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あの世の住人は神の存在を信じているか

死んであの世で生活している人は神の存在を信じるでしょうか。 或いは地上で人間として生きていたころと同じように、立証不能であるとして霊界において神の存在を否定するでしょうか。

みんなの回答

回答No.10

 shift-2007さん、本当はどう思っていますか?  死んであの世。その、死ぬというのは居なくなるということですか?  つまり存在しなくなる?何が居なくなり、存在しなくなるのでしょうね?  そしてあの世という異界にいく。この世が本当は異界なのかもしれませんね。  死んでいく、いくのですね。生きていてはあの世にいかれないわけですね。  そうなんでしょうね。  立証不能として存在を否定する?  立証不能って、存在を否定できますか?  神って、創造者、根源者とすれば、被創造存在や、根源者から由縁してきている(どのようにどんな存在体として由縁してきているか問題ですが)存在はどのようにその根源者、創造者を立証することが、或いは物証することができるのでしょうね?  どんな能力やアプリオリ・カテゴリを以って。  Droste効果の構造はどこまでも通じていて、上記のような立証や認識能力で確認しようとする仕方では、やはり仰せのあの世でも同じに立証も確認も出来ないと存じます。  此の世でもあの世でも、そしてその向こうのあの世でもそういう仕方では無理なのだと存じます。  それは認識の仕方として、そのものになる以外には無理だと存じます。  その仕方を古来多数の聖賢が実践してきているわけだと存じます。  私もそうやって、根源者により存在させられております。  そしてSelf-Realization Fellowshipの勉強と精進をしております。  根源者と創造者の存在否定は結構ですが、どなたもそのものであることにを変改することはできないというわけです。  そしてあの世とこの世の区切りはあるようですね。  そしてその区切りがない意識と存在のあり方もあるようですね。  つまり続いている、区切りはない。という事らしいですね。  区切るのは、区切る意識の断切であるにすぎないとのことですね。  シフト2007さんはどうお考えですか。  いや考えても何にもならないことなんですけど。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。 ひとつはあの世では人はどのような思考をするのだろうかというのが質問の趣旨です。 脳は火葬場で灰になってしまいますので、生前と同じようにはいかないだろうなと思うのです。 動物や赤ん坊のような感情剥き出しのような状態になるのかしらとも思います。 もうひとつはあの世では神の存在を近くに感じるのだろうかということです。 この世にはたくさんの神がいます。これは裏を返せば神をリアルに感じることが出来ない為です。 あの世ならもっと強く感じることが出来るのでしょうか。 それとも、あの世でも神はいるんだかいないんだかの存在なのでしょうか

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回答No.9

no7 のものです。 肯定派、否定派の比率はこの世と同じでしょう

shift-2007
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。 否定派は分が悪いでしょうね。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.8

