- ベストアンサー
ゴータマは悪魔の使い?苦の真実と目覚めの方法とは?
- ゴータマが生は苦だと言ったのは悪魔の使いであるとする見方もある。
- 生が苦だと言ったことについて、根本的な生存欲が無明や煩悩になって目覚めを妨げているという見方もある。
- ゴータマが唯一の目覚めの方法を明らかにしなかったため、苦を説く彼は悪魔の権化であると考えられる。
- みんなの回答 (28)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
六波羅蜜などは中身たり得ないですか?
その他の回答 (27)
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
B様、こんばんは。 >「まぁ そうですね。よく解釈すれば ゴータマも けっきょく無神論としての信仰を持った(または 模索した)と言えるのでしょうね。」 どうも、「一利無し」へ、過剰に反応してしまったようです。 まあ、しかし、それでも、 「異端」だとか「破門」だとか、穏やかでない歴史を紡いできた宗教と較べて? どうなのでしょうか。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。でも やっぱり 信仰形態として 無神論――つまりアン-アートマンなる無我 または そこから類推して 無梵=無神――というかたちに行き着くような雰囲気を持っていたでしょうね。 そしてそれは けっきょく梵我一如なる同じひとつの信仰類型におさまります。 のちのちのブディストらは 仏仏一如なる形態を持った。そして同じく梵我一如なる類型におさまった。 このように見ています。 つまりは この信仰を離れて・という意味は 信仰をオシエというものに代えて オシエを看板としたのが シュウキョウです。そこでは 個人の主観内面における信仰は もう二の次となっています。オシエの宣教やあるいは宗派の組織の存続が 言わば至上命令となっているはずです。プラス金儲けでしょうか。 というふうに見ています。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
ぶらじゅろんぬさん、ご返事ありがとう。 むづかしいなあ。 これから散歩(花見?)に行ってきます、 そんで明日からまた仕事にかまけます。 時間あるときにのんびり咀嚼します。 理解するのに時間か借りそうだわ。
お礼
★ むづかしいなあ。 ☆ そうかなぁ。 ご回答をありがとうございます。 * おそらく わたしが自分をほこったから むつかしいと言ってるんでしょうね。 まだこれからまた二千年も ウヤムヤの内にさとりを求める旅に出るんでしょうかね。断ち切れとすべての人に言いたい。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
たびたびつぶやいて失敬。 キサーゴータミーの説話は悪くないんぢゃないかな。 人間がどんだけアホになれるかってことだろ? 目覚めていようと思っても眠っちまうってことだろ? 強烈なショックを受けたら乱れるし盲目になるし よくものを忘れるってことを忘れてるってだろ? 人間かわいいねって話しぢゃないのん? ところで肉体の救済の話しをしてるのか? それでも良いとも悪いともいえないなあ。 おいらのおばあちゃんが101歳で亡くなったとき おいらすげー泣いたわ、当たり前やんか、 大好きな人がいなくなったんだから、 けど「死なせない」ことに躍起になるのは疑問。 おいらはあと60年ぐらい生きてたいんだけど、 縄文時代なら今頃おいら死んでたんぢゃないか? うわ、暗。しかもまたズレてらあ。お邪魔しました。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ キサーゴータミーの説話は悪くないんぢゃないかな。 ☆ 《死者を見たことがなかった》という設定を除けば・それに目をつむれば あとは よく出来た物語なのでしょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 人間がどんだけアホになれるかってことだろ? 目覚めていようと思っても眠っちまうってことだろ? 強烈なショックを受けたら乱れるし盲目になるし よくものを忘れるってことを忘れてるってだろ? 人間かわいいねって話しぢゃないのん? ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ だとしたら わが子の死が受け容れられないといった問題ではなく そうではなく どうしたらよいのか分からない状態にいるということが問題なのでしょう。 