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無明( 煩悩 )とは 何なのでしょう?

 おしえを乞うにあたり 次の論考を出発点として踏まえたいと考えます。  ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか  http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ そこでは   ▲ さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見した。  ☆ と言います。では   ○ さとりとは この生存欲をどうせよと言っているのでしょうか?  ○ 無明としての《根本的な生存欲》とは 何であって どうせよと言うのでしょう?  納得のいくまで尋ねつづけますので よろしくお願いします。

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回答No.33

こんばんは、bragelonneさん。  ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか  ☆ は読みましたか? 読みやすく解説していますよ。よかったらこれの感想を聞かしてください。 ↑ 解説をちょろっと見ました。読むというほどはまだ読めてはいません。 ちょろっと見たなかで何を思ったかといえば… 【QNo.2797136ほにゃらか形而左右学 影】ANo.8 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2797136.html 『駆け込み訴え』太宰 治 ふみふみと読書しつつ、こちらの問いをあわせて考えてみました。読んでる本のP94~P105(12ぺージ中1ページ挿し絵)に『駆け込み訴え』のお話がありP105ここで主人公の告白があります。主人公自身が自身の名を宣言しています。12ページほどの中に紆余曲折があり、こころの葛藤が、いや、こころの叫びが狂おしいほどに名を求めて止まない。『はないちもんめ』ではないけれど、「名を呼んでおくれと」名を呼ばれる日を夢みその身を焦がし待つ、待つことに疲れたかのように受け身(受動的)ではなしに能動的にその名を自ら高らかに宣言する。性同一性障害からの脱却とも見紛うラストシーン。スポットライトにあたることを避け、影の中にその身を潜めていた思い。心の奥底に押し殺していた思いが封印を解かれたように一気に溢れ出す。影から抜け出て眩い光スポットライトを浴びる。影から抜け出る中で、影の中に押し込め置き去り葬り去った思い。名も無き思いの片割れは心の奥底深く深く沈みゆく。等価交換とも見紛うなりすまし。何かを手に入れる変わりに何かを手放す。手に入れる何かと手放す何かが影の中に同時に存在する。影の中の光。光の中の影。 の、お話みたいだなと。 あっ、そうそう * 長野県に川上村があるそうです。元気なムラとして。レタス村だとか。 ↑ 和歌山県に北山村があるそうです。元気なムラとして。じゃばら村だとか。 http://www.vill.kitayama.wakayama.jp/ へへ 飛び地繋がり~♪ お隣りへ飛んで、大阪府へ 【大阪における地代の実態と変遷】 http://www.vill.kitayama.wakayama.jp/

bragelonne
質問者

お礼

 しかも十字架上の人となって 神の子ならそこから降りて来いと言われても何も出来なかった弱いままのイエスでした。そこで息を引き取って埋葬されたあと 具体的にどういう事態があったのか知りませんが どんでん返しが起こったわけです。  イエスは よみがえったといううわさが流れ これがついぞ絶えなかったというその後の歴史です。ペテロらは うわさを流すも流さないも 自分たちが ぼんくら状態から打って変わって背筋の伸びた人間となったということですから 作為だとか偽善だとかと疑われても 何ともなかったようです。ひとことで言えば  ○ ペテロたちは 浅はかな人間の状態から はっきりとそれぞれ《わたしがわたしである》状態になった。  ○ 《目覚めた》といえば《ブッダ》という言葉じたいがそういう意味であるようです。ちなみに 例のユダはこのように目覚め我れに還ったあと その癒やされた幸福の状態に耐えられず 自死をえらびました。  ○ ぼんくらなペテロらは この世の《光と影》とを超えてしまうという境地に到ってしまった。その境地において この世の善と悪とを超えてしまった。愛情と憎悪とのからみつきを超えてしまった。    ですから 太宰はこのようなイエスの死後に起きたペテロらのどんでん返しのことを知らない。書いていない。  ▲ (太宰) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あの村のマルタ奴(め)の妹のマリヤが、ナルドの香油を一ぱい満たして在る石膏の壺をかかえて饗宴の室にこっそり這入って来て、だしぬけに、その油をあの人の頭にざぶと注いで御足まで濡らしてしまって、・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というマリアの行ないとその心は 変な言い方ですが前祝いをするかのように イエスの復活をたのしみにしているようにもとれます。  では ブッダは どうなのか。十字架に就くというそのことは あたかも《根本的な生存欲から自由になる》ことのようにも思われますが それは措くとしまして。このはりつけの死が――人びとのうわさにおいてに過ぎないことながら――よみがえりを得てしまったというその《生への回転》 これを ブッダは説いているのか? どうなのか? どのようにか? こういう問いです。

