いきなり、余談ですが、あなたの質問から転じて、「観念が先か概念が先か」を論ずるのも面白いと思います。
さて、あなたの質問の範疇は、認識論に入るでしょうかね。
認識は必ず判断を伴うわけですが、判断とは一種の測定作用であると見なすことができますね。
ところで測定には基準(尺度)が必要となります。
認識における基準となっているのが、主体(人間)の中にある観念(=概念・・・以下、観念は概念と同じ意味で使う)であり、それが原型でありましょう。
この原型を、内的映像と呼ぶなら、外側の対象からくる映像は外的映像である。
この原型(内的映像)と外側の対象からくる外的映像とが照合されて、
両者の一致・不一致が決定されることが判断であり、認識というわけです。
言い方を換えれば、経験によって得られた対象の観念(対象の情報が脳に到達してそこで観念化されたもの)と人間(=主体)が既に内部に持っている観念(原型)が、悟性によって照合されることによって、認識は成立し、次に悟性によって判断された認識の内容を、理性が複合、連合しながら思惟するのです。
カントは外部の対象から来る感覚的内容が主体の中にある先天的な形式と結合されて初めて認識されると言ったが、内容は対象のみから与えられるとした。
しかし、主体(人間)の中にも対象の内容に相似した内容が映像として既にあるのだと思われます。
例えばバラの花を判断する時、カントの言う形式だけでは判断は不可能!!
バラの花の内容が映像として主体(人間)の中にあって初めて判断が可能になるのだと思います。
通常は、経験によって獲得された映像が観念や概念化されるのですが、赤ちゃんの例に見るまでもなく、必ずしも経験からのみ概念や観念が生まれるものではないということになると思います。
例えば、生物は、本能といういわば自律性によって成長するわけですが、この場合、自律性とは、生物体に潜在している意識のことであり、即ち生命に他ならない。
このような潜在意識の中で、特に細胞の次元における意識があると考えられる。(前意識あるいは、原意識と呼ぶのがいいかもしれない)
別の角度から見れば、この細胞レベルの意識は、宇宙にあまねく充満している宇宙意識が細胞の中に入って個別化されたものと見られる。
宇宙意識とは、宇宙に充満している、いわば神の心のようなものだと捉えられるが、それは働きつつある創造心ではなく、また構想でもない!!
知情意の機能が静止し、観念や概念が排除された純粋意識なのだと考えられます。
このような宇宙意識が例えば人間に浸透する時、細胞、組織、器官、感覚器官、脳など、体のいろいろな次元の構成部分に入って、それぞれ個別化された意識として現れるというわけです。
宇宙意識は感知性をもっているので、細胞の中に入れば、その意識は細胞についての知識(情報)を得るが、それは細胞内のDNAのもっている情報を読み取ることを意味する。
宇宙意識が細胞に入った時、そのDNAの情報を読み取ることによって、前意識(原意識)はその情報に従って働くようになるのである。
情報を読み取るとは、前意識(あるいは前意識層ないし原意識層)に、細胞それ自身や細胞よりなる組織、器官の構造や機能などの内容が投影されることを意味している。
便宜上、前(原)意識に投影された象を前(原)映像と呼ぶことにする。
したがって、前映像とは前意識のもっている映像(=観念や概念)のことを言うのです。
前意識(原意識)は、末梢神経を通じて下位中枢にある潜在意識と連結されているはずであるから、
下位中枢の潜在意識は、その中枢の支配下にあるあらゆる部分の構造や機能についての情報(=前映像=原映像)を複合的にもっていることになります。
下位中枢において複合された前映像は別名「内容象」と言ってもいいでしょう。
その内容像が形式像と合わさった時、『原型』を形成するのだと思われます。
言葉が足らなくて、申し訳ないのですが、結局、前映像は経験とは無関係に内界で形成されるということになると思います。
お礼
しかしエネルギーが思考するようになるには、そのエネルギーがそれぞれ別の意味を持たなければなりませんね。同じエネルギーなのにどうやって意味を持つのでしょう。