• 締切済み

神を信じるってどう言う意味?

よく神様を信じている人と話すと、神様を信じて祈れば救われるとか、救われたとか話を聞きますが、どうも納得がいきません。 何故なら、神様を信じていなくても、それなりになる人は多くいますし、信じていても救われない人もいるからです。 まあ、そう言うと、「神を感じた事がないから」なんて事を聞きますがたとえ、何らかの存在や感動、快感、救いを感じたとしても、それが必ず結果に表れる訳でなく「感じた、体験した」だけで終わってしまう場合も在る訳です。 そんな人、何人も見てきました。 そう言う訳で、結果から考えると、神の存在と、救いは、ある意味、別のモノであり、神を信じれば救われると考えるのは変な思い違いなのではないでしょうか? そこで思ったのですが、「神を信じる」ってどう言う意味なのでしょうか?

みんなの回答

回答No.63

 maimaisusさん。  回答番号:No.58です。貴方がお礼欄に書かれるとどうもありがとう、じゃぁねぇ。と椎葉の里から出て行きなさいというみたいな気持ちにさせらます。  はぁ恋愛?真の信仰って多分本当に開悟した大聖者か、神自身しか不可能かもしれませんね。  イエスは“彼らは自らしていることを知らないのです”とか十字架を逃げなかった。  ソクラテスの毒盃は自ら、法というもの、原理というもの、共同体の平和と秩序というものの蹂躙をさけるものであったのでしょうかね。  刺客に斃れた山宣は、国会で“しかし私は寂しくない。背後には大衆の支持があるから”という心境は、これは恋愛ですね。  私の知っている恋愛ですね。  多喜二はどうでしょう。やはりそう思います。  でもですよ、  信仰での恋愛はこの見える世界には見えないことをなによりも現実、真実、実在とする意識ですもの。  だから自分の都合で棄教っていうことはいつもついて廻ります。  信仰が恋愛になるととてもいいと存じます。普通はそれがみな途中なんです。  それを途中ではないかのように自分や人に表示し、そう思いたいのではないでしょうか。  そこらへんから、私たちはmaimaisusさんや哲学のカテで充分に理解を得られないのではないでしょうか?  中学、もう55年も前かな。社会の先生は日本絶対主義時代の明治から昭和の原始的蓄積過程を数時間かけて、授業をし、文学の中で跡付ける作業に入りました。  私は多喜二の発表です。しかし先生は、自分の授業の内容とは違うが、筋は通っている。とか少し意外という評価でした。  私は多喜二を唯物史観のなかでは考えられないという思いでした。  先生と先輩に誘われ、ずぅっとラディカル革新で60年安保も一途に生きましたが、人間は物や理屈や理知知性の次元だけでは片付きませんよね。  無論、感情や情緒や欲望で動き回るものでもないと存じますが。  つまり、そういう物証的なこと以外に何か神とかなんとかあるのではないかという思いは錯覚でしょうか。迷妄でしょうか。  敬愛する下村湖人: 「大いなる道というもの、世にありと思う心は、今だも消えず」というのは日本人の心性かも知れませんね。  湖人は、無論信仰のことに何も触れなかったから、私は惹かれたのです。論語物語もそういう観点が一貫しているようですが、孔子の出自は白川静先生のご本では、一考させられます。  話は一転しますが、私もmaimaisusさんや哲学カテの質問のように、今の精進の道で、尊敬する先達さんに理論と知識を優先させて、質問してきました。二十歳代でしたか。  今、このカテでご質問や応答を拝読すると、当時私の先達さんもずいぶん嫌だったのだろうと、思っています。  道とその性格が異質のような気がします。優劣の問題では在りませんが、信仰の方への質問は哲学での議論の仕方とは異なりましょう。

maimaisus
質問者

お礼

>回答番号:No.58です。貴方がお礼欄に書かれるとどうもありがとう、じゃぁねぇ。と椎葉の里から出て行きなさいというみたいな気持ちにさせらます。 別にそう言う訳ではないのです。 この質問は単に、神がいるのと、神を信じるのは、別のものではないか?と言う質問です。 ですがそう言う風に端的に書くと、何故そう考えたかが伝わらないのでこんな形の、質問回答になってしまっているのですが、そう言う風にとられたのなら、申し訳ございません。 しかし、何ものにもとらわれる事無く、モノを考えようとすると、こんな感じになってしまうのですが・・・。 すいませんほんと。