以前ネットの辞書で<神>という語彙を調べようとしたことがあるんですね。 でも、いくつもの辞書サイトで検索しても<神>という語彙に関する解説は無かった。 地域、人によって、神の概念が違い、「これが神」とまだ決定されてはいないので、辞書に載ってないのだと思います。 いろんな伝説があり、日本の場合、島も神の目や鼻から生まれたことになっている。 どうしてそのような変なところから生まれたとなったのかというと、男神だから。 男神の出産方法について古代の人は、面白い<想像>をしたんですね。 で、人間の感覚ってのはごくごく限られている。 例えば物には色が無いのに、色があるという認識になっている。 物質に光が当たり、その物質がその光を吸収せず反射する素材でてきていたら、反射された光が人間の目に入り、脳がそれを何色と我々に認識させているわけです。 でも、色盲とか色弱とされる人は、脳のその部分が我々とは違うので、色として認識しないわけです。 色の領域は幅広いのだそうですが、人間には限界がある。 だから赤外線とか赤より外の色は、ごくごく一部の色しか認識できない人間の肉眼では認識できない。 紫外線も紫より外の色なので、人間には見えない。 さて、死後の世界。 これは人間の能力には限界があるので、認識できないのか? そもそも死後の世界って本当にあるのか。 ある? 臨死体験した人たちはお花畑を見た 三途の川まで行って渡らなかったという? お花畑、三途の川ってのは東洋の考え。 西洋の人で臨死体験をした人たちは、意識を取り戻したとき、お花畑とか三途の川とか言わない。 だってそういう童話の文化ではないから。 日本人が幽霊を見たというとき「足が無かった」という。 西洋の人は幽霊をみたけが足が無かったとは言わない。 言い伝えの文化が違うので、そういう教育をされていないから。 ということは、あの世というのは、人が作り出した架空の御伽噺上に存在するとされる世界で、実在しない可能性が というか実在しないわけです。 あの世とされるのは、結局は生きた人の空想の産物にすぎないわけです。 人間は仮死状態に近くなると脳の中にガスが出ると言われる。 これが快楽物質となり、臨死の人に快楽を与える場合がある。 それを お花畑に行ったとかそういう表現をするわけです。 臨死時に脳が見せる幻影。 で、私は何度か気を失ったことがある。 一つはバイクにのっていて、横の車が急にこっちの路線にやってきてぶつかりそうになっった。 そのあと意識が戻ったら、「あーーー 路面をすべってとまらねーーーー」 つまり「ぶつかる あぶない」と思った後 恐らくよけようとして店頭してバイクごとこけてずーーーっと滑っていたと思えるが、その間意識が無かった。 起き上がっても痛くもなくて1時間くらいして「なんか激いてーー」と腕と足をめくって 血まみれになっていた ということがあった。 つまり、いてーー と思うまでいわば あっちの世界にいっているような状態で、痛みも無いわけです。 どきっとすると、痛さを感じない。 これも人間の防衛本能のせいかもしれない。 もう一つは「具合悪い しぬーー」と思って、はっと気づくとどっかの部屋の床に寝かされていることが何度かあった。 意識を失っているのでその間の記憶は全くない。 いろいろ処置されたらしいが、なんも感じなかった。 意識が無かったから。 つまり 脳が最低限の生命維持に全力を尽くしたので、意識の方までエネルギーを使ってくれなかった というか 脳が酸欠していたので、メルトダウンしていたので、機能していなかった。 だから記憶が無い 記憶するだけのエネルギーが無かったから。 認知症と呼ばれる人たちが増えてますよね。 昔は脳溢血とかになれば高確率で死んでいたが、今は命は助かる率が高いので、脳が壊れた状態でも生命はあるわけです。 復旧をしてもダメージがひどい場合は、回線が断絶しているので、目の前にあるものが一体なんなのかわからなかったり、子供の頃の記憶しかなかったりするわけです。 そうなると年を聞くと「80歳くらいかな」と答えられるのに、「明日学校に行かなければならない」とか何十年も前に無くなったお母さんの姿が見えないけどどこにいるのか と聞いたり、または家族を見ても「あんただれ?」となるわけです。 というわけで、人間は記憶でこの世を形成している。 それは体験以外、他人に植え付けられた概念だったりするわけです。 