bragelonne
質問者

補足

 littlekiss さん お久し振りというのでもないですが こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ じゃばら  ☆ って何ぞやと思ったら そういう柑橘類があるのですか。この歳になって知らなんだったら知らなんだ。  ○ 瀞八丁  ☆ なら子どもの頃から名は聞いていたけれど 北山村はどうもそのさらに上流のようですね。筏下りはおもしろそうです。夏ですし。休みでどこかへ行ったということもなかったから 一度行ったろかな。  ★ 【大阪における地代の実態と変遷】  ☆ これは URL間違いということで ほっとこう。  さて  ★ 『駆け込み訴え』太宰 治  ☆ こういうユダの物語に――言葉はわるいですけれど――喰いつかれるのですか? うーん。――ただし 評言をうかがうと  ★ 何かを手に入れる変わりに何かを手放す。手に入れる何かと手放す何かが影の中に同時に存在する。影の中の光。光の中の影。  ☆ という主題として読まれたとか。そしてこの同じ主題のもとに   ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか  ☆ もあるようだと。  えっとですね。聖書についていろんな読み方が為され ユダについてもいくつかの見方が与えられております。しかもその一つの太宰の読みとしてのこの作品じたいについても いろんな読みが与えられるだろうと思います。  例によって先生ぶった言い方になりますが――そしてそのことで今いろんな評言がみなさんからほかの質問とそのやり取りにおいて為されているようですが―― でも聖書の伝えようとしたことは ほかにあります。とお伝えせざるを得ません。  たとえば太宰が ユダに次のように語らせています。そしてそれらは 間違っていないと考えます。  ▲ 〔弟子の〕ペテロやヤコブたちは、ただ、あなた(* =イエス)について歩いて、何かいいこともあるかと、そればかりを考えているのです。  ▲ ペテロに何が出来ますか。ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴(こけ)の集り、ぞろぞろあの人について歩いて、脊筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、・・・馬鹿な奴らだ。  ☆ このようにユダを除いたほかの弟子たち(このあとからは《ペテロたち》と言います)については まったくこのような状態でした。つまり言いかえると それは イエスが死ぬ前までのことです。ユダが次のように言うとき つまり  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私は天国を信じない。神も信じない。あの人の復活も信じない。なんであの人が、イスラエルの王なものか。馬鹿な弟子どもは、あの人を神の御子だと信じていて、そうして神の国の福音とかいうものを、あの人から伝え聞いては、浅間しくも、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)している。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と語るとき 《ペテロたち》との考えの違いを明らかにしてみましょう。  ▲ 私は天国を信じない。神も信じない。  ☆ ペテロたちは 口でこれを信じると言っていましたが その内実については分かっていませんでした。イエスの死後分かったのです。  ▲ あの人の復活も信じない。  ☆ これは 誰もイエスの生前には分からなかったことです。実際そのことにイエスは触れて言っていましたが 誰も分かりませんでした。  ▲ なんであの人が、イスラエルの王なものか。  ☆ これは そのように王となって自分たちの国イスラエルをローマから解放してくれという願いを持った一般の市民たちの問題でした。  ▲ 馬鹿な弟子どもは、あの人を神の御子だと信じていて、そうして神の国の福音とかいうものを、あの人から伝え聞いては、浅間しくも、欣喜雀躍している。  ☆ これは次の一点を除いてそのとおりだと思います。つまり 《神の御子だと信じていて》も それが《はりつけの死のあと復活につながる》とは夢にも思ってもみなかったという点です。  要するに ユダでなくてもペテロらも ユダヤの王となって政治的に自分たちを解放するという意味での救世主であるとか あるいはそれまでの伝統としてのユダヤ教をあらためて再興するという意味での救世主であるとか そういうふうに思っていたに過ぎなかった。ということは おっしゃるように そのような願いと見立てのもとでは イエスの為すこと語ることにも いろんな尾ひれがついて  ★ 手に入れる何かと手放す何かが影の中に同時に存在する。影の中の光。光の中の影。  ☆ としての世の中の変革が始まろうとしているのかなという程度の解釈だったと思われます。