だったら まづはそのままそばにいてやれば よいのです。繰り出す話にも つきあってやればよいのです。いちいちカラシの実をもらって来いなどという説教じみたことは なくてかまいません。 という問題です。 キサーゴータミーのエピソードを出汁にして・また脚色して ゴータマは知恵がある・えらいんだと言おうとしてませんか? この物語は。 やっぱ 殴り込みが必要ぢゃん。まぁ ゴータマの亜流がつくりあげた話なんだろうけれど。てめえら 事実にもとづけ。かっこうをつけるんぢゃないと。 ただし ゴータマがほんとうにカラシの実をもらって来いという説得の仕方をしたとするのなら よほどコイツはおめでたい。意味のない内容を表わそうとするだけの自己顕示欲がはたらいた。となるでしょう。 だから 後に遺された弟子たちは 《キサーゴータミーが 死者を見たことがなかった》という設定をほどこしておいた。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
こんばんわ、ぶらじゅろんぬさん。 なんだかおっかない家に入っちゃったみたい。 おいら沈黙してる あいだの かんそう。 https://www.youtube.com/watch?v=-2tdoeKjBpk おいらは別に怒ってないし殴らないけど。 なんだかもっと分からんくなってきた。 ん。もしかしてゴータマさんは叫んでるのに おいらには聴こえないのか? さとり(?)の中身はそこに置いてあるのに おいら気付かずに素通りしちまったか? 知りたければ慌てて問いただしちゃいけないみたいだし、 伝えたければしゃべりまくっちゃいけないみたいだし、 沈黙の中のささやきを待ってればいいのか? 時間がきたら分かるようになってる暗号か? 分かった人はいるのか? >ですから初めに《苦》を措いたのですから :【苦】というスタートアーチがあって地図もあるけど ゴールのないマラソンのようだということ? >例のニルワーナという場合には そうですよ。 :「死んでる状態」を保って生きてる図を想像してみた、 赤ん坊が生きている、泣きもしない、 隣にいる母親、抱きもしないし目もやらん、 遠距離恋愛のダーリンに久しぶりに会った、 手を振りもしないしにこりともしない、 きもちわるい。 >初めにもどって 生は苦ではないと言い直しただけ :ちょっとちがう言葉でしゃべります。 生は絶望である、オレの用意した道を通らない限り 永遠に絶望絶望絶望である。希望はない。 それだから希望を捨てなさい、絶望もなくなるから。 で、実際のところ【ある】のは何で【なくなる】のは何で 【なくなる】ことをすると【ある】ようになれるのか? 13番さまより拝借。 >「苦」とは「思うようにならないもの」 :これは生後数ヶ月の赤ん坊が 自分と母親は別人であるらしいと気づいた時に分かるし その「苦」はそのまんまにして生きてるんぢゃないかしら。 ___________ 別においら怒ってないんだけど、 交通渋滞って言われるとなんかいやだなあ。 あ、そうか、ゴールはないんだっけ。 やれ、ただのつぶやきになっちまったわ。 どうもお邪魔しました。
お礼
(つづき) 輪廻転生なる思想は デタラメであり それを踏襲するのは なぜバカか? 特には因果応報の説が問題です。前世・現世・来世とつづく〔そうだとすれ〕存在の時間過程において 善因善果(または 楽果)および悪因悪果(または 苦果)がつらぬかれるという世界認識 これが 問題です。 理由は かんたんです。もしそうならば おのれのその時その場の一挙手一投足の一つひとつが すべて自業自得であるということに帰結するのであり それだけのことに過ぎないからです。 或る日或る時とつぜん何ものかに拉致されるというそのひとつの出来事 これは 因果応報の結果であり またつぎの結果を生む原因であるということですが だったらすべては 自業自得として成り立っていることになるからです。 一つひとつの思惟および行動が 原因であり結果であるということにしかならず しかもそれは おのれの思惟と行動なのであると言っているに過ぎません。 世の中のものごとの一つひとつが 人間から見てその人にとって 自業自得である。というだけに過ぎません。自業自得の連鎖であるに過ぎません。それは 世界認識として何も得ていませんし 示してもいません。世界はあると言ったに過ぎません。 転生は 同じ DNA の者がいないからには たとえば信長が 前世でのおれだったんだとは言えません。 ★ ~~~~~~~~~~~~ 生は絶望である、オレの用意した道を通らない限り 永遠に絶望絶望絶望である。希望はない。 それだから希望を捨てなさい、絶望もなくなるから。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですね。ねたみを持たれて焼き殺されたサーマーワティーという女性について ゴータマは次のように追悼したと言います。 △ (仏弟子の死を悼むゴータマ) ~~~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5121424.html(その趣旨説明欄) 僧たちよ 今度の事件で動揺した心を静めよ。 この世でたとえいくら生きても 放逸でわがまま勝手で 道を需(もと)めない人間は すでに死んでいるのと同じで 生きていても価値がない。 それにくらべ いつでも熱心に道を需め 正しいことをし ようと願い 慈悲の心の燃えている者には 永遠の命がさづ けられている。 現実に肉体の死はあっても 魂の死はない。 マーガンディヤー(=ねたみを持った 犯人)たちは 生 きながら死んだも同然で 何の生命もなかった。 サーマーワ゛ティーは どんな死に方をしても 永遠に生 きつづける。 彼女たちは死の瞬間に精神を統一し 祈ったから すでに 聖者の位を得て死を迎えている。 (寂聴:『釈迦と女とこの世の苦』《第7章 悪女 聖女を焼き殺す》 p.158) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ ~~~~~~~~~~~~~~ >「苦」とは「思うようにならないもの」 :これは生後数ヶ月の赤ん坊が 自分と母親は別人であるらしいと気づいた時に分かるし その「苦」はそのまんまにして生きてるんぢゃないかしら。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ それを《苦》と呼ぶなら そうなりますかね。 ★ 交通渋滞って言われるとなんかいやだなあ。 ☆ 《釈迦と女とこの世の苦》といった視点で世界を見てみるに 《マーガンディヤーなる悪女が 仏弟子のサーマーワティ―なる聖女を焼き殺す》ことがあっても つまり仏道にはげむ一人の人間が犠牲になっても それは すべては自業自得なのであって ブッダのさとりを得たのならば もはや輪廻転生を繰り返さなくなっているのだから 文句はなかろう。・・・ そう言われて 釈然としない人間がいたとしたら 交通渋滞になると考えます。みなさん 釈然としますか? まぁ みなさんは おだやかな心の持ち主であって おとなしい市民なのであり 争いごとは嫌いでしょう。わたしのように《殴り込み》をかけることもないのでしょう。交通渋滞は 起きませんかね。――これは 失礼しました。(って そんなわけあ ないと思っていますが)。 (マーガンディヤーは その昔 ゴータマによってその結婚を断られたのだけれど そのときの言い分が 《ふるっていて》 これに頭に来たようなのです。それを根にもって 仕返しをしたようなのです。つまり サーマーワティ―がころされたのは ゴータマよ おまえの所為だと問いかける交通渋滞もありえます。→前掲の質問の趣旨説明欄)。 ♪ ~~~~~~~~~~~~~ ・・・ 傷つけられたら 牙をむけ 自分を失くさぬために 今から一緒に これから一緒に殴りに行こうか YAH YAH YAH YAH YAH YAH YAH ~~~~~~~~~~~~~~
補足
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ YAH YAH YAH CHAGE&ASKA ☆ しっかりとそれとして聞いたことはなかったので 歌詞をも見てみました。 ひとこと感想を述べますが ゴータマおよびブディズムの世界に対してわたしのかけた殴り込みが この質問であり 一連のゴータマ批判です。 親鸞の《義無きを義とす》およびブッダターのやどりのほかには ブディズムによいものはありません。 しかもブッダターは ブラフマニズムの梵我一如ないし霊我アートマンにひとしいと来ています。日本では アートマンが知られてはいますが普及はしていないので ブッダターを出しましたが インドでは 通用しません。つまりは 親鸞だけです。見るべき遺産は。(むろん 問題提起としてになります)。 ★ ん。もしかしてゴータマさんは叫んでるのに / おいらには聴こえないのか? ☆ ゴータマ氏のよいところは ブラフマニズムの支配する世の中でけっきょく身分制度がガチガチに固まっていることを批判しそれに抵抗したことでしょう。