あの世という世界も、日本の昔からの言い伝えとか文化により創られた。 恐らく中国大陸から来た人によって伝えられた神の概念。 古代エジプトの神の概念も入っていますが。 キリスト教の神というのは、その前のエジプト文明からきた概念。 エジプト文明の人は、恐らくその前の古代文明の概念の遺産をひきついだのだと思います。 このように人間が神を作り出しているわけだし、あの世ってのも人間の脳が作り出した産物なわけです。 この人工的に作られたあの世という概念の世界に死んだ人が行ったらどうなるか も やはり創造することになるわけです。(想像じゃなくて創造) で、この概念を創造するってのは、人間の特徴。 コンピュータにはできない。 コンピュータは正確、入力されたものを正しく出力する。 人間はそれができない。 入力の内容と出力の内容が違うのは、脳の問題。 記憶をするとき、人間はコンピュータのようにそのまんまを記憶の貯蔵しない。 分解してそれぞれの分野にバラバラに貯蔵して、ヒモでつながっている。 太い紐の方が呼び出すとき、すぐに呼び出せるが、パーツをそれぞれ呼び集めるので、再度組み立てたとき入力時と違ってくる。 つまり1入力したら出力するとき1以外のものがでてくる。 つまり1いれて二以上のものを作り出せる。 コンピュータにはできない。 つまり人間は創造主なわけです。 だからあの世ってのも創造し、あるとできたりするわけです。 立証不可能かどうか。 例えば人間の頭にオウムのようなヘッドギアをつけて、微弱の電流を流せるようにする装置をつけたとします。 側頭葉のある部分だけ刺激を与えるようにすると、「神に会った」となります。 別の部分を刺激すると、また別の体験をする。 あの世はどこにあるのか? 人間の脳の中。 従い、人間が死んで脳が停止したり、脳が破壊されると、あの世も創造できなくるわけです。 死ねばこの世は消えるわけで(この世を作っている創造主が消えるから)、あの世という産物を脳の中で作リ出すこともできなくなり、全てが消えるわけです。 ですが1人が死んだとしても、別の人が生きていれば、この世やあの世を創造でき、存在していることになるわけです。 ただし、死んだ人は自分が死んだ後も別の人の脳に中にこの世やあのは継続して存在しているとはわからない。 だってわかる部分が消滅しているから。 小さい頃に視力を失った人が、40歳すぎて視力を取り戻したが、小さい頃の見えた感覚の記憶が無いので、40歳すぎて初めてこの世を視覚を通して知ったそうです。 とっても とっても とっても行き辛くなった。 今まで手でこの世を認識していたのに、目が見えるために、この世を認識するのが困難になってしまった。 それが一体なんなのか この目からの情報が 一体なんなのかわからず大混乱。 脳が処理できなかった。 で、再度失明したことで、この世を取り戻した。 この人の場合 この世はほぼ手で認識していたわけですね。 もちろん手の感覚が脳に伝わって脳が「この世」って本人に認識させているわけで、結局 脳が全てを生み出す源であることには間違いなさそうです。 このことからして、肉体が滅べば、消滅と同時にこの世もあの世はこんなところかなと創造することもできなくなるので、、、、 結論、質問内容時代に無理がある。 ただ、「ああだったらいいな」「こうじゃないか」と創造主によって、あの世とするイメージは違うので、人 つまり 創造主によって「死後のあの世での世界はこうじゃないか」という内容は違ってきます。 「そうか」とあなたが納得できる回答が出てきたとしたら、それはそれが正解なのではなく、その人の持っている文化とあなたに身についている文化がかなり類似しているってことなだけです。 で、宗教ってのは人によりバラバラな概念を一つに統一しようって運動。 みんな一緒の概念なら1億人いても1人ですから。 1人の考えたことは、みんなも同意になる。 一億人いてあの世は実在すると信じているが、その概念がみんな違えば、あの世は1億個あることになる。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。 所詮この質問は思考実験なので、あの世や神が存在するかはどうでもいいのです。 私個人は存在する或いは存在しない、どちらも信じていません。 夏はスイカと祭りと怪談話。 この質問はそういうイベントの一環であります。

