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無明( 煩悩 )とは 何なのでしょう?

 おしえを乞うにあたり 次の論考を出発点として踏まえたいと考えます。  ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか  http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ そこでは   ▲ さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見した。  ☆ と言います。では   ○ さとりとは この生存欲をどうせよと言っているのでしょうか?  ○ 無明としての《根本的な生存欲》とは 何であって どうせよと言うのでしょう?  納得のいくまで尋ねつづけますので よろしくお願いします。

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回答No.33

こんばんは、bragelonneさん。  ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか  ☆ は読みましたか? 読みやすく解説していますよ。よかったらこれの感想を聞かしてください。 ↑ 解説をちょろっと見ました。読むというほどはまだ読めてはいません。 ちょろっと見たなかで何を思ったかといえば… 【QNo.2797136ほにゃらか形而左右学 影】ANo.8 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2797136.html 『駆け込み訴え』太宰 治 ふみふみと読書しつつ、こちらの問いをあわせて考えてみました。読んでる本のP94~P105(12ぺージ中1ページ挿し絵)に『駆け込み訴え』のお話がありP105ここで主人公の告白があります。主人公自身が自身の名を宣言しています。12ページほどの中に紆余曲折があり、こころの葛藤が、いや、こころの叫びが狂おしいほどに名を求めて止まない。『はないちもんめ』ではないけれど、「名を呼んでおくれと」名を呼ばれる日を夢みその身を焦がし待つ、待つことに疲れたかのように受け身(受動的)ではなしに能動的にその名を自ら高らかに宣言する。性同一性障害からの脱却とも見紛うラストシーン。スポットライトにあたることを避け、影の中にその身を潜めていた思い。心の奥底に押し殺していた思いが封印を解かれたように一気に溢れ出す。影から抜け出て眩い光スポットライトを浴びる。影から抜け出る中で、影の中に押し込め置き去り葬り去った思い。名も無き思いの片割れは心の奥底深く深く沈みゆく。等価交換とも見紛うなりすまし。何かを手に入れる変わりに何かを手放す。手に入れる何かと手放す何かが影の中に同時に存在する。影の中の光。光の中の影。 の、お話みたいだなと。 あっ、そうそう * 長野県に川上村があるそうです。元気なムラとして。レタス村だとか。 ↑ 和歌山県に北山村があるそうです。元気なムラとして。じゃばら村だとか。 http://www.vill.kitayama.wakayama.jp/ へへ 飛び地繋がり~♪ お隣りへ飛んで、大阪府へ 【大阪における地代の実態と変遷】 http://www.vill.kitayama.wakayama.jp/

bragelonne
質問者

お礼

 しかも十字架上の人となって 神の子ならそこから降りて来いと言われても何も出来なかった弱いままのイエスでした。そこで息を引き取って埋葬されたあと 具体的にどういう事態があったのか知りませんが どんでん返しが起こったわけです。  イエスは よみがえったといううわさが流れ これがついぞ絶えなかったというその後の歴史です。ペテロらは うわさを流すも流さないも 自分たちが ぼんくら状態から打って変わって背筋の伸びた人間となったということですから 作為だとか偽善だとかと疑われても 何ともなかったようです。ひとことで言えば  ○ ペテロたちは 浅はかな人間の状態から はっきりとそれぞれ《わたしがわたしである》状態になった。  ○ 《目覚めた》といえば《ブッダ》という言葉じたいがそういう意味であるようです。ちなみに 例のユダはこのように目覚め我れに還ったあと その癒やされた幸福の状態に耐えられず 自死をえらびました。  ○ ぼんくらなペテロらは この世の《光と影》とを超えてしまうという境地に到ってしまった。その境地において この世の善と悪とを超えてしまった。愛情と憎悪とのからみつきを超えてしまった。    ですから 太宰はこのようなイエスの死後に起きたペテロらのどんでん返しのことを知らない。書いていない。  ▲ (太宰) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あの村のマルタ奴(め)の妹のマリヤが、ナルドの香油を一ぱい満たして在る石膏の壺をかかえて饗宴の室にこっそり這入って来て、だしぬけに、その油をあの人の頭にざぶと注いで御足まで濡らしてしまって、・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というマリアの行ないとその心は 変な言い方ですが前祝いをするかのように イエスの復活をたのしみにしているようにもとれます。  では ブッダは どうなのか。十字架に就くというそのことは あたかも《根本的な生存欲から自由になる》ことのようにも思われますが それは措くとしまして。このはりつけの死が――人びとのうわさにおいてに過ぎないことながら――よみがえりを得てしまったというその《生への回転》 これを ブッダは説いているのか? どうなのか? どのようにか? こういう問いです。