バラモンでなければ 人ではないといった風潮だったのでしょう。そこで アートマンを否定し 無我説を提起しました。 ただし これは 社会的な行動や制度と そして良心・信教の自由とは 次元が違うということを知らない議論でした。アン-アートマン(無我・非我)と言って アートマンをアンインストールしたのですが けっきょくその位置には 後世になってブッダターなる概念が入れ替わりにおさめられました。 ブラフマニズム: 梵我一如 ゴータマ: 無梵無我一如 のちのブディスト:仏仏一如 といった信仰の形態であり それぞれは同じひとつの類型です。これらはみな互いにひとしいものです。そしてそのあとです 社会にかんする共同自治はいかにあるべきやの議論は。 そのほかにゴータマの声がしているとすれば たとえば家族愛が欲しかったとか。特に母親に会いたいとか。そのネクラの心をあかるい心に変えて欲しいといった声ではないでしょうか。 ですから 親鸞は それにこたえました。こたえてやりました。もうそのゴータマのたましいは やすらかに眠っているはずです。 ★ 分かった人はいるのか? ☆ いません。親鸞とわたしだけでしょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ >ですから初めに《苦》を措いたのですから :【苦】というスタートアーチがあって地図もあるけど ゴールのないマラソンのようだということ? ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《苦》は おいそれと克服することの出来ない無明であり煩悩であると規定したことが 問題です。言いかえると 自分だけは その苦から解脱したのだ おれにしたがえと言ったことが 問題です。すべては ペテンです。 ▼ (ヰキぺ:法華七喩) ~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9 4.化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品) 宝のある場所(宝処)に向かって五百由旬という遥かな遠路を旅する多くの人々がいた。しかし険しく厳しい道が続いたので、皆が疲れて止まった。 そこの中に一人の導師がおり、三百由旬をすぎた処で方便力をもって幻の城を化現させ、そこで人々を休息させて疲れを癒した。 人々がそこで満足しているのを見て、導師はこれは仮の城であることを教えて、そして再び宝処に向かって出発し、ついに人々を真の宝処に導いた。 この物語の 導師は 仏で、 旅をする人々は 一切衆生、 五百由旬の道のりは 仏道修行の厳しさや困難、 化城は 二乗(声聞・縁覚)の悟り、 宝処は 一乗(仏ないし菩薩)の悟りであり、 仏の化導によって二乗がその悟りに満足せずに仏道修行を続けて、一乗の境界に至らしめることを説いている。 法華経では、遥か昔の大通智勝如来が出世された時、仏法を信じられず信心を止めようと思った人々が、再び釈迦仏の時代に生まれて仏に見(まみ)え、四十余年の間、様々な教えを説いて仮の悟りを示し理解して、また修行により真の宝である一乗の教えに到達させることを表している。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち ゴータマのオシエは どこまで行っても 《化城=まぼろしの城》であり 《真の宝処》にはたどりつかないという問題です。ゴータマ自身が たどりついたと言いつつ そのたどりついた姿とはどういう中身かについてはいっさい説明し得なかったからです。 ★ ゴールのないマラソンのよう ☆ なのですが じつは おそらく《マラソン》でもないということでしょう。 つまりそんな長丁場ではなく さとりとしては 即身成仏ないし即得往生が その方程式です。 また 《導師》が《宝》についても《宝処》についても 何も知らないと来ています。マラソンにも成っていません。それも言うなら 人生は たしかに旅だとするなら それは そのつどわれに立ち帰ってふたたび歩きつづける巡礼の旅路であるとでも言うべきでしょう。 そのつどの《さとり》は 自己還帰として中身のある実際のコトです。(そのすべてが マボロシであり世界はすべて幻想なのだと言う人がいますが それは言わせておけばよいでしょう。まじめに生活していくかどうかで 決まります)。