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回答No.7

立証不能という条件が同じなら、当然否定する人もいると思います。 あくまで疑問系でしょうから

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 あの世で神を否定する人は少数派でしょうか?

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回答No.6

shiht-2007さん、今晩は。  その質問文に対しての質問があります。 》或いは地上で人間として生きていたころと同じように、立証不能であるとして《 というところからの 疑問なのですが、 それでは、 「地上で生きている人間」は神の存在を立証不能であるとして否定している と捕らえることを前提とした質問に思えてしまいます。 そう書いたからと言って shift-2007さんがそう思っているとは限らないわけですが、   そのへんは 最近読んだ 論語の中で 孔子が 「生きてる人の事も解からないのに死んだ人のことがどうして解かるのだろうか?」といった意味合いの事を述べられていることに なるほどそうだと思えてしまう私のような人間には、 どうしても そのへんがひっかかるところなので、まず、この補足要求質問となったしだいです。 私は 生きてることを深く深く探ってゆく中に始めて 神の存在も見えてくると思っている人間です。 証明というより 実感です。 苦しんで 苦しんで疑って疑って それでも 命の実態の中に希望を見出した時に 感じられてくる実感としてです。 いわゆる「あの世」とか霊界というのは、わたしには何かの便宜的方便とか物語とかに思えてしまっていますが、 もしかしたら、shiftー2007さんは、 そのへんに対して同じような批判が心の中にあっての 揶揄の質問のつもりであられるのかもしれませんね。 あるいは、あの世の住人というのは その存在はまた それは確実に存在するという前提での質問なのでしょうか? 私の言う神の実感というのは、 神は何もしないということ(どんなえこひいきもあるはずが無いという、あるいはそのへんまさか神が人間以下の狭い心であるはずないというふうなところからも考えられるところなのですが)は、いないのと確かに同じなのですが、   すでに存在の中に これほどまでの 命の可能性の豊かさを贈られているかのような存在の姿に気がつく という意味での実感の世界のことを言ってます。 それは、頭での否定とか立証とかではなく、実際の事実にたいする気づきの世界です。 でも、死後は 私たちの意識にとってどうしてそれを理解できるのでしょう? その 弱いあたりまえの生物の体の張り付いている意識の世界の中に、その無限の贈り物が秘められている、神への気づきの世界も含めて、 これだけでは、非論理的なのでしょうか? キリスト教の主の祈り(キリストが直接教えられた祈り)の中に、 「天の行われるがごとく、地にも行われますように」という言葉があったかと思いますが、   「行われるがごとく」というのは はるか未来の未来の事ではなくて 今の大地にも 素朴な子どものような純真で新鮮な心を持った人は 天に住んでいるよなものということの 例によってたとえ話が そこに入っているということだと思うのです。 今を 生きてることの中にそれが見出され、神を感得しえるならば、 その人は あの世(がもしあったとして)でも、 神のことを忘れてるはずはないのでは と思います。 私自身は どんな精神も 死の淵には 生物としての体とともに消えていってしまうと思ってます。 もちろん なんらかの形で 人間の命は永遠だという推理はありえる話です。  よく考えてみてください。 この命は、 そうです 生きているこの地上の この大地の上の私たちの命は、 それほどまでの 奇跡の上に存在しているというのが 存在であるのですから…。 また であれば 輪廻もまた否定してる者ではないのです。 なんらかの形の輪廻転生説をです。 おそらく そんな何かが 現実そのものの世界として見えてくるのが私たちの生の世界だとおもってさへいます。 が、 そこに 霊界とか あの世とか それを見たことの無い人が そのように見てきたかのように想定する必要は何処にも感じないのですが、 なぜ、 それが前提としてあるかのような質問を哲学のカテにされたのでしょう? 私には 文から受ける感じでは shift-2007さんが とてもそういう仮定をわざわざ作って その仮定におけるさらなる仮定の論理を求めているとはとても思えない感じがするのですが? つまり 何か本気のアイロニー(ひにく)が質問には込められているように思ったのですが、どうなのでしょう? それとも、 shift-2007さんも、論理自体が好きなだけなのですか?

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >「地上で生きている人間」は神の存在を立証不能であるとして否定している と捕らえることを前提とした質問に思えてしまいます。 生前にそういう主張をしていた人が死んだ場合、あの世でも同じようなことを言うのだろうかという事です。 つまり、死後の世界では私たちはどのような思考パターンを持つのだろうかという事です。 生前と同じものか或いは全く違う思考をするのか。 そもそも思考というものが出来るのか? 思考することが出来るなら、あの世という不可思議世界に行っても人は相変わらず科学的知識や自分の経験を拠りどころにして思考するのだろうかと。 また、この世でもあの世でも神という存在は身近なものではないだろうと思うのです。 あの世では神の存在を身近に感じることが出来るのか。 そもそもあの世があるなら神は存在すると言えるのか。 もっと言えば神はどこにいるのか?この世か、あの世か、それとも別の世かということでしょうか。

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noname#100018
noname#100018
回答No.5

「あの世」とは、いずこに座するモノか、分からぬ。 「黄泉の国」「天国・地獄」「冥途・冥界」「極楽往生」などと、多岐に申すが、それは、宗教が在って成立することに候ふ。 個人と言う個の意識の中で、「宗教観」が無ければ、語るにも語れぬ。 宗教の位置付けで有らまほし。 生きる上での死への不安解消だと、思うべし。 仮に、あの世が在るとすれば、そこに住みし者たちを、統率するモノが在るはずなり。 それが、「神」だと思うべし。 参考までに、この回答者は、「死=無」の考えである。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。 この世で生きるものを統率している存在は「神」ですか?

