- ベストアンサー
廟児溝について 戦前満州に詳しい方
曾祖父のノートに本渓湖近く、南ふん(字が変換できませんでした。すみません)の郊外で"廟児溝"という地名が出てきました。鉄と石炭の採掘が盛んであったそうですが、それ以上の手がかりがつかめません。御存知の方がいらっしゃいましたら、教えて下さい。 また曾祖父(福岡出身の福沢というもの)についても何か知っている事があれば教えて下さい。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
No.1つづきです。 補足を拝見すると、御曾祖父については、 ・大正中期は韓国在住か? 三一運動は大正8(1919)年、以降民族運動つづく。 ・昭和初期の居所はどこか? 韓国? ・本渓、南フンはいつごろか? 材料なし ・本渓、南フンでの身分は? 本渓市南フン勤務としても、所属は本渓湖煤鉄有限公 司か、満洲製鉄本渓支社か?または別途の身分か? *戦時色が濃くなると満鉄が鉱山経営に当たり、 満洲製鉄更に子会社関連会社、更に軍部も絡み輻輳していた。 中国のWebで今回の目的に適う内容が見つかりませんので、 あらためて国内で新聞記事、論評など当たりました。 1.本渓湖煤鉄有限公司 に関して (1)神戸大学附属図書館 新聞記事文庫 製鉄業(13-094) 時事新報 1936.8.26(昭和11) http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00053433&TYPE=HTML_FILE&POS=1 HTMLファイル タブ 大倉系本渓湖煤鉄公司 廟児溝鉄山 と明記。 画像ファイル タブ 新聞記事コピー 2頁あり (2)神戸大学附属図書館 新聞記事文庫 日本(13-028) 中外商業新報 1917.4.30(大正6) http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00482417&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA 在支大倉組之事業 本渓湖煤銕公司 廟児溝鉄山 と明記あり。 現在之職員 日本人百人支那人百三十人あり内主なる諸氏左の如し [図表あり 省略] *図表は名簿と解釈しますが、有無の確認は神戸大学に問い合わせるしかないでしょう。 ただ、御曽祖父が本渓湖に滞在された時期はもっと後の筈ですね。 (3)満州写真館 本渓湖製鉄所 年月不明ですが貴重な写真 http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/071212/seitetu.html *他にも満州の写真が多くあります。 (4)商弁本渓湖煤鉄有限公社写真帖 古書店 http://search.newgenji.co.jp/sgenji/D1/?000106855727/ No.6855727『商弁本渓湖煤鉄有限公社写真帖』商弁本渓湖煤鉄有限公社編・刊/昭和5発行 *人物写真が多くあればよいのですが。 2.本渓湖、廟児溝界隈の鉱山(従って従業員)はどこの管轄か。 http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48612/1/88_1.pdf 16頁 〔鉄鋼〕満洲国期の鉄鋼業は, (1)昭和製鋼所(1918年満鉄鞍山製鉄所として設立, 1933年改組して株式会社昭和製鋼所,1937年満業傘下に編入。鞍山鉄山と撫順,本渓湖, 煙台,北票炭田を結合する), (2)本渓湖煤鉄公司(1910年大倉組・活国政府合弁で発足,1935年大倉組・満洲国政府合弁に 改組,1939年満業傘下に編入。廟児溝鉄山と本渓湖炭田を結合),ならびに(3)東辺道開発 会社(1938年満業の直接投資会社として発足)の3企業体によって担当された。これら3社 は1944年にいたり合併して満洲製鉄株式会社を形成した *昭和14年には廟児溝も含めて満洲製鉄の傘下になっています。 3.満鉄本渓支所および安部姓に関して ・安部なる姓の人物も多く在ることですから、いかほど役に立つか不明ですが、 あくまでも試みとして信頼度の高い資料を当たりました。 