死のうとする何ものかをたえず自分から突き放すこと》をせずに 自死をえらんだのか?  それとも そのときには《死んでゆく者たち 哀れな者たち 年老いた者たちに対して 敬虔な念を持たないこと》を実行し その考えをみづからにもおよぼしたのか?  あるいは もうそのときには じゅうぶんこの世を見たのだ じゅうぶん過ぎるほどわれは生きたと捉えたということなのか?  2-2. マウドゥガリヤーヤナにしても かつて間違った考えを持った人たちにそのマチガイを指摘したことの恨みを買って とうとう攻撃を受けたとき それは 受けねばならないとさとって暴力に甘んじたというのは シャーリプトラと同じような心境だったのか?  2-3. それにしてもゴータマ氏は 自分の寿命のことについて話をしたとき弟子のアーナンダがそうではなくもっと説法をつづけてくださいと言うべきところを言わなかったそのことを うらみつつ 死地に就いた。寿命を延ばすことも出来たが アーナンダの振る舞い(無反応)があったから もう生き続けない・つまり自死をえらんだ。というのかどうか。の問題。  2-4. おそらくアブラハムが長子イサクをいけにえにささげるという考えを持ったとき 大錯乱に落ち入り迷いに迷った挙句に得た結論。《人は他人(ひと)をもおのれをもころさない》。理屈抜きと言うべきか。公理と言うべきか。これが 人間の自由だと言うべきか。  ちなみにモーセはこのアブラハムの心なる《非思考の庭(信仰)》に火花を散らしたヒラメキの中身を《なんぢ ころすなかれ》と言いかえたのである。倫理規範としたのだ。このオシエなる形態とシンジルかたちとは別である。  2-5. ソクラテスの場合は けっきょく自分の弟子にあたる人間ふたりがアテネの町に害を及ぼしてしまった。人びとはその教師ぶりをうたがってとがめた。ソクラテスは――先ほどのマウドゥガリヤーヤナの場合ではないでしょうが―― このような自分の仲間としての弟子たちにしろ一般の市民たちにしろその咎めを受け容れ死刑のさばきにも甘んじた。のではないか?  おそらく《善く生きる》にしろ《生きる》にしろ アテネの町の人びとにおいてさらにさらに熟慮を持ち得た〔のにそれを打ち切った〕のではないだろうか?  3.  ● 《われわれの持つ 否われわれだけが持つばかりではない あらゆる弱化   するもの 老化するものに対して 残酷で仮借ない態度を取ること》  ☆ これは 《あらゆる弱化するもの 老化するもの》というのは 《歳を取ることにおいていわゆる自然に反する考えや振る舞いをおこなうことによってシガラミを増し加えるかのごとく現われて来る老弱化のそのこと》であると採ればよいかも知れない。  つまり《者》つまりその老化する人間に対して《残酷で仮借ない態度を取る》のではなく そうではなく 要するに考えと行動について自然(ないし人間の自由)に反するようなマチガイに対して容赦なくこれを捨てるということ。そのマ(間)の違いをおのれの内面において捉えこれを自然本性への違反として(ないし人間の自由への違反として)みづから批判しこれを内的に棄てるということ。であればよいかも知れない。  《生きる》ないし《善く生きる》のささやかな議論でしたが 《2》は課題として述べて立ち止まり思惟をなお残しております。そのおあとがよろしいようで。  ~~~~~~~~~~~~~~~

  • 初心者のための良書(思想・歴史)

    カテに迷いましたがこちらでお願いします。 19世紀以降の思想がざっと分かる良書を教えてください。 理系(物理が好きな人です)の友人に頼まれたんですが、現代社会の実相を 歴史を振り返りつつ考えたいけど、世界史・思想史・宗教・文学などに疎いので 分かりやすく教えてと言われました。 まず世界史を一から読んでといいたいところではありますが、近代史以降で マルクス、ウェーバー、フロイト、ハイデガー、フッサール、カント、サルトルあたりを 宗教や文化をも絡めつつ説明してある本がいいかなと思います。 よろしくお願いします。

  • 古代人の世界観(世界地図)について教えて下さい。

    インドやその他の世界(中国やエジプトなど)の古代の人々による世界のイメージを教えてください。 例えば、ヨーロッパでは現存する最古の地図「バビロニアの世界図」があり、これを継承する形でホメーロスの地図が出来あがりました。その後、ヘカタイオス、ヘロドトスと世界はより詳しく語られるようになり、1300年ごろに有名なヘレフォード図が書かれました。粗く言ってしまえば世界は西ヨーロッパを中心とした3重構造を持つもの(キリスト教、異教徒、怪物/以前は、自由な市民、「隷属」の地域、怪物でした)として理解されました。 人が世界を理解するときには必ず自分達を中心に考えるような気がします。インドは象が支えて、その回りを自分の尻尾を咥えた蛇が囲んでいると言うものですが、これに秘められた思想など教えて下さい。よろしくお願いします。(出来れば地図のURLを示していただけると嬉しいです。)