その他の回答 (37)

回答No.38

こんばんは、bragelonneさん。  ▲ (太宰) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あの村のマルタ奴(め)の妹のマリヤが、ナルドの香油を一ぱい満たして在る石膏の壺をかかえて饗宴の室にこっそり這入って来て、だしぬけに、その油をあの人の頭にざぶと注いで御足まで濡らしてしまって、・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ↑ なんかこれって… 小っちゃいころ、身を守るおまじないのごとく口走ってた言葉をおもいだす。。。 ビビンチョカイチョ“あーぶら~いっしょーう~かーぶった” 油を一升って??? 【1リットルって何升なの?】 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q135192578 一升やと思ってても満たない…守り利いてねぇーアカンやん じょうずのてからみずがもる 柳の木の下に鰌が二匹 みずもしたたるいいおとこ いろおとこかねとちからはなかりけり hanayoridanngo いろけよりくいけ はらもみのうち ぼういんぼうしょくわざわいのもと 『女殺油地獄』 http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/M57/M571930/8.pdf 【脂肪燃焼メカニズム】 http://kurashi.hi-ho.ne.jp/diet/kiso/fat_combustion/index.html

bragelonne
質問者

お礼

 littlekiss さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ▲ (太宰) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  マリアが・・・香油をあの人の頭にざぶと注いで御足まで濡らしてしまって、・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  なんかこれって…  小っちゃいころ、身を守るおまじないのごとく口走ってた言葉をおもいだす。。。  ビビンチョカイチョ“あーぶら~いっしょーう~かーぶった”  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こんなん知らんなぁ。まぁ そのおこないは飾りのようなことだから。・・・  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  一升やと思ってても満たない…守り利いてねぇーアカンやん  じょうずのてからみずがもる  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そやけど 次のように言うております。  ☆☆ (No.33お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ・・・というマリアの行ないとその心は 変な言い方ですが前祝いをするかのように イエスの復活をたのしみにしているようにもとれます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ひとつぶの麦 もし死なずば・・・だとか。十字架への切符はもう与えられていたとか。だから そのあとのこととして。・・・UFOやからねぇ。  ★ 柳の木の下に鰌が二匹  ☆ どじょうは 《鰌》か。《泥鰌》ともだとか。  ★ 【脂肪燃焼メカニズム】  ☆ あぁ そう言えば 白いぶーちゃん。  ★ 『女殺油地獄』  ☆ これはあとに回します。  * ことしの夏はほとんどなかった。