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.4

どのような根拠で >立証不能であるとして霊界において神の存在を否定する とあの世でも主張するのでしょうか。その論理的根拠を教えて下さい。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。 私も分かりません。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

>>或いは地上で人間として生きていたころと同じように、立証不能であるとして霊界において神の存在を否定するでしょうか。 あの世の構造の問題ですね。あの世も厳然と二つの世界に分かれているのですね。正当な神を信じる世界を天国、それ以外を地獄といいますが線を引いたように分かれているのですね。不思議にグレー領域はありません。(註:正当な神の意味は、地獄の極卒も神といいますから区別してということ) だからこの世で正しく神仏を信じて生きた者は天国へ、それ以外は地獄というところに行くことになります。地獄では神などいないという者ばかりですから神の存在を否定しても問題はないわけです。高学歴の者や歴史上の高名な思想家、哲学者、科学者、医者などごまんといますね。 天国から見れば哀れですけど、地獄から見れば違うのでしょうね。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。 >正当な神 具体的には何を指すのでしょう。

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noname#117439
noname#117439
回答No.2

A1の続きです。 お釈迦様が娑婆と言ったのは現実の事ですから「あの世」ではなく「この世」の事なんですが、これは「我は無としてある」とする心象に特有の表現でして、「存在は動かしがたい」(ゆるぎない)その存在とはすなわち我であり我は確固としてある。と、するならばA1の通り心象の外側としての世界は(現実は)むしろあの世です。娑婆とはあの世を指します。 思い当たることは多いですよね。 神様を信じますか?と、問いかければ答えは人それぞれでしょう。 神様などいませんと答える人の心象世界は霊界です。 さまよえる世界です。 霊界は神の存在を否定までもはできません。 否定するならばいったんは神を認めたことの表れです。 むしろ、神様が判らないのが霊界です。 霊界に合い対する論理なのですが、、霊界では信仰が曖昧であるならば、信仰で存在の側からつながることはできません。 よって霊界とは信じるに値する要素が一切ないと断じる事となります。 これは神に限りません。 人間ですら霊界に信じることを見出すことができません。 霊界は神の存在を否定できませんが、人間は信じる処のない霊界を否定できます。 以上が徐霊のできる霊媒師の論理です。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。 神の存在は結局は信じるかどうかによるということでしょうか。

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noname#117439
noname#117439
回答No.1

何をもってあの世と解釈するかですよ。 脳の構造は外科的にしか解明されてませんがそれでも脳の不思議は色々と言われています。 そんな、医学で課題として挙がっている脳の謎の一例として見える事の不思議を取り上げてみます。 眼球の神経構造では眼球の神経線維の数は150万本です。 多いようですがこれは150万画素のデジカメの画像による解像度でしか、眼球から脳への情報伝達はなされていないことを意味します。 ですが認識上の見ると言う行いの自覚は明らかに150万画素以上です。 ですから、脳内で空間を認識する能力を発揮して、見る行いを通して世界をより鮮明に理解又は掌握する知性が働いています。 よって、脳内に現実を写し取る鏡としての、脳独自の世界観が発達している理論となります。 ここで本題に戻って、このように写し取られた鏡の世界が「この世」です。ならば「あの世」とは、むしろ現実を指します。 それならば「あの世」と「この世」は本質的に一致した「世」です。 このように世界を指し示す「世」と言う言葉は心象に現れる風景です。 そして、心の不在(心象の不在なので想定不可能)が現実のことを意味するならば、そのような想定可能かどうかの論理が「死後の世界があるならば」とする仮定です。これが、「いっぺん位は死んでみたいな」とする死後の世界です。 このような死によって分かつことのない世界が神の世界です。 死んだらおしまいです。 死を想定するのは人生まだまだ8合目とするボヤキです。 輪廻のデマを克服してしまえば死後は無くなります。 死後の世界を「あの世」として検証する理由はありません。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。 この世以外をあの世と仮に呼んだとした場合、そこの住人は神を信じるでしょうか。

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