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作者論と作品論について
小説のあとがきを読んでいると、 『作者の生涯を知ることは作品理解に必要である』 『物語を作者の実生活と重ね合わせることでより深い理解ができる』 というような意味合いの文句をしばしば見かけますが、 どうもしっくり来ません。 小説を読解して評価するのに必要な情報は、作者本人が小説本文内に示しておくべきものではないのですか。 上に挙げた作者の実生活の情報が物語に要るなら、それは小説の本文中に書かれるべき事柄ではないのですか。 読者がわざわざ作者のプライバシーを詮索して物語本編と重ね合わせて理解しようとする、というのはどうしたものでしょう。 私はできるだけ小説の本文のみで小説を評価したいと思うのですが、 一方で、小説本編を読むだけでは理解できない事柄もあると思うのです。 やむを得ず小説本文外から情報を引っ張ってきて読まないと分からないことはあると思います。 たとえば小説が書かれた時代の情報のうち、 その時代の読み手なら当然知っているべき情報、というのはあるでしょう。 その説明は小説本文内では省略されることが多いでしょうから、 作者の後の時代の読者が読む際は、それを補って読まねばなりません。 これに限らず、作者の想定していなかった読者が作品を読むときは、似たようなことがあると思うのです。 しかし、作者のプライバシーとなると話は違うと思うのです。 プライバシーは『当然知っているべき情報』には該当しないと思うのです。 言わば情報に一般性がないのです。 プライバシーを知ろうとすることは、作品を読み解くことを差し置いて作者論に行ってしまう気がするのですが。 皆様はどう思われますか? 皆様はどのようにして作品論と作者論の線引きをなさっていますか? もしかしたら読書人の皆様の中には『作品を読み解くこと』よりも『作者を知ること』に重きを置いて、 作品を『作者の人間像を形作るための資料』と見做している方がいらっしゃるかもしれません。 そういう方のご意見も頂戴したいです。 私個人は、できるだけ『小説本文内に書かれている情報』のみで小説を読みたいと思っています。 作者個人の性格だとか事情だとかを考慮しないと面白くない作品というのは……正直、あまり評価したくないですね。 作者論と作品論を完全に分けることは無理にせよ、 基本的には違うものと見做したいです。
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>『作者の生涯を知ることは作品理解に必要である』 >『物語を作者の実生活と重ね合わせることでより深い理解ができる』 素人が言うならともかく、これがプロの批評家の言葉だとしたら、ちょっと信じがたい思いです。 なぜって、たとえば、フロベールなんかは「芸術家は自然において神がそうである以上に作品の中に姿を現してはいけないと思ってます。人間(作者)なんて無だ、作品が全てなんです。」(ジョルジュ・サンド宛書簡)と述べてますし、ヴァレリーもどこかで、作者の伝記は作品が生み出(捏造)したものだという趣旨のことを言っていたはずですから。 読者が「作者の生涯」なり、「作者の実生活」に興味や関心を抱くためには、まず作品に感動することが大前提だとしたら、どんなに実証的に書かれた作者の伝記であろうと、彼の書いた傑作のフィルターをくぐり抜けていることだけは否定しようがないですよね。 としたら、作者の内奥に潜んでいる本当の秘密にしても、作品以外のどこかに転がっているなんてことは到底ありえないはずです。 >私はできるだけ小説の本文のみで小説を評価したいと思うのですが、 実は「小説の本文」といっても、言語という、いや文字というテクストから成り立っている以上、それ自体で意味的に自律しているわけではなく、あくまでも読者の解読という作業を介して、はじめて何かが書いてあったのごとき印象を読者が抱くだけのことですよね。 