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小説読解について、
「小説読解」について、 作品と作者、作者のバックヤードを切り離して読解いくという手段があるらしいのですが、私にはどうもその意味が見出せません。意味云々でなくとも、(いや、意味なのか?)作者が明らかに意図していない場合にはそれは無効なものになってしまうのではないかと思うのです。それがすべてだとは思いませんが、作者の意図、これも読者の勘違いに過ぎないのかもしれませんが、全体をみた上で、よりそこに近い読み方をしていくべきなのではないかと思ってしまいます。しかし、読者がどのような読み方をしても自由だと、そこが小説の面白いところでもある、と、思ってはいます。。 見解を広げていきたいです。 行き詰った私に何かアドバイスを、、 皆様の意見を聞かせていただけたらと思います。 よろしくお願いします。
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作品を書きあげて世に出したら、それはもう作者のあずかり知らぬもの。 「煮ようと焼こうと好きなようにしてくれ」 と当の物書きは考えているようです。
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- deuta
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No.2です。 変身ですか・・確かに家族構成などを見ると、作家が住む環境と物語の世界が結びついてきますよね。 私もカフカの作品は好きなのですが、「変身」は他の作品と唯一違った構造をしていますよね。非現実世界のルールを受け入れてゆく本来のスタイルに対し、「変身」だけは現実の中に非現実な自分を放り出してシュミレーションするというか・・ 私は単に「変身」はカフカが表現を確立する上での一つの実験だったのではと思っていたのですが、制作された年代や出版されている友人宛の書簡集の中に、その答えはあるかもしれませんね・・ 私が図書館でカフカの資料を探してとても為になったのが、「カフカ事典 池内紀著 若林恵著 三省堂」です。 カフカが住んでいた町の地図、当時の町の写真、信仰があった人々の詳細、作品一つ一つの解釈例など、とても細かく分かり易く載っていて、イメージを膨らませてくれます。 カフカの世界が一層リアルに感じられる、好い本ですよ。
お礼
またまたありがとうございます。 『変身』はやはり難しいですよね!!! 私実はつい最近、卒論をカフカで書いたんですけど、『変身』はほんとに何を書いていいかわからず最後まで悩んでおかしな感じになってしまいました。池内紀著書の本もいくつか読みました。坂内正も。 私も表現の形であったんだと思ってます。画家が自己の内面にあるものを言葉でなく絵にしたように、カフカには小説だったんだと、そういう解釈でおちついています。なのでどうしても、切り離せません。意固地すぎるかもしれませんが。。 ありがとうございました!
- deuta
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貴方の読み方を絵画鑑賞に喩えてみると・・・ 例えばゴッホの場合「描かれたのは18××年で、当時画家は誰々と交際していて、描かれたのは何処で、どのような精神状態で・・・」等を知らないと、作品を楽しめないということですよね? 「作者が明らかに意図していない場合にはそれは無効なものになってしまうのではないか」という疑問を持たれている様ですが・・・ 逆にその様に「作品に纏わる物語」に捉われながら鑑賞してしまうと、「作品としての独立した価値」が分からなくなってしまいます。 作家や芸術家にはプライドがありますから、「自分自身のバックグラウンドを知ってもらわないと成立しない作品」など評価してもらいたくないと思う筈です。 翻訳家の柴田元幸さんは「小説は一杯のラーメンと同じ。評価など、美味いか不味いかのどちらかで足りる」と著書で書かれていますが、もっと自分の感覚で楽しんでよいし、作家もそれを望んでいるという事ではないでしょうか・・・
お礼
回答ありがとうございます。 絵画鑑賞、たしかにそのように観ています。このような時代、この人だからこそこの作品が生まれてきたのだと、そこから感じられるものに魅力を感じます。 最初に回答いただいた方の返事にも書かせていただいたのですが、これがカフカの『変身』ならどう思われますか?私は実はこの問題について悩んでいました。ミステリーや恋愛小説ならば皆さんにお答えいただいたことで納得がいきます。しかしカフカではどうも腑に落ちないところがありました。この作家が好き過ぎるのかもしれませんが。。その先に見え隠れするような答えがあるようでないような気がしてしまいました。今でなくてもいつかつかめたらいいな、と思います。 返答ありがとうございました。。
- kamemame99
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作者のバックヤードを切り離す、という言葉を誤解しているように見受けられます。 質問者の文章を読む限りでは、作者の意図ばかりに気をとられ、小説そのものを本当にみてるのだろうか?という疑問がわきます。 木を見て森を見ず、、というか。 作者のバックヤードを知ることは確かに小説をより楽しむための手段の一つではありますが、それにとらわれすぎて、本質を見逃す、ということもあるために、それをあえて切り離して読み解く、という手段が存在するのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 確かに誤解があったようには思います。 しかし、質問内容に書くか迷ったのですが、この読み方というのがカフカの『変身』だったらどうでしょうか。バックヤードと小説との距離が密接すぎるあまり判断しがたい、判断だなんていうのも大げさですが、切り離しがたいものだと思ってしまいました。その時代々々に抱える問題を見出すことが出来る、そういう点で論じられ展開されていくのも理解が出来ないわけでもないのですが、そのところで、その先に何が見えるかといわれると、振り返っているばかりで目指すところの何かが見つかるわけでもない気がします。カフカを読んでいらっしゃれば意見を伺ってみたいです。よろしくお願いします。。
お礼
回答ありがとうございます。 小説の位置づけによっても大きく変わってくるような気がしてきました。ありがとうございました。