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尊皇攘夷

uwf11pride30の回答

回答No.11

たった今会員になって回答します。 1、基本的にはその通りで、補足すると天皇を中心として国を挙げて一致団結し、外国勢力を締め出そう(鎖国を守ろう)ということです。当時の日本は三百諸藩に分かれていた一種の連邦国家ですし、朱子学や尊王思想の普及によって、団結する旗印には天皇が最適だったのです。  「皇」と「王」の字について補足すると、この思想はもともと中国の宋という王朝が、チンギス・ハーン(ジンギスカン)率いるモンゴル帝国などの圧迫に対して、中華思想に基づき生まれた中国人側の正当性(皇帝が尊ばれ、夷荻=野蛮な外国人を攘ち払うことが正しい)を主張したものです。つまり、中華思想では中国にいる皇帝が全地上の支配者で、はるか離れた遠い所は皇帝が認めた王が治めるということで、したがって中国は尊「皇」思想なわけです。日本は中華思想では「王」が治める辺境の地なので尊「王」思想という字が使われます。ちなみに、これに対して日本は聖徳太子が「日出づる処の天子、日没する処の天子に」で始まる国書を送るように、中国に対して対等の立場を主張していました。天皇という、オリジナルの称号を用いたのもそのためです。 中国の歴代の王朝は中華思想で動いていますから、対等の立場を主張する国とは外交関係を認めません。だから貿易の利益を求めた足利義満などは日本国王として皇帝の下に従うことを認めて貿易を行いました。 2、長州や薩摩が外国との戦闘によって彼らに刀や槍で勝つことは不可能だと悟り、洋式兵備への転換を行っていったためです。その過程で西洋が学問や文明など多くの点で日本よりはるかに進んでいることを悟り、開国へ踏み切ったのは薩長の優れた指導者(西郷、大久保、木戸、高杉など)がそれをやらなければ日本が植民地にされるという危機感があったからです。勝海舟や坂本竜馬なども同じ考えでした。 この攘夷から開国への転換は指導者でも簡単には表明できませんでした。それをやれば狂信的な攘夷主義者に裏切り者として暗殺されかねなかったからです。 そのため尊王攘夷という旗印は維新まで変わらず、そういったかたくなな攘夷主義者は維新後時代についていけなくなり、明治後もそれを主張した人は暗殺や反乱を企てたり反政府的な言動を行ったりして非業の死を遂げていきます。河上彦斎や大楽源太郎、あるいは前原一誠や神風連などが典型です。維新後に横井小楠や大村益次郎を暗殺したのもこういう攘夷主義者でした。 3、ペリーが黒船の武力で無理やり開国をさせたことには日本人の大多数が無礼だと怒っていました。それと開国後の経済的な混乱(物価のインフレなど)が攘夷という世論につながっており、この点では近藤たちも例外ではありません。実際はペリーはオランダを通じてあらかじめ日本に行くことを通達していたのですが、幕府首脳部は平和ボケしていたためにそれを無視して、いざ江戸湾に現れると驚いたのです。この重大なミスは彼ら以外には漏らされなかったために、ペリーは不意打ちをした無礼者と思われたのです。近藤、土方も鳥羽伏見の戦いで洋式兵備の薩長に敗れて、土方が「これからは刀や槍では勝てない」と言ったという話が残っており、本当に彼らが攘夷を完全に捨てたのはその時でしょう。一握りの開明的な人以外は、戦って負けてみないとそれを悟れなかったのでしょう。 4、尊王=倒幕ではありません。初期の段階では尊王とは公武合体、すなわち朝廷と幕府が一緒になってこの国難に対処しようということでした。井伊直弼は幕府主導の政治を守り朝廷が政治に口出しすることを防ぐために、こういう主張をする人を弾圧したのです。 山内容堂や松平春嶽などはこういう考えですから、倒幕には反対で、安政の大獄の頃は処罰された方なのに維新直前には幕府を守る側のような立場になっているのはそのためです。 水戸の尊王派=天狗党もそうした公武合体での攘夷を主張したのであって、もともと倒幕という考えは全くないのです(倒幕を主張した人は離脱していきました)。幕府は水戸の佐幕派=諸生党と結んで天狗党を弾圧しましたが、天狗党は最後の最後まで水戸出身の一橋慶喜がそういう政策に転換することを期待して裏切られ、処刑されたのです。倒幕にも佐幕にも徹し切れなかった悲劇です。

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