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  • burahuman
  • ベストアンサー率27% (167/604)
回答No.62

神を信じると言う事はその神をあがめている宗教を批判的に見てはいけない、一切の批判精神を捨て、脳みそを教祖様に預けて自らの意思で考えてはいけないと言う意味かと。 神と言う実体が存在して森羅万象全てを請け負っている、その神は地球の○○地方に存在している。 など具体的な事を考えてはいけないのですよ。 存在するけれどどこにと聞いてはいけない、それは不敬罪に当たる、と考えているのかも知れませんね。

maimaisus
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 あまりと言うか、かなり後ろ向きな考え方と言うことでしょうか。 大切な何かが欠けているって事でしょうかね。

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回答No.61

これが最後の私があなたにする回答です。 考えるためでしょうか?聖書では人々が質問し、それの答えが書いてあります。 神は人間からの愛と奉仕を求め、人間を造ったと答えがありますが、 この答えになぜ?と言われると答えがないのです。 答えに質問しても答えがないということになりますね。 前のメールで答えがないと言ったのは、聖書の答えにではなく、あなたの質問に対してなので、誤解をしないでください。 なぜ神は完璧な人間を造らなかったか?に対しての答えは知りませんが、 なぜ人間を造ったか?の答えは聖書にあります。 聖書以外のことは否定ですか?への返答 聖書が言っている「付け足しをするな」というのは、 聖書の言葉を都合のいいように変えたりすることです。 つまり悪いことなのに、良いことのように偽るな。 聖書にはしてはいけないことが書いてあるので、しなければいいのです。 それ以外のことと質問されると、今の時代にはたくさんそれ以外のことがあります。 もちろん科学は発展してますんで。 悪いことは悪いのでそれらは良いことには変わりませんよね? 昔も今も悪は悪です。 聖書に何が悪いかが書いてあるので読んでください。 今の時代も変わることはありません。 何が良いかも書いてあります。読んでください。 何が罪なのかも書いてあります。

maimaisus
質問者

お礼

どーも、今までお付き合いいただき誠にありがとうございます。 はっきり言います。 善と悪は聖書に書かれているモノとは、明らかに違う形が存在します。 いやいや、そんな話ではなのです。 何と言うか、もっと根本的な話なのです。 私し自身は、神の存在は、居るとも居ないとも考えているので、聖書と言う、一つの例だけで、それが全て的な事を、言われても、他の宗教や、居ないと思っている人の根拠を聞こうとも考えようともしないのは、正しいあり方とは思えないのです。 今までの、他の方の質問回答を読み返していただければ、その事がよく分かると思います。

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回答No.60

私も同じ質問をしたことがあります。 なぜ私たちには”愛”が存在するんでしょう? 人間は神に仕えるために造られました。 神を愛するために造られました。 それこそが人間の使命です。 神は私たちがどう過ちを犯すか、失敗するかもすべて知っています。 それでも人間を愛しているからイエス・キリストを地上に送り、 奇跡を見せ、人々に真実を伝えました。 すべてに理由があります。 愛を知り、主に従い、気づき、反省するために生まれた。 私が真実を知った瞬間の気持ちは、神が私を人間として造り、そこに意味があるから。 すべてに意味がある。 この汚れた世界で真のクリスチャンはますます磨かれる。真の愛に気づく。 そこにも理由がある。 いろいろ書きましたが、結果を言います。 その答えは神にしか知りません。 聖書に書いてないからです。 そして聖書に書いてあること以外の付け足しは罪になります。 私はその質問の答えを探すのをを止めました。 なぜなら聖書に載っていないことを考えても時間の無駄だからです。 聖書をさらに学び、忠実に従うことを決めたから。 今日私の通ってる教会で出会った人は日本に7年間いて、 東京・横浜インターナショナルバプティズム教会で説教をしていて、 日本で真の教会を見つけることは難しいと言っていました。 ぜひ行ってみてください。イヤホンで和訳してくれると言っていたので。

maimaisus
質問者

補足

んー、でもそこ凄く大切な問題だと思いますけどね。 足し算分からないで、九九覚える様なもんでしょ。 聖書では、何故、その答えを書かなかったのでしょうか?それはむしろその答えを考える為とも受け取れるのではないでしょうか? >そして聖書に書いてあること以外の付け足しは罪になります。 と言うのであるならば、それ以外の事はすべて否定ですか? つーか、そもそも、罪ってなんですか?

