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危険な浄土真宗
浄土真宗の知人が言ってたんですけど、仏教を聞かない者は地獄に堕ちるそうです。なぜなら、我々は呼吸で微生物を殺し、何かを食べては植物や動物を殺しているからだそうです。だから、悪ばかり作ってるから、地獄行きみたいです。でも、仏教を聞いて阿弥陀仏の救いを得られれば、死後に極楽浄土へ行けると約束されるらしいです。それに加え、生きている間も安心大満足だそうです。しかも、ヒットラーやフセインみたいに、極悪非道な大量殺人をしても、阿弥陀仏の救いがありさえすれば問題ないみたいです。つまり、この知人の話では、阿弥陀仏が救ってくれるから、何しようが構わないみたいなのです。正直、こんな危険な思想の持ち主は何をしでかすか分からないので、もう関わりたくないです。 そのうち、とんでもない悪事をしないことを祈るばかりです。 これが浄土真宗であるなら、とても危険な思想です。 本当の浄土真宗はこんなんじゃないという人がいましたら、是非ご意見をお聞きしたいです。
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それは本願寺派とは経典の解釈の異なる浄土真宗系新興宗教「浄土真宗親鸞会(富山県射水市に本部)」の教えだと思います。私は、今ではこの会のアンチなんですけど、しばらく活動していまして教えを聞いていました。 以下はあくまでこの会の教義の話です。 ヒトラーやフセインでも救われるというのは本当です。 なぜなら、人間はこの世に生きている限りみな極悪人だからです。仏教では行動の元となる心(確かにそうですね)の在り方を重視するので、実際に手を掛けて殺すのと同じくらい、心の中でこいつ死ねばいいのにと相手を殺すことは悪なのです。そして常に「異性とやりたい(色欲)、ウソも厭わない、」といった気持があるために生きている限り、地獄行きの業を作り続けています。(@_@!?) 仏教には悪因悪果、自因自果という考え方があります。(悪い行いが必ず先で自分自身に降りかかってくる)人間の時間は、前世、現生(今)、来世と流れていて、とてつもなく不細工に生まれた、馬鹿に生まれたなどというのは前世の行いが悪かったから、そして現生での(一般人もヒトラーも関係ない天文学的な数の)悪業は来世(死後)に地獄行きという結果を招きます。ところがここに阿弥陀仏という最も偉い仏様がいまして、どうしようもない極悪の人間のための救いを立てられ、この仏様の「救い」を、完全に信じた状態になれば(信心決定:しんじんけつじょうといいます)、死後極楽に往って生まれる(往生)ことができるのです。信心決定の状態では「私のような極悪人など救われることなどないのだ」、「私は阿弥陀様に救われた、極楽に行ける、ああありがたい!」の2つの思いが同居している矛盾した状態になるそうです。 でも、悪いことをしていい、というのは間違いです。信心欠場に至るまでの道は、「良いことをしようしようとしても私は所詮欲に満ち満ちた極悪人なのだ、地獄に落ちてしまう、仏法を聞き求めねば!そして善知識(信心欠場できている人)の説く法の聞法によって信心欠場することができる」のプロセスを辿る必要があるのです。親鸞聖人は、信心欠場したあと肉を食べ、妻を作りましたが、これは布教の時に極悪人の親鸞でも救われるということを逆説的に示そうとしたそうです。 本願寺派は、先祖や自分の恵まれた人生に感謝しよう、南無阿弥陀仏を唱えれば極楽、という解釈だったと思います。 本願寺派の方がずいぶんライトですね。教義の解釈でここまで違ってしまうものなのですね。
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- 7zigennDNA
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なかなか面白い質問ですね。 まず、人間の良心は、どうやって守られるのか、考えてみましょう。 動物の多くが、同じ種族の間で、悪逆非道な事をやらないのは、復讐を恐れるからでしょう。 喧嘩しても、ある程度のところで、手打ちをして、相手を徹底的にやっつけないのは、 そうしないと、その動物が絶滅危惧種になってしまうからです。 絶滅を免れて、今も生き残っている動物は、この原理を長い進化の中で本能として獲得し、 あるいは、兄弟姉妹や近くの仲間と喧嘩しながら、学習する訳です。 人間は、時として悪逆非道をやる者が出てきます。 集団で暮していれば、こんなヤツを仲間外れにすることで、排除し、淘汰してきました。 ところが、自分の集団以外に対しては、この原理が適用できません。 文明が生まれ、色々な集団を束ねて、大きな人口を抱える大集団が出来ると、 大集団の中で、小集団同士の抗争が始まり、その大集団が自滅的な打撃を受ける事態になります。 そこで、宗教家が、地獄の概念を発明しました。 悪逆非道の事をやっていると、地獄に落ちるぞと、脅す訳です。 そのうち、地獄が一般常識になると、 今度は、皆が、ちょっとした事でも地獄を恐れて、ノイローゼになりそうです。 