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浄土真宗 自殺について

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.7

>>信心を持ち南無阿弥陀仏と念仏を行えば阿弥陀如来の本願により、無間地獄に落ちず極楽浄土に往生できる。と言うのが、浄土真宗の教えかと思いますが >>信心を持ち、念仏を唱えながら自殺した場合でも「後生の一大事」から救い出され、往生できるのでしょうか?  「無間地獄」や念仏を称えるではなく「唱える」とお書きにおなられるところから見ると、日蓮聖人系の宗派の方、もしくは日蓮聖人の教えを勉強されておるお方でしょうか?  何点かお話させていただきます。  まず、浄土真宗というより浄土教における自殺について、最も有名な人物は善導大師でしょう。浄土宗をお開きになられた法然上人は善導十徳の第七項目に「七者遺身入滅徳」善導大師の自殺を入れておられます。また日蓮聖人も『念仏無間地獄抄』のなかでは自殺し損ねて苦しみぬいて死んだ善導大師は極楽にはいけないし、その門下も同じであると説いておられます。  しかし現在の史料研究において、善導自殺説は事実ではないということが言われています。  まず善導伝の最も信用できる史料は『続高僧伝』です。なぜなら、著者の道宣律師は善導大師の同時代の先輩で同じ長安に暮らしていた人物だだからです。  では、その『続高僧伝』には 「時に光明寺にありて説法するに、人あって導(善導のこと)に告げて曰く、『今仏名を念ず。定んで生まるるや不や。』と。導曰く『念仏せば定んで生まれん』と。其の人礼拝しおわって、口に南無阿弥陀仏を誦す。声声相次いで、光明寺の門を出て、柳の木の表に上り、合掌して西に望み、身を下に倒し投げ、地に至りて遂に死す。事は台省に聞こゆ」 とあって、これは善導大師自身ではなく、善導大師のお説教を聞いた人が、あまりの素晴らしさに柳の上から捨身したことが、当時の政府まで大きな反響を呼んだと書かれています。これが、後代の善導自身の自殺説につながるものといわれています。  また、善導大師自身が自殺を止めている話もあります。『瑞応刪伝』や『宋高僧伝』には、善導大師の弟子懷感禅師が、念仏往生に疑問を持ったときに善導大師は「心から念仏すれば、その霊験があらわれる」とと懷感禅師を励まされます。しかし、いくらお念仏を称えても霊験は現れず、自分の罪の深さを嘆いて懷感禅師は絶食して自殺しようと考えます。しかし、それを見た善導大師は、懷感禅師の自殺を許しませんでした。それを厳しく誡めて、より念仏に励むよう薦めます。そして、懷感禅師は三年目にして、念仏三昧発得されるのです。このように善導大師もまた自殺には否定的な考えを表しています。  このように、善導大師自身が自殺したかということに関しては史料を見ても否定的に捉えざるを得ません。しかし、ではなぜ善導自殺説のようなものがあらわれたのか?という疑問がでています。これには『妙法蓮華経』が大きな関わりをもってきます。  仏教で言う「遺身」「捨身」は単なる自殺という意味ではありません。遺身や捨身は、仏のため、全ての衆生のために、自分の身をなげうって供養することで、結果的には自殺と違いはないが、その動機は菩薩精神に基づく最高の布施でなければなりません。それを現在の感覚でどうこう言うのは現代人の傲慢といわねばなりません。当時においては宗教実践として高く評価されていました。経典の中を探しても、『涅槃経』には雪山童子の羅刹への捨身供養や『金光明経』の薩埵太子の捨身飼虎は、玉虫厨子などで有名ですが、他にも枚挙に暇がありません。  その中でも、中国において六朝時代から『妙法蓮華経』の説かれる「薬王菩薩本事品」の焼身供養が尊まれていました。先ほど紹介しました道宣律師の『続高僧伝』には、善導大師の記述の前に、会通律師が『妙法蓮華経』を読誦しながら焼身供養したことが記されています。  つまり、善導大師は信者の自殺を幇助したことになるが、当時の感覚では『妙法蓮華経』薬王菩薩本事品の焼身供養の影響は大きく、「捨身」は評価されるべきものでした。先に紹介した『続高僧伝』にも「事は台省に聞こゆ」とあって善導大師の名声が広がったとありますが、善導大師本人の意思とは別の、当時の社会環境の問題といえます。  「高僧伝」と呼ばれるもののいくつかを見てみると、「捨身」については、『高僧伝』には11人、『続高僧伝』には会通律師を含めて12人にその他に善導大師の説教によって自殺した人を含めた一般人は5人、『宋高僧伝』には24人と時代と共に捨身の人数が増えていきます。善導自殺説が始めて書かれたのは戒珠の『浄土往生伝』で、『宋高僧伝』の76年後に記されたものですから、「偉いお坊さんは普通の死に方じゃ駄目でしょ」ってことで、『続高僧伝』の出来事をアレンジしたと考えるのが妥当でしょう。 >>信心を持ち、念仏を唱えながら自殺した場合でも「後生の一大事」から救い出され、往生できるのでしょうか?  つまり善導大師の自殺一つとって考えても、この問の答えはNOとなりますね。それは浄土真宗においても同じことで、極楽浄土は自殺していく世界ではありません。善導大師は「上尽一形」と説いて、「一形」とは一生涯ということで、早くに念仏に出会うことができた人は一生涯念仏を称え続けなさいと説かれています。つまり、念仏に出会ってしまったからには一生涯の途中で自殺するって選択肢はないんですよ。  しかしすでに自殺してしまった方を持っている家族のかたは、きっと「その方も極楽に行ってほしい」と願われるのではないでしょうか?そのご家族の気持ちを阿弥陀様は汲み取ってくださらないわけがない。というのも、浄土教の姿であるとは思います。  急ごしらえの文章のため、誤字脱字乱文どうぞお許しください。参考にしていただければ幸いです。  合掌 南無阿弥陀佛

marunyo
質問者

お礼

とても参考になる回答有り難うございます。 >「無間地獄」や念仏を称えるではなく「唱える」とお書きにおなられるところから見ると、 「称える」「唱える」については私の教義理解不足からきている、間違いです。 漢字の意味を見れば、唱えるを使用するのは違いますね。 気づかせて頂き、有り難うございます。 阿弥陀如来の本願についての理解を深めて活きたいと思います。

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