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ >例のニルワーナという場合には そうですよ。 :「死んでる状態」を保って生きてる図を想像してみた、 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まぁ そうかも知れません。呼吸が停止するというのは わづかの時間だということだそうです。 ▲ (修行の目的) ~~~~~~~~~~ http://www.buddhachannel.tv/portail/spip.php?article16615 「ブッダの説かれたとおりに、呼吸を整える思念をよく修行して、完成し、順次に(諸の煩悩を)克服してきた人は、雲を脱れた月のように、この世を照らす。(ウダーナヴァルガ・第15章1) ・・・ 苦は 煩悩から生起します。 煩悩とは 身心を乱し、悩ませ、智慧を妨げる心の働きを言います。 煩悩の根源(人間の諸悪の根源)は 貪欲(とんよく:食欲、睡眠欲、性欲、金銭欲、出世欲、名誉欲、物欲等々)・瞋恚(しんに・怒り)・愚痴(ぐち)の三つとされ、これをあわせて三毒と呼びます。 三毒の中でも特に愚痴、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、(無明)が、最も根本的なものであるとされます。 さらに、煩悩は、我執(自己中心の考え、それにもとづく事物への執着)から生じ、形あるものとして生存しようとする、自己形成力を生じると説かれます。 したがって苦からの解脱とは、「煩悩によって生じる自己形成力の消滅」を意味します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここから〔だと思いますが〕 呼吸法をヨーガのごとく実践する涅槃行も出たし 《自己形成力》と言っているのは 《根本的な生存欲》のことです。 《足場》は このように押しも押されもせぬかたちで万全だと言えるようです。 《自己形成力=根本的な生存欲》≒《苦》≒《無明≒煩悩≒渇愛》。 ▲ (同上) ~~~~~~~~~~~~ 苦からの解脱が、《形成力》の消滅を指すことというのは、お釈迦様が悟りを開かれたときに発せられたお言葉に象徴されております。 「わたしは、家を作る者(の正体)を探し求めながら、はたすことなく、数多くの生(死)輪廻をめぐってきた。生(死)をくり返すのは苦しいことだ。 家を作る者よ。(ついに)おまえは見破られたのだ。おまえは、ふたたび家を作ることはないであろう。おまえの梁はすべて折られ、家の屋根は壊れてしまった。こころは(自己を)形成するはたらきを離れ、渇愛は滅ぼしつくされた。」(法句経・第11章 153-154) 我々は自分を生まれ変わり死に変わりさせる形成力(エネルギー)を滅することが出来ないが故に輪廻しています。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《足場》が問題なのであって 《家》本体には関心がないのかも分かりません。 問題は それでも 《輪廻転生》にあります。その思想にあります。ブラフマニズムからそれを踏襲していることにあります。バカだと見ます。 (つづく)
あの当時は医療も進んでいないので、たくさんの方が亡くなっていたと思います その救済の為に実践したブッダであることには間違いないのです ネットだけでしかできない宗教ゴッコをやる人間が百害ですよ 胡散臭いからありがとうは言うな。
お礼
ぢゃあ お礼のことばは取りやめまして。 しかし みなさん〔の内のいくらかの方たち〕は そんなにゴータマが好きなんですか。 これは 或る種の仕方で 判官びいきのような特性なのでしょうか。 でも 義経は むちゃくちゃな戦法によってだとしても 敵とたたかって 勝利をおさめました。戦争という手段に問題がありますが 当時としてそれだけの功績があったと見られるわけです。 ゴータマは あったと見られた功績が ぜんぶウソだったのです。 かえってウソだったことをみとめたくないんですかね。 【Q:キサーゴータミーの説話について】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7880066.html わが子を死なせてしまった母親――キサーゴータミー――が ゴータマのところに行って 生き返らせてくれと言って相談する。死者を出したことのない家から カラシの種(または ケシの実?)をもらって来なさいとおしえられ 探しに出かける。死者を出したことのない家はなかった。うんぬんという物語が語られています。 これなどは 話の設定が あり得ないという評価を持つに到りました。それを 上の質問で問うています。 すなわち カラシの種をもらいに言った家々は ことごとく死者を出したことのある家だったというからには この母親であるキサーゴータミーの近所で 葬式をおこなわなかったということは考えられない。つまり 物語を成り立たせるために設定されたはじめの取り決めである《キサーゴータミーは 死者を見たことがない》ということは 事実に反すると考えざるを得ない。こういう結論です。 すなわち 説話なるたぐいのオシエも ただただゴータマを神格化せんがためにつくられたウソであった。 どうでしょう。
