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尊皇攘夷

destiny79の回答

回答No.12

水戸出身の者です。興味深いので参戦させて頂きます(笑) 昔光栄(というゲームメーカー)の「維新の嵐」というゲームがありました。 このゲームではそれぞれの人物がそれぞれの思想を持っているのですが、 よく区分けされていて面白かったと思います。 さて、攘夷は必ずしも尊王とくっつくわけではありません。 幕末の思想の違いとして、まず 1 諸外国とのスタンス があるでしょう。 つまり開国か攘夷か、という違いです。これは相反するので 開国⇔攘夷 という対立関係になります。 次に 2 国を統治するのは誰か があるでしょう。 つまり尊王か佐幕か、という違いです。これも相反するので 尊王⇔佐幕 という対立関係になります。 さらに言えば、その中立の「公武合体」という思想もあります。 さて、このように分類すると、それぞれの人物の思想が分別出来ます。 例えば 勝海舟は佐幕開国 でしょうし 近藤勇は佐幕攘夷 です。 吉田松蔭は尊王攘夷 でしょうし、 坂本龍馬は尊王開国 でしょう。 おおざっぱになってしまって 異論もあるでしょうが、要するに佐幕の攘夷派もいれば 尊王の攘夷派もいるということです。 さてそれを踏まえて回答します。 1はその通りですが、尊王は幕府から天皇に政治の主導権を戻すという 思想であり、単に敬えで終わることではないと思われます。 2はちょうど篤姫でそこらへんのいきさつが放映されているのでタイムリーですが、 維新の頃には薩長の志士と言えど攘夷から開国へと思想転換しています。 長州も薩摩もイギリスにしこたま負けて、攘夷が不可能なことに 気が付いたからです。むしろそのイギリスの軍事力を積極的に 取り入れ、その力を持って倒幕しようと動き始めます。 つまり大政奉還の頃には、もはや薩長もイギリスと積極的に手を組んでいます。 薩長のここらへんの軌道修正の見事さは学ぶべき所がありますね。 3については先に述べた通りで、攘夷と尊王はセットではないのです。 尊王攘夷の単語があまりにメジャーなため、セットのようですが そうではありません。佐幕でも頭が古い連中は(失礼)だいたい 攘夷思想を持っていたのです。 4についてですが、水戸藩に着目されたのは鋭いですね。 実は水戸藩は大いなる矛盾を抱えた藩なのです。 水戸藩は御三家の一であり、当然の事ながら将軍を出す事も 出来る身内中の身内です。将軍とは血縁関係ですし、 つまり当然佐幕なわけです。 しかし有名な水戸光圀公が編纂した「大日本史」の影響で 水戸藩は一方で「尊王」思想も育っていきました。 つまり佐幕中の佐幕でありながら、尊王の思想も併せ持っていたわけです。 ゆえに藤田東湖など名学者が輩出され、若き西郷ほか維新の 元勲たちも水戸藩の学者に教えを乞うたことがあると言います。 一つの藩に対極の二つの思想を飼ってしまった水戸藩は 戦争では血を重んじ(将軍の身内ですから当たり前ですよね)佐幕派の立場を とりますが、一方で藩に当然存在する尊王派の志士も抑えきれずに 内紛・内乱・内ゲバとなり、尊王攘夷の源流の一つなのにも関わらず 血で血を洗う抗争の結果、維新の露と消えてゆくのです。 水戸藩は元々佐幕なのです。そこに熱き尊王が育ってしまったことが 数奇な運命だったのです。

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