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無明( 煩悩 )とは 何なのでしょう?

 おしえを乞うにあたり 次の論考を出発点として踏まえたいと考えます。  ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか  http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ そこでは   ▲ さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見した。  ☆ と言います。では   ○ さとりとは この生存欲をどうせよと言っているのでしょうか?  ○ 無明としての《根本的な生存欲》とは 何であって どうせよと言うのでしょう?  納得のいくまで尋ねつづけますので よろしくお願いします。

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回答No.33

こんばんは、bragelonneさん。  ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか  ☆ は読みましたか? 読みやすく解説していますよ。よかったらこれの感想を聞かしてください。 ↑ 解説をちょろっと見ました。読むというほどはまだ読めてはいません。 ちょろっと見たなかで何を思ったかといえば… 【QNo.2797136ほにゃらか形而左右学 影】ANo.8 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2797136.html 『駆け込み訴え』太宰 治 ふみふみと読書しつつ、こちらの問いをあわせて考えてみました。読んでる本のP94~P105(12ぺージ中1ページ挿し絵)に『駆け込み訴え』のお話がありP105ここで主人公の告白があります。主人公自身が自身の名を宣言しています。12ページほどの中に紆余曲折があり、こころの葛藤が、いや、こころの叫びが狂おしいほどに名を求めて止まない。『はないちもんめ』ではないけれど、「名を呼んでおくれと」名を呼ばれる日を夢みその身を焦がし待つ、待つことに疲れたかのように受け身(受動的)ではなしに能動的にその名を自ら高らかに宣言する。性同一性障害からの脱却とも見紛うラストシーン。スポットライトにあたることを避け、影の中にその身を潜めていた思い。心の奥底に押し殺していた思いが封印を解かれたように一気に溢れ出す。影から抜け出て眩い光スポットライトを浴びる。影から抜け出る中で、影の中に押し込め置き去り葬り去った思い。名も無き思いの片割れは心の奥底深く深く沈みゆく。等価交換とも見紛うなりすまし。何かを手に入れる変わりに何かを手放す。手に入れる何かと手放す何かが影の中に同時に存在する。影の中の光。光の中の影。 の、お話みたいだなと。 あっ、そうそう * 長野県に川上村があるそうです。元気なムラとして。レタス村だとか。 ↑ 和歌山県に北山村があるそうです。元気なムラとして。じゃばら村だとか。 http://www.vill.kitayama.wakayama.jp/ へへ 飛び地繋がり~♪ お隣りへ飛んで、大阪府へ 【大阪における地代の実態と変遷】 http://www.vill.kitayama.wakayama.jp/

bragelonne
質問者

お礼

 しかも十字架上の人となって 神の子ならそこから降りて来いと言われても何も出来なかった弱いままのイエスでした。そこで息を引き取って埋葬されたあと 具体的にどういう事態があったのか知りませんが どんでん返しが起こったわけです。  イエスは よみがえったといううわさが流れ これがついぞ絶えなかったというその後の歴史です。ペテロらは うわさを流すも流さないも 自分たちが ぼんくら状態から打って変わって背筋の伸びた人間となったということですから 作為だとか偽善だとかと疑われても 何ともなかったようです。ひとことで言えば  ○ ペテロたちは 浅はかな人間の状態から はっきりとそれぞれ《わたしがわたしである》状態になった。  ○ 《目覚めた》といえば《ブッダ》という言葉じたいがそういう意味であるようです。ちなみに 例のユダはこのように目覚め我れに還ったあと その癒やされた幸福の状態に耐えられず 自死をえらびました。  ○ ぼんくらなペテロらは この世の《光と影》とを超えてしまうという境地に到ってしまった。その境地において この世の善と悪とを超えてしまった。愛情と憎悪とのからみつきを超えてしまった。    ですから 太宰はこのようなイエスの死後に起きたペテロらのどんでん返しのことを知らない。書いていない。  ▲ (太宰) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あの村のマルタ奴(め)の妹のマリヤが、ナルドの香油を一ぱい満たして在る石膏の壺をかかえて饗宴の室にこっそり這入って来て、だしぬけに、その油をあの人の頭にざぶと注いで御足まで濡らしてしまって、・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というマリアの行ないとその心は 変な言い方ですが前祝いをするかのように イエスの復活をたのしみにしているようにもとれます。  では ブッダは どうなのか。十字架に就くというそのことは あたかも《根本的な生存欲から自由になる》ことのようにも思われますが それは措くとしまして。このはりつけの死が――人びとのうわさにおいてに過ぎないことながら――よみがえりを得てしまったというその《生への回転》 これを ブッダは説いているのか? どうなのか? どのようにか? こういう問いです。

bragelonne
質問者

補足

 littlekiss さん お久し振りというのでもないですが こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ じゃばら  ☆ って何ぞやと思ったら そういう柑橘類があるのですか。この歳になって知らなんだったら知らなんだ。  ○ 瀞八丁  ☆ なら子どもの頃から名は聞いていたけれど 北山村はどうもそのさらに上流のようですね。筏下りはおもしろそうです。夏ですし。休みでどこかへ行ったということもなかったから 一度行ったろかな。  ★ 【大阪における地代の実態と変遷】  ☆ これは URL間違いということで ほっとこう。  さて  ★ 『駆け込み訴え』太宰 治  ☆ こういうユダの物語に――言葉はわるいですけれど――喰いつかれるのですか? うーん。――ただし 評言をうかがうと  ★ 何かを手に入れる変わりに何かを手放す。手に入れる何かと手放す何かが影の中に同時に存在する。影の中の光。光の中の影。  ☆ という主題として読まれたとか。そしてこの同じ主題のもとに   ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか  ☆ もあるようだと。  えっとですね。聖書についていろんな読み方が為され ユダについてもいくつかの見方が与えられております。しかもその一つの太宰の読みとしてのこの作品じたいについても いろんな読みが与えられるだろうと思います。  例によって先生ぶった言い方になりますが――そしてそのことで今いろんな評言がみなさんからほかの質問とそのやり取りにおいて為されているようですが―― でも聖書の伝えようとしたことは ほかにあります。とお伝えせざるを得ません。  たとえば太宰が ユダに次のように語らせています。そしてそれらは 間違っていないと考えます。  ▲ 〔弟子の〕ペテロやヤコブたちは、ただ、あなた(* =イエス)について歩いて、何かいいこともあるかと、そればかりを考えているのです。  ▲ ペテロに何が出来ますか。ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴(こけ)の集り、ぞろぞろあの人について歩いて、脊筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、・・・馬鹿な奴らだ。  ☆ このようにユダを除いたほかの弟子たち(このあとからは《ペテロたち》と言います)については まったくこのような状態でした。つまり言いかえると それは イエスが死ぬ前までのことです。ユダが次のように言うとき つまり  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私は天国を信じない。神も信じない。あの人の復活も信じない。なんであの人が、イスラエルの王なものか。馬鹿な弟子どもは、あの人を神の御子だと信じていて、そうして神の国の福音とかいうものを、あの人から伝え聞いては、浅間しくも、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)している。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と語るとき 《ペテロたち》との考えの違いを明らかにしてみましょう。  ▲ 私は天国を信じない。神も信じない。  ☆ ペテロたちは 口でこれを信じると言っていましたが その内実については分かっていませんでした。イエスの死後分かったのです。  ▲ あの人の復活も信じない。  ☆ これは 誰もイエスの生前には分からなかったことです。実際そのことにイエスは触れて言っていましたが 誰も分かりませんでした。  ▲ なんであの人が、イスラエルの王なものか。  ☆ これは そのように王となって自分たちの国イスラエルをローマから解放してくれという願いを持った一般の市民たちの問題でした。  ▲ 馬鹿な弟子どもは、あの人を神の御子だと信じていて、そうして神の国の福音とかいうものを、あの人から伝え聞いては、浅間しくも、欣喜雀躍している。  ☆ これは次の一点を除いてそのとおりだと思います。つまり 《神の御子だと信じていて》も それが《はりつけの死のあと復活につながる》とは夢にも思ってもみなかったという点です。  要するに ユダでなくてもペテロらも ユダヤの王となって政治的に自分たちを解放するという意味での救世主であるとか あるいはそれまでの伝統としてのユダヤ教をあらためて再興するという意味での救世主であるとか そういうふうに思っていたに過ぎなかった。ということは おっしゃるように そのような願いと見立てのもとでは イエスの為すこと語ることにも いろんな尾ひれがついて  ★ 手に入れる何かと手放す何かが影の中に同時に存在する。影の中の光。光の中の影。  ☆ としての世の中の変革が始まろうとしているのかなという程度の解釈だったと思われます。