- 0fool0
- ベストアンサー率18% (134/738)
これでおわりにしましょう。 >ならば 出し惜しみをなさっている。こう言いかえておきましょう 出し惜しみなどは一切していないのです。 むしろ真髄を語っています。 逆に考えて、「誰も話を理解出来ない世界に一人ぼっち」ってどう思います? 勿論、私がアホなだけなら、それでいいのです。 私も納得出来ます。 私が「間違っている」と誰かに安心を賜りたいです。
お礼
No.22の補足欄に 次のように書き込みました。このご回答と一足違いだったようです。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 0ふーる0さん 譲歩して応対することは やめます。 ☆☆(趣旨説明欄) まさに 天上天下唯我独尊なる論理のグローバリズムである。 ☆ この論理の精確な応用実践なのですね 0ふーる0さんのご回答ぶりは。とはっきりと真実を伝えるべきだと考え直しました。 目を覚ましてくださいな。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ご回答はありがたいですが これが 偽らざるわたしのこころです。 ゴータマは ダメです。
- 0fool0
- ベストアンサー率18% (134/738)
>理解出来ておられるのですか? なら どうして みなさんのためにも明らかにしてくれないのでしょう? 実は私は一瞬たりとも隠して等は居ません。 むしろ、言いまくっています。 明らかにし続けているのです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 まぁ 禅問答ですかね。 ならば 出し惜しみをなさっている。こう言いかえておきましょう。 どう補足要求すれば よいでしょう。
補足
0ふーる0さん 譲歩して応対することは やめます。 ☆☆(趣旨説明欄) まさに 天上天下唯我独尊なる論理のグローバリズムである。 ☆ この論理の精確な応用実践なのですね 0ふーる0さんのご回答ぶりは。とはっきりと真実を伝えるべきだと考え直しました。 目を覚ましてくださいな。
- superkeroyon
- ベストアンサー率30% (14/46)
No 20 への補足。 お釈迦さんは社会貢献についても、書かれているはずですし、在家の生活を重視する大乗仏教にいたっては、自他の欲も肯定していきますから、経済学でいう相互利益(パーレート改善)という概念とも調和してきます。社会発展とも、むすびついてくるんです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 なるほど。 (あ)★ 在家の生活を重視する大乗仏教にいたっては、自他の欲も肯定していきますから、 (い)★ 経済学でいう相互利益(パーレート改善)という概念とも調和してきます。 (う)★ 社会発展とも、むすびついてくるんです。 ☆ これなら さとりの中身についてそれなりに明らかにしています。 ただし それなら ゴータマ独自のさとり ないし 思想は どうもないみたいですね。 (い)は パレート最適が実現・維持されたとしても それで《さとり》の境地だとは とても言えないですよね。 (あ)は 《自他の欲を肯定する》ということは ゴータマのゴの字すら知らない人びとにあっても 或る意味ですでにおこなわれています。 どう社会発展につながりますか? 残念ですが やはり中身はなかったみたいです。
- superkeroyon
- ベストアンサー率30% (14/46)