bragelonne
質問者

補足

 ★ 『女殺油地獄』  ☆ についてです。  近松門左衛門についてもこの作品についても とんと暗いままですが。しかも このPDFの論文について おそらく――その作品の一部に焦点を当て しかも《修辞学的分析》のみを目的としているということで 読んだ限りでは――妥当性のある中身だと受け取りました。と断りがきをした上でですが。  それでも 別の見解を持ちます。というお応えをつづります。  うまく引用部分を掲げづらかったのですが。――  ▲ 柳沢浩哉「お吉殺しの場」(『女殺油地獄』)の修辞学的分析――説得力をコントロールする修辞技法――〕~~~~~~~~~~~~   (B)の分析を続けよう。(B)において徳兵衛は、自らの行為を弁護していないと同時に、〔* かれの継子である〕与兵衛に対する心情も極めて間接的にしか語っていない。(B)が白己の弁明であり、話題が与兵衛に対する親の態度をめぐるものであることを考えればいずれも奇異なことであるが、これも次の(C)の〔* 発言の〕説得力を高めるための配慮と考えられる。  ・・・  〔* もともと 次につづく(C)という発言を効果的ならしめるために布石を打つというような修辞法の原則にのっとり〕説得力を抑制しながらもこの場にふさわしいせりふを作るという(B)の難しい条件を、近松が高度に練られた修辞で乗り切っていることがお分かりいただけるであろう。  (31~32頁)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (B)や(C)のせりふを省いたかたちで引いていますから 何が何だか分からないと思われますが 要は 修辞法の問題ですから 次のことが唱えられているということに注意すればいいと思います。  ○ (B)のせりふが 自己の弁明のためでありながら 自己の行為をあまり弁護していないと言わざるをえない。これは ひとえに次の(C)のせりふの説得力を高めるための配慮である。  ☆ そういう修辞法なのだという議論のようです。おそらく作品として成功しているようですし 論者の説も妥当性があると考えられます。  ちなみに このために次のような論証をもしています。  ▲ (同) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  アリストテレスが弁論の締括りに要求される要素として挙げている四つのポイントを列挙してみよう。  (1)聞き手に、自分に対する好意を抱かせること。  (2)話者に有利な事実は誇張し、不利な事実は控えめに見せること。  (3)感情的に盛り上げること。  (4)弁論の内容をまとめること。  ・・・(C)の最後の部分は、これら四つの要素をほぼ全て満たしている。  (35頁)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というような具合いである。  しかも わたしに物言いがあります。  ○ 文学作品は いかに虚構であっても 登場人物は 一人ひとりそれぞれが生きた人間として 貫かれていなければならない。  ○ その思想(生活態度)に移り変わりがあったのなら そのいきさつをしっかりと説き明かさなくてはいけない。  ○ というよりそのことが おもな狙いでありその出来の良さで作品の値打ちが決まるものである。  ○ 読者(ここでは観客ですが)の意向に沿うようなことがあっては・つまりそのために修辞法を使うようなことがあっては 文学は娯楽になるというものである。  ○ 娯楽は娯楽で 存在理由があるだろうが そこでの《修辞学》は どうでもよいと考えられる。その成功は 文学の価値を高めはしないからである。  ○ 文学の文学たるゆえんは 思惟における判断やその行為の決定および実行について 一回性であることにある。この世界にあって・このじんるいの歴史の中で 一回きりの行ないであることだ。  ○ それをたとえ虚構においてにしろ描き切れたかどうかである。  ○ 描き切れたなら 登場人物は生きる。そのことをとおして――つまり 事実でなくても虚構におけるしかも真実をとおして―― 人間が生きる。  ○ でたらめの題材や話題をあつかっていても そこに一人の人間にとって 主観内のことであっても真実が問い求められているなら 人間は生きる。    ☆ ですから そうでなければ すべては娯楽のためである。(村上春樹も どこらへんからか途中より この娯楽作品であることに甘んじるようになったと判断しています)。  クリスマス・ツリーは すべての飾りを取っ払っても ツリーであると言いたいわけです。

noname#117439
noname#117439
回答No.37

オコリザルです。 考えすぎないように一応言っときます。 伝承される三位一体説の通りに、神と人間の関係に聖霊を挟んで個人的に検証している最中なんです。

bragelonne
質問者

お礼

 《三位一体》についてのもっとも新しいわたしの捉え方は 次の質問でのやり取りにあります。みなさんのためにも掲げておきます。  【Q:《個人》の概念ないし繭は 物象化の現実に向き合うところから生まれたか】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5151923.html    最新の回答からさかのぼって読んでいくかたちを初めに採ってもらってもよいかと思います。