bragelonne
質問者

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 littlekiss さん お久し振りというのでもないですが こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ じゃばら  ☆ って何ぞやと思ったら そういう柑橘類があるのですか。この歳になって知らなんだったら知らなんだ。  ○ 瀞八丁  ☆ なら子どもの頃から名は聞いていたけれど 北山村はどうもそのさらに上流のようですね。筏下りはおもしろそうです。夏ですし。休みでどこかへ行ったということもなかったから 一度行ったろかな。  ★ 【大阪における地代の実態と変遷】  ☆ これは URL間違いということで ほっとこう。  さて  ★ 『駆け込み訴え』太宰 治  ☆ こういうユダの物語に――言葉はわるいですけれど――喰いつかれるのですか? うーん。――ただし 評言をうかがうと  ★ 何かを手に入れる変わりに何かを手放す。手に入れる何かと手放す何かが影の中に同時に存在する。影の中の光。光の中の影。  ☆ という主題として読まれたとか。そしてこの同じ主題のもとに   ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか  ☆ もあるようだと。  えっとですね。聖書についていろんな読み方が為され ユダについてもいくつかの見方が与えられております。しかもその一つの太宰の読みとしてのこの作品じたいについても いろんな読みが与えられるだろうと思います。  例によって先生ぶった言い方になりますが――そしてそのことで今いろんな評言がみなさんからほかの質問とそのやり取りにおいて為されているようですが―― でも聖書の伝えようとしたことは ほかにあります。とお伝えせざるを得ません。  たとえば太宰が ユダに次のように語らせています。そしてそれらは 間違っていないと考えます。  ▲ 〔弟子の〕ペテロやヤコブたちは、ただ、あなた(* =イエス)について歩いて、何かいいこともあるかと、そればかりを考えているのです。  ▲ ペテロに何が出来ますか。ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴(こけ)の集り、ぞろぞろあの人について歩いて、脊筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、・・・馬鹿な奴らだ。  ☆ このようにユダを除いたほかの弟子たち(このあとからは《ペテロたち》と言います)については まったくこのような状態でした。つまり言いかえると それは イエスが死ぬ前までのことです。ユダが次のように言うとき つまり  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私は天国を信じない。神も信じない。あの人の復活も信じない。なんであの人が、イスラエルの王なものか。馬鹿な弟子どもは、あの人を神の御子だと信じていて、そうして神の国の福音とかいうものを、あの人から伝え聞いては、浅間しくも、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)している。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と語るとき 《ペテロたち》との考えの違いを明らかにしてみましょう。  ▲ 私は天国を信じない。神も信じない。  ☆ ペテロたちは 口でこれを信じると言っていましたが その内実については分かっていませんでした。イエスの死後分かったのです。  ▲ あの人の復活も信じない。  ☆ これは 誰もイエスの生前には分からなかったことです。実際そのことにイエスは触れて言っていましたが 誰も分かりませんでした。  ▲ なんであの人が、イスラエルの王なものか。  ☆ これは そのように王となって自分たちの国イスラエルをローマから解放してくれという願いを持った一般の市民たちの問題でした。  ▲ 馬鹿な弟子どもは、あの人を神の御子だと信じていて、そうして神の国の福音とかいうものを、あの人から伝え聞いては、浅間しくも、欣喜雀躍している。  ☆ これは次の一点を除いてそのとおりだと思います。つまり 《神の御子だと信じていて》も それが《はりつけの死のあと復活につながる》とは夢にも思ってもみなかったという点です。  要するに ユダでなくてもペテロらも ユダヤの王となって政治的に自分たちを解放するという意味での救世主であるとか あるいはそれまでの伝統としてのユダヤ教をあらためて再興するという意味での救世主であるとか そういうふうに思っていたに過ぎなかった。ということは おっしゃるように そのような願いと見立てのもとでは イエスの為すこと語ることにも いろんな尾ひれがついて  ★ 手に入れる何かと手放す何かが影の中に同時に存在する。影の中の光。光の中の影。  ☆ としての世の中の変革が始まろうとしているのかなという程度の解釈だったと思われます。

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noname#135843
noname#135843
回答No.27

