• 締切済み

舞姫について

高校3年生男です。 先日舞姫を読んだのですが、どうしても豊太郎の取った行動に納得できません。 当時の日本は個人より国家、一族という封建的な文化で、ヨーロッパは個人主義。 豊太郎がドイツに渡り、独立の思想や自我の発展が生じたと思います。 じゃあ何故エリスと個人の付き合いが出来ず、名誉の方を選んでしまったのか・・・ んー謎です・・・皆さんは肯定否定どっちの側なんでしょうか? 舞姫の神髄って何なんでしょうか? どうかコメントよろしくお願いします!

  • ikkiy
  • お礼率62% (5/8)

みんなの回答

  • bakansky
  • ベストアンサー率48% (3502/7245)
回答No.3

「現地妻」という言葉がありますが、エリスは上流の人間ではないだろうし、鴎外にとってはその程度のものであったのではないでしょうか。 日本に帰国するに際しては、きちんと清算をしておくべきだったのが、ズルズルといい加減な態度をとっていたために、日本にまで追ってきた。 結局、金を渡してお引き取り願う結果になったわけですが、「真髄」も何も、鴎外の不手際以外の何ものでもなく、しかもそれを小説という形にして残したというのが、何とも・・・ 鴎外は、勿論、エリート中のエリートですから、そんなお荷物を抱えこむなど、論外であったわけです。 反骨の精神にあふれているかのように思われる漱石でさえ、妻にはしかるべき高級官僚の娘を娶った時代ですから。

  • ikeda55b
  • ベストアンサー率36% (4/11)
回答No.2

あなたのおっしゃってる 「何故エリスと個人の付き合いが出来ず、名誉の方を選んでしまったのか」が、「舞姫の真髄」なのではないでしょうか。 まさにここに「明治の近代人」の苦悩、鴎外の出発があったのではないでしょうか。

回答No.1

考え方が単純すぎはしませんか。 当時の日本人の全員が個人より国家、一族を 重んじる考えを持っていて、ヨーロッパのすべての 人が個人主義である。そして外国に住めば必ず その国の思想に染まってしまうという前提で考えて います。 そんなことがありうるでしょうか。

関連するQ&A

  • 舞姫の母からの手紙について

    今、高校の現代文の授業で、森鴎外の舞姫について勉強しています。 ふと、授業を受けていて、疑問に思ったことがあり、先生に質問しても釈然としなかったので、ここで改めて質問をさせていただこうと思います。 「まだ留学生であった豊太郎が、踊り子であるエリスと通じていると密告され、官庁からクビにされる。豊太郎は、一週間の暇を貰い、その間に母と親戚からの手紙が届く」 という場面についてなのですが、学校の先生の解説は、官報に豊太郎のクビが載り、これを諌めるために、あるいは慰めるために母は手紙を送った、というものでした。 そこで、疑問です。 クビが決まり、すぐに暇を貰った豊太郎が母から手紙を貰ったのは、密告されてクビが決まってから一週間足らずの時でしたよね。 でも、飛行機もない時代に、一週間も経たずにベルリンにいる職員のクビが東京まで伝わり、官報に載り、母がそのことについて手紙を書き、ベルリンまでその手紙が届く。。。 これは、無理のある話ではないでしょうか。手紙は母の直筆ということですし、電報で送って、誰かが代筆したというわけでもないようです。 ちなみに、現代では、ヨーロッパから日本への船便は、およそ一ヶ月かかり、シベリア鉄道はまだ建設されていません。 これは、森鴎外のミスなのでしょうか? 稚拙な文章で、申し訳ありません。

  • 封建制から資本主義へ変わった理由は?

    西洋経済史について勉強しています。 西洋で初めて資本主義が現れたのはヨーロッパで、それ以前は封建制であった。そして、資本主義になり市場が発展したことにより、商品経済が農村の中から誕生したということは分かりましたが、曖昧でいまいちよく分かりません。 ホームページを検索しても、詳しく載っていないので困っています。

  • 私の思想には同志がいません。私は幸せに笑えますか?