そこで、宗教家は、良い事をしている人は、天国や極楽浄土に行けるぞと言う訳です。 これで、宗教家は、人々の心を鷲づかみにして、支配権を握ります。 何だか、人間って、バカバカしくなりませんか? ありもしない、地獄や天国、極楽で、コントロールされている。 他の動物の方が、よっぽど善良で、賢く見えてきてしまいます。 そこで、賢い宗教家が現れて、もう悩むのは、止めましょうと言った訳です。 「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」「アーメン」「払いたまえ、清めたまえ」と唱えれば、 もう悩まなくて良いですよと。 本当は、「地獄も天国も極楽もありはしないから、気にするな」と言いたかったのかも知れませんが、 地獄も天国も極楽も、その当時は、世間の常識で、口に出せなかったのです。 じゃあ、どうやって、皆の良心を守るのでしょう? この地上が、天国や浄土に近づくよう、人類みんなで協力しましょうと説いたのです。 宗教、宗派により言い方は、様々ですが、極論すれば、そうゆう事です。 皆で協力しましょうと言っているのに、悪逆非道な事をやるのは、これに反する訳です。 そんな事をする人は、仲間外れにしますよと言うのは変わりませんが、 でも心から、「あ~、ホントに悪かった。これからは一緒に協力します。」と悔い改めれば、 仲間に戻ってきて良いですよと言う訳です。 そして、「あ~、何てありがたいことだ。」と感謝する訳です。 以上、独断と偏見に満ちているかもしれない、たとえ話でした。 これなら、小学生でも分かるでしょう? 宗教家の皆さん、気に障ったら、御免なさい。 参考URL ・死後の地獄は不要品 http://web01.joetsu.ne.jp/~dimen/page023.html ・魂への想いが良心を守る http://web01.joetsu.ne.jp/~dimen/page024.html ・天国・極楽 http://web01.joetsu.ne.jp/~dimen/page033.html
- yukinok213
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浄土真宗を信仰している者です。私は専門的な知識は全く持ち合わせなく、父方(浄土真宗)で乳児の頃にご縁をあわせて頂き、それ以来、家庭内でも、自らの生活でも当たり前の如く、その教えを生活の一部とし、そして大体、月に一回の割合で、知識のある方(=菩提寺などのお寺のお坊さんではなく、先達の専門的な教義により、一般信者よりももっと深い知識があり、法力を得る修行をなされた方)と一般信者で、大勢集まり教えを再確認したりなどをする集まりに参加したりする程度です。 私が、浄土真宗のご本尊・阿弥陀様の教えを教えていだたいたのを簡単に申しますと・・。 阿弥陀様へのご縁に逢う瞬間までは、私たちは前世でも今生でもどんなに小さな生き物を生きていくため、鬱憤晴らしのため・・等などの理由で、多くの生き物を殺しています。その罪が、”業”として蓄積しています。 時と場所などの環境が整った状態の瞬間に、阿弥陀様とのご縁が逢うことができます。(ご縁がなければ、その瞬間になるまで機会を待たなければなりません。人によっては、臨終の間際になってやっとご縁に逢われる方も実際におられるそうです。それだけでも来世につながるから、阿弥陀様とのご縁が切れたわけではないそうです。) その瞬間に、今までの”業”を阿弥陀様が半分持って行ってくださり、阿弥陀様の種がご縁に逢われた方の心に宿るそうです。阿弥陀様は、ご縁に逢われた方がどんなに逃れようとしても、その人を救うためには決して握ったこの手を離さない。とも言われています。 なので、極悪非道の悪人でもそうでない人全ての人に、これからの行により、雑事や煩悩が多いある日常生活に、救われるようにヒントをいつも落としていくので、心の種を育てていきなさい。(このことを阿弥陀様のお力で救うこと=他力本願と言うことを簡単に教わりました。)と、日常生活と最初に申した知識の深い方の説法を聞いて、信者の方を交えて、みんなで教えについて、分からないことを話し合い、再確認することなどが、修行の場であり、一番大切なことだそうです。 これらの(特に極悪非道の悪人が救われる云々の部分。)一番分かりやすい例・・・というか、理屈で言っても余計混乱してしまわれるかと思いますので・・、そのようなことを扱った古典文学があります。それは・・・。『蜘蛛の糸(芥川龍之介)』です。一応その作品について載っているURLを淹れて置きますので、ご参照ください。 長文を失礼致しました。ただ浄土真宗というのを、誤解なさらないように、私の経験などからなるだけ正しく説明させて頂きました。ただどの宗派でもあることですが、私のようなことを教えとして教えないなどのところもございますので、私のがすべて正しいとは申すことはできません。本当の浄土真宗はこういうものだと、簡単にお心の片隅にとどめる程度でお分かりいただければ、幸いです。
お礼
参考URLと詳しいご回答どうもありがとうございました!