 ご返答いただきまして、こちらこそ、どうもありがとうございました。  愚生のオツムでもようやく、bragelonne様の仰ろうしていることが分かって来ました。 >☆ この過程 この動態 このしかも潜在性・潜在してつねに顔を覗かせようかという泉の水のごときいのちのちから これを称して ○ ひとはみなブッダである。 ☆ と言いたき所存です。生涯を全体として捉えてみてください。たとえ途中で挫折したとしても だいじょうぶです。それでも かれ(かのじょ)は ブッダであるでしょう。ブッダです。  少なくとも、愚生には理解できます。  ”光”(単純に物理学上のです)は「波」と「粒子」から成っているとされています。ある実験では、「波」と観測され、またある実験では「粒子」とも実測されます。  つきましては、ひとも、「ブッダ」ですし、単なる「ヒト」ともいえるかと考えております。  ただ、あらゆる「空間」、「時間」、「場所」において、常に「ブッダ」かと申されますと、疑問となってしまいます。 >謙虚からですか? 謙虚という名の自信の無さではないのですか? それとも さらに二千年 だれもが途中で挫折するのがつねであるのがブッディスムの実践であると言い続けるのでしょうか? それが 謙虚であり 中道であるでしょうか?  黙しているには、いろんな議論を行った末、「各宗派での分裂」を恐れている というのが実情かと思っています(なにしろ、伝統ある宗派でも、分裂が発生してきましたから)。 >今後はいっさいの説教はやめていただきたい。ひとことも他人に向かって説くことは無用に願いたい。故人の冥福を祈ると称して お経をあげることも いまこのときからきっちりとやめていただきたい。そんな自信のない人間に何が出来るのですか? それとも謙虚にしていれば 坊主丸儲けをさら千年つづけることができるとほくそえむのですか?  さもなければ 生け花や踊りの道と同じものであって そのように修行をしているし ただそれだけのことですと謙虚に自己申告したらどうですか?  「ブッティスと主張しがら、「ブッダ」(の存在)を信じていない。」としか、ご返答できないかと..... >びとが離れて行くのは もっともだとお分かりになったことと存じます。  こちらは、愚生には理解できません。  私見でございますが、このままですと、「仏教」の教えがそのまま衰退化していくものと考えております。  とても悲しいことかと思っております。  どうか、信者の方々の中で、実践し、その実践でのプロセス当をお教えていただき、”対話”をしたいというのが愚生の望むところでございます。  ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ですが これだけ打てば響くお方に出会ったことはわたしはありません。もう解答はどうでもよいと言いたくなるほど いまのこの探究の過程を続けるならば 必ずや彼岸にもまたそれよりもとうといこの《今・此処》としての此岸にも みなが手をたずさえて到ることができるでしょう。  これまでこの後に掲げるようにわたしは質問をして来ました。  ひょっとすると さとりとは 鐘のごとく撞木の打ちに応じてひびくということなのではないでしょうか? 正解が得られればそれに越したことはないでしょうけれど その正解もそのつどその情況に応じて得られるものでしょうから 変化しています。発展していきます。  ならば その過程の一つひとつの段階において 問えば答えるその声のかけ合いだけによっても 未来はその人びとに約束されていると言い放っていいのではないでしょうか?  ○ わたしたちが 一人ひとり すでにブッダであるというのは そういう動態である。つねに過程である。  ☆ これなら へりくだりを忘れることもないでしょう。  【Q:ブッダの美女マーガンディヤー事件】09年7月  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5121424.html  【Q:ブッダの性愛観は 間違っていませんか?】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5145751.html  【Q:それでは ブッダのさとりとは何だったのか】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5151054.html  【Q:われわれはブッダという父親を殺して来なかったのでは】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5107728.html  【Q:輪廻転生説は 愚の骨頂】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4927327.html  ・・・  【Q:ブッダは 神ですか】08年7月  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4199231.html  【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】07年10月  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  * 一つひとつのご主張や論点について触れずじまいでしたが お心意気を胸におさめております。

