宇宙の真理、自然の摂理から学ぶ40代独身男の価値観について

このQ&Aのポイント
  • 宇宙の真理と自然の摂理から学ぶ40代独身男の価値観について考えている人生の先輩方への質問です。資本主義社会において人間の価値観は信じられないと考えており、宇宙の真理や自然の摂理から学んで考えることに対して迷いや恐れを感じています。
  • 宇宙は調和を保ちながら共鳴していることから、自分自身も調和を欠いて絶妙なバランスを保ちたいと考えています。また、自然界の行き過ぎた歪みは元に戻ろうとするように、人間の世界でも行き過ぎたものは調和へと戻ろうとする力が働くと信じています。
  • 一方で、自分が自由に生きることは苦労も多いが不幸にはならないとの信念も持っています。ただし、世間に迎合する必要性や老子の『無為』(有為)という言葉による判断の難しさに悩んでいます。人生の先輩方の意見を聞きたいと思っています。
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宇宙の真理、自然の摂理からしか学ぼうとしない自分がいます。

40代、独身男です。 人生の先輩方へ、ご意見お聞かせ下さい。 私は、一応は世に憚って目立つような行為を極力避けていますが、巷の人間の価値観はもうとっくに排他しているような自分がいます。 この資本主義という無明の社会にあって、世の中の価値観なんて何も当てにならないと思うからです…。 勿論、驕りのある人間には成りたくないので人の知恵(智慧)は一つの意見として常に参考にさせて頂いています。 (失礼な話かもしれませんが、実際は、自分の中で検証しているのかもしれません…。) 私はいつからか、、迷った時は、宇宙の真理、自然の摂理、からその深意を汲み取って考える、決めるというような人間になってしまいました。 巷の社会や人間の作った価値観なんて凡そ無視しています。 しかし、その一方で宇宙は共鳴しつつも絶妙なバランスを保って調和を保っているのも事実です。 この点も決して忘れたくない一面であり側面でもあると考えています。 自分が一番恐れているのは、この調和を乱すことです。 人の存在もこの宇宙に含まれることから、そのバランスを欠いて結果的に 調和を乱すことになるのが怖いのです。 宇宙は不思議なもので行き過ぎた歪み(行為)は元に戻ろう、是正しようとまた反対の力が自然と働くものです。 行き過ぎたものは、何でもプラスマイナス0の調和へとまた向かおうとするからです。 地震も津波も雷も雷鳴も皆、自然界で起こることは、すべてがそうですよね。 増してこの世は人の世です。 『憎まれっ子、世に憚る』という諺もあります。 これまで生きてきた経験から、生き方を間違えば人が私の罪を裁かなくとも天は私を自ずと裁きに来ることも知っています。 ただ自分の生きたいように生きることは人一倍苦労するような大変な側面があっても決して不幸にはならないと考えている信条のようなものもあってその狭間で悩んでいます。 世間に迎合する必要はあるのか、ないのか…。 老子の云う本当の意味での『無為』(有為)という言葉もここに来て 自分の判断を難しくさせています。 人生の先輩方、ご意見をお聞かせ下さい。 お願い致します。

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noname#99640
noname#99640
回答No.3

青い空と白い雲は永遠です。 私にとっても故郷です。 何をくよくよ、迷う事も無いじゃありませんか。 人の世の事は人に任せて自分なりに生きたらいいですよ。 いつも自然と一緒だったら、その中から得るものがあなたを支えてくれるはずです。 支えられている事に感謝できたら、もう誰も文句のつけようのない立派な生き方です。 そして、そうした立場から必要に応じて人の世に関わり合いをもっていけばいいのではないですか。 誰が何と言おうと変わらないものは変わらない 変わらない自然と一緒に生きられたら、本当に素晴らしい人生です。

aoisorakun
質問者

お礼

お早うございます。 お礼の言葉が遅くなって申し訳ありません。 実は、昨日、拝読させて頂いているうちに 胸に熱いものが込み上げてきて一切何も書けなくなりました。 今も、何と申し上げたらいいのでしょうか。。 また同じようなことになってしまい・・・言葉が一向に出てきません。 万感の思いで、心よりありがとうございますと述べるしか方法が無いようです。 感動した時も圧倒された時と同じで言葉って本当に何も出てこないものなんだなと改めて知りました。 今朝になってもやはりあなた様のお言葉を前にすると同じように言葉が出てきません。ただ、どこまでも、どこまでも、感謝しております。 そのお言葉を励みに一所懸命に、また一生懸命に、これからも生きて参ることをあなた様に誓いたいと思います。 本当にどうもありがとうございました。

その他の回答 (2)

回答No.2

人間も自然界の一員であり自然界に存在する生命体の一つであり、大宇宙の掟の中にいることを忘れてはなりません。 巷の人間のすることは、自然界の摂理から一歩も踏み出すことはできず、全て摂理の中で行動しています。だから、巷の人間のすることを否定してはいけません。 環境を破壊する様々な行為も人間の自然な行為であり、破壊を食い止める行為も自然な行為です。 人を騙すのも、人を支配するのも、欲も、慈善も、瞑想も、笑い、泣くのも、SEXも、旅行も、何もかもが人間に限らず自然な行為なのです。 生き物は野放図に自然な行為を放置すると、たちどころに滅びる事を本能的にわかっているのです。人間においては宗教や法律を時に応じて整備してきたのです。 人間が宇宙のバランスを崩すなど出来もしない事で、そう思うのは単に人間の錯覚・驕りにすぎません。 あまり、深く考えないことです。この世はなるようにしかなりません。

aoisorakun
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 我々はどうであっても大宇宙の掟の中にいる。。 確かにそうかもしれません。。。 一人の人間が賢く生きようとしたところで自己満足の世界で 厳然とあるのは『生』と『死』、ただ其れだけなのでしょう。 自分は何を迷っているのか・・ ただ生きて、ただ死んでいくだけなのに…。

  • e-toshi54
  • ベストアンサー率22% (728/3265)
回答No.1

「宙の真理、自然の摂理」をご存知なら、他に何を学ぼうというのでしょう。まして、凡人(或いはそれ以下の人間)の集まりのインターネットで・・・。 お坊さんや、哲学者と議論の場を持てば、きっと何かをより学べるような気がします。

aoisorakun
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 どのような方であっても長く生きた人には敵わないと思っています。 機会がありましたら、是非お坊さんや哲学者の方のご意見にも耳を傾けたいと存じております。 貴重なご意見誠にありがとうございました。

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