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「念仏を唱えれば成仏できる」の意味の本質は?

仏教に素人のものです。 法然が唱え、親鸞が普及させた念仏信仰ですが、 これの本質はどういうものなのでしょうか? 世界でも類をみないユニークな教えだと思います。 この考え自体は経典にあるそうですが、 「念仏を唱えさえすれば、死後極楽にいける」 という単純なものではないように思います。 「いかに生きるべきか」という問題を内包していると 予想しているのですが。 また現在信仰している人は、阿弥陀仏や極楽浄土をどのように 解釈しているのでしょうか? 昔の解釈のまま受け入れているのか、あるいは別のものに解釈しなおしているのか。 現在に法然や親鸞がいたら、どう説明するのでしょうか? 時代に合わせた別の理論を組み立てるでしょうか、それとも念仏理論で十分でしょうか。 よろしくお願いします。

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  • les-min
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回答No.3

こんばんは。。  仏教徒のつもりの万年素人です。(以下の文章はかなり受け売りくさいです。すみません。)  念仏の理論的な基礎にになっているのは、大乗仏教の空思想を構築したナーガールジュナの著作『十住毘婆沙論』(じゅうじゅうびばしゃろん)に説かれる「易行」(いぎょう)という修行方法だとされています。  この著作は、出家・在家の修行者が行なうべき事柄を挙げ、大乗菩薩道を説く書物となっています。  易行は、諸仏を敬い、念じ、名前を唱えることで、すみやかに「不退」(後戻りせずさとりに向かう境地)に至る実践とされています。  念仏の対象が、阿弥陀如来一尊でないことなど、浄土系宗派の念仏とは少々様相が異なる感じですが、親鸞聖人はこのナーガールジュナの説く「易行」を極めて重視し、念仏の理論的根拠としました。  「易行」にしろ「他力」にしろ、その実践は、自己の生への深く重い内省と苦悩を基とするという点は同じで、平々凡々の凡夫が、自己への省察力(?)と仏への恭敬随順力(?)を示して生きる、というのがその要点かとなと思ってます。  愚凡であるにもかかわらず、仏の誓願によって往生を約束された者の、仏への信を表明する生き方、とも言えるでしょう。  自分は門徒ではないので、いま信仰している方々の心情はわからないのですが・・・  結果として、極楽往生が、日本人の持つ他界観や霊魂感に非常にマッチしたことは事実だろうと思います。その易行性とともに、浄土系宗派(とくに浄土真宗)が広まる要因のひとつになったと思います。  たぶん浄土というと、日本の原風景のような美しい山河や風光明媚な光景を想像する人が多いと思いますが、浄土経典類に説かれるインド版極楽浄土は、えらく人工的な金銀宝石でできた世界で、なんだか意外な感じでした。(少なくとも居心地の良さそうなところではないです。)  最後のご質問は、興味深いですが、わかりませんね・・・個人的には、信と行に確信を抱いた段階で、法然上人や親鸞聖人が現在にやってきたとすれば、おそらく同じことを説いたと思います。  それだけ、両祖師さんの信と行への想いは強烈だったと思っています。  長々と失礼いたしました。では。    

yoshinobu_09
質問者

お礼

ありがとうございます。 「仏への信を表明する生き方」というのは興味深いです。 信仰=信じきるということでしょうか。 信=深=新ともいえそうです。 >極楽往生が、日本人の持つ他界観や霊魂感に非常にマッチしたことは事実だろうと思います。 極楽浄土図や「往生要集」などの影響で阿弥陀信仰が広がっていたからこそ、受け入れやすかったのでしょう。 念仏の教えは単純なるがゆえに力強さがあります。 法然上人や親鸞聖人が現在に現れても同じ教えを説いた可能性は十分にあると思います。

その他の回答 (6)

回答No.7

親鸞聖人は、後々の人のため『顕浄土真実教行証文類』(通称『教行信証』)という大作を初め数々の著作をを残されています。 また、法然上人も『選択本願念仏集』という著作によりその立場を明確にされています。 法然上人も親鸞聖人も勝手に思い付きを述べられたのではなく、「教相判釈」といって経典やそれまでの仏教に対する自らの立場や位置づけをはっきりされる作業をきちんとしておられます。 基本的には教団も信者もその教えを基にするはずです。 ところで 「念仏を称えて往生する」とは私の唱える力ではなく、阿弥陀仏の本願を受け取る姿をあらわしていると思います。 また、一般の仏教では 教・・・・仏の教え 行・・・・教えの実践 証・・・・悟り の順になりますが、 浄土教(特に浄土真宗)の場合は、 教、行、信、証といわれるように信が大きな意味を持っているところが特徴だと思われます。