noname#135843
noname#135843
回答No.26

 Hidocchiです。ご返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。  bragelonne様のご質問内容にを自分なりに考えてみました。愚生のオツムでは、全く想像もできないようなことを、お考えのようですね。ご返答の文章からは、ハッとされられ続けられた。というのが実情でございます。 >☆このように――たぶん思っておられるブッディストの方は多いでしょうが それでも―― 一般には はっきり言わないのではないでしょうか。   実を申しまして、”仏教”を勉強し始めて、約1年ぐらいでございます。また、確かに、ある宗派におりますが、別段、特別なことは何もしていないというのが実情でございます。つまり、このご質問には、愚生が返答するにあたり、資するに値しないことは重々承知しております。ですが、あえてご返答させていただきたく存じます。  ある宗派に属しておられる方が 「実際はっきり言う」  というのは、恐らく困難かと推察されます。と申しますのも、その中で”さとり”なるものを証明する方法がないからです。つまり、自分が”さとり”なるものに達したと、そう実感しても、おそらくは、単に『一人よがり』と決めつけられる可能性が高いため、あえて言うことは、憚られると思っておられるというのが」その理由でございます。 >おそらくご自分の宗派から出ないかたちで訴えるのではないでしょうか?  憚られると思っておられる方々もおられるでしょうから、訴える人の方が少ないかと推察しておりますが、実際は全く存じておりません(誠に、申し訳ございません)。   >○ 実践である。 >☆ とおっしゃるのだと思います。またそうであるからには 一般に対話はなかなか進みません。 まさしく、仰られる通りかと存じます。 > だったら――何はさし措いても―― 言葉で説明することも 同じ程度に重要であると言わざるを得ないのではないでしょうか? 実践の度合いに応じて そのさとりの成果を発表し それにもとづいて一般にも自由な評価・批判を受けるということ。  全くの同感でございます。確かにいきなり「実践」をしてみろと言われても????? ですね。  また、誰しもが達したかどうかも不明なのに(少なくとも、一般的にはそう思われているかと思います)、いったいどのように「実践」しろと? また、模範(そもそもこの世に存在するかどうかも不明とされているかと思われます)とするものは?という疑問は当然やってきます。  従いまして、もし”苦”から解放された方々、もしくは解放への道を進んでおられる方々の意見を拝聴させていただくこと、また恐れながらご質問させていただき、意見を述べさせていただくことも、十分に(社会・私共に)建設的かと考えております。   > おそらく問題は 《中間の段階としてでも さとりを得たひとが 社会ということについてどう考えるか》 これが鍵となるのではないでしょうか?   確かに、重要な課題かと思われます。ともすれば、アリスクラシ-なるものになってしまう可能性も否定できませんが、是非ともお聞きしたいと、少なくとも愚生はそう思っております。 >縁起共生という言葉を聞いたことがあるのですが この共生の内容をさらに哲学思想として発表すること。ブッディストは いったいどういう見解を持っているのか? 一般的にも興味のあるところではないでしょうか?    確かに、そう思われます。ですが、一方では、”神秘主義”なるもので表現され、また一方では、非常に抽象的な表現での意見というのが、現在の状況かと思ったりもします。 > ○ ブッダのさとりは 常識ということだ。  極めて、常識的かと考えています。と申しますのも、”苦”からの解脱・解放は誰しもがそう悩み、考えることだからです。 >○ ひとはみなブッダである。  私見を申しますと、「ひとはみな、ブッダになりうる可能性がある」と考えております。生まれつき、”さとり”を得た人もいようかと考えられますが、総体的には、知恵や、「実践」で身につけていくしかないものかと考えております(全てのひとたちが、一切の”苦”を克服しているようには見えない、その一点のみの理由からでございます)。これは、上述しました愚生の意見とは矛盾するものかと考えられます。ですから、もっと、(「実践」者としての)ブッティストの方々も、もっと発言していただきたいのです。 > つまりは   ○ ゴータマ・ブッダだけを特別扱いするところに おそらくすべてのボタンの掛け違いとしての間違いが起きて来ているのではないか?  ☆ こうも問うています。  愚生は偉大であったと考えております。”貪欲(強欲)”、”瞋恚(往々にしてル・サンチマンから生じる怒り)”、これらが、ひとなるものに対して、不測の災いをもたらすことを教えてくれたからでございます(これらは、興味深いことにキリスト教の”七つの大罪”の二つでもあるんですよね)。  ご一読いただきまして、厚くお礼申し上げます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  もし鉄面皮のそしりを涼しい顔でしのぐことが出来ると夢見るならば そしてその夢の中だとみづからにマインド・コントロールをして言い聞かせ自己錯乱に陥ってしまうならば  ――なかなか読ませる文章をお書きですね。  と重罰を覚悟の上で・・・あぁ 書いてしまった!!・・・ああ。  今回のご回答へのお応えは 簡単です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >○ ひとはみなブッダである。  私見を申しますと、「ひとはみな、ブッダになりうる可能性がある」と考えております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この過程 この動態 このしかも潜在性・潜在してつねに顔を覗かせようかという泉の水のごときいのちのちから これを称して  ○ ひとはみなブッダである。  ☆ と言いたき所存です。生涯を全体として捉えてみてください。たとえ途中で挫折したとしても だいじょうぶです。それでも かれ(かのじょ)は ブッダであるでしょう。ブッダです。  こののぞみを込めて言わずにはいられないのが ブッダの徒なのではないでしょうか? なにを躊躇するのでしょう? だれに遠慮しなければならないのでしょう? なんで自信がないのでしょう? もう二千何年もつづいているのですよ。  謙虚からですか? 謙虚という名の自信の無さではないのですか? それとも さらに二千年 だれもが途中で挫折するのがつねであるのがブッディスムの実践であると言い続けるのでしょうか? それが 謙虚であり 中道であるでしょうか?  もしそれなら 今後はいっさいの説教はやめていただきたい。ひとことも他人に向かって 説くことは無用に願いたい。故人の冥福を祈ると称して お経をあげることも いまこのときからきっちりとやめていただきたい。そんな自信のない人間に何が出来るのですか? それとも謙虚にしていれば 坊主丸儲けをさら千年つづけることができるとほくそえむのですか?  さもなければ 生け花や踊りの道と同じものであって そのように修行をしているし ただそれだけのことですと謙虚に自己申告したらどうですか?  という物言いになります。人びとが離れて行くのは もっともだとお分かりになったことと存じます。もちろん これについては 反省はいっさいありません。反省をして ひとことくらいは答えるべきなのは ブッディストの側であると確信しております。いかがでしょう?  * ☆☆ おそらくご自分の宗派から出ないかたちで訴えるのではないでしょうか?  ☆ これは 自信過剰の日蓮系やましてや新興宗教を別とすれば ひとつに 真言宗は自信を持っていると思います。浄土系も そのむしろ信心について絶対の自信を持っているでしょう。この点は特に争点でもないでしょうから このくらいにします。