しかも、読者がテクストを解読するためには、必ず解読のために準拠したはずのコードなり、規範なりがあったはずで、しかもそのコードなり、規範なりにしてもこれが生み出された背景があったはずですよね。 >皆様はどのようにして作品論と作者論の線引きをなさっていますか? もしも「作者論」の目的が作者の内奥に潜んでいる秘密や謎の正体を解明することにあるとするなら、結局のところ彼の傑作中にしか、つまり彼の制作した文字テクストの内部にしか存在しないということになってしまいます。 また、彼の書いた文字テクストである以上は、いわゆる小説ではなくても、すべて彼の制作物であり、作品であることは否定しようがないですよね。 だとしたら、そもそも「作品論と作者論の線引き」をすること自体が無意味になってくるのではないでしょうか。 >作者個人の性格だとか事情だとかを考慮しないと面白くない作品というのは……正直、あまり評価したくないですね。 こういう「作品」がいわゆる《私小説》でして、これこそ小説の本道だと信じて疑わなかった久米正雄は《私小説》を「作家が自分を、最も直截にさらけ出した小説」(『「私」小説と「心境」小説』)だと説いております。
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- 安房 与太郎(@bilda)
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現代の文学 ~ 作者よりも読者が利口になった ~ 古代の読者は、いかに荒唐無稽な話も、事実であると信じていた。 中世の読者は、虚構と現実のギャップに、気づきはじめた。 近代の読者は、作者の工夫や都合による虚々実々を楽しんだ。 >あとがきを読んで(略)実生活と重ね合わせる< 作者の後書ではなく、評論家の解説であり、あなたの説にしたがえば、 小説本文以外の、ましてや第三者の意見に目をくれてはいけません。 プルーストにおける「それ自体に価値あるもの」であっても、読者に とっては、あくまで文学的趣向を楽しむための素材にすぎません。 (プルーストのように生きたい、と思いこむ希少な読者を除いては) わたしは、文学ごときは、誰もが研究しなければならないほど重要な 学芸ではないと思います。ただし、数百篇の代表作を学んでいないと、 日常的な会話において比喩が通じず、論理的な議論ができないのです。 絵画も、ひとめ観て、作者や時代や素材や技法が語れるような博識や、 一筆でデッサンを描くような技術は、誰にも要求されていません。どこ かで聞いたか読みかじったような解説など、読むに価しないと思います。 音楽も、すべての人が交響曲の総譜を読んで、それぞれが独自に解釈 することが必要だとは思えません。まして、ひとめ見ただけでピアノに 向える(指揮者のような)能力は、いまだ求められていないでしょう。 以下は「Q.大学における文学研究」に対する私見(ANo.3)です。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4149869.html 理系文学待望論 ~ さらば、余りに文系的な文学談義 ~
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ご回答ありがとうございます。 >文学ごときは、誰もが研究しなければならないほど重要な >学芸ではないと思います。 それは仰る通りです。文学は詮ずる所は慰安の一種でしょう。 『論理的な議論』を含めた意思疎通の道具であり、ネタでしょうね。 回答の最後に付して頂いたリンクも興味深いです。 小説書き以外の能力に乏しい作者の書く小説の限界はつねづね感じているところです。 『昆虫記』は面白いですよね!