参考URL:
http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/osie-rekisi.htm
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

親鸞は天台の中でも特に優秀な学生で将来を嘱望されていたそうです。従って、仏教の本道である「仏門に入り、修行によって悟りを開き、涅槃(成仏)にいる。」という流れは良く知っていたはずです。それをあえて「仏門=信仰、中飛ばして 成仏」のような教えを説いたのですから本道から完全にずれていたことは理解していたでしょう。つまりほとんど成仏はできないことも知っていたと思いますね。 でも#5のtruth77さんのご指摘のように時代の制約なんでしょうね。日蓮でさえ法然と同じくお題目念仏になっていますしね。「くもの糸にすがりなさい悪人のカンダタさえ仏の救いの手があります。」という心境でしょうね。現代に親鸞がいるとすれば教育も高度ですからこんな教えはとかないでしょう。また、いまだにこのような教えを生業にしていることに驚愕とし自身の至らなさを恥じるだけでしょうね。

yoshinobu_09
質問者

お礼

ありがとうございます。 親鸞は悩みに悩んで、異端とも思える教えを信じるようになったのだと思います。 理屈ではなく、体験なのでしょう。 >現代に親鸞がいるとすれば教育も高度ですからこんな教えはとかないでしょう。 科学万能と思われている現代に教えを説くのは難しそうですね。 仏教の意義も変わってきているようです。

  • truth77
  • ベストアンサー率37% (85/225)
回答No.5

>法然が唱え、親鸞が普及させた念仏信仰ですが、 >これの本質はどういうものなのでしょうか? 法然上人(しょうにん)がお亡くなりになる直前に遺された書であります、「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」に、浄土宗の教えの要であるお念仏の意味、心構え、態度について説明されています。 ***** 一枚起請文(全文) ***** 唐土(もろこし)我朝(わがちょう)にもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。 又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。 ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、 うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細(しさい)候(そう)わず。 ただし三心(さんじん)四修(ししゅ)と申すことの候(そうろ)うは、皆決定(けつじょう)して 南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。 この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候(そうろ)うべし。 念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学(がく)すとも、一文不知の愚鈍の身になして、 尼入道(あまにゅうどう)の無智のともがらに同じうして、 智者(ちしゃ)のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。 証の為に両手印をもってす。 浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別義(べつぎ)を存ぜず、 滅後(めつご)の邪義(じゃぎ)をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。 建暦二年正月二十三日 大師在御判 ******************** 良く良く読みますと、「往生極楽のためには、『南無阿弥陀仏と唱えると、間違いなく往生出来る』と(私が:法然上人)信じているからそう言っているのであって、他意などはありません。」ということですから、法然上人は、「阿弥陀様は(念仏を唱える私たちを)救って下さる」ことを保障しているのでないのです。 >現在に法然や親鸞がいたら、どう説明するのでしょうか? この当時から法然上人ご自身も、念仏理論は「無保証な論理」であることをご存知でしたから、「時代に合わせた別の理論を組み立てる」を選択されると思います。 弁護すべき点として、 当時は、こうした「無保証な論理」であろうとも、説いて行かなければならない時代背景だったのです。 何の学問もない農民たちに対して、難しい仏教理論を説き回るわけにも行かず(なにせ、人数が多いですから)、とりあえずは多くの人に「崇高な存在に手を合わせる」という信仰行為を根付かせてあげることで、ささやかなりとも「救いの糸口」となることを願われていたのです。

参考URL:
http://www.jodo.or.jp/jodoshu/index3.html
yoshinobu_09
質問者

お礼

ありがとうございます。 法然の文章はいさぎよいですね。 開き直っているというか、自信がみなぎっているように感じました。 こうしたどっしりと構えたあたたかい人間性がこの理論を広めたのだと思います。