その他の回答 (37)

noname#117439
noname#117439
回答No.17

オコリザルです。 我はある が、私の立場です。 存在は確固としている。 それに基づき考えると、 ▲ さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見した。  ☆ と言います。では   ○ さとりとは この生存欲をどうせよと言っているのでしょうか?  ○ 無明としての《根本的な生存欲》とは 何であって どうせよと言うのでしょう? 個の生存欲とは「そんなもんありゃしねー」と乱暴にはったりをこいたのがお釈迦様です。 「無」などとこいても、存在は動かしようのがないとの見地からは無になりえない。 問われると無に関していろいろな論理を展開した痕跡がありますが、「我はある」と矛盾するため末法の世たる現在は禍根のみが残滓として残ります。 無の悟りとは方便でありコツみたいなもんです。 存在とは否定しようがない。(否定してしまう人もいるようです) 現実を認めることすらできない人々に、そのような否定とは、「そんなもんありゃしねー」とのたまったのが無の悟りです。 ならば慈悲とはそのような人々を哀れに思う心でしょう。

bragelonne
質問者

補足

 primeape さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  まづ前回のご回答について  ☆☆ (No.2補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて どうなんでしょう  ・ 現実を見よ。  ・ いま・ここに立て。  ・ 過去を必要に応じて現在に寄せ集めて。  ・ いまその現在において・この現在のもとに 未来を捉えよ。  ・ わたしとして。  ・ そしてそれだけではなく わたしが世界としても 世界に向かえ。  ・ 過去を集めて未来に向かう現在の世界と向き合え。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このようにまとめた内容は合っていたでしょうか?  今回は それとつながっているように思いました。  最後の論点が よく分かりませんでした。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  現実を認めることすらできない人々に、そのような否定とは、「そんなもんありゃしねー」とのたまったのが無の悟りです。  ならば慈悲とはそのような人々を哀れに思う心でしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 読みとして お尋ねします。  ○ 《現実を認めることすらできない人々に、そのような〔現実の〕否定とは、「そんなもんありゃしねー」〔――つまり いちいち否定すべき現実など そんなもんありゃしねー という意味でしょうか?――〕とのたまったのが無の悟りです》。  ☆ だとすると これは ニヒリスム=虚無主義ということですね? そういう理解もあったように思うのですが たぶん大勢としては それは誤解だとされていると思います。ニーチェではないですが 二ヒルの奥底から生をとうとびこの娑婆世界に帰ってくるのだというと思います。  ★ ならば慈悲とはそのような人々を哀れに思う心でしょう。  ☆ ううーん。どうもブッディスムというのは 扱いにくいですね。たぶんこういうふうに切った場合には ブッディストの側は 口も聞かなくなるでしょうね。  それにしても ブッディストとの対話は 噛み合いませんね。つまり ここで primeape さんとわたしとで 言わばブッディスムの外側で意見を合わせても 言ってみればしょうがないような感じなんですよね。うまい批判の仕方はないもんですかねぇ。  ★ 無我  ☆ にしても それは 訳語がまづいのであって 《非我》と言わなければいけないし そう言えばいいのだと返す場合もあります。  つまり 我れは無いのではなく ある。ただし問題は と言いますか 重要なことは その我れにあるのではない(我れに非ず)というのが 真意なんだと言うでしょう。  なかなかつかみどころのないウナギのような思想内容です。どうでしょう?

回答No.16

 回答No.15への‘お礼の文’は比較的分かりやすかったです。(と言う事は、これまでは結構理解に苦しんでいたんですよね。白状すると)  若いころ一年間、ご利益信仰の教団に通ったことがありますが、心は晴れず、やめました。今、宗教との接点はマスメディアをとおしてのみです。  それも専門書は難しくて付いてゆけず、入門書的なものとか、テレビの‘心の番組’のようなものばかりです。  そこからは納得できるような事柄にはなかなか出会えません。  一番不満なのは「空」の受け止め方です。(このことをここで取り上げたいというのではありません)  大同小異の‘小’の部分は私は不得意なのでしょう。大雑把な人間なのです。  でも、現代の宗教のあり方に疑問を持っているということでは、同じなのですね。  これからも意見交換、よろしくお願いいたします。  早朝の仕事がキャンセルになって、今から出勤です。  回答へのご意見、ありがとうございました。    

bragelonne
質問者

お礼

 yy8yy8az さん ご回答をありがとうございます。  いつも穏当なご見解を発表される yy8yy8az さん。じつは そういう場合にわたしは つねにいぢわる心が出てくる人間です。  このような面談でない場では 規約もあることですし おとなしくしているのです。猫をかぶっているわけです。  たとえば 次の中道の行き方に対して やじろべえの右の右 左の左へも その相手に応じて 進み行く性格の人間です。  ★★ (No.14) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  一人ひとり、生きていくうえで核(芯)があるのではないでしょうか。その核の位置はそれぞれ違います。性格としては価値観の違いなどに現れるようなことです。  その核に両腕を付けて、やじろべえにします。そのやじろべえが右に左に揺れています。  人の生きる姿はこのやじろべえに例えられます。  その揺れを少なく保つこと、これが一人ひとりの‘中道’ではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もっと言えば やじろべえの支点から降りて 右なり左なりに相手に応じて走り行きます。九十九匹はどうでもよいとして その一匹のために走り行きます。破天荒のスサノヲ無頼漢です。  ここでは猫をかぶっています。    あとでお知りになるよりよいと思って 告白しておきます。  ○ 何でも食べる  ☆ とはこのことです。  この現代日本の社会に対してどうにかしようということでは 同じ方向を向いているのではないでしょうか。

回答No.15

 ‘マーガンディヤー事件’については、コメントのしようがありません。  ブッダはかかわっていないと思うからです。  これが悟れる人の言葉でしょうか。  ブッダを敬い、崇め奉る‘弟子たちの想い’のこもった言葉であると感じます。  未だ悟りの世界に入れない弟子たちの‘想像の産物’ではないでしょうか。  きれいに澄んだ水と、濁った水と、どちらを取るかといえば、躊躇なくきれいに澄んだ水を私は取ります。  bragelonneさんだって、しおれた花ではなく、きれいに咲いている花の前に、立ち止まるでしょう。  敢えて指摘します。    bragelonneさんは、‘理’に走りすぎているのではないでしょうか。  といっても‘理’を軽く見ているわけではありません。  bragelonneさんは「哲学と科学と宗教」について解答をよせ、見事20ポイントを獲得しました。たった一つの回答で、質問者さんを納得させるという離れ業を見せてくれました。  役に立った:1、は私です。  でも、それでも、bragelonneさんには不満を感じます。  二人の溝は、‘理’という川の流れと、‘情’という川の流れという、川の流れの違い。  この流れがいつしか合流したとき、もしかすると悟りの世界を覗くことが出来るかもしれません。  