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回答No.59

数日前に頂いた質問に回答します。 *聖書は人間が書いたもの?? 聖書は神様からの言葉です。 人間が書き、作った本ですが、言葉は人間からのものではなく、神からの言葉です。 神が選ばれし人間を通して書かれたもの。と言ったらいいでしょう。 *聖書の解釈の仕方が人によって違うのはなぜ?? 結局は自分の言葉で解釈しようとしているから。 聖書に「きっと」なんて文字はありません。 すべて正しいからです。 神の言葉を無視し、自分の言葉を理解しようとした時に混乱は起きると思いませんか? 真実は1つです。混乱が起こった時は誰かが間違っています。 その事実を認めたくない人々により混乱が広がります。 そうでしょう? *神様は自己中?? 従うものは天国に招き、逆らい、罪を犯すものは地獄に落とす 自己中だ!と思ったあなたは重要なことを忘れています!!! 聖書を開いてみてください。旧約聖書1-1”初めに、神は天地を創造された。” 自分の造った世界に罪を犯す者はいらないでしょう? 愛を望んでいるのに殺人者は必要ないでしょう? (新)マタイ13.24~30「毒麦」のたとえを読んでみて下さい。 その後にマタイ13.36~43「毒麦」のたとえの説明を読んでください。 あまりにもはっきりと答えがでていますよね? これは私が聖書にそって言う解釈です。神様の言葉をちゃんと理解してくださいね。 頭でイメージしてください。 あなたが畑を持っています。 あなたは果物が好きで、育てることを決めました。 あたなたはすでに育てる前から知っています。 ”すべての果物が完璧に実るわけじゃない” ”腐るのもたくさんあるけど、良いものも取れる” あなたは土を使い、水を使い、太陽光を使い、つまり果物の運命はあなたが持っています。 果物が取れました。 あなたは良い果物は食べましたが、腐った果物は食べずに捨てました。 なぜならあなたが望んでいない果物だったから。 さぁ、あなたの行為を自己中だと言う人がいたら、どう思いますか? あなたの畑はあなたのものです。 人間とこの世界は、神様のものです。

maimaisus
質問者

補足

聖書を読むと、一番初めに、全知全能の神とあると思いますが、その時点で、全知全能なモノであるはずのモノの創った世界に、何故、過ちが存在するのでしょうか? 人間は、全知全能ではないので、創ったものに不完全なモノがあるのは仕方がないことだと思いますが、聖書の中の神が全知全能であるならば最初から、完全な世界を創れば、我々人間も、罪や苦しみが無かったのではないでしょうか。 って事なのですが。実際そうではないので。

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回答No.58

 回答番号:No.56  「何か、変な概念にとらわれているようですね。別に、そう云う視点からだけで物事を考えている訳ではないので、全く、そんな思いにはなりませんよ。」  そうですか。安心しました。  そういう視点だけで・・・  それは結構でした。そんな思いになられる必要はあるわけではなく、そういう思いの見かたがご参考になるかと存じましたもので。  いろいろ再度の質問や詮索があれば、東洋の一哲学の思想の中心を語ることになり、文章では難しいなと危惧しておりました。

maimaisus
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 色々な回答を頂いて思ったのですが、神を信じるって、恋愛見たいな物なのね。って事ですかネ。