本渓に関して安部姓・・・満鉄記事/満鉄本渓支所あり 人文学報 京都大学情報リポジトリー 鞍山日本人鉄鋼技術者たちの留用問題 http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/48489 付表1 b 満洲製鉄職制表(1945年7月職制改革以前) ・安部徹/検定部部長 ・安部常就/勤労部部長 付表1 a 満洲製鉄職制表(1945年8月現在) ・安部常就/勤労部部長 ・246頁2行目の安部邦雄は阿部邦雄/(動力部電気課主任) の誤植 この論文中3名が安部姓です。 1946年4月16日~ 1O月1日において 本渓湖支社に日本人は6,326人でした。廟児溝は登場しません。 *終戦時の解体に伴うロシア、八路軍、国民党入り乱れての、物資の収奪や日本人の 対応など、当時の状況が分ります。 4.中国残留邦人問題・資料 http://home.s01.itscom.net/i-ioriya/index.html 孤児問題に限らず、文献および資料の膨大なリストです。 調査条件を絞らないと手がつけられません。 **直接の情報をご提供できないのが残念ですが、 当時の材料は大方このあたりかと考えます。 キーワードが一つでも増えれば、徐々に絞り込みはできるものです。 あきらめずに、ご健闘を祈ります。 余地としては、 ・「満蒙開拓平和記念館」http://www.manmoukaitaku.com/index.html ・「満鉄会」 http://www.01.246.ne.jp/~mateka/ など、満州にかかわりを持つ人たちのチャネルを対面で辿ることです。
その他の回答 (3)
- yanhua
- ベストアンサー率72% (508/701)
No.1補足です 回答に記載の、 『遼東省本渓県廟児溝鉄鋼初歩調査報告』政務院財政経済委員会 1950-00-01 http://www.ngac.cn/GoogleMaps/Detail.aspx?pkiib=2593 がこのURLからうまく開いたり駄目だったりします。 GoogleEarthを使って、緯度・経度を指定してください。いきなり目的地へ行けます。 政府機関が表示している廟児溝の位置は、およそ、 41°14′45.00″N 123°47′35.68″E です。 GoogleEarthを開いて、 表示→サイドバー→ジャンプタブ そこの枠に 41°14′45.00″N 123°47′35.68″E をこのままコぴーしてください。右の 虫眼鏡 をクリックして一発で廟児溝です。 目的地とその左上一帯はまさに鉱山の様相を呈しています。 左上方の町が本渓市市内です。 同様に、 41°05' 57.48″N 123°44′53.79″E が南フン区です。 機密地帯なのか装っているのか、地図上で淡いマスクをかけてあってややぼやけていますが、 ほぼ問題なく見えます。 昭和初期とのことですので、記事を探してダイジェストできればと存じますが、 時間の問題もあって確約できかねます。 今しばらく締め切らずにおいてくだされば、いかがかと存じます。 ギブアップの場合は連絡差し上げます。 勿論そちらのご都合で締め切るのは一向に構いません。
- yanhua
- ベストアンサー率72% (508/701)
No.1訂正です。 終わりのほうにある以下の4行を無視して下さい。 ☆(5)(6)を併せると、 本溪湖と南フンと廟児溝が 見事に結びつく。 ☆したがって、推論は原点に返り、 材料・関連情報の一番少ない最初の地点が正解となりそうです。 原稿作成中の残骸が残ったものです。 混乱を招いたことと思います、すみませんでした。
- yanhua
- ベストアンサー率72% (508/701)