bragelonne
質問者

お礼

 yy8yy8az さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ○ ブッダは 神ではない。  ☆ という合意のもとにうかがっております。ふつうにブッダの発言〔と伝えられている文章〕について自由に評価してもよいと思います。でも  ★ 未だ悟りの世界に入れない弟子たちの‘想像の産物’ではないでしょうか。  ☆ と きちんとお答えをいただきました。  ということは――聖書のように 信仰の立ち場に立って 文章を文字どおりにとるのではないという見方では必ずしもないようですから―― 経典について これはよし これはだめと おのおのが結論を出して行ってもよいと考えます。むしろそうすべきではないでしょうか?  またむろんそれは 専門の研究者の研究成果を俟ってのことでしょうが それにしても その努力が遅々として進まないというのも 問題ではないでしょうか? ブッディストよ しっかりせよという物言いは まったく正当な言論活動だと考えます。  大同小異と言いますが このような質疑応答の場では 小異について根ほり葉ほり検討するのは これもふつうのことだと思いますが どうでしょう?  ★ 回答へのポイント  ☆ は ひとえに質問者の問い求めの姿勢と境地によると考えます。通じない場合のほうがうんと多いですよ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  二人の溝は、‘理’という川の流れと、‘情’という川の流れという、川の流れの違い。  この流れがいつしか合流したとき、もしかすると悟りの世界を覗くことが出来るかもしれません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 大同小異の大同のほうにも触れていただきましたので 何も言うことはありませんが たとえばこの《理と情との溝》の問題にしましても これは いまの質問としてなら ブッディスムの現状のほうに向けて和解や研究・論考の上での合意を一つひとつ得て行くことが すすむべき道だと考えます。ご存じのくせに!

回答No.14

 「ブディスム=常識論、ではないか?」  凡人の常識に‘ブッダの教えが当てはまる’ので、bragelonneさんは疑問視したくなるのでしょう。  ブッダは‘凡人の常識’ばかりを語ったわけではない事は十分に承知しているのに。  「さも尊い教えであるように説いたのか?」  そのような感情を持つのは弟子たちだと思います。  うぬぼれ心(さも尊い教えであるように諭す)があったなら、‘ブッダ’とはいえない、とbragelonneさんは言うはずです。  「生存欲というとき・・・むさぼりを加味したような欲望・・・?」  ‘常識としての生存の欲求’は‘生きよう’という本能的、あるいは生物的欲求と受け止めて・・、  ‘一段むさぼりを加味したような欲望’は、‘心’が介入しています。中庸を心掛けるなら理性に頼らざるを得ません。  過ぎたるは及ばざるが如し、というのが‘常識的教訓’となります。  「つまり、片寄りを持つことがある。中道の行き方の場合」  一人ひとり、生きていくうえで核(芯)があるのではないでしょうか。その核の位置はそれぞれ違います。性格としては価値観の違いなどに現れるようなことです。  その核に両腕を付けて、やじろべえにします。そのやじろべえが右に左に揺れています。  人の生きる姿はこのやじろべえに例えられます。  その揺れを少なく保つこと、これが一人ひとりの‘中道’ではないでしょうか。  bragelonneさんは‘理性の世界の人’。そう思うと私は‘感性の住人’かも。  理性の世界の人が、理性的質問をし、それに感性の住人が、感性で回答する。  これが私とbragelonneさんとの図式ですね。  例のお坊さんの文章をたまたま読んでいたところに、理と情が取り上げられていたので、‘質問’とは関係ありませんが、一部紹介してみます。( )内は私が加えました。  その二 実質  霊格の表相。大乗仏教の釈尊は大哲人たると共に、大宗教家なりしなり。  華厳および法華経等の教主としての釈尊は、実際哲学(理性)の方面より真理を悟る道を示され、無量寿経は宗教(感情)の教主として宗教の模範を垂れ給へり。  例えば地上のあらゆる生物は天の太陽の光(理)と熱(情)とを被むらざれば生活し得ざる如く、一切衆生は本来仏性を具〔ぐ〕すれども、心霊界の太陽たる無量寿如来の光明を被〔こうむ〕らざれば、霊〔きよ〕き生命と成り、霊き人と成ることを得ざる所以を、教祖自身が無量光如来の光明に充〔みた〕されし御相〔みすがた〕を表し、然〔しか〕して誰人〔たれびと〕もこの光明を獲〔う〕れば、かくのごとき霊き人格と為るを得べしとの範を示し給う。  以下略します。      

bragelonne
質問者

お礼

 yy8yy8az さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  yy8yy8az さん どうもあなたには 次のような具体的な振る舞いのかかわった問題について質問をぶつけてみたくなります。  ☆☆ 【Q:ブッダの美女マーガンディヤー事件】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5121424.html  ☆ 説話として伝承された物語を含むもので 史実かどうか争われているようです。ですが 説話もブッディストの側から編まれたもので 何かいぢのわるい意図があるともあまり思われないもののようでもあります。  ブッダにはほかにいくらも良い話が伝わっていますが このマーガンディヤー事件は取り上げるに足る問題点をはらむと思います。  解決には もちろんとうぜん  ★ 理と情  ☆ のふたつが同時に大事ですね。よろしければ この問いをぶつけられてください。いまの質問では どうも分かっていることをなぞるだけで前へすすまないように感じます。  ほかの質問へ誘導することは規約違反であるそうですから そういう問いがあってその問題点をつき詰めていくと この質問についても道が開けるのではないかとわたしが言っていると受け取ってください。

回答No.13

 最初に戻ります。そのほうが質問への回答がより正確になるかもしれないので。  《根本的な生存欲》=生命=生きようとする力  この‘力=エネルギー’を《根本的な生存欲》と表現したものと受け止めて。  ☆この‘欲’は命ある固体を保つために働いています。(‘固体’を生み出し、保持する力)  ☆だから生命活動に、その‘欲’という力は必須。しかし畢竟、苦楽が伴うもの。  これを、無明としての《根本的な生存欲》とは何か、という問いへの回答としてみましたが、一般的な概念を言ったに過ぎませんでした。  要するに生命活動には必須であるという考えです  その生命の活動を見て、あるいはその世界にいても、心を満たすことが出来ず、他の世界に活路を見出そうとして、「出家」「修行」して、その結果、釈尊は悟りを開いた、ということになっています。  その悟りの境地に達してみると、この肉体を保つための生命活動(欲望)は、一時的な満足を得るようなことはあっても、結局は苦しみの世界を泳いでいるようなものだ、と見えたようです。人間の楽しむ姿さえも‘苦’であると見たとか。  そう見えたからこそ、悟りの世界(心の大いなる安らぎ、とか)を求めようとするならば、この肉体に固執する欲望から離れなければならない、と教えたのです。  だったら生命の維持はどうなるの、ということになってしまいますが、修行者たちはそれを‘必要最大限’という方法で取り組みました。 出来る限り‘欲望’をなくせと。  でも、‘悟りたい’という欲望は何よりも強くなければなりません。  その欲望が生命を維持させたのでしょう。  ただやはり、一般人がこの言葉をまともに受け止めようと、‘四苦八苦’する必要は感じません。  一般には‘中道’なんて考が、取り入れやすいですし、実践もしやすいし、それなりの効果も期待できるのでは。  蛇足ですが・・・  心と体。  一体のようで一体でない?  「私」は筋肉を動かせます。  「私」は心臓や腎臓、肝臓や胃をコントロールできません。  生命活動の大部分?はこの肉体が請け負っています。  でも「私」も影響を与えていないわけではありません。  お腹が減ったと体が心に訴えれば、何か食べて、協力もします。  心の状態が体に反映したりもします。  一体でないようで一体?  bragelonneさんの問題に、上の蛇足が関連していかないか、なんて思索中です。    

bragelonne
質問者

お礼

 今回 yy8yy8az さんが述べておられる内容は おおむねふつうの人びとの知恵であり 一般常識であり 中庸の見解ということではないでしょうか。  ご回答をありがとうございます。  もしそうだとしますと この――さらに《中道》とも言えるかに思いますが その――見解をブッダは さもとうといおしえであるように説いたのか? こういう問いかけになります。  じっさい実はわたしは 前回の質問に  ○ ブッディスム=常識論  ☆ ではないかと問うています。どうでしょう?  ひとつ前のご回答で 次のような問いを持ちました。  ○ 生存欲というとき 常識としての生存の欲求と そしてそれに輪をかけたような一段むさぼりを加味したような欲望とがあるかもしれない。そういう問題であるだろうか?  ☆ 片寄りを取り除くと言えば やはり中庸なり中道の問題になります。  もっとも別の見方もあるかも知れません。  ○ 中庸とちがって 中道とは むしろ右も左も斜めも あらゆる片寄りをも言わば精神の胃袋に飲み込んで ことに処することだろうか?  ☆ つまり一たんとしても一度は 片寄りを持つことがあるわけです。中道の行き方の場合はです。  どうでしょう? こういった見方はかかわってきますか?   ( yy8yy8az さんに丸投げです)。