- OKERAUMI
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こんにちは。浄土真宗高田派の信者です。 他の方々のように知識はありません。信仰心も強い方ではないので、私見を述べさせて頂きたいと思います。 浄土真宗の考え方では、確かに悪人善人の区別なく救われます。ですが「(世の中を悪くしたり他人を不幸にするような)悪い事を一杯しましょう」とか「どうせ救われるのだから積極的に悪い事をしないと損します」とか、そういう事を言っている訳ではありません。 もう何十年も昔、本山の坊さんと話す機会がありました。 「宗教の目指すところはより良い社会、より良い人生である。仏教も浄土真宗も同じである。阿弥陀様は誰か一人だけに良かれではなく全てのものを慈しまれる。お日様があまねく地上を照らすように、人も獣も草木も石や虫なども慈しまれる。そして慈しむ全てのものが同時に阿弥陀であり、慈しみ合う事で互いに生かされている。念仏は自分を生かしてくれている阿弥陀への感謝の心であり、阿弥陀として他の者たちを慈しむ心である」 当時の私はまだ若くチンプンカンプン。しかも何十年も昔の言葉なので記憶は怪しいですが、記憶が定かなら上記の内容だったと思います。 知人の方がどのような意図でそのような事を言われたのか不明ですが、「何をしても構わない」が「とんでもない悪事」に結び付く解釈なら、それは身勝手で見当違いな拡大解釈と言わざるを得ません。少なくとも浄土真宗の教義とは別物なので、私としては「本当に浄土真宗の信者なの?」とさえ思えます。
お礼
詳しいご回答どうもありがとうございました!
- ta999
- ベストアンサー率31% (6/19)
続きです。 ここまで書けば完全にシンパに見えますが、全然違います。悪因悪果とか、死後の世界とか、阿弥陀様とか確かめようが全くないからです。そんな非科学的なものより、はっきりしている現生のことに全精力を注ぐべきでしょう。それに、もし信心欠場体験があったとして、まず凡人には無理です。常に地獄のことを考えていて夜も眠れない、食べ物ものどを通らない、炎の中をかき分けてでも仏法を聞き求める。そんな心境に達しない限り、信心欠場は不可能だからです。僕のいた学生部では、夏合宿と称して海水浴をしたり、海鮮料理を味わったりしながら、仏教を旅館で聞きました。(こんな態度で救われると思います?冷たい言い方になりますが、パンピーがのほほんとしている間に自分は仏教を聞いているという選民意識、現世で自分ができないような活躍をしている奴らはみんな地獄行、という言い訳ができるという心理が多分にあるように思います。)それに、宇宙からみて人間の生物としての行動に良いも悪いもない(大虐殺でさえ)と思います。(人間の世界では悪いですが) ただ、この会は危険性がとても少ない団体だと思います。会員の方も多少性格的に歪みを感じましたが純粋な方が多いです。新興宗教にしては珍しく。でも、今会長が80過ぎでその息子が暴走族上がりで、会の重役に就いていて、いろいろと金銭的な問題も多いようです。今後、会が変質する可能性も十分あります。友人の方には会をやめるように説得された方がよろしいのではないでしょうか。(教義を問題にすると知識不足のために必ず議論に負けます。なので説得する場合は、信心決定にかける「覚悟」を問うて、その覚悟がないのなら、そんな証明もできないような非科学的な教えなどやめるべき、現生のことのみを問題にして生きるべきといった言い方がよろしいかと思います。) ただ、会の活動だけが心のよりどころ、生きがい、という状態だと、説得は困難だと思います。 質問者様も引きづり込まれないように気をつけてください。 結局は非科学的な教義を信じるか、信じないかの問題に帰結してしまうのです。
お礼
とても詳しいご回答どうもありがとうございました!
