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「概念」の正体

「概念」の正体 よく人間はすべて言葉で思考をすると言いますが、嘘だと思います。 赤ん坊が言葉をどうやって学ぶのかを考えればすぐにわかると思います。 言葉というのは本来頭の中にある概念につけた名前の集合でしかありません。 「しかし」も「but」も別の文字列ですが、同じく逆説の概念を持ちます。 概念それ自体は頭の中にあって、それこそが意味そのものだと思うのですが その概念は概念であって言葉ではありません。 ではその概念というものの正体はいったい何でしょうか。

みんなの回答

  • temtem1
  • ベストアンサー率40% (106/260)
回答No.1

神経系における情報処理システムによって導き出された出力系のユニットではないかと思います。 脳は過去にあった事象を記録するときに、わざとぼんやりした曖昧な状態で記録を残すとされています。 例えば人間の顔を覚えるとき、精密にデジタルカメラのごとく記録するのではなく、なんとなく、人間の顔っぽい図形の集まりとして記録するわけです。 そのメリットとしては、そのほうが情報の量が少ないのでたくさん覚えられる。 また、わざとぼんやり覚えているからこそ、似ている情報と関連付けることができるので、過去にあった人が成長や老化によて顔が変わっても、同じ人と認識できるわけです。 例えば、コンピューターに人間の顔を判別させようとして10歳の私と11歳の私の写真を見せると、数ミリほど顔の輪郭が変化しているだけで別人と判断してしまいます。 しかし、この判断プログラムに曖昧さ(ファジーとも言います)を加え、多少のデータのブレを許容させ、どの程度情報が一致するか判定するようにすることで、コンピューターは両者を同じ人間と認識できるようになるわけです。 概念も同様です。 例えば、「しかし(but)」は逆説、すなわち、今までの経験から予想される結果と反対の結果が出た場合などに使いますね。 ・この花は今朝には咲くと思っていた。しかし、咲かなかった。 この時、上記の経験をそのままデジタルに記憶するだけでは、咲くと思ってた花が咲かなかった、だけで終わります。 しかし、この時の状況を曖昧に記憶することで(抽象化することで)、具体的な事柄とは別に、「予想が必ずしも当たるとは限らない」という抽象的な事実を学習できます。 その抽象的なデータを脳内で再現するときに表す記号として「しかし(but)」のような言葉に具体化することにより、より客観的かつ高度な思考活動が出来ます。 文化によって言語化された概念が違うことがあるのは、その文化がどういう状況を重要として概念を言語化してきたかの歴史が違うからでしょうね。 (例えば英語には「もったいない」に当たる言葉がない。でも英語圏の人間も「もったいない」という概念は理解できるのでMOTTAINAIという言葉でその概念を言語化する) すなわち、概念とは、特定の事象を抽象化し、様々な類似する事柄に当てはめ、高度かつ複雑な思考を行うための脳のプログラムではないでしょうか。 そして言葉とは特定の概念を分かりやすく想起するためのツール、と考えられると思います。

lu-mu-
質問者

お礼

おもしろいですね。 出力系のユニットということであれば、コンピューターも概念を持つことはできるのでしょうか。

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