回答No.4

私は縁あって、お念仏の教えにたどりついた者です。私の感じることであって、仏教のご専門の方からは笑われるようなことだと思いますが、私の思いつくところを書かせていただきます。 他力に救われるというのは、自分一人では生きていないということを言うのではないでしょうか。誰しも(私だけ?)人とのつながりの中で生きているといいながら、自分でも気づかぬ心の中では、やはり我一人で生きているというように思っています。それが、人生のつまづきをきっかけに、自分の限界を感じます。よくよく考えて見ると自分の限界というものは自我の限界というか、自分の作りあげた世界の限界、自分像の限界だったのです。そこではじめて、自分が一人偉いと思っていること、自分が作り上げている世界がウソであったかということがわかってきます。天狗の鼻が折られたということでしょう。そして、世間の広さが見えてきます。他人というものが見えてきます。自分一人ではないということ、そして自分だけで生きていない、人に支えられて生きているということがわかってきます。それが他力に助けられていたということなのだと思います。 念仏はその感動、その体験をいつまでも持ち続けて行く、そして他力に助けられていることを忘れないためのキーワードみたいなものなのかもしれません。だから折に触れて毎日唱え続けるものではないでしょうか。 真宗では往相回向、還相回向ということをいいます。阿弥陀様に助けられて浄土へ往くというのが往相回向、浄土で仏になって衆生済度のためにこの世に戻ってくるのが還相回向ということですが、私が阿弥陀仏に救われていくその相(すがた)が、即他人を救う相になる。私には衆生済度の自覚がないにもかかわらず、阿弥陀仏は私の相を見せて他人を救われるということと解釈しています。 私が体験したことでいうと、行き詰って悩んでいる後輩や友人に共感します。そして、自分が悩んでいた昔の話をします。自分がひとりよがりに生きてきて、その間違いに気づいて、世間が広がったというような話をする。その話によって、後輩や友人が喜んでくれるようなことが何度かありました。こういうとき往相回向、還相回向ということを感じました。 私は阿弥陀仏、法然上人、親鸞聖人のおっしゃったことを信じています。というより信じさせられています。親鸞流でいうと「如来よりたまはりたる信心」ということになりますでしょうか。 心に思いつくことを文章にしましたので、他人様には全く理解できない内容かもしれません。私もうまく言葉で説明できませんが、理解の足しになればと思いまして駄文を書かせていただきました。

yoshinobu_09
質問者

お礼

ありがとうございます。 「他力=欣求浄土」と考えていましたが、 「他力=現世での他者との共存共栄」という考えもあるのですね。 大変ためになりました。 念仏がいかに生きるべきかのキーワードであることがわかりました。

noname#21327
noname#21327
回答No.2

親鸞が普及させたのではなく、教義や組織を発展させたのは蓮如です。 質問するなら蓮如がいいと思います。 念仏とは何かといえば、「南無阿弥陀仏」で、阿弥陀様ということです。つまり阿弥陀如来を信じて行動すれば苦悩から逃れられる(成仏)という教えです。 親鸞は心に阿弥陀仏を信じておれば、念仏も無用であり、教団すらいらないと考えていたようで、「唱えよ」としたのは蓮如です。

yoshinobu_09
質問者

お礼

ありがとうございます。 広めたのは蓮如さんでしたか。 阿弥陀如来=救世主ではなく、 阿弥陀如来=自分を信じる力とでも解釈しましょうか。

  • ipa222
  • ベストアンサー率20% (903/4455)
回答No.1

宇宙のメカニズムを信じろと言うでしょうね。 宇宙のメカニズムによって地球も人類も生まれ、空気や水や植物や動物と共生しています。 人間の脳には若干のバグがあるので、いろいろ精神的な苦労はありますが、この大きな宇宙のメカニズムは幸福を目指して動いています。 疑心暗鬼にならず、ネガティブにならず、自分が万能と勘違いせず、気持ちよく生きよう。 とでも言うと思います。 現在信仰している人は、親鸞そのものの発想とは違います。 親鸞は仏教を捨て、僧侶であることをやめた人です。自分をただの禿げと呼んでいましたし。 当時、親鸞や念仏系の人が救済しようとした人たちは、社会の底辺の人たちでした。 教育はおろか、社会の秩序も常識も無いような。 だから、究極の手段として念仏のみの教団になりました。 現在は、みなさん文字も読めるし、書けますし、九九もできます。 今であれば、どうしているでしょう? 救済する人にあわせて説明していると思いますので、、、 今救済すべきは、命を粗末にする人たちですね。自殺や殺人、無気力無関心で自分の人生を粗末にする人たちでしょう。 親鸞は、その人達と一緒に暮らすと思います。 余計なことを考えないということを一緒に行うでしょうね。

yoshinobu_09
質問者

お礼

ありがとうございます。 宇宙のメカニズム=自然の摂理=生命を信じろということでしょうか? 「自然と同化する」という意味にもとれました。 文明に毒されていてはいけないですね。

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