苦を解決して乗り越えるための修業方法や考え方を提示したということでしょう。 それは、おそらくは出家の形をとった上座部の修業方法、そして在家の方一派衆生でも取り組める修業方法に発展させた大乗仏教へと発展していきます。 つまり、苦を乗り越えるための実践方法の基礎を築いたことに、人類への重大な貢献があります。 哲学や教義だけでは、苦の解決への貢献は、不可能です。 この点に関しては、修業もしないでその価値など論じる哲学はむなしいものであり、空の空といわざるを得ないでしょう。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 苦を解決して乗り越えるための修業方法や考え方を提示したということでしょう。 ☆ ええ。そして そのことにかんしては これまでのやり取りにおいても 四諦八正道からあるいは六波羅蜜からいろいろと事例を取り上げて吟味検証して来ました。 つまり 趣旨説明欄に述べたとおり ゴータマは 苦からの解脱のための方法について述べている。ただしその結果成就することになるさとりの境地についてその中身は いっさい明らかにしていません。 足場はこしらえたが 家本体は建てていない。このタトエで 批判しています。 すなわち《足場》とは ★ 出家の形をとった上座部の修業方法、そして在家の方一般衆生でも取り組める修業方法 ☆ について説明しているということでしょう。 すなわち ★ つまり、苦を乗り越えるための実践方法の基礎を築いたことに、人類への重大な貢献があります。 ☆ という蜃気楼閣を築いたというのみです。砂の城です。 あるいは 経典においては 《大化城》を築いて 苦に悩む人びとの前に《オアシス》を見せた。つまり まぼろしの城のことです。《大化城》です。つまり ★ 苦を乗り越えるための実践方法の基礎 ☆ のことであり これは 城がまぼろしであるというごとく どこまでも《足場》なのです。あるいは 彼岸に到るための《筏》は 用意したかも知れません。 けれども 誰も確実に渡ったということは 証明されていません。さとりとは何ぞや? について正面から答えていない。からです。こういうペテンです。 ★ この点に関しては、修業もしないでその価値など論じる哲学はむなしいものであり、空の空といわざるを得ないでしょう。 ☆ お言葉を返すようですが このセリフは あなたが・ほかならぬあなたが さとりを得てから言ってください。さとりのサも得ていないのに言うセリフではありません。 ペテンの方程式だけは 会得しておいでですね。とまで言わねばならないほど 二千年も人びとは 食い物にされて来ているのです。それこそ めざめたまえと言わねばなりません。そうではないでしょうか。 よく振り返ってみてください。このご回答の中には さとりについての中身の話は これっぽっちもありません。これが ゴータマ・マジックの手口なのです。どうでしょう?
- 0fool0
- ベストアンサー率18% (134/738)
>☆ どのレベルでしょう? ☆ 理解できません。 私は何処までも付き合うつもりはあります。 しかし、他を卑下する発言に同意するつもりはありません。 何故なら理解を出来れば、卑下する必要は無い事が判るからです。 >《聞いた方》も けっきょくはゴータマを神格化するまでになりました。その問題もあります。 ・・・・・・・・貴方はその一人にならないという根拠はなんなのでしょう・・・・・・・・・・ >まづ問うたのは やはり《言った方》です。 私で言えば確かに発言を控えています。 資格が無いからではなく、意味が無いからです。 この無意味に泳ぎ続けた釈尊はすばらしいとしか言いようがありません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ しかし、他を卑下する発言に同意するつもりはありません。 ☆ 不動産の物件が 駅から十分ではなく一時間もかかるところにあったという詐欺ではなく そうではなくゴータマの場合は 不動産がどこにもなかった・そこへ到る道だけは述べてあるにもかかわらず 何にもなかったというたぐいのペテンです。 ペテンをペテンと言い その頭脳は阿呆だと言わないなら それこそ自己蔑視であり自己をそのペテン師に隷属させるわざであるしかありません。 議論をしっかりとつかんでください。 ★ 何故なら理解を出来れば、卑下する必要は無い事が判るからです。 ☆ 理解できないから 問題が発生しています。 それとも 0ふーる0さんは 理解出来ておられるのですか? なら どうして みなさんのためにも明らかにしてくれないのでしょう? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ >《聞いた方》も けっきょくはゴータマを神格化するまでになりました。その問題もあります。 ・・・・・・・・貴方はその一人にならないという根拠はなんなのでしょう・・・・・・・・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こうやって ゴータマの業績は 無い――つまり 足場は饒舌なほどに語っていて築いたかも知れないけれど 家の本体はまったく築かれていない 空っぽである――と言って その内実をも少しづつにでも明らかにしています。きちんと批判が出来ているからには イカレポンチにはなりません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >まづ問うたのは やはり《言った方》です。 私で言えば確かに発言を控えています。 資格が無いからではなく、意味が無いからです。 この無意味に泳ぎ続けた釈尊はすばらしいとしか言いようがありません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 分かりました。 いくらでも巻き上げられればよいわけです。わたしの知ったことではありません。どうぞ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ▲(ヰキぺ:波羅蜜) ~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C § 2 意義の変遷 大乗仏教においては・・・極端な言い方をすれば、 人智を超えた境地、二項対立的判断を超越した彼岸に到達すること である。 此岸・彼岸という言葉自体も二項対立的概念であるが、そういう概念自体を超克することをいうのである。 言葉(ロゴス)は二項対立的にできているわけだから、波羅蜜を言葉で説明することは不可能である。しかし『般若経』における仏陀は、言葉で伝える以外ないのだとして繰り返し繰り返し、饒舌と言ってよいくらいこれを説いている。 また宋代に施護によって訳された『仏説五十頌聖般若波羅蜜経』においては、般若波羅蜜と八正道等の実践がひとつだと説かれ、簡潔に仏教の実践項目や倫理が説かれている。 § 3 諸説 § 3.1 六波羅蜜 6.智慧波羅蜜 - 般若(はんにゃ、prajñā プラジュニャー)は、 諸法に通達する智 と 断惑証理する慧。 前五波羅蜜(布施・持戒など)は、この般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに、般若波羅蜜による調御によって成就される。 ・・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここから取り敢えず 次のふたつの説明を取り上げます。 (あ) 人智を超えた境地、二項対立的判断を超越した彼岸に到達すること (い) 諸法に通達する智 と 断惑証理する慧 ☆ (い)は 堂々巡りの定義であって無理でしょうね。 (あ)は どうか? (あ‐a) 人智を超えた境地 これは いわゆる非思考の庭ですね。思考に非ずとして成る庭。つまりまた可知ではなく不可知でもなく 《非知》の場。 つまりは ただしそのような非経験の場に相対しているワタシはすでに 考えるではないけれども しかも――かかわりを持つとするのならば―― それとして経験的な意志行為もともなわれている。と言わねばならない。 これを信じるという言葉で表わす。つまりは 受け容れるという意志行為である。受領証を発行するのは 意志行為である。 そしてその庭にあって人はヒラメキを持つ。ヒラメキが こんどは 《人智》となって得られる。 こういった《信仰(つまり 非思考の庭)》についての理論を 表わしていたなら わたしも降参します。 (あ‐b) 二項対立的判断を超越した彼岸に到達すること ☆ これは どうでしょう? 善悪の彼岸ということですね。聖俗を超えるところ。 これは けっきょく《無明即法性・煩悩即菩提・娑婆即浄土(寂光土)》といった思想に受け継がれているのでしょうか。《本覚思想》としても 起こりましたね。つまりは ブッダターの宿りのことだと思いますが。 つまりは ゴータマは 仏性を説いていませんから。どう見ればよいでしょうか。 この彼岸を 《アン‐アートマン(無我・非我)》として表わし得たと言うべきでしょうか。どうでしょうか? つまりは 色即是空かつ空即是色というかんたんな命題にまとめたかたちの思想を持ち得たでしょうか。 でもいづれにせよ この場合の《彼岸》というのは けっきょく(あ‐a)の《信仰》の庭の問題になるかと考えます。 ゴータマは 六波羅蜜をさとりの中身として知っていたか。どうでしょう?