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回答No.57

今私は聖書について勉強しています 私の知っている範囲内で回答します 神様の存在と救いは別のモノではありません ”救う”という行為をするのは神様だからです 神を信じれば救われると考えるのは変な思い違いです。あなたの言う通りです 信じているだけじゃ何も起こりません ルカによる福音書(新約聖書)13の24~27を読んでみてください。 『ご主人様、開けてください』 『お前たちがどこの者かしらない』 『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』 『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』 「神様を信じる」人々はいったい何をすればいいんでしょう? 神様の言葉に従えばいいんです。 聖書に書いてあることは神様が言った言葉です 従えばいいんです 殺人をするな 盗みをするな 結婚前にセックスをするな 他にもたくさんあります さあ、何人の人々が従ってないでしょう? 聖書に人を触る前に手を洗えと書いてありました 科学者たちがなぜ手を洗えばいいか?という証拠を見つける前のこと 科学者たちがたくさん勉強して、証拠をみつけ、そして清潔を保つために手を洗いましょう 。と何か証拠がないと人々は信じようとしません 果物の種を食べろ(まだ人間が果物に化学肥料を使う前)と聖書に書いてありました ビタミンCたくさん取れますよね? 体にいいですよね? 神様の言葉・聖書がすべて教えてくれていたのに 人々が神様の作ったルールを破る度に悲劇が起きます ルールに従えば、何も悪いことは起きません たくさんの牧師さんたちはいいます 「神を信じていますか? 信じればあなたたちは救われます!!」 この言葉を言ったのは誰でしょう? 牧師さんたちです。 神様ではありません。 神様は神様の言葉を信じろと言いました。 あなたには見えますか? すでにルールを破っている人々が 信じることは簡単です 実行することが大事なんです 科学的な話になります 科学者は「ビック・バンが発生し中心が渦巻き状になり その渦巻きが回転しながら分裂しそれぞれが惑星なった」 なぜすべての惑星は一方方向に回転してないのでしょう? 例えです。考えて見てください。 宇宙であなたが手裏剣を投げたとしましょう その手裏剣は重力がない宇宙で一方方向に回転します その手裏剣がいきなり逆回転するでしょうか? 不思議なことにいくつかの惑星は逆回転をしています 人間がその証拠を見つけられる日がくるのでしょうか?? 神様はすでに、太陽系は神様が造ったと言っています 猿が先祖という人たちがいます 彼らの父はバクテリアです。 私は神様を信じ、神様のルールに従います 私の父は神様です。 誰が良いこと、悪いことを決め 誰が愛をあなたに教えたか考えて見てください。 長い文章読んで頂きありがとうございます。 聖書はもっと長いです。 なぜなら人生の書だからです。 読んでみてください。 あなたが何でこの地球で生きているかがわかります。

maimaisus
質問者

お礼

結局、聖書も人間が作っているものなので、それをそのまま神のルールと信じると云うのもどうかと思うのですが・・・。 実際、私自身が読むのと、他人が読むのではあまりにも解釈や、受け取り方が違う場合が多々あるように見受けられます。 私の聖書を読んだ感想を云うならば、神様はかなり自己中心的に感じるのですが・・・。私だけでしょうか? 前の回答お礼にも書きましたが、本当の意味で自分を救えるのは自分自身だと私は思いますが、どう思われますか?この意見。 聖書とか読むと尚更そう感じる今日この頃。 回答ありがとうございました。

