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神仏に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか その4

entahu2の回答

  • entahu2
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回答No.6

そちらの質問ですが、 神から自律した人間を前提としなければ、  》信仰の内側よりの説明をいただきたい《 と言っても、 ことは非常に複雑な論議となっていってしまうと思うのですが、 この点理解されていますか? 昔 宗教は社会が道徳の必要性を求めた時に生まれた外側からの規範の方法の強力な方法のひとつとして生まれたのだと思うのですが、 この点は理解されていますか? だから、地獄という想像上の想定をも いかにも存在しているかに見せかける必要性があったりしたのです。 それははっきり否定されるべき存在です。 この点は そちらのお考えは どうなのですか? 現代でもまだ、そういう幻想の必要性があると思っておられますか? そうではなくて、 感性の内側からそれを成長させていって自然に自我の殻を乗り越えるそういう教育が哲学としても語られなければならない ということを理解できますでしょうか? その成熟 真の大人化によって、始めて神とか過去の創立当時の神話的宗教からの自律が可能となると思うのですが、 そのへんをクリアーにしないでおいて、 取りすがりうんぬんを語っても議論は はてしなくオカシナ世界へとつづいてゆくだけとなってしまうと思うのですが、 どうでしょうか? 存在自体は 私たち人間が創ったものではないですから 別に難しい理屈をいろいろこねなくても、 自律や感性の豊かさの世界を知った人間は 神あるいはこうして存在できていることに感謝しています。  口にしない方がむしろ心の奥の感謝があふれているという時だってあるでしょう。 とくにこの荘厳な存在に対してはです。 が、そういう意味での大人の心から見た神はもともとなんら人間を助けたりする存在ではなくて、なにかの権威のよりどころの存在でもありません。 そう思いませんか? 畏敬という言葉がありますが、 畏れ、あるいはかしこまる必要性すらほんとうは無いのが神です。  おもわずひれ伏すような感謝の気持ちになる時というのは創造の過程にはたくさんあったりしますが、そこには何の恐れもないのがより深い信仰ですよね。 つまり、単純明快に、シンプル・イズ・ベストの思索で考えるならば、 “とりすがることがおそれおおい”というふうに考えること自体 すでに複雑な思考に陥っているということになるかと思うのですが どうお考えでしょうか? それとも、わざと複雑にする、なんらかの御意図とかあられるのですか??? もし、これで、そのへんの質問構造の複雑さのあたりでもいいですので、お気づきにならないのであれば、 今回はこれ以上の回答はパスさせていただきます。 時間が充分に取れないからです。  きびしい言い方でしょうが、 自助とか互助といっても まず自律した精神でのそれを求めるべく そのような形の再質問をおすすめしておきます。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 面白いです。 昔 宗教は社会が道徳の必要性を求めた時に生まれた外側からの規範の方法の強力な方法のひとつとして生まれたのだと思うのですが、 この点は理解されていますか? これだけだと人間が伝える神の伝承です。 それだけが神じゃないんじゃないでしょう。 地獄という想像上の想定をも いかにも存在しているかに見せかける必要性があったりしたのです。 それははっきり否定されるべき存在です。 この点は そちらのお考えは どうなのですか? 良く言われるマイナス感情が未消化の状態が「業」でありそれの見せる幻影が地獄であろうと推測しています。生きている間の幻の一つです。生死になぞらえること自体は誤りです。 現代でもまだ、そういう幻想の必要性があると思っておられますか? 無いです。しらける話です。 感性の内側からそれを成長させていって自然に自我の殻を乗り越えるそういう教育が哲学としても語られなければならない ということを理解できますでしょうか? 理想主義的でいい話ですね。でも人それぞれの歩みであるのでそれだけが全てとも限らないでしょう。 以下のとりすがりや神学めいた話についてはどのようにしたらそのように考えが及ぶのかまったくわかりませんでした。 とりすがり自体はスゴーク迷惑です。 どうも。

noname#117439
質問者

補足

ただの思いつきを書きます。 論争を仕掛ける回答へのけんか腰のお礼ではありません。 そちらの質問ですが、 神から自律した人間を前提としなければ、  》信仰の内側よりの説明をいただきたい《 と言っても、 ことは非常に複雑な論議となっていってしまうと思うのですが、 この点理解されていますか 自立してますよ。 自由です。 その事由に迷うゆえのとりすがりでしょうか。

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