回答No.12

案外話はかみ合っているかも知れませんね。 >>さて 無明とは何なのでしょう? 私の考える処では、自分自身が分からない事=無明と言う事かと思います。自分自身に恐怖を抱かせているもの、或いはは自分自身に不安を抱かせているものと言う意味です。此処をつかむ事が出来たなら二度と不安にはならない、と言う事になります。何故なら自分の不安の正体が分かるという事になるからです。此処を持って心のざわめき、心自身の葛藤、心の矛盾が解決するからです。 自分自身に疑問を抱かせていたものが自分自身の、もう一つの心、即ち「仏性」と言う事になります。この事、この二つの心の出会いが「悟り」と言う事になります。自分の経験を語っています。「死に対する恐怖症」に14歳に罹って18年間の悪戦苦闘の結果得た答えです。 恐怖症は見たもの(考えたこと)が無くなっても恐怖がとれなくなってしまいます。「一切皆苦」と言う事をそのまま地で生きてゆく体験の事です。生きた心地がしなくなった状態で生きてゆく事になります。死刑囚になって死刑執行の日が今日か、明日かという気分で生きてゆく事を体験する事になります。 32歳の時に在るきっかけで自分自身の自我意識が自分自身の「無意識の意識」と出会うという体験が有りました。それ以後「死の恐怖症」が治ったのです。それ以後は「死」と言うものを考えても怖くなくなりました。死ぬ時はただ受け入れてゆく以外にはないという事が分かりました。 それから約30年の年月が流れてゆこうとしています。様々な体験が有りました、様々な事を学びました。その中で気が付いた事を書いてみます。人間が子供の時には心は一つです。脳の機能が未発達なためです。思春期頃、私の場合には14歳でしたが、悩みが始まりました。私の場合は「死にたくない」という願いの事です。そうしたら、先に書いた「死刑囚」と言う心持になりました。 是は振り返って見た場合に、左脳に在る自我意識に自我意識では解けない問題「永遠」という要素が含まれていたためです。自我意識は「分別」で出来ています。すなわち有限しか理解出来ないという事を意味しています。右脳に在る意識は「永遠」で出来ています。永遠という問題は既に解く事が出来るという事になります。 人間の悩みや苦しみと言う事の理解が私には分かりました。是が人間の心の秘密です。この秘密が分からないで「自分自身の心に自分自身が悩まされています」是が無明と言う事です。自分自身が分からないという意味になります。自分自身を悩ませているものが「何者か?」と言う事が分からないという事が無明と言う事になります。 心が苦しいという事は自分自身を知るという事で完全に解決が出来ます。精神疾患ならば完治出来ます。それは精心疾患を起こしている者と出会うという事です。この事が釈迦の言う処の「絶対の安心」涅槃と言う事になります。此処を持って無明を打破した事になるからです。悟りを得るという事は、自分自身を苦しめていたものが自分自身のもう一つの心(仏性)と言う事を知るという事です。仏性は心も体も全て取り仕切っています。自我意識が下手に手を出そうとした時が人間の障害になっています。 自我意識が単独で、話をしようとする時が「吃音」です。同じに不眠症、対人恐怖、感情障害、書痙など様々な症状が有ります。 自我意識が自分の体を調節しようとした時が自律神経失調症ということになります。体の調節は自分の命の働きに任せて置く事が有効と言う事になります。 自我意識で生きているのか?仏性で生きているのか?はたまた協調して生きているのか?その境目は分かり難いですが、その加減が健常者か障害者かの分かれ道になっています。今の精神医学ではこの事には触れていません。今の医学は現われた表面の「妄想」を相手にしていてその妄想の起きている根本を分かっていません。その妄想に対して有効と思われる薬でしか対抗していません。その根本問題は、2,500年も前に解決が付いています。その弟子たちは大勢いるはずですが手を着けずにいます。不思議な気持ちがしています。 又その事を20年以上も前に、スペリー博士が証明しています。分離脳の研究成果の事です。「右脳に一つの人格がいて、左脳にも一つの人格がいて、その二つの人格は全くの別なものである。」この結論からも導き出されています。心の矛盾は左脳と右脳の矛盾と言う事です。 精神疾患とは右脳と左脳との矛盾と対立の事です。左脳の自我意識が右脳の機能である「仏性、神」或いは宗教心に気が付くという事が無明の打破に相当します。この事に気が付いていないという事は今の段階では「今の医学会は無明のために」精神疾患と言うものを解明できないという事になります。にもかかわらず、国は分からないで治している事になっている事を国家で後押ししています。不思議としか言いようが有りません?

bragelonne
質問者

お礼

 tumaritou1 さん ご回答をありがとうございます。  あなたとわたしとは同じ世代のようですね。  それは措いても このあたりでやっと話がかみ合いました。これまで断続的ながらもう長い時間 文章のやり取りをして来ました。ここでひととおりの結論が得られたと言いますか ひと段落が着いたと言いますか これからまた新しい段階に出るのではないでしょうか。  議論をあらためて起こすとすれば こう問いなおします。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  或るきっかけで自分自身の自我意識が自分自身の「無意識の意識」と出会うという体験が有りました。それ以後「死の恐怖症」が治ったのです。それ以後は「死」と言うものを考えても怖くなくなりました。死ぬ時はただ受け入れてゆく以外にはないという事が分かりました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このとき 次のような内容にかかわりがありますか?  ○ 根本的な生存欲を 欲に任せて前を向いてすすめるのだけれど その向き方があまりにも狭かった。のでその視野を広く取った。それは 欲のむさぼりをいくらか引いた結果であった。  ☆ もしこういうふうであれば 生存欲のもんだいとして無明があるとも考えられます。どうでしょうね?