- travis_kun
- ベストアンサー率12% (10/78)
> 仏教を聞かない者は地獄に堕ちるそうです キリスト教ではキリスト教を信じないものは地獄に堕ちるといいます。日蓮宗では日蓮宗以外は地獄に堕ちると言います。これらはすべて間違った思想です 仏教では悟りの段階によってあの世の段階が決まります、つまり何教でも高い悟りを得れば高い世界へ、低い悟りも得られないなら地獄へいきます > 阿弥陀仏が救ってくれるから、何しようが構わないみたいなのです 某政党を持っている団体の教えと同じですね。念仏が題目に置き換わっただけで 仏教では悪因悪果ですからそれを打ち消す善因をつくるためには心底の悔い改めと善行の繰り返しが必要です ですから○○すればというインスタントの思想は仏教ではないし、そんな簡単に許されるなら裁判所も不要です > これが浄土真宗であるなら、とても危険な思想です。 宗祖の代はこんな教えのはずもないですが現在では確かにそのような教えになってしまっています 日蓮宗も同じです 現在の一宗一派にこだわらずに正しい道を求めていってください
お礼
>仏教では悪因悪果ですからそれを打ち消す善因をつくるためには心底の悔い改めと善行の繰り返しが必要です これこそ仏教というものですかね。 詳しい説明によるアドバイスありがとうございました!
>仏教を聞かない者は地獄に堕ちるそうです キリスト教の信者はみんな地獄行きってことでしょうか?この思想は極端すぎると思います。 >生きている間も安心大満足 仏教さえ聞いてれば救われるというほど、この世界と人は簡単には出来ていないと思います。むしろ、瞑想でもして無我になれれば救われると思いますよ。瞑想の達人はα波(脳波)出まくりのβエンドルフィン出まくりで情動コントロールのプロって言われるぐらいですから… どんな状況下でも幸せを感じることが出来るかもしれませんね >何しようが構わないみたいなのです 殺生はしてはならないといっているのに大量殺人したらダメでしょう 死後の世界や輪廻などはちょっとわかりませんので、答えることが出来ないですね 只、自分の考えとしてはこの世自体、天国にも地獄にもなりうると考えています。
お礼
>仏教さえ聞いてれば救われるというほど、この世界と人は簡単には出来ていないと思います。 全く同感であります。 >この世自体、天国にも地獄にもなりうる そうですね、その人の心掛け次第でしょうね。 ご回答どうもありがとうございました!
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
こんにちは。 No3様も触れておられますが、その方は「悪人正機説」「他力本願」をはじめ、 いろいろ誤解されているように思います。 「悪人正機説」について少し書かせていただきます。 「悪人正機説」の「悪人」というのは・・・ 自分自身を直視し、自分は煩悩(怒りや不満や嫉妬やその他諸々の、自分や隣人にとって 好ましからざる欲望・感情)を持っていること、それは紛れもなく自分のものであること、 切っても切れないものであること、自分は「悪」を作らざるを得ない存在であること、 つまり自分はいわゆる「悪人」であることを自覚し、自分だけの力では「救われることは できない」ことを認めた人たちのことだと思います。 「悪人こそ救われる」というのは、このように、自分が「悪」を作らざるを得ない存在で あると認めることによって苦しんでいる人たちこそ救われる、ということだと思います。
お礼
そうですか、ご回答どうもありがとうございました!
- 1katyan
- ベストアンサー率18% (147/800)
まだ仏門に入って浅いのでしょう。許してあげましょう まだ未熟で人に正しく説明できない・このような方は他宗にもいます
お礼
そうですか、ご回答ありがとうございました!
これは、死後の世界で救われるということでしょう。この世にいるうちに処罰すればよいのです。
お礼
そうですね、ご回答ありがとうございました!