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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日ごろ私も痛感しているご質問の内容でして、≪作品を『作者の人間像を形作るための資料』と見做している方≫ではありませんが、投稿させていただきます。 55年も前、中学の友人にそんな小賢しいたいへん優秀でお利口な奴がいました(中高一貫男子系)。なにかといろんな知識を述べてくれるのですが、奴、感激や思いを伝えることが殆どなかった。 つまり相でないやつもいたが、そういうやつもいた。 そういうのって読書というより、評論か研究なんだろなって思っていた。人生は感激して生きていく血と涙と汗。そしてそれを醒めている一面。 私は誤解のないように、誤読しないように気をつけるけれども、感激のある読書を優先する。 作品は読者に与えられれば、それ自身が独立した客観存在です。 ロマン・ロラン、朝倉先生や次郎の湖人、阿部次郎、倉田さん、出隆、ラートブルッフ、ガンディ。人間の事実よりもその思いで私は対面する。 十二人を越えることない読者だろうと思って、世に出したクリストフの誕生にかかわった筆者は、数年を経て靴をすり減らして帰ってきたクリストフに出会い、「えぇ!君があのクリストフか?」っと驚愕する。なんて序論を見て、さすがだと存じました。 聖書などの聖典も多分そうなのでしょう。 私は法律、労働法が専門域です。 法律は制定したら、立法者やそれに拘った人の意図や思いはもう無関係に解釈され、適用されていきます。 そのときの事情がどうであれ、そのものの文言とそのときの条理からその意味が解釈され、論議され、確定します。 あくまでも建前は文理と条理です。 いろんなことがその討議の中で援用されても、それは法律の意味を確定する要素には出来えません。 でも文学では確かにいろんな外周の知識があると面白い事はありえます。でもそれを勝手に踏み越えます。 中学ですか、55年以上前。教員からの特命で多喜二の研究発表を授業でやりました。 社会科。先生は私の考えや授業の方針とは違うが、一応筋は通っている。などと誉めたのか、がっかりしたのか。 社会状況の運びの筋は、私は基本とは出来ませんでした。 人間の選択と意思、意志の進展の中で、社会科の課題を発表したのですが、先生は力を入れている授業での科学的唯物史観で説明する事を期待していましたが、作品と人間たる多喜二を基本にして発表したわけです。
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ご回答ありがとうございます。 >作品は読者に与えられれば、それ自身が独立した客観存在です。 >人間の事実よりもその思いで私は対面する。 同感です。 >法律は制定したら、立法者やそれに拘った人の意図や思いはもう無関係に解釈され、適用されていきます。 >そのときの事情がどうであれ、そのものの文言とそのときの条理からその意味が解釈され、論議され、確定します。 >あくまでも建前は文理と条理です。 >いろんなことがその討議の中で援用されても、それは法律の意味を確定する要素には出来えません。 法律分野でもそのように断言できるものなのですね……。 参考になりました。
- spring135
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まずは何のために小説を読むかによって変わると思います。一つの芸術作品として出来栄えを子細に評価しようということなら、作品がすべて、作者とか背景とかは所詮、狭雑物、余計です。 しかし、一つの凡庸な作品でも作者が辛酸をなめてたどり着いた境地を描いたものであることがわかった時、見方が変わってくるのは何回か経験しています。いわば人生の意味を小説のなかに探そうとするならば、作者について情報があればある程有益であることは間違いありません。 私は小説は時代の産物だという感を日毎強くしています。時代を超えた普遍性も確かに含まれているかもしれない、しかし、小説の醍醐味は作者と時代のかかわり方であって、それを突き詰めることによって別の普遍性を把握することができるように思います。 作者か作品かという議論よりも時代背景の中に作者をとらえ、作者の全人格と時代とのかかわりとして小説があるというように考えています。
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ご回答ありがとうございます。 >一つの凡庸な作品でも作者が辛酸をなめてたどり着いた境地を描いたものであることがわかった時、見方が変わってくる そう仰って頂けたおかげで自分の考えがまとまりました。 作品を評価する際、作品単品の評価と、作品作者を併せた評価の二本立てにすべきだと考えていたのかもしれません。 >小説の醍醐味は作者と時代のかかわり方であって、それを突き詰めることによって別の普遍性を把握することができる 流石にそれ全てを本文内に記すことはできませんよね。 仰ること、ごもっともです。
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回答ありがとうございます。 >読者が「作者の生涯」なり、「作者の実生活」に興味や関心を抱くためには、まず作品に感動することが大前提だとしたら、どんなに実証的に書かれた作者の伝記であろうと、彼の書いた傑作のフィルターをくぐり抜けていることだけは否定しようがないですよね。 作品のもつ実証性は、作者の実生活を知らない読者からは評価されない、ということでしょうか。 >もしも「作者論」の目的が作者の内奥に潜んでいる秘密や謎の正体を解明することにあるとするなら、結局のところ彼の傑作中にしか、つまり彼の制作した文字テクストの内部にしか存在しないということになってしまいます。 作品の範囲から作者像を浮かび上がらせるということでしょうか。 でしたら最も真っ当な作品論であり作者論であるように思います。 あくまで文字テクストの内部にしか存在しないと見做すのでしたら、納得です。