回答No.11

おはようございます、bragelonneさん。 ●原義からどういうふうに派生したのかとなるとわかりづらいようですが  どうでしょう。 わかりづらいことでしょうから 参考URL おば 【QNo.4199231 ブッダは 神ですか】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4199231.html お札もしくは湿布の如くにペタっと貼っつけてと ゴリゴリの訳もあわせてペタっと ごりやく、ごりやく、どんなやくやねん?! 【古文翻訳装置】 http://honnyaku.okunohosomichi.net/ 今となっては昔のことだが、山陽道美作(岡山県)国に、中山は、高野と申神いらっしゃる。高野をはきち縄、中山は猿丸でいらっしゃる。その神は、年のたびにの姿に、間違いなく生贄を参上させる。人のむすめで容貌がよくて、髪がながくて、色がしろくて、身であるおもしろい様子であって、姿がかわいい様子であるのを、えらびもとめて、参上させた。昔から今にやって来るまで、その祭気がゆるまないのでございます。それに、そこにいる人の女が、生を贄にさしあてられた。親たちは泣き悲しむことが限ない。人の親が子となることは、さきの世間の約束であったので、身分が低い田にも、いいかげんには思うのか。いっそう、数々に魅力的であると、身にもまそれ増り手いいかげんではなく思へども、だからといって、のがれるべ平仮名がれは、なげきながら月日を過するうちに、次第に命港づまるを、親は子とあい見るようなこと、いまがそれほどではないと思ふにつけて、日を数えて、明暮は、ただなけれをのみ泣く。そのような間にあずまの人が、狩という事だけを役として、猪がしにと老いへるものが、けんかしたているているのは、それほどおそろしいものであって、それさえも、どのようにも思ではなく、心にまかせて、殺とりたべることを役とする者が、はなはだしく身の力つよくて、心が激しくて、気味が悪い荒軍人が、自然と出て、がわたりにたちめぐるくらいに、この女の父と母のもとが日記を來に蹴りりか。話をする順番に、女の父がいうよう、「自分、女のまっすぐひとり従者を、こうこうの生が贄にさしあてられ従者を蹴りり。さきの世の中にどのような罪をつくって、この国に生まれてこのような目をみているのでございましょうのか。あの女の子も、「心にもいなくて、意外である死をしてしまううだなあ」と申。とてもしみじみと心を動かされかわいいのでございますである。それにしても、自分の女とも申し上げないだろう、はなはだしくかわいらしい様子に従者である」というと、あずまの人「さてその人は、今は死をお与えになってしまおような人にはいらっしゃる。人は命に増えることない。身のために、神もおそろしい。今回の生贄を出さなくって、そのご令嬢を、自分からに結婚させなさるべきである。死をお与えになるようなことにいらっしゃる。どのようにして、まっすぐ自然にもって差し上げなさっているような女を、目の前に、行きながら生物をするとつくって、きりかわきろげさせては見なさろうか。はなはだしいべき事である。そのような[離れていく]め見なさるようなのも等しい事である。まっすぐその主人を私に預けて下さい」といって、トラせつ。こうして、あずま人が、この女のもとに修行手をみると、容貌、姿は、おもしろい様子である。魅力があることは魅力的である。物が思である姿で、よりふして、手習をすると、涙が、袖のうえでかってねれたりのか。そのような間に、人の様子をのせると、髪を顏にふりなくなるを見ると、髪もねれ、顏も涙にあらわれて、思いっている様子であると、人の來誰は、たくさん気が引ける本当に思である気配がして、すこし横を向いている姿が、真実にかわいい様子であるのか。よそが、気高くて、しなないだろうなしえる、おもしろい様子であることが、田舎者の子というべきではない。あずまは人、これをみると、かわいいことが、言葉では言い表せないほどである。それゆえ、いずれにしても私身がなくなるならなれ。まっすぐこれではってしまおうかと思手、これは女の父と母にいうよう、「思うるさいへる事はお仕えする。もしこの主人の事によってほろびたりしなさるなら、苦しいとお思いになられるべきなのか」とたずねると、このために、みずからは、無駄にもなったらであるように。言うまでもなく苦しくない。生きても、なんともしよう。この祭のきろお召しになるるであるからといって、4目を引めぐらして、いずれにしても、人をなよせ給それ。また、これに自分から従者と、どうか人に気をつけてしらせ給そっという。さて日が比こもっていて、これが女性と気持ちすむことははなはだしい。そのような間に、年比山に使を学習させているイヌで、はなはだしい中に恐ろしいのを、ふたつえり手が、それに、行っている猿丸をとらえて、明暮は、焼く焼くと食をころさせて学習させる。別の[離れていかない]だに、猿丸とイヌとは敵であると、それほどこうだけだろはするなら、猿をみたすならば躍りかかって、たべ殺す事が限ない。さて明暮は、いらない刀えみがきて、刀をとぎ、つるぎを準備しては、まっすぐこの女の主人とことをぐそうにするよう、「ああ、先の世の中にどのような約束をして、命ではって、死に従者を奈良すろうか。そうではあるけれど、かわりと思うと、命は言うまでもなくもったいなくない。まっすぐ区別しこえてしまおうとお思い申し上げるのが、とても心ぼそくて、しみじみと心を動かされる」などというと、女も「真実であって、どのような人のこのようにいらっしゃって、思行き給でか」と、いってしまうづ蹴らないでくれがしにむらを食なんかする物は、このようにいる。自然と、お聞きしろ。確かにし焼くび切って、イヌで濡らそうか」というと、顏を赤くなして、目をしはたたいて、歯をまが白にたべ出して、目より血の涙をながして、真実に意外である顏なくなって、手をするり悲しむけれども、言うまでもなく許さなくって、「自分が、そこはくるがおおくの年比(長年)、人の子どもをたべて、人の種を絶つかわりに、し頭をきって捨てるような事が、ただ今にあるのか。自分の身、そうであるなら(さようなら)、私は馬鹿をろしよ。言うまでもなく苦しくなく」といいながら、そうもいかなくて、首を急に切りなさらない。やがて、この2のイヌ等に追われて、おおくの猿等が、みんなを木のうえに逃のぼって、まどいだ私はぎ、さけび騒ぐと、山も響いて、地もかえってしまうべきである。そのような間に、1人の神が主の神ついて、いうよう、「今日より後は、言うまでもなく言うまでもなくこの生は贄をしないだろう。長くとどめてしまおう。人が馬鹿をろすることは、こいりともこいりねる。命を絶つ事が、今からながくしないだろう。また私をかくしてしまうからといって、これを男いろいろして、また今日の生が贄にあたってしまうの人縁を、りょうがはづらは手段からない。あっやまり手、その人の子は孫をのせるえするえにやって来るまで、私が、護衛となろう。まっすぐ早急に、こいのたびの私命を乞かわきうけろ。とてもかわいい。私をたすけろ」とおっしゃると、宮地方の官僚、神が主よるならばしめ手は、おおくで人たちが、目を覚ますのをなして、みんなを社がうちに入たって、さわぐ私[あれ・足]私手手が、手をするり手、「判断し自然とそのようにお仕えする。まっすぐ神に許して下さい。神もよく仰らるる」というけれども、このあずま人、「それどうか許されないでくれ。人の命をたちころす物であると、きやつに、ものが苦しいそれが知らきらびやかに思うである。私の体があるらしい。まっすぐ殺されようなのが、くるしくなく」といって、言うまでもなく許さない。そのような間に、この猿の首は、きるならばな誰ねると見えると、宮地方の官僚も手もどかわいて、真実にするべきであるのか方ないと、はなはだしい誓言葉等をたてて、祈申手、「今からのちは、このようなこと、言うまでもなく言うまでもなく手段からなく」などと、神もいうと、「そうであるなら(さようなら)もうよろしい。いまから後は、このようなことをなせそれ」と、いいふけるめ手許してしまう。さてそれから後は、すべて、人を生贄にしなくなった。さてその男、家でへり手が、はなはだしく男と女はあい思って、長年のか妻が夫になって、すごした。男はもとから理由存在した人の末がん存在したと、くやしくない様子でお仕えした。それ後は、その国に、猪、鹿を生贄にし従者を蹴るとである。 蹴るとである。ということから…ケルト… 【ケルト民族と日本民族との類同性に関する一考察 ― イキニエをめぐる予察―】 http://www.takamatsu-u.ac.jp/library/06_gakunaisyupan/kiyo/no39/no39takashige.pdf

