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キリスト教徒が言うように、イエスキリストは神の生まれ変わりだと思います

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.4

 こんにちは。  存在つまりこのばあい人間存在の問題だと考えます。  そして聖書の系譜では キリスト・イエスの物語として――虚構のかたちにおいても――説かれています。  結論から述べるなら ナザレのイエスが 人間であり そのイエスがのちにキリストと呼ばれるようになった存在は 神の子であると同時に神である存在です。人であると同時に神であるという想定だという意味です。  《存在》とは おのおのの主観にとっての自同律すなわち自己同一性のことです。《人が人である / わたしが 人である / わたしが わたしである / わたしが わたしする》というそのあり方です。  ですので このあり方をあたかも否定するような何ものかを想定して その《何ものか》と《主観(わたし)》との関係において――ということは まったくの《虚構》においてということですが―― 捉えると あたかも分かったような納得が得られる。こう思われます。  いまわざと《否定する》と言いましたが それは架空のものですが 《悪魔》などがよい例です。  ほんとうは 《わたしとその世界》を超えるものを想定するのが いちばんだと考えられます。    それは 人は おのれの意志のとおりに振る舞えるものではないという実態があるからです。主観にとって 《なぞ》があるのも ほんとうですし 主観やその意志をあたかも否定するような・そして超えるような何らかの力が はたらいているのではないかとうたがうのも それとして真実であるようです。  この《なぞの何ものか》が 《かみ》として想定され 持たれています。《否定するもの(たとえば悪魔)》は 大きくは経験的なものです。《かみ》は 経験世界を超えるものです。  次のような物語を たとえとしてのように 導入します。  その昔 アブラハムという人は もう七十歳を過ぎているのに 《その父祖の土地を離れ去って 行け》という声(お告げ?)を聞いたそうです。ぢゃあ どこへかとも定まらずに これに従ったそうです。たいていは 《神がかり》と見なすようなことでしょうね。  次に この《神がかり》が 昂じてと言いますか 或る人は――仮りにダヰ゛デとしますが ダヰ゛デは―― こう表現したと言います。つまり その神が言うには 《きょう わたしは おまえを生んだ》というのだそうです。そのダヰ゛デは 《〈なぞの何ものか〉によって その日 生まれた》と表現するような体験を持ったということらしい。  目覚めた(ブッダ)というようなことでしょうか。この自己表現も 《存在》にかかわりますよね。また 先ほどの《行けと言われたから 行った》 これも そういう――受け身のかたちですが―― 自己表現になっており その表現のごとく生きることが おのれの存在だと言っている場合だと考えられます。  さらに イザヤという別の人が 神がかりに遭います。つまり《存在せしめるものの霊が わたしに臨んだ》とまで表現しました。そして 社会的な弱者を 自分のこととして 受け取ったのでしょう こう表現します。    これは 《なぞの何ものか》がわたしに油を注いで     貧しい者に良き知らせを宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げるためである。     (『イザヤ書』61:1-3)  さらに時は飛んで イエスの話になります。かれが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り これらアブラハムやダヰ゛デの詩編やイザヤを書いた書物を朗読しようとして立ち上がった》時のことだそうです。    すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い   てある箇所が目に留まった。     《存在せしめる者の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。      存在せしめる者がわたしを遣わしたのは       貧しい人に福音を伝え 捕らわれ人に解放を      告げ知らせるためである。》     (=つまり『イザヤ書』61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人   びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは       ――この書物のことばは 今日 耳を傾けているあなたたち       に実現した。   と話し始めた。      (ルカ4:17-21)  以上のような《存在》をめぐる歴史物語です。その後 はりつけに遭って死を死んだあと キリストと呼ばれ 人間であるイエスが同時に神の子であり神である存在であったとうわさされるようになった物語です。  いかがでしょう?  (キリスト教徒ないしローマ教会などの説は 知りません)。

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