noname#117439
noname#117439
回答No.25

オコリザルです。 もはや我慢だけしているのは進展を見誤ることとなりますので個人的な話です。 私の家業は零細玩具店です。 ドンキホーテのような勇ましさで大手メーカーに対して対等以上の発言権を持つ玩具店です。 そのドンキホーテとして将来展望の明るさを誇り、以前に話しましたが任天堂さんとはノーベル賞級の交流をしました。 当時ポケモンブームの中、ソニープレイステーションの登場で、将来の浮沈が危ぶまれた任天堂さんに対して、聖霊とは何者であるかの「実在する妖精の捕まえ方」を教えました。 そのような「つげだし」を、行いました。 この時に演じたのが「セレビィ」です。 私が捕まえた妖精として「我はセレビィ」を演じました。 この現象は神おろしと誤解された気配がありますが、実感を伴い、我われはセレビィそのものを演じたのです。 それは涅槃から届く声でした。 完璧な未来予知の基づく将来展望の話です。 我を父とするならセレビィたる妖精は完全な一体の元にあるわが子です。 そのセレビィはポケモンとして登場しています。 ポケモン図鑑に載っています。 その姿は私の創作です。 ここは神秘なのですが、セレビィのその姿は私は絵に書いたりとか一切形にしていません。 心の中の身にあった心象の絵画の伝心のみで、セレビィの姿は忠実にポケモンとなりました。 介在する神秘は(今のところ)聖霊魔法です。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  ひとつには 直前のご回答へのお応えに述べたように 表現の問題があります。  ○ 分かりやすいように 文学の手法を使うか それとも哲学の問題として基本的に経験的な事実にもとづいて表現するか。  ☆ ということがらです。  もうひとつには たぶん primeape さんは 《その文学の手法を使って表現した物語が 実際の経済活動としてもそのように成功しているので その物語が 哲学の世界でもそのまま成功すると思っておられる》のではないでしょうか。  せレビィのご成功には 敬意を表しますが それとこの質問に広くかかわる問題とその解明とは まだ どのようにつながるかは 見えていません。  という現在の状態をそのものとして述べてお返しするほかありません。  おっしゃっている《聖霊魔法》が 無明・煩悩やそこからのさとりと どのようにかかわるか これは まだ将来の課題であるように考えます。