現地の状況は存じませんが、その時代とテーマについては、 お役に立てることはしたいと思っておりますので、調べてみました。 もっとも、お知りになりたいことや既にお調べになっていることが分りませんので、 ご期待に応えられるかどうか分りません。重複があれば読み捨ててください。 ご質問に記述のある材料だけから着手しましたので、遠回りになりましたが、 他の地点は、目的の場所ではないことの傍証になりますので、 ご参考のため関連事項としてあげておきます。 結論の場所特定の決め手は唯一つ、 中華人民共和国建国直後の政府機関の調査報告です。 本渓市廟児溝なる名称を含む記事はいくらでもあり、 推定はできますが、住所表記がないためそれらの記事からは確定できません。 結論:目的の地は、 [遼寧省本渓市の本渓駅から東約3km南約6km、南フン駅から東約4km北約16km]但し、 当該地点に“廟児溝”なる地名を示す地図や文書は発見できていない。 *ここに確定した根拠は、 中華人民共和国建国直後の“政務院財政経済委員会”の調査報告書に、 調査対象である廟児溝砿山の場所が地図上に明示されている。 確認手順: 1.http://www.ngac.cn/GoogleMaps/Detail.aspx?pkiib=2593 を開くと、『遼東省本渓県廟児溝鉄砿初歩調査報告』が表示される。 2.その文面3行目にある、【形成単位】政務院財政経済委員会 をクリック。 3.地図が表示される。右欄枠内の7番が該当地。 *拡大して位置を確認ください、 左上に本渓市、左下に南フン区があります。 位置等の補足を後述するので、とりあえず読み進んで下さい。 注:中国地域は日本のGoogle地図でも見ることができますが、 地名詳細は百度地図中国Googleを見た方がよい・・・入力は中国語。 ただし、日本のGoogleは地形や航空写真を見られるので有効です。 両方をうまく使い分けてください。 戦時中、日本軍と連携して日本の資本も進出していましたが、 本渓の炭鉄砿山には、大倉財閥が進出しており、Webにも記事が沢山あります。 中国のWebに多いのですが、中国語がおできになれば、廟児溝も含む本渓の 炭鉄砿山と状況を知る上で参考になるでしょう。 関連事項:場所の特定 注:利用した中国地図は“百度”の地図検索(http://map.baidu.com/#) および、“中国古代地名大詞典”他 1.廟児溝はどこか? (1)廟児溝なる地名は中国全土に散在し135箇所検索されるが、旧満州地域では2箇所のみ。 a.遼寧省東港市廟児溝 http://map.baidu.com/#word=%C3%ED%B6%F9%B9%B5&ct=10&bs=024_11 東港市は遼寧半島南面、丹東市の僅かに大連より、北朝鮮国境もさほど遠くない。 廟児溝は市中心部よりより北へいくらか入る、東港市中心部と記述あり。 本渓市の南南東へ直線距離170km見当、列車は丹東へ出て乗換え。 ⇒ここは目的地として無理があると判断。 理由:近辺を地図以外の方法で調べても炭・鉄砿山は見当たらない。 地理的位置や地形的にもそれなりの規模の砿山はなさそうである。 “曾祖父のノートに本渓湖近く”の記述を尊重すると距離が不自然に遠い。 b.遼寧省沈陽市廟児溝 沈陽市の西北西、近辺に本渓湖なる地なし。 周辺は砿山の存在可能性あるも他の積極的材料なし。 ⇒前項に準じて諸事項当たった結果ここも外す。 2.廟児溝の地名はさておいて、 (2)本溪湖と南フン はどこか? c.遼寧省本渓市および本渓湖一帯は如何に。 本溪湖駅 住所:遼寧省本渓市溪湖東路2号 電話:04145836710 駅近辺に本渓湖公園など本渓湖の名称つき地名・施設あるも湖はない。 やや南へ河を渡ると、本渓駅。 駅は“太子河”東岸に接する、他の記事の記述に一致する。 本溪湖 頭注の地名検索では全国でここのみ。 本渓湖駅のほぼ真西の満族自治県に湖があるが名称は観音閣水庫。 湖の由来はここではこだわらないこととする。 本渓市(ほんけい-し)は歴史的に炭・鉄砿山で発展。 ◎Wikipedia 本渓市(ほんけい-し) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%B8%93%E5%B8%82 本渓に関連した砿山の記事山ほどあり。 d.南フンは南[くさかんむり+分]区 として存在する。 本渓駅から鉄道で南へ、南フン駅がある。 中国古代地名大詞典に本渓湖炭砿として記述がある。 ⇒ここは目的地として適格と判断。 (3)あらためて廟児溝とは。 廟児溝なる地名は記述の通り、全国地名検索で135箇所ある。 