    人間は、自分の生き方なり、自我や自主性を形成するうえで、 他者に賛同してもらえたり、同意してもらえることで、 己の生き方や自我を強く、太く、強靭なものにし 自信や自我を得ることができるものだと思います。 そして、それがどんなに特異な思想でも、 同志がいれば、自信が持てるし、幸せに笑えるものだと思います。 しかし、私には、そういう同志や意見を共にする相手がいません。 私の思想は独特すぎて、人に理解されないものであり、 たまに、小説やドラマのキャラクター設定で 私のようなキャラが登場しますが(例えば、アニメ「進撃の巨人」のアニ) 現実では、私のような思想の人はいません。 小説やドラマ、アニメに自分と同じキャラを見つけると 安堵感を感じます。励まされます。 繰り返し見ます。慰められます。 それが私の唯一の賛同です。 私の思想は誰からも賛同されることなく、 同志が簡単に見つからない人間性なのを知っています。 様々な事情で、徹底した秘密主義と孤独の中にある思想だからです。 私のような思想を貫く場合、 どうしたら、私は幸せに笑うことができますか? (共有する相手・同志が見つからない場合。) そして、それを貫くのがとてもつらくて、 私は孤独に耐えかねて死にたくなったり、 うつ状態になったり、空しくて寂しくて、 時折、自暴自棄になってしまうことが、自分自身、とても辛いです。 自暴自棄になることを避けるためには、 私も、自主性を維持したいです。 そして、自信をもって、幸せに笑えるように 自分の思想や生き方に、自我を確立させて生きていきたいです。 このために、 どういう種類の才能、能力、行動、その他、が必要ですか? 私がすべきことは、何ですか? 私の抱えているものを明かさないままの質問ですが、 それは謎にしたままで恐縮ですが、どうか教えてください。

  • ルソーの野生の証明

    社会契約論でおなじみのルソーの思想は、どんなんやろか?自然回帰みたいなもんやろか? なんで個人の自由を掲げているのに、全体主義的な社会を提唱しておるんや?謎や。

  • 資本主義と共産主義

    学生時代からいくら考えても分からない事があります。 民主主義の対軸は封建制または君主制 >政治体制 資本主義の対軸は共産主義または社会主義 >経済体制 と学校で習ったのを覚えています。今私は民主主義、資本主義の世界に生きていますので、その良いところも悪いところも肌で感じて、知っているつもりです。 しかし、共産主義についてはいまいち分かりません。共産主義思想については、個人の私有財産を赦さないこと、皆平等という一般民衆に取ってはこんなすばらしい思想はないと思うんですが、現状では、ひどく忌むべき物のように嫌われています。 もちろん、社会主義の国で腐敗が進行していることは聞いていますが、その意味で言えば、資本主義国家でも、政治家、官僚、経済人の腐敗は枚挙にいとまがありません。 資本主義と民主主義が善で共産主義が悪で恐ろしいと言う考えは<何故> <何時頃から>世界中に行き渡ったのですか? どなたかこの私の長年の疑問にお答えください。 (私は思想的にはいずれに属しているわけでもありません。只どなたかの説を聞きたいだけですので、攻撃的、偏向的な意見はご遠慮ください)

  • 存在しない性主義をどう思いますか?

    Yuniko99さんの「存在性主義」に対抗して、新しい思想を思いつきました。 「存在しない性主義」です。 存在しない性主義は何よりも存在しないこと、「無」を大事にして追及する思想です。 存在しないこと、「無」が価値というものです。 人間は弱肉強食、自然淘汰で、せめぎ合っていますが、強い者が生き残ることを保証する人権で、これまで発展してきました。 ヨーロッパは、キリスト教の弱者による強者に対する「憎悪・ルサンチマン」によって、せっかくの明るい健康な人間をダメにしたと言って、ニーチェはそのキリスト教に代わって、強者による強者のための政治、「超人・スーパーマン」を目指すべきだと言いました。 存在しない性主義は、今のイスラム国も存在しない、無であると考えます。 そうすれば、世界は平和です。 また、存在しなければ、人間が死ぬこともありません。 死ぬことがなければ、一切の宗教も必要でなくなります。 一切の宗教がなくなれば、宗教対立もなくなり、世界は平和になります。 江戸時代の禅僧・盤珪は、「不生禅」を唱えました。 人間が生まれない、存在しない、と考えれば、すべての問題は解決すると言いました。 生まれたと思うから死の苦しみもあるのであり、生まれたと思わなければ、死の苦しみはない、と。 仏教がいうように、何事も、心次第です。 心次第で、存在するものも存在しないと考えることができます。 存在性思想では、悲劇が絶えませんが、存在しない性思想ならば、すべては存在しないと考えればいいので、天下泰平、悲劇もなくなります。 このように人類は、存在性思想を目指すべきではなく、存在しない性思想を目指すべきです。 存在することが価値ではなく、存在しないことが価値です。 どう思いますか?