- 馬鹿 禿(@baka-hage)
- ベストアンサー率67% (99/146)
私は浄土真宗を信仰するものです。非常に悲しくてなりません。 先に答えられた方が、おっしゃっていますがそれは親鸞会という浄土真宗系の新興宗教でしょう。この方々は日蓮系新興宗教と呼ばれる方々に対抗意識があるようで、折伏に似た過激な勧誘があるようです。嘆かわしいことです。 では、疑問にお答えする前に少し浄土真宗ということについて述べさせていただきます。 仏教の基本は「廃悪修善(悪を廃し善を修する)」ということです。しかし、我々人間という動物は善だけをしようと思っていても、なかなか100%善でいることはできません。心の中などを見ると特にそうです。あれがしたいこれがしたい・あいつは嫌いだからいなくなればいいなどふと思ってしまうものです。少なくとも私という人間はそういった煩悩深き人間です。 そんな私のような者を、救いたいと思ってくださったのが阿弥陀仏という仏様です。この阿弥陀仏が若かりし頃法蔵菩薩という修行者だった時代に、「なかなか自分の力では悟る事のできない人おも救うことが出来る仏になりたい」と48項目の目標(四十八願)を立てます。その中でもっとも大切なのが十八番目の目標です。「私が仏になったあかつきには、私の創った極楽浄土に生まれたいと思うものがあれば、私の名前を呼びなさい。名前を呼んだにもかかわらず生まれないものがあれば、私は仏をやめます。」とおっしゃってくださっています。そしてそれから気の遠くなるほど長い時間修行なさいまして、その目標を達成できる力を得て阿弥陀仏という仏様にポケモンで言えば進化してくださいます。仏になることによって、我々の救いを証明してくださっています。ですから他力本願の「他力」という言葉は、他人という意味ではなく、阿弥陀仏一人に向けられる言葉です。 これが、浄土真宗の大まかな教義です。 >>この知人の話では、阿弥陀仏が救ってくれるから、何しようが構わないみたいなのです。 とのことですが、それは今述べたことの曲解ではないでしょうか。これについて親鸞聖人は『歎異抄』のなかでこのようにおっしゃっています。 「薬があるからといって毒を好んで飲むことをしてはならない」 阿弥陀仏の救いがあるからといって、悪事を好んで働くようなことはしてはいけませんということです。そうやって、悪を好んで犯す人を「本願誇り」といって親鸞聖人は否定されます。また、親鸞聖人の師匠である法然聖人も「悪を好んで犯すことは二尊(お釈迦様・阿弥陀仏)のお心から外れる」とおっしゃっています。 さきに「悪人正機」について述べておられる方がいらっしゃいましたが、ここでいう「悪人」とは自らが善でいようとしても100%善でいることはできない人間であることを自覚した人間のことを言います。 ここで重要なのは、「善でいようとしても」という部分です。これがなくてはいけないと思います。 ここからは私の意見ですが、私は仏教とは「謙虚になる方法」だと思います。お釈迦様やその他多くの高僧たちが仏教を一言でまとめるようなことをしなかったにもかかわらず、愚鈍下智の私が一言にまとめるというのはおこがましい事でありますが、そういった面もあると思います。その謙虚になる方法も二つあると思うのです。 一つは「自力」。そして、もう一つが「他力」です。 「自力」は仏教の修行を積むことで、煩悩を捨て、我(エゴ)を捨てることによって、謙虚になっていく方法です。 「他力」は自力のように修行を積もうとするのですが、なかなか本当の意味での修行ができない者のための教えです。親鸞聖人は念仏について「報恩感謝(ありがとう)のお念仏」であるとおっしゃっています。ですから、先にも述べましたが善でいようとしても100%善でいることはできない人間であることを自覚した人間がありがとうの念仏を称えるのです。 そうやって、なかなかできないと自覚した人間がありがとうを称え続けると、だんだんと煩悩を「忘れて」謙虚な気持ちになっていくのではないでしょうか。そんな人は「100%できないながらもやらせていただいている。なんとありがたいことだろう」と思い、周りから見れば「あの人はあんなに善でいようと努力しているのに、いつもありがとうばかり言っているひとだなぁ。」と見えるのではないでしょうか。 ここで「忘れる」という言葉を使ったのは、自力の修行ができる人とは違い煩悩とはなかなか捨てることはできません。けれども、ありがとうばかり言っていると、それがあることに気づかなくなってしまうことはあるでしょう。 しかし、人間という動物は忘れもしますが思い出しもします。するとまた、「自分はまた悪を犯してしまった」と反省し、ありがとうの念仏に励むことができるのではないでしょうか。それを、浄土真宗では「深心の信機(自分のおろかさを知る)信法(そんな自分を救ってくださる阿弥陀仏を信じる)」といい、この二つによって心は深まっていくのです。 そのようなわけで長々書き連ねましたが、そんな人が人に対して誇らしげに「この教えはすばらしいからあなたもやりなさい」と勧めるでしょうか?私はそうは思いません。仏教とは「自覚の宗教」と呼ばれることがあるそうです。自分自身はどうであるかと向き合うことがあっても、他人が間違っているからこうでなくてはならないということはないと思います。 なかなかまとまらない文章ではありますが、親鸞聖人の教えがそのように捻じ曲がっていくことは、非常に悲しくてなりません。浄土真宗の全てが質問者の述べたような教壇であるとは思わないでいただきたいです。 合掌 南無阿弥陀佛
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参考URLと詳しいご回答どうもありがとうございました!