noname#117439
noname#117439
回答No.36

オコリザルです。 >《悪意を抜く》 ですよね。 救うも、救われるもない。 それこそ真です。 自助の基本から、自らから悪意を抜いたなら、言ったもんが勝ちゆえに言葉がはさめないでしょう。 人間存在の一個として悪意に勝利して、のちは聖霊魔法たる神々の計らい次第です。 そこでニコニコ顔のマイポケモンがセレビィです。

bragelonne
質問者

お礼

 文学においては 真実なんでしょう。  哲学における根拠はありません。

noname#117439
noname#117439
回答No.35

オコリザルです。 自慢話です。 悪意の守っていた城門のさらに下層たる無間地獄を垣間見る幸せです。 文脈からして、、、、。 地獄から悪意を抜いた。 そして鬼すらも住まないならば、どこが地獄であろうか。 鬼門もなく往来自由。 そのように世界をつなぐ。 ゆえに時わたり。 最後に謙遜して言うならば「我はセレビィ」。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 地獄から悪意を抜いた。  ☆ 地獄と呼ばれる境地にあるひとの心の状態から《悪意を抜く》ことは 人間ができるものとは思いません。うそつけと思います。  それだけは分かります。

noname#117439
noname#117439
回答No.34

オコリザルです。 28についての打ち明け話です。 例え話で持ち出しますが、 たとえばお釈迦様の輪廻に関する見解ならば、当時のインドの宗教に基づいて、 「そうですね、あなたの宗教観に基づくと、あなたの心象にはそのような輪廻のありうる世界観(世)が広がっているのは解ります」 と、当時の信仰を理解したうえで、 「でもそんな世界はないのですよ」 と、そんなもんありゃしねーの意味で無と伝えたのでしょう。 そんな「無」の方便なりが伝聞されているお釈迦さまでないかとの見解を、私は28で今度は「無」なんぞ「そんなもんありゃしねー」と無の悟りそのものを打ち消そうと試みたのです。 何者がそうまでも逃れようとしているのか? 記述されている言葉を引用するなら、はるか過去は業、似たような言葉なら滅びの子と、なるでしょう。 そこで建設的な提案として自らの経験に基づいて推奨するのが、 生きながらに入滅を果たす。 この心がけを悟ることです。 想定される幻の代表格である悪意との、悪魔を通じて結んだ契約により実践したチキンレースにでして、かつて生きながらに入滅を果たすことを試みる(そのような過程が)私の運命に逃れようもなくありました。 それは過去のことでして、故に悪意への勝利があり、悪意をわがこととしない心情が芽吹き、悪意の守っていた城門のさらに下層たる無間地獄を垣間見る幸せです。 あっけないはったりに過ぎないんです。 そんなもんありゃしねー の、悟りです。

bragelonne
質問者

お礼

 残念ながら わたしの理解を超えています。  と正直にお答えせざるをえないと考えます。  ☆☆ (No.32) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   そうですね。直前のご回答へも記しましたが 前から理解のし難かった箇所が 今回にも出て来ました。  ほとんど全部が ご自分でも文学的な表現だとおっしゃっていますが なんともどういう思索または事態であるのか 分かりかねているところです。時が熟しわたしに理解が訪れるのを待ちます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#117439
noname#117439
回答No.32

オコリザルです。 私はこのような憎まれ口を言うほどにぴんぴんしてますよ。実際のそのようにしました。無間地獄は通いなれた庭です。 これに関して、そのようにしたというのは、おっかなーイ言葉である、「生きながらに入滅を果たす」を、実践する試みをしたとの意味です。 その後、伝心により伝わった煩悩を理解する際に繰り返し思い出し、追体験するのが繰り返し地獄に落ちる体験です。 霊媒師としての荒業です。 何せ伝心ですから煩悩を吐き捨てた輩は等しくこのお笑い草の無の論理を経験しているでしょうが、本気で恐怖するゆえにそれが私にも伝わるんです。 無の悟りとは、、、。 そんなもんありゃしねー。 です。 私に話しかけるとおっかないですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご投稿をありがとうございます。  そうですね。直前のご回答へも記しましたが 前から理解のし難かった箇所が 今回にも出て来ました。  ほとんど全部が ご自分でも文学的な表現だとおっしゃっていますが なんともどういう思索または事態であるのか 分かりかねているところです。時が熟しわたしに理解が訪れるのを待ちます。  ★ 私に話しかけるとおっかないですよ。  ☆ そうですね。最近でこそ――つまりこの半年くらいでしょうかその最近でこそ――積極的に話しかけることもし始めたかなと思っていますが 以前は ずっと受け身でいつづけました。こちらから話しかけたことはなかったのでした。