  • ロシア文学って流行じゃないんでしょうか。

    お薦めの古典なんかでロシアの作品を薦められることがあります。 私個人の感想としては、話がつまらない上にただ暗い話を羅列しただけのように思えます。 こういう言い方は偏見となるのかもしれません。ゲルマン人の大移動の後のヨーロッパで、封建制度の下、その後のルネサンス・産業革命後も、ロシアは後進国であり、市民革命も遅い時期にあったと思います。 うがった見方かとは思いますが、日本で戦後、共産主義とともにソ連や中共ブームが起こったと聞きました。その中で、ロシア文学が礼賛され、当時若かった彼らが、現在になって、ロシア文学が若い頃読むべき古典という風に吹聴し(現に彼らは読んでいるのだから)、位置づけられている、と思うのですが、考えすぎでしょうか。

  • ニーチェとカントの出会い って?

     ニーチェとカントの出会い?  ▼ (三島憲一:ハーバーマスとデリダのヨーロッパ) ~~~~~~~~   デリダの〔ハーバーマス七十五歳の誕生日に際しての〕お祝いの手紙が 《我々の誠実さ》というニーチェの引用で始まっていることを忘れてはならない。デリダとハーバーマスにおいて(ひょっとしてハーバーマスは多少ともいやいやながら) ニーチェとカントが出会っているのである。  理性の欺瞞を告発し 個性と差異を情熱と芸術の名によって擁護したニーチェと 人間を目的として扱うことを哲学的社会論・政治論へと翻訳し 世界市民権を説いたカント 理性と力の癒着の告発がともすると力の理不尽な肯定という迷誤に陥ったニーチェと 理性の哲学がときとして謹厳実直な特定のライフスタイルへの固定化を誘引しがちな道徳主義的カント 政治的にはこれまでまったく違った陣営に位置づけられていた両者が デリダとハーバーマスの《翻訳》を通じて二一世紀にもっと激しく出会うならば――そして すでに二〇世紀の最後の一〇年で確実に出会っているのだが―― それぞれの迷誤と誘引をもう知らない世代の希望が出てくるというものである。  そうすれば ヨーロッパ憲法の挫折はエピソードに終わり 国際秩序の立憲化という《ユートピアなき理想主義》への道がひょっとすると見えてくるかもしれない。  これがデリダとハーバーマスのヨーロッパ つまりエアバスと武器輸出のヨーロッパではない ヨーロッパの自己像である。  そして ひょっとすると 日本の思想の世界でも 《なんとか大学なんとか学会》の習慣も 〔* 日本の学者たちがそれぞれ自分たちの奉じる外国の学者や思想家をそれにたてまつったところの〕神様や偶像を引くだけの《神々の戦い》の時代も終わるかもしれない。ヱーバーがこの表現を使った経験は もう過去のものに属するのだから。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 終章 ハーバーマスとデリダのヨーロッパ p.227 )  ~~~~~~~~~~~~~~~  ハーバーマスおよびデリダについて知りません。どなたか解説してくださいませんか。  そのほか ご感想やご見解をも述べてください。  質問者の物言いは わづかに《世界市民権》が 市井の一市民にあるというだけではなくそのことが 社会制度としても――つまり 国家やあるいは国際連合などに必ずしも頼ることなく 地域のムラ(市町村)じたいの体制としても――成っているということ このことを必須の条件とすると考えられることである。    自由なご批判をどうぞ。  

  • 舞姫

    森鴎外の舞姫を読もうと思っているのですが… 簡単に話のあらすじや、皆さんが感じた事や なぜこんなにも有名なのかという事、 此処が良い!など是非教えてください☆

  • 舞姫

    春休みの課題で舞姫が課題として出されているので、「舞姫」の現代語訳があるHPを探しているのですが良いサイトがあったら教えてください。