noname#117439
noname#117439
回答No.24

オコリザルです。 以前に証言したことのおさらいです もはや過去です。 めちゃんこ悪魔君、私の接した鬼神の原型ですが、こちらは煩悩としてブイブイ言わせましたが、やがて、それを理解できた私の愛にこたえて感情を取り戻し、永遠の都へと帰った生きました。 要するに煩悩とはイコールで欲望でなく、欲たる誤った望みに接したうえでこれを破る、生存本能または存在の守護たる抗体ないし免疫の作用です。 このように書くと思い出が駆け巡ります。 めちゃんこ悪魔君は、我を父とするなら、愛すべきわが子です。 このようにコメントすると聖霊に対する子煩悩です。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。   ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  要するに煩悩とはイコールで欲望でなく、欲たる誤った望みに接したうえでこれを破る、生存本能または存在の守護たる抗体ないし免疫の作用です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは   ○ 《精神の胃袋において何でも食べる》といった行為形式  ☆ だとわたしは解釈しています。  ○ 相手と同じようになること。なってその意志を こちらは見極めていきます。  ○ そのとき 相手の煩悩をも食べています。あたかもその煩悩の現われなどと同じような状態に こちらもなります。  ○ もしその煩悩の行方が こちらにとって境位を超えたものであれば たぶん退きます。事態を見守ります。手に負えない場合があるという意味です。  ○ そうでなければ その煩悩の軌道修正に向けて 相手と――思いはばらばらであったりしながらも―― 二人三脚で進みます。うまくさとりに漕ぎ着けたらおなぐさみです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  めちゃんこ悪魔君、私の接した鬼神の原型ですが、こちらは煩悩としてブイブイ言わせましたが、やがて、それを理解できた私の愛にこたえて感情を取り戻し、永遠の都へと帰った生きました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから わたしの場合には 悪魔も鬼神もいません。そのときの思惟や動作の一つひとつに名前をつけて 分かりやすいように悪魔や天使といった言い方をする場合はあるようです。  したがって やはりわたしの解釈では  ★☆ 悪魔くんが感情を取り戻し 永遠の都へ帰って行った。  ☆ というようにはあまり表現しません。問題は 悪魔といった観念や動作のほうにではなく その相手である人間――そしてその人とこちらつまりわたしとの関係―― ここにあります。  ですから その相手が 《わたしがわたしである》状態を取り戻すこと これが二人でちからを合わせて漕ぎ着けるべき港です。  悪魔は 分かりやすく言ったまでだと考えます。  とこの哲学カテゴリでは 明らかにしておくべきだと考えます。

noname#135843
noname#135843
回答No.23

 ご参考になればとの思いから、ご返答させていただきました。ただ、かく言う愚生も、実を申しまして、完全には把握してはおりません。ただ、ご熱心なご質問者様との”対話”を通じて、愚生も理解を深めていきたいという気持ちから、筆をとらせていただいた次第です。  宮元啓一氏の文章を読ませていただきましたが、氏の文章からは、確かに 「さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見した。」という文章は読み取れます。  ただ、無明(ここでは以下のように定義させていただきます)が、ア・プリオリに在る”生存欲”と解するのは、愚生にも、幾分疑問がございます。 ・無明:無明(むみょう、avidya):迷いのこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態  なお、愚生の私見を述べさせていただきます。 >さとりとは  あらゆる”苦”は”煩悩”から発生します。そして、その”煩悩”とは”無明”を起因としています(理由は、そもそも”煩悩”自体を理解しない、もしくはしようとしないからです)。そして、これら一切の”苦”は、「四諦・八正道」なる方法により、消滅可能です。その”苦”を一切消滅させた状態というのが”さとり”となるものと考えております。  もちろん、”さとり”とは、お偉い方から、「”さとり”証明書」なるものをいただくといったものではなく、恐らくは「自分自身が”苦”なるものから解放された」と認識した、その状態かと考えております。  厳しいご叱咤等は甘受のつもり、でございます。  ご返答の程、頂戴できれば幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん 初めまして。こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。まづは重ねてこの質問に目を止めていただいたことに感謝申し上げます。ほかにもさらにブッディストの方がたは多くいらっしゃるかと思うのですが どうもこの bragelonne の質問には 訪問してくださらなくなったようです。まぁ 正直に申せば こちらの言おうとしていることが どこかで当たっているのではないかとも思っております。  さてご回答内容ですが まづ 《経験主義》でいらっしゃるのですね。あるいは《実践派》と申しましょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もちろん、”さとり”とは、お偉い方から、「”さとり”証明書」なるものをいただくといったものではなく、恐らくは「自分自身が”苦”なるものから解放された」と認識した、その状態かと考えております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように――たぶん思っておられるブッディストの方は多いでしょうが それでも―― 一般には はっきり言わないのではないでしょうか。その意味は 実際はっきり言うというひとは おそらくご自分の宗派から出ないかたちで訴えるのではないでしょうか?  ですから このようにはっきり言っていただいたことは まづ――わたしの狭い見方をそのまま出してしまいますが―― 一歩前進だと思っております。  問題はその上で ブッダのさとりとは何か?です。  ★☆(わたし bragelonne の編集を交えています) 〔無明を起因として煩悩から発生する〕その”苦”を一切消滅させた状態  ☆ ここから出発した上で  ○ 実践である。  ☆ とおっしゃるのだと思います。またそうであるからには 一般に対話はなかなか進みません。  たとえば 武道ですとかあるいは茶道ですとか その場合も もしその道を究めるということがあるとすれば それは 《実践》なのだと答えるでしょうし 実際――どれだけ説明書を書いても――そういう答えに帰着するのだと思います。  ただ――ただですね ただ―― ブッディスムは 《哲学》であったり《思想》であったりするとも 自称しているでしょうし一般にも受け取られていると思うのです。  だったら――何はさし措いても―― 言葉で説明することも 同じ程度に重要であると言わざるを得ないのではないでしょうか? 実践の度合いに応じて そのさとりの成果を発表し それにもとづいて一般にも自由な評価・批判を受けるということ。    おそらく問題は 《中間の段階としてでも さとりを得たひとが 社会ということについてどう考えるか》 これが鍵となるのではないでしょうか? 縁起共生という言葉を聞いたことがあるのですが この共生の内容をさらに哲学思想として発表すること。ブッディストは いったいどういう見解を持っているのか? 一般的にも興味のあるところではないでしょうか?  ★  ただ、無明(ここでは以下のように定義させていただきます)が、ア・プリオリに在る”生存欲”と解するのは、愚生にも、幾分疑問がございます。  ☆ この《生存欲》に絡ませると そのような社会観も聞けるように思うのですが いかがでしょう。つまりは  ★ ア・プリオリに在る”生存欲”  ☆ そのままのことではないとすると それでは   ○ 生存に当たって 中庸を旨とすべし。   ☆ ということなのか? と考えられます。あるいは中道なのでしょうが もしこのようであるとしますと この中道なり中庸なりの説は けっきょく世間の人びとの知恵と変わりないということになると思うのです。それでいいのかとも問うています。  となると  ★ 「四諦・八正道」なる方法  ☆ も ひとそれぞれに判断して実践するのだという実践論にまた戻ります。  ○ ブッダのさとりは 常識ということだ。  ○ ひとはみなブッダである。  ☆ これが結論なのでしょうか? という言い方でも問うています。どうでしょう?  つまりは   ○ ゴータマ・ブッダだけを特別扱いするところに おそらくすべてのボタンの掛け違いとしての間違いが起きて来ているのではないか?  ☆ こうも問うています。