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回答No.56

 回答番号:No.19の者:哲学の質問って、こういうものなんですね。  映画にとったフィルムを映写している。  その中で自分が存在し行為し、呼吸し、知覚し経験や判断、認識しているという役を行っている。  映画の中のそのmaimaisusさんなる人が、映画を投影し見ているmaimaisusさんのことを知ることができるでしょうか。  maimaisusさんが椅子を作りました。創った椅子がmaimaisusさんを知ることができるでしょうか。  この人生の外(という“ことば”でしかいえませんが)のmaimaisusさんがいなければ映画の中のmaimaisusさんも映らないし、椅子もない。知るという機能は映画の中のmaimaisusさんの働き、機能です。  一定の機関・器官とメディアや原則、そして全映画の状況の中の。それは映画の中でも非常に限られた機能、経験、行為です。  映画の外のmaimaisusさんからみるともう、ずいぶんと低下している機能、経験、行為です。むしろその機能、経験、行為の結果や内容です。機能、経験、行為そのものでもない。映画の中のmaimaisusさんにとっても対象、客体であるに過ぎない結果です。  決して主格や意識ではない。そういうものには過去しかない。映画の外の本当の主格、意識のmaimaisusさんからみるとどうでもいいこと(ちょいと表現ができないが)です。  映画の外のmaimaisusさんは自分を知る必要はない。全てであり、存在であり、自分以外はいない(居る居ないを映画の中のカテゴリーと観念で考える事は不都合です)。  そういう存在はmaimaisusさんであるだけで、全てがあり、知っている。知る機能そのものでもある。ここには現在がある。  全てが永遠の現在。そういうmaimaisusさんと私が友達になった。それでは私はmaimaisusさんを知る必要があるか。実はない。  友達であることで全ては含まれてしまう。  根掘り葉掘り知る必要はない。maimaisusさんは顕現している。  隠していることも秘密もない。顕現していないことはある。  それも友達には隠していない。  友達に根掘り葉掘り聞くなんて失礼であるだけでなく、無用な事。  そんな思いになりませんか?ご自分のことが。

maimaisus
質問者

補足

何か、変な概念にとらわれているようですね。 別に、そう云う視点からだけで物事を考えている訳ではないので、全く、そんな思いにはなりませんよ。

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回答No.55

時空も含めて宇宙が偶然にできた?地球環境が偶然にできた?生命が偶然にできた、人間が猿から進化した?心も精神も理性も感情も肉体の脳から発している? これらすべて、ありえません。 人智を超えたデザイヤー、設計者、創造者、なにものかが存在すると考えるのが、良心も理性も知性ももった人間として当然の考えでしょう。 五井昌久氏や江原啓之氏の書籍を読むことをお薦めします。

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回答No.54

回答します。 そもそも「神を信じて祈る。」ということと、「神を信じて信仰(祈りを含む)を持つ。」というのとではまったく意味が違います。 (1)「神を信じて祈る。」 例えば、日本人を例にして、普段は無神論者、無宗教者=無信仰者の部類に属する方々でも初詣には結構行かれる方がいらっしゃるでしょう? その中には、「付き合いで」とか「正月のイベントだからと」と言う方もいらっしゃると思います。 これは私の憶測でしかしないのですが、それよりも多くの割合の方が、来年の家内安全を願っておられるのではないかと思います。 そうです、人は願いがあるから祈るのです。そもそも宗教の原点はそういうところだと思います。これは人間の本能、本質に近いもので恥じることでも、またそういうことに熱心な人を非難することこそ、人間の本能或いは本質を否定しているに等しいと思います。 それを物語っていたのが今年(2009年)の正月の初詣でした。 2008年年暮れからのリーマンショックによる急激な不況が起こり、普段(通常の正月)は初詣の参拝者もまばらな自宅近くの神社が今年はは長蛇の列だったのです。いったい何事が起きたのかと私も驚きました。どうですか、普段は無神論者、無宗教者=無信仰者の部類に属する方々でも将来に一抹の不安を感じたときは神に願うことを物語っています。こういうときだけ「神を信じて祈る。」誠に身勝手な日本人が多いものだと呆れたました。 普段は他人のことなど考えず、公衆のマナーも無いような人々、そういう身勝手な人達だからこそ、自分達の難を逃ようとするためだけに そういう時だけお参りするのでしょう。 (2)「神を信じて信仰(祈りを含む)を持つ。」 これはその他の宗教全てに共通することです。 ただ単に自分が困った時やその難を避けるためにその時だけ「神を信じて祈る。」のではなく、日ごろから生きるために大切な神や仏の教えを心に留め他人に慈愛を持ち、戒律を守って生活することです。 これは普段忘れがちになり易いことであり、人はそれを怠らぬよう努力して生活していく。これが「信仰」なのです。 そして、「信仰生活」の中で自分が苦難に差し掛かった時や他人が苦難に陥っている時などに「神や仏の御言葉」を勉強し、思い起こすことによって、その場を乗り切れる可能性が極めて高まるのです。 そこに「救い」があるのです。