noname#117439
noname#117439
回答No.31

オコリザルです。 しかしなんですね。 このご質問も3ページにまで落ちて、せっかく悪口の限りを仕込んだのにまたしても応答がないですね。 補足ですが、 「生きながらに入滅を果たす」 これはありえないから、無は方便なんです。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  質問への反応がどうであるか これは 問題になりません。多ければ多いで多いなあとか 同じ人たちが回答者だなあとか感じるところはあるでしょうが それだけのことですから。  補足の部分は その前の文章においても 解釈が得られ難かったところです。残念ながら そのときのままでいます。

noname#135843
noname#135843
回答No.30

 いつもお世話になっております。Hidocchiでございます。  愚生もこれら”対話”の中で、いろんなことを学ばせていただきました。  のみらず、今までのbragelonne様のご見識も知ることができ、感激の極みでございます。  この場を借りし、厚くお礼申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  なにぶん到りませんで わたしの気づかない早とちりや勇み足があっただろうとおそれています。  たいへん貴重なご文章を投稿くださり ありがとうございました。    この経験をさらに活かしてすすむ所存でいますので なにとぞ今後ともよろしくお願いもうしあげます。  ありがとうございました。

noname#117439
noname#117439
回答No.29

オコリザルです。 No28は、このところご無沙汰している仏教徒さんのそれらしい発言の無さに対する噂話の一環でして、別にbragelonneさんに食ってかかった訳じゃないですよ。 われは無であると信奉しているか、われは有ると言い切れないだけか知りませんが、その手の人たちとの対等な土俵で対話する試みはかなり難しいです。それを無を信仰するということの内訳として書いてみたんです。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですか。そういうことがあるでしょうね。  わたしは 感覚人間なのです。ただそのままは出せません。しかもこの面談でない場では 無理です。でもその抑える力が ぎゃくに 反対方向ににじみ出ることもあるのだと思います。いいとは思いませんが そのくらいは感情を出しても 全体として 文章のこころつもりをねじ曲げはしないと思っております。  とにもかくにも のれんに腕押し 蛙の顔に小便といった情況に 苛立っているのでしょうか?   そのあたりご無理を言うようですが さっと聞き流しておいてください。  と思います。