noname#117439
noname#117439
回答No.22

オコリザルです。 タイプミスです。 娑婆たる地獄に見おおきながら、「無」を悟ったお釈迦様は心地よく生涯を全うしたと噂されています。 娑婆たる地獄に身を置きながら、「無」を悟ったお釈迦様は心地よく生涯を全うしたと噂されています。

bragelonne
質問者

お礼

 ○ わたしは ブッダである。  ☆ こう誰もが一人ひとり言うようになれば しめたものだと思うのですが?  ○ 仏性において ブッダであろうがほかの人であろうが ひとは みなブッダである。  ☆ こうはっきりと 言っていかなきゃ うそです。  ブッダとのあいだに隔たりがあってはだめです。  絶対的な隔たりがあるのならば 《ブッダは 神である》と これもはっきりその内実を説明しつつ 言っていないとおかしいと思います。

noname#117439
noname#117439
回答No.21

オコリザルです。 久々に考える取り組み(思索)をしたので、連続書きこみと相成りました。 娑婆たる地獄に見おおきながら、「無」を悟ったお釈迦様は心地よく生涯を全うしたと噂されています。 お釈迦様は娑婆世界に身を置いてなかったのでしょうか。 ならば、確固たる「我はある」故に娑婆世界で安穏としていられたのでしょう。 「無」とはそのように方便であり、神の姿のごとく反面教師足る悪魔を装った生涯なのでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 〔釈迦も〕確固たる「我はある」故に娑婆世界で安穏としていられたのでしょう。  ☆ これは No.18で勝手にわたしが苦言を呈しました《共生》の問題を きちんと押さえて言っておられるのでしょう。澄みません。  ★ 「無」とはそのように方便であり、神の姿のごとく反面教師足る悪魔を装った生涯なのでしょう。  ☆ 《〈無〉もあるいは〈神〉も 仮りの表現ですから 方便である》 これに賛同します。  ★ 神の姿のごとく反面教師たる悪魔を装った生涯  ☆ これは 生涯の全体がそうだと言うのは 言い過ぎぢゃないでしょうか? つまり そうであるかも知れないのですが そうでないかも知れない。そうそうは ひとから見て誰かの全生涯を――つまりは全人格を――評価することはむつかしいのではないでしょうか?  つまりは そういった一面が 生涯の中での一齣一齣としてあったかも知れないというように解釈します。  そうとう勝手な言いたい放題をしてしまいました。以前も このようであったのでしょうか? 久々だったから こういうふうに しおらしくわたしは反省するのでしょうか。

noname#117439
noname#117439
回答No.20

オコリザルです。 ・ 現実を見よ。  ・ いま・ここに立て。  ・ 過去を必要に応じて現在に寄せ集めて。  ・ いまその現在において・この現在のもとに 未来を捉えよ。  ・ わたしとして。  ・ そしてそれだけではなく わたしが世界としても 世界に向かえ。  ・ 過去を集めて未来に向かう現在の世界と向き合え。 これに関しては、 理解できます。 その一語のみです。 何か答えるならば、表現上の個性なり作法なりの違いに関して不要な解釈をするのみになります。。