bragelonne
質問者

補足

 littlekiss さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 【古文翻訳装置】  ☆ などというものあるのですね。ただし  ★ ゴリゴリの訳  ☆ であることを免れないようです。英語などの翻訳装置も同じようですね。まだまだ多くを望めないのでしょうか。  ちょうど《けると》つながりで挙げられた次の論考の中から あらましの部分を引いておきます。  ▲ 【ケルト民族と日本民族との類同性に関する一考察 ― イキニエをめぐる予察―】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『宇治拾遺物語』119「吾妻人生贄をとゞむる事」(巻10,6) は中山神社と高野神(58)社とがあってそれぞれ中山神社は猿,高野神社は蛇を祭神として祭り,毎年の祭りに容姿端正で,髪が長く,色白い娘を生贄に捧げるとこが昔から今に至るまでおこたりなく行なわれていた。  ある人の女がそれに選ばれたので親どもは泣きかなしんでいた。そこへ狩を業とする東国の人がやって来て生贄に出せば死んでしまうのだから自分にこの女をあづけてくれないかと頼み  一計を案じて生贄を入れる長櫃に身代りとなって入り,飼いならした犬を使って猿神を退治し,いまより後はすべて人を生贄にはしないことの誓言を言わせ,その代替として猪・鹿にすることになり,東国の狩人とその女が妻夫となるという物語である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうも参照先の文章を読んでいない場合もあるようですね。あなたがですよ。  ★ 【QNo.4199231 ブッダは 神ですか】  ☆ ではおおげんかをやらかしていますね。もうそのままけんか別れになっていれば こんな古文を読むはめにならなくても済んだのに。へへ。  ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか  ☆ は読みましたか? 読みやすく解説していますよ。よかったらこれの感想を聞かしてください。

回答No.10

こんばんは、bragelonneさん。 『宇治拾遺物語』 吾妻人生贄をとゞむる事[巻一〇・六] 今は昔、山陽道美作國に、中山、高野と申神おはします。高野はきちなは、中山は猿丸にてなんおはする。その神、年ごとの姿に、かならず生贄を奉る。人のむすめのかたちよく、髪がながく、色しろく、身なりをかしげに、姿らうたげなるをぞ、えらびもとめて、奉りける。昔より今にいたるまで、その祭おこたり侍らず。 それに、ある人の女、生贄にさしあてられにけり。親ども泣きかなしむこと限なし。人の親子となることは、さきの世の契りなりければ、あやしきをだにも、おろかにやは思ふ。まして、よろづにめでたければ、身にもまさ増りておろかならず思へども、さりとて、のがるべかなれば、なげきながら月日を過すほどに、やうやう命つゞまるを、親子とあひ見んこと、いまいくばくならずと思ふにつけて、日をかぞへて、明暮は、たゞねをのみ泣く。かゝるほどにあづまの人の、狩といふ事をのみ役として、猪のしゝとおいふものの、腹だちしかりたるは、いとおそろしきものなり、それをだに、なにとも思たらず、心にまかせて、殺とりくふことを役とする者の、いみじう身の力つよく、心たけく、むくつけき荒武者の、おのづから出できて、そのわたりにたちめぐるほどに、この女の父母のもとにき來にけり。 物語するついでに、女の父のいふやう、「おのれ、女のたゞひとり侍をなん、かうかうの生贄にさしあてられ侍けり。さきの世にいかなる罪をつくりて、この國に生まれてかゝる目をみ侍るらん。かの女子も、「心にもあらず、あさましき死をし侍りなんずるかな」と申。いとあはれにかなしう侍る也。さるは、おのれが女とも申さじ、いみじううつくしげに侍なり」といへば、あづまの人「さてその人は、今は死たまひなんずる人にこそはおはすれ。人は命にまさることなし。身のためにこそ、神もおそろしけれ。この度の生贄を出さずして、その女君を、みづからにあづけ給ふべし。死給はんことにこそおはすれ。いかでか、たゞひとりもち奉り給へらん御女を、目の前に、いきながらなますにつくり、きりひろげさせては見給はん。ゆゝしかるべき事也。さるめ見給はんもおなじ事なり。たゞその君を我にあづけ給へ」とて、とらせつ。かくて、あづま人、この女のもとに行てみれば、かたち、すがた、をかしげなり。愛敬めでたし。物思たるすがたにて、よりふして、手習をするに、なみだの、袖のうへにかゝりてぬれたり。かゝる程に、人のけはひのすれば、髪を顏にふりかくるを見れば、髪もぬれ、顏もなみだにあらはれて、思いりたるさまなるに、人の來たれば、いとゞつゝましげに思たるけはひして、すこしそばむきたるすがた、まことにらうたげなり。およそ、けだかく、しなじなしう、をかしげなること、田舎人の子といふべからず。あづま人、これをみるに、かなしきこと、いはんかたなし。されば、いかにもいかにも我身なくならばなれ。たゞこれにかはりなんと思て、此女の父母にいふやう、「思かまふ事こそ侍れ。もしこの君の御事によりてほろびなどし給はば、苦しとやおぼさるべき」と問へば、このために、みづ からは、いたづらにもならばなれ。更に苦しからず。生きても、なににかはし侍らんずる。この御祭の御きよめするなりとて、四目引めぐらして、いかにもいかにも、人なよせ給そ。また、これにみづから侍と、な人にゆめゆめしらせ給そといふ。さて日比こもりゐて、此女房と思ひすむこといみじ。かゝる程に、年比山につかひならはしたる犬の、いみじき中にかしこきを、ふたつえりて、それに、いきたる猿丸をとらへて、明暮は、やくやくと食ころさせてならはす。さらぬだに、猿丸と犬とはかたきなるに、いとかうのみならはせば、猿をみては躍りかゝりて、くひ殺す事限なし。さて明暮は、いらなき太刀えおみがき、刀をとぎ、つるぎをまうけつゝ、たゞこの女の君とことぐさにするやう、「あはれ、先の世にいかなる契をして、御命にかはりて、いたづらになり侍なんとすらん。されど、御かはりと思へば、命は更に惜しからず。 たゞ別きこえなんずと思ひ給ふるが、いと心ぼそく、あはれなる」などいへば、女も「まことに、いかなる人のかくおはして、思ものし給にか」と、いひつゞけそのしゝむらを食などする物は、かくぞある。おのづから、うけたまはれ。たしかにしやくび切りて、犬にかひてん」といへば、顏を赤くなして、目をしばたゝきて、歯をま白にくひ出して、目より血の涙をながして、まことにあさましき顏つきして、手をすりかなしめども、さらにゆるさずして、「おのれが、そこばくのおほくの年比(としごろ)、人の子どもをくひ、人の種を絶つかはりに、しや頭きりて捨てん事、唯今にこそあれ。おのれが身、さらば、我をころせ。更に苦しからず」といひながら、さすがに、首をばとみに切りやらず。さるほどに、この二の犬どもに追はれて、おほくの猿ども、みな木のうへに逃のぼり、まどひだわぎ、さけびのゝしるに、山もひゞきて、地もかへりぬべし。かゝるほどに、一人の神主の神つきて、いふやう、「けふより後、更にさらにこの 生贄をせじ。長くとゞめてん。人をころすこと、こりともこりぬ。命を絶つ事、今よりながくし侍らじ。又 我をかくしつとて、此男とかくし、又けふの生贄にあたりつるの人ゆかりを、れうじはづらはすべからず。あやまりて、その人の子孫のすゑずゑにいたるまで、我、まもりとならん。たゞとくとく、こ のたびの我命を乞ひうけよ。いとかなし。われをたすけよ」とのたまへば、宮司、神主よりはじめて、おほくの人ども、おどろくをなして、みな社のうちに入たちて、さわぐあわてて、手をすりて、「ことわりおのづからさぞ侍る。たゞ御神にゆるし給へ。御神もよくぞ仰らるゝ」といへども、このあづま人、「さな ゆるされそ。人のいのちをたちころす物なれば、きやつに、もののわびしさ知らさんと思ふ也。わが身こそあなれ。たゞ殺されん、くるしからず」といひて、更にゆるさず。かゝるほどに、この猿の首は、きりはなたれぬと見ゆれば、宮司も手もどひして、まことにすべき 方なければ、いみじき誓言どもをたてて、祈申て、「今よりのちは、かゝること、更に更にすべからず」など、神もいへば、「さらばよしよし。いまより後は、かゝることなせそ」と、いひふくめて ゆるしつ。さてそれより後は、すべて、人を 生贄にせずなりにけり。さてその男、家にかへりて、いみじう男女あひ思ひて、年ごろの 妻夫になりて、すぐしけり。男はもとより故ありける人の末んありければ、口惜しからぬ さまにて侍りけり。其後は、その國に、猪、鹿をなん生贄にし 侍けるとぞ。 【副詞的な「あやまりて」についての補足】 http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/7127/1/AN00044342-23-yamamoto.pdf

bragelonne
質問者

お礼

 littlekiss さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  むつかしかったです。  ★ 【副詞的な「あやまりて」についての補足】  ☆ これは辞書にも載っていないですね。なんとなくそういう意味に この語は採れましたけれど。原義からどういうふうに派生したのかとなるとわかりづらいようですが どうでしょう。  本文について 全部は理解が行き届きませんでした。あなたは 読み慣れていらっしゃるのですか?   めでたし めでたしで良かったですね。  あれでしょ? つまり そのさらに昔のこと 弥生時代を終えて古墳時代に入ったころ とうとき人の死に際しては 仕える人びとの多くが殉死したと言います。それで このお話のように生け贄を嫌って その後 墳墓に例の埴輪をつくりこれを飾って 殉死に代えたと聞きます。  この美作の生け贄を捧げさせる神々とは その正体は何だったのでしょう? おそらく人間でしょうね。ではなんでそれだけの力を持って人びとに言うことを聞かせていたのでしょう?  何なんですかねぇ。たとえば天狗といった異者の崇拝が 慣習となっていたのでしょうか? 異者は 神としてあがめたてまつられたでしょうか? わざわいを免れるための御まじないのような習慣でしょうか。  犠牲がひとりだけ出れば あとは息災であるといった思い込みなのか。犠牲を一人だけでいいから出しておけば あとの人びとは気が休まるとでも思いこんだのでしょうか。  そう言えば ブッダは いいこともしていますね。失敗に終わったけれど インドは階級社会だったから このカーストを失くそうとしたのではなかったでしょうか。  犠牲と言えば このような階級の問題ともからむように思われたので。  ▲ 人のむすめのかたちよく、髪がながく、色しろく、身なりをかしげに、姿らうたげなるをぞ、えらびもとめて、奉りける。昔より今にいたるまで、その祭おこたり侍らず。  ☆ 西松建設の献金問題の解決で このような生け贄の祭りもおしまいになるでしょうか。でも国道建設をめぐって どうも裏があるように におうのではないでしょうか。  * 長野県に川上村があるそうです。元気なムラとして。レタス村だとか。

回答No.9

精神疾患は別の問題だと考えますが どうでしょう? >>>一切皆苦と言う言葉が「精神疾患」を顕わしています。健常者はこんな事は言いません。一切皆苦と云う事は、今の生活に満足できなくて「出家」したというのではなくて、「精神疾患」のために今の生活が出来なくなって、医療機関に入院したという風に考えられます。 「精神疾患」と言う事は現在の営みを放棄している=出家に当たると思えるからです。言い方を替えたなら今の生活が出来なくなったという事です。それほど自我意識には「一切皆苦」が意識をされて意識地獄をさまよったと思えます。bragelonneさんには精神疾患の経験が無いために、苦しさが分からないようですので話はかみ合いませんので、話はここまでといたします。

bragelonne
質問者

補足

 tumaritou1 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。何度もわずらわせもうしましたね。  ですが 今回のお答えは どえらい問題発言になるのではないでしょうか? ブッディストの側から見ての話ですが。  ○(α) ゴータマ・ブッダは 精神疾患をわずらう病者であった。ただしその疾患を克服した。完全な治癒を得た。  ☆ とおっしゃっていると受け取るのがふつうになりませんか?  いわく。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  >>>《一切皆苦》と言う言葉が「精神疾患」を顕わしています。健常者はこんな事は言いません。  一切皆苦と云う事は、今の生活に満足できなくて「出家」したというのではなくて、「精神疾患」のために今の生活が出来なくなって、医療機関に入院したという風に考えられます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おそらく 《生老病死の四苦》というように中でも《生の苦》を言うところからでしょうか?  上の(α)で ブッダは――成道したというからには―― 完治したと言ってわたしはおべんちゃらを垂れましたが 実際にはおそらくその後 大乗仏教と呼ばれる運動が起こって 《一切衆生 悉有仏性》と唱えられてからだったのではないでしょうか?   無明=煩悩といういわば《原苦》に代えて(もしくは それと同等のものとして並べるべく) この《仏性》を立てたところからやっと完全治癒が見とおせたのではないでしょうか?  ☆☆ 精神疾患は別の問題だと考えますが どうでしょう?  ☆ という意味は このような《原苦をつねに突き抜けるちからとしての仏性》の問題が・つまり解決法があれば そのあとの別の問題として捉えられるのではないか 精神疾患はという意味ですよ。  案外 話は噛み合っているようですよ。  無理に引きとめるわけではありませんが と言いますか 無理にでも次のようにあなたには考えていただきたいという煩悩の発露としてぎらぎらした欲望を表明するのですが   ○ 精神疾患は 精神のそしてなかんづく意志の未達成の積み重なりとしてその生の時間が停滞している。これをめぐっての心理的な時間複合(コンプレックス)である。(ほかに器質のよる問題があるかも知れません)。  ○ ところが 精神はつねにみどりである。わづかに その心の海の面(おもて)に立つ波風としての心理が灰色である。  ○ ゆえに精神分析は 入門がそのまま卒業なのである。  ○ さもなければ いにしえの人びとは何故わざわざブッダにさからってでも 《仏性》をあらためて説いたのか?  さて 無明とは何なのでしょう?

回答No.8

 とりあえず、一点のみ。  回答No.6・tumaritou1さんへの補足返答、「煩悩とは‘自我意識の悶え’」・・・これくらいのことはひとは誰でも分かっているのでは?  というコメントについて。  「無明」  ‘誰しもが分かっている’とは思えません。  ‘ブッダ’が衆生に教えたから。  我々が、‘ブッダ’から学んだから。  分かったような気になっているのではないでしょうか。  ‘ブッダ’に言われなければ、我々凡夫は‘煩悩の池’でもがいていることに気づかなかったのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 では  ○ 無明とは何なのでしょう?  ☆ 分かれば  ★ ‘煩悩の池’でもがいている  ☆ こともなくなるのか。それとも 無明をそもそも初めに立てるから話はややこしくなるし その煩悩の池も底無しだと見られてしまうのか。あるいは三つ目の見方があるのか。  さてどうでしょう?  * ちなみにわたしは 親鸞は その絶対他力の信仰形態論をもって 答えを与えていると考えています。そのほかの論客は ただ世間の知恵や知識の活用といったところであるように捉えられます。このあたりについて さらにご教授をお願いしたい欲望があります。

bragelonne
質問者

補足

 yy8yy8az さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  まづ細かいところですが 事実問題として誤解が生じないようにとの確認です。  ★ 回答No.6・tumaritou1さんへの補足返答、「煩悩とは‘自我意識の悶え’」・・・これくらいのことはひとは誰でも分かっているのでは?  ☆ これは 《・・・》の箇所に中略がありますので 次のように二つの小主題に分けて捉える必要があります。  順序を逆にして  (1) ☆☆ (No.6補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (お) ★ 「自分は誰なのか?」   ・・・(わたし= bragelonnne も途中を略しますが)・・・  (か) でもその答えは 《いのち》なのでしょう? と言いますか これくらいのことは ひとは誰でも分かっているのではありませんか?  (2) ☆☆ (No.6補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (え) ★ 煩悩とは「自我意識の悶え」と思います。人間の苦しみ、或いは悩みとは「心の矛盾の又の名です」  ☆ ・・・この部分につきましては 取り立てて ブッダが説いたかどうかなどは関係ないと考えます。きわめて普通のことです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうしてお応えも別の意味でふたつに分けて述べるのがいいと考えます。  ( a ) まづ《我々凡夫》にでも《分かっている》もしくは《善い悪いにかかわらず よくあるふつうのことだと捉えている》ことのほうからです。  ・ いのちをさづかって生まれて来ているし 生きている。  ・ 悩んだり 人といさかいを起こしたりもして しかも人生をまとめて捉えるなら 面白可笑しく過ごす。  ・ わたしが何であるかといった問題も問題ではあるが それが分からないからと言って それほどの差し支えがあるとは思わないと人びとは思っている。  ・ むしろ誰かが《無我》と言ってしまったから あとの人びとはこれをめぐってああぢゃこうぢゃと 延々と語り続けているという一面もあるのではないか。  ・ ちなみに 無我説を唱えながら その正反対の《梵我一如》説をも自分の考えとして引き合いに出す場合さえあるようです。  ☆ これらのむしろわるい影響は  ★ 「無明」〔なる煩悩のことを〕‘ブッダ’が衆生に教えたから。  ☆ 出て来たと考えられませんか? つまりそれだけでは詰まらないしいけないと考えたので のちにやっと  ○ 仏性  ☆ という切り札が人びとにとって説かれて来るように成ったのではないですか? でも《無明・煩悩》の前に・それに先行して 《仏性》があるとはっきりきちんと何が何でも徹底的にやかましく言っていなければならない。それでようやく ふつうの思想(生活態度)になる。こう考えますよ。  ( b ) ★ ‘ブッダ’に言われなければ、我々凡夫は‘煩悩の池’でもがいていることに気づかなかったのではないでしょうか。  ☆ をめぐってです。これが別様の主題になるのは ( a )のふつうの生活態度においても 《悩みや諍い》が起こることは誰もが承知しており そのことの解決に腐心しているのも実際だからです。まただから《ブッダのおしえ》が 中身はともあれありがたがられるというものだと考えるからです。  ただしこの問題は 質問が問うそのものでもあります。わたしは 《根本的な生存欲》という解釈を引き合いに出して踏み出そうとしたのですが これについてはあまり進展は見られないようです。  そのつてで述べるなら このやはり無明とは何ぞやの問いとそのブッダの答えについてこそ わたしたちは  ★ 分かったような気になっているのではないでしょうか。  ☆ 二千年もそのような雰囲気に酔っていただけなのではないでしょうか? 今もそうではないでしょうか?  ちなみにたとえば 《原罪》は――と言ってもわたしはこれを死語と認定していますが それでも意味について言うとすれば―― 基本的に《うそ》の問題です。《心のへそ曲がり》です。《自由意志の片寄り》でありその偏りは うそでありへそ曲がりであるなら 《意志による意志みづからへの偽り》ということになります。  すなわち 原罪は死語ですが その生活経験としては続いていると見られます。

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     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

  • 縁起はサーリプッタが説いた?

    縁起をゴータマは説いておらず、 サーリプッタが説いたのでしょうか? 一応、縁起の話をサーリプッタは、アッサジから聞いていますが…。 宮元啓一の「仏教誕生」講談社学術文庫によると 129ページ 「サーリプッタはその後、仏教教団の上首として、仏教を各地に伝えるのに多大の功績を挙げた。また釈尊がごく簡潔にしか説かなかった縁起説をより精密に整備展開するのに熱心であった。ある学者たちはのちにかなり形而上学的となる縁起説の基礎を築いたのはサーリプッタであり、その意味で、仏教は、かなりの程度、サーリプッタ教といっても過言ではないという。現に、ジャイナ教の古い経典で、往年の聖者たちを列挙した『イシバーシヤーイム』によれば、ブッダと呼ばれる多くの聖者たちを率いていたのは、サーリプッタであった。」 185ページ 「縁起説は、釈尊よりも、むしろサーリプッタによって大きく育まれたものらしいことが最近の研究で明らかになりつつあること、縁起説は非常に形而上学的なものに転じていったこと、これらが、ここで縁起説に特に触れない理由である。」 引用ここまで。 それからどうやらジャイナ教のイシバーシヤーイムによると サーリプッタはブッダとも呼ばれたらしいです。 このジャイナ教の経典を私は読んでいません。 ゴータマの代わりに説法もしていたようですが、 ブッダであるサーリプッタの思想とは何だったのでしょうか?

  • ゴータマが生は苦だと言ったのは悪魔の使いである。

     生が苦だと言ったことについて たとえば人間には《根本的な生存欲》があって・あるから これが無明≒煩悩≒渇愛となって どうしても目覚めることを妨げているといった見方もあります。《苦》というのは そういう意味なのだと。  ところが もし道をゆづってそこまでを認めたとしても そのときには 目覚めが けっきょくゴータマの編み出した方法によるしか無いのだということを認めたことにほかなりません。どういうことか?  つまり ひとびとよ この世に生きるには 誰もに難病が俟っている。それを治す薬は わたしが説く目覚め方式によるよりほかに無い。と言ったことになる。  これは ただのマッチポンプ商法にほかならない。蝦蟇の油売りである。まさに 天上天下唯我独尊なる論理のグローバリズムである。  苦を説くゴータマは 悪魔の権化である。なぜなら その《唯一の目覚めの方法》は ついに明らかにならなかった。そのアタマの中は空っぽであった。ゆえに。  足場だけを組んだ。家本体は築けなかった。ゆえに。    《生は 苦なり》の部分を取り外せば まだ ブディズムには多少なりとも 見るべき思想はあるかも知れない。ただし ゴータマは ゼロであるだけでなく マイナスである。百害あって一利無し。ではないか。  これを問います。

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • 無我説と輪廻及び仏の存在

    仏教では万物は縁によって諸要素が仮に結びついて成り立っているに過ぎず、 永久不変の実体は存在しないと説きます。 しかし一方で輪廻も説かれますが、では不変の実体が 無いなら何が輪廻しているのでしょうか? また悟りを開いてブッダになれば輪廻から解脱すると説かれますが、 仏の存在は諸行無常の外にあるのでしょうか? 歴史的人物のゴータマ・シッダールタは何千年も前に亡くなったのに、 釈迦如来と呼ばれて信仰されているというのは、仏は永劫の実体を持っているということでしょうか? まして密教では大日如来がこの宇宙の根本の実体であるとされますが、 大日如来と無我説の関係はどうなるのでしょうか? はたまた浄土宗等では阿弥陀如来や極楽浄土が信仰されていますが、 阿弥陀如来は縁によって生じた仮の存在ではないのでしょうか? この質問に特定の宗派を非難したり、仏教を否定する意図はありません。 純粋なる疑問です。

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • 煩悩

    煩悩 此れから、解脱するには、どうしたら良いと 思いますか? 教えて下さい、お願いします

  • 煩悩(ぼんのう)

    >(国語)ぼんのう ―なう0 3【煩悩】 (三省堂「大辞林 第二版」より) 〔仏〕 人間の身心の苦しみを生みだす精神のはたらき。肉体や心の欲望、他者への怒り、仮の実在への執着など。「三毒」「九十八随眠」「百八煩悩」「八万四千煩悩」などと分類され、これらを仏道の修行によって消滅させることによって悟りを開く。染(ぜん)。漏。結。暴流(ぼる)。使。塵労。随眠。垢。 と有りますが、貴方の煩悩とは何ですか? 教えて下さい、お願いします