noname#117439
noname#117439
回答No.28

オコリザルです。 >《その文学の手法を使って表現した物語が 実際の経済活動としてもそのように成功しているので その物語が 哲学の世界でもそのまま成功すると思っておられる》のではないでしょうか。 これに関してはもはや純粋哲学はまっぴら御免の心情です。 たとえば書道に接するとき、達人の書とはかかれている字面でなく、字体から溢れる人生そのものともいうべき、心に触れ、それに響くがのごとく読み取るものと解ります。 20代の頃は油絵も嗜んだのですが、自ら書くほうはともかく、良い油絵を鑑賞するコツとは、心象をいかに再現するかであり写実に徹した絵は、ごく一部の一流の絵描き以外は駄作のみであると解ります。 そして現役で写真趣味なんですが、内面に写した心の心象模様と、目の前に広がる自然界の色模様を一致させ、その両者を対話させる中から、風景を切り取る。それがシャッターを押す瞬間です。 ここまではごく普通に美術鑑賞できる人なら、モノの本で誰かが同じようなことを言っていたと覚えもあるでしょう。 その程度のごく普通に感性の話です。 ところがこの感性の話を哲学で論議するととんでもないことになります。 想定する議題はこうです。 「我は第六感をもって霊験をなしうるか」 感性と言えばすでに五感を離れているので、必然的にこれです。 とんでもない荒れ方をする質問になるのはだれもが解るでしょう。 無を目指す者が荒らしまくりです。 普遍的には無の煩悩の正体はむしろそれでしょうが、生を知らぬゆえに死を恐れる者の煩悩です。 生を知らぬ故に死を恐れ、さらに、死を認めようとはしないものとなり、信じることをやめようとする。 そのような魔物との対話は、半年ぐらい前までは、鬼神の助けを借りてそれなりにこなせましたが、かなりの疲労がたまるのでやめました。 身に覚えのある自虐的な方もいるでしょうが、人間存在を逸脱しているのであえて魔物と表現しました。「業」とか「地獄の住人」などとも表現可能ですが、存在が主観内に置いて、仮にそのように表現される煩悩にむしばまれたまま生きているのが、例えるなら娑婆世界です。いつまでも勘違いを続けるさまにはいい加減あきれるのみですが、乱暴に言い放てば「そんなもんありゃしねー」です。 よって、我はあるに終始して実りある発言のみとします。 そうすると文学表現ですが、私が書道を今、何か一筆書くとしたら、「心」と言う字を「まこと」と読む心境で書き表します。 ここからは更なる厭味攻撃です。 >実際に娑婆世界(仏道)とは潜り抜けるだけの「道」であり、生きながらに地獄をめぐるみそぎです。 その仏門を閉ざし、二度と道としてくぐらないつもりです。 聞こえのいい言葉ならこれこそ「解脱」と言うんじゃないですか。 でも、解脱を目指すのは仏教では裏切り者のすることです。 無を信仰するなら解脱をもって「生きながらに入滅を果たす」と表現してください。 娑婆はただそのように見えて感じてしまう心象のみの幻であり、真実はどこにもありません。 無の病理の蔓延る娑婆から手を引くことは、解脱でなく生きながらに入滅を果たすことです。 私はこのような憎まれ口を言うほどにぴんぴんしてますよ。実際のそのようにしました。無間地獄は通いなれた庭です。 我は無である、でこの現象を理解しようとしても無駄でしょう。 「うすらバカ」ですよ。無の信仰などは。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ですが 今回はおっしゃっていることが通じなくなっています。  もしわたしの発言に対する批判であるのならば そのように最後までつづけてください。途中からどうつながるのか分からなくなりました。   ブッダもしくはブッディストへの批判であるならば 主題またはその焦点を決めて論じてください。あたらしい論点なりその論旨なりが入れられているようにも見えますし あるいはこれまでの論旨をさらに補充しているようにも見えますが 全体として どこへ向かおうとしているのか つかみ難かったです。  哲学というと 生活からかけ離れたことを観念としていじくるとでも思っておいででしょうか?  わたくしをそのように思っておられたということになりますよ。  現実は有力ですが それは無効のものの積み重ねであるという場合もあります。そのことを分析し人間と社会のあり方を――生活日常の問題として――考えるのが 哲学です。必要のないものごとが大手を振って歩いているという場合さえあるのです。  考え合っていることがいま実現していないことだからと言って 観念的で現実離れしているとは思わないでください。またそうは言わせません。わたしが言わせません。そのためにこうやって まさにそのための質問をしているのです。  遅々として進まないからと言ってやめるわけにはいきませんし まちがっていると考える必要はありません。

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     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

  • 縁起はサーリプッタが説いた?