廟児はそもそも 社・産土神・土地の守り なる意味の一般名詞。 溝もまさに溝・小川・堀・谷間等、更に水の無い堀や地形、などを謂う語であり、 人為的土木要素も許容する。 xx溝なる場所は山地や人の暮らすところにいくらでもありそうな名称である。 実際に地図や地名辞典で検索不可であっても、地図を詳細に見ると驚くほど存在する。 沈陽周辺は標高100水準で盆地の形状、沈陽の南から高度が上がり本溪市にかけて 200~400m、本溪市から南フン区一帯は400~600m。高山ではないが内陸山地である。 本溪市南フン区一帯はに廟児溝なるローカル地名があってもおかしくない。 (4)鉄道:沈陽--蘇家屯--遼陽--本溪-快速24分各停33分-南フン--丹東 ・・・沈丹線(路線距離277km) 北京--本溪 快速11時間16分 大連--本溪 快速5時間46分(南フンは通過) *以上で状況的には場所の見当がついたが、確定する材料に欠ける。 ★ここで決め手が、 (5)1950年と思しき政府関係の調査報告書。 冒頭結論に示した『遼東省本渓県廟児溝鉄鋼初歩調査報告』。 本渓県廟児溝 と 別途地図標示がある唯一の資料。 すなわち、 『遼東省本渓県廟児溝鉄鋼初歩調査報告』政務院財政経済委員会 1950-00-01 http://www.ngac.cn/GoogleMaps/Detail.aspx?pkiib=2593 場所は、右欄に標示されるNo.7が当該調査施設。 (6)最近の記事として、 『中国地質災害と防治学報』季刊1991-01-01年創刊 の2005年第04期に、 『遼寧省本渓南フン鉄砿小廟児溝尾砿庫』の論文(9頁程度?)あり。 http://www.cqvip.com/qk/98314X/200504/20822926.html 梗概によれば、 「本渓南フン選砿工場から選砿後の残渣を廟児溝に運び貯蔵」とあるが、 これは現在の状況らしい。本文で戦時中の状況に触れているかいないか不明。 本文参照できないこともあり、廟児溝の場所は特定できない。 新しい出版物ゆえ閲覧の方法はある。 ・小廟児溝のごとく、小の字がついているので更に確認要す。 ☆(5)(6)を併せると、 本溪湖と南フンと廟児溝が 見事に結びつく。 ☆したがって、推論は原点に返り、 材料・関連情報の一番少ない最初の地点が正解となりそうです。 ************************************* 地図上で見てみよう! 日本語Google地図で"本溪站"検索 1.本溪站(站=鉄道やバスの駅)がある。適当に拡大。 南に下がると304号国道(G304)と沈丹高速が交差、 更に下がって再度交差したところが南フン站。 2.最初の交差から高速道路を北に上がると、本渓南収費站”がある。 そこと先ほどの交差の中間あたり、高速の僅か西に“廟児溝”、表示なし。 3.“廟児溝”の航空写真。 上記2の位置に見当をつけて、Googleの航空写真ボタンを利用。 左上は住宅や事務所でしょうか。鉄道も引き込まれているようです。 露天掘りのようですから、いかにもそれらしくありませんか。 *中国のどのあたりに位置するかは、地図を拡大縮小してください。 ************************************* 最後に、 本渓湖一帯の砿山の当時の状況は、日本の略取に伴う諸問題、とりわけ中国人労働者への 悪辣な労働強要や悪烈な労働環境が問題になっています。 近年も当時の鉱山労働者の聞き取り調査をしており、それらの記事も閲覧できます。 読む身には辛いものがありますが、曽祖父上がいらっしゃった当時の状況を垣間見る ことができます。 但し中国語です。時間があれば翻訳して差し上げたいのですが。
お礼
ありがとうございます! ここまで詳しい資料がいただけるとは思いませんでした。大変参考になります。かなり得るところがありました。 曾祖父(すみません、質問文にミスです。姓は福沢ではなく安部でした)についてですが、朝鮮人との交流や三一運動での苦労などが綴られていましたが、昭和初期までは大きな衝突もなく友好的な付き合いがあったと記されていました。 お気遣いいただきましたので念のため。 改めてありがとうございました。