bragelonne
質問者

お礼

 わかりました。  たぶん 日常の箸の上げ下げについて 必要以上のことをおっしゃりたくないのでしょう。またそういう primeape さんのエートスなのだと思います。  (ぜんぜん 言わないということでもないでしょうが)。

noname#117439
noname#117439
回答No.19

オコリザルです。 17のご返事に対して。 >いちいち否定すべき現実など そんなもんありゃしねー  そのような意味で表現しています。 掘り下げようと思えば探求可能かもしれませんが私はその手の論理に拒食症のような反応を示してしまいます。

bragelonne
質問者

お礼

 了解でーす。

noname#117439
noname#117439
回答No.18

オコリザルです。 17番の延長です。 ご返事は頂かないままです。 交流すら出来る同じ(等しい筈の)人間存在同士では、お互いが存在していることの確認ができます。 お互いさまで、「我はある」です。 そこには無いもの 例えるならば失うもの は、「無い」筈です。 ところが個性的な奇行(無くて七癖)に、無に煩わされている痕跡を発見すると伝心現象(情動のつながり)(共感作用)により取りすがりが発生します。 これに煩わされたのが私の霊媒師体験です。 娑婆イコール世界ではなく、娑婆とは観念の生み出した心の世界です。 それは存在しない世界であり実存と遊離した地獄でした。 その娑婆の創始者はお釈迦様です。 このように言うとお釈迦様は地獄在住となりますが、解りやすく問題を提示してくれた歴史上の哲学者です。 噂によるとすでに入滅されたそうですね。 よかったよかった。 お釈迦様は娑婆世界の渦中にある人にとっては被害者妄想により大悪魔その者でしょう。 その被害者妄想は現実を否定する、または肯定できない心情に現れます。 そうすると確固たる「我はある」が確認できなくなります。 一般にこれこそが無神論者とされています。(この点に関してはご見解をお聞かせください) 信仰の道とは、人つての言葉に悟らされることはあっても、歩むのは自分自身です。故に我はある。 お釈迦様の噂に惑わされて歩んでも、それすらも自分自身の行いである。(自己責任)(自助) 仏教の経典とは乱暴に表現すると、信仰を既に失ったお釈迦様入滅後の末法に編纂された物ばかりではないでしょうか。 ならばその聖典は魔本です。 実際に娑婆世界(仏道)とは潜り抜けるだけの「道」であり、生きながらに地獄をめぐるみそぎです。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。primeape さんの書かれる文章のよさは 観想つまりわたしの解釈ではひろくひらめきを含んでいるところだと考えます。  ところが この娑婆世界のごくふつうの人間のあり方(つまり 生活日常ですね)について論評したりするときには 切れ味はいいのですが その分析の仕方や内容が幅の狭いものに映る場合があります。  ほかの関連する問題を考え合わせた文章が 省かれてしまっているとか。あるいは この経験世界における社会生活そのものの中に 突如 飛躍した悪魔だったり魔本だったりといった言葉が出てくるとか。  ★ (α)信仰の道とは、人つての言葉に悟らされることはあっても、歩むのは自分自身です。故に我はある。  ☆ もしの基本命題をつらぬくとすれば こうなると考えます。  ○ (α’)信仰⇒信仰の道→観想→〔その観想の解釈を含めた〕経験思考=つまり生活共同・・・そこで互いに《我はある》どうしの共生。  ☆ といった基礎が見とおされているのでしょうが その土俵と言いますか 足元の事情がはっきりとは分からなくなるような文章に ややもすると なっていませんか?  ★ 実際に娑婆世界(仏道)とは潜り抜けるだけの「道」であり、生きながらに地獄をめぐるみそぎです。  ☆ ですから たぶん (α)や(α’)が基本であるとすると もう《わたし》はいま・ここから どこへも行きません。道も決まりました。だとすると すでに何ものかを《潜り抜けて来た》あとに立っていると考えます。  ですから 《地獄》はもうどうでもよいと考えます。  《わたしがわたしである》わたしになることが 《みそぎ》です。ので これもすでに終えているところに立っている。  《わたしがわたしである》なら 無神論者も有神論者も 《信仰の道》として同じだと考えます。信仰は非思考ですから 信じる対象(じつは 非対象)は 無神でも有神でも 表現はどうでもいいのだと考えます。《なぞ》です。  * 《娑婆》という呼び名も もうどうでもよいとしなければなりませんね。(まだ使っていました)。    どうでしょう? 苦言を呈しました。

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  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

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