    縁起をゴータマは説いておらず、 サーリプッタが説いたのでしょうか? 一応、縁起の話をサーリプッタは、アッサジから聞いていますが…。 宮元啓一の「仏教誕生」講談社学術文庫によると 129ページ 「サーリプッタはその後、仏教教団の上首として、仏教を各地に伝えるのに多大の功績を挙げた。また釈尊がごく簡潔にしか説かなかった縁起説をより精密に整備展開するのに熱心であった。ある学者たちはのちにかなり形而上学的となる縁起説の基礎を築いたのはサーリプッタであり、その意味で、仏教は、かなりの程度、サーリプッタ教といっても過言ではないという。現に、ジャイナ教の古い経典で、往年の聖者たちを列挙した『イシバーシヤーイム』によれば、ブッダと呼ばれる多くの聖者たちを率いていたのは、サーリプッタであった。」 185ページ 「縁起説は、釈尊よりも、むしろサーリプッタによって大きく育まれたものらしいことが最近の研究で明らかになりつつあること、縁起説は非常に形而上学的なものに転じていったこと、これらが、ここで縁起説に特に触れない理由である。」 引用ここまで。 それからどうやらジャイナ教のイシバーシヤーイムによると サーリプッタはブッダとも呼ばれたらしいです。 このジャイナ教の経典を私は読んでいません。 ゴータマの代わりに説法もしていたようですが、 ブッダであるサーリプッタの思想とは何だったのでしょうか?

  • ゴータマが生は苦だと言ったのは悪魔の使いである。

     生が苦だと言ったことについて たとえば人間には《根本的な生存欲》があって・あるから これが無明≒煩悩≒渇愛となって どうしても目覚めることを妨げているといった見方もあります。《苦》というのは そういう意味なのだと。  ところが もし道をゆづってそこまでを認めたとしても そのときには 目覚めが けっきょくゴータマの編み出した方法によるしか無いのだということを認めたことにほかなりません。どういうことか?  つまり ひとびとよ この世に生きるには 誰もに難病が俟っている。それを治す薬は わたしが説く目覚め方式によるよりほかに無い。と言ったことになる。  これは ただのマッチポンプ商法にほかならない。蝦蟇の油売りである。まさに 天上天下唯我独尊なる論理のグローバリズムである。  苦を説くゴータマは 悪魔の権化である。なぜなら その《唯一の目覚めの方法》は ついに明らかにならなかった。そのアタマの中は空っぽであった。ゆえに。  足場だけを組んだ。家本体は築けなかった。ゆえに。    《生は 苦なり》の部分を取り外せば まだ ブディズムには多少なりとも 見るべき思想はあるかも知れない。ただし ゴータマは ゼロであるだけでなく マイナスである。百害あって一利無し。ではないか。  これを問います。

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • 無我説と輪廻及び仏の存在

    仏教では万物は縁によって諸要素が仮に結びついて成り立っているに過ぎず、 永久不変の実体は存在しないと説きます。 しかし一方で輪廻も説かれますが、では不変の実体が 無いなら何が輪廻しているのでしょうか? また悟りを開いてブッダになれば輪廻から解脱すると説かれますが、 仏の存在は諸行無常の外にあるのでしょうか? 歴史的人物のゴータマ・シッダールタは何千年も前に亡くなったのに、 釈迦如来と呼ばれて信仰されているというのは、仏は永劫の実体を持っているということでしょうか? まして密教では大日如来がこの宇宙の根本の実体であるとされますが、 大日如来と無我説の関係はどうなるのでしょうか? はたまた浄土宗等では阿弥陀如来や極楽浄土が信仰されていますが、 阿弥陀如来は縁によって生じた仮の存在ではないのでしょうか? この質問に特定の宗派を非難したり、仏教を否定する意図はありません。 純粋なる疑問です。

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • 煩悩とは。

    煩悩とは、悟りたいとか迷いを脱したいという求めでさえもそれにあたるのでしょうか? 悟りたいとか救われたいというのは煩悩にあたるのでしょうか。

  • 煩悩(ぼんのう)

    >(国語)ぼんのう ―なう0 3【煩悩】 (三省堂「大辞林 第二版」より) 〔仏〕 人間の身心の苦しみを生みだす精神のはたらき。肉体や心の欲望、他者への怒り、仮の実在への執着など。「三毒」「九十八随眠」「百八煩悩」「八万四千煩悩」などと分類され、これらを仏道の修行によって消滅させることによって悟りを開く。染(ぜん)。漏。結。暴流(ぼる)。使。塵労。随眠。垢。 と有りますが、貴方の煩悩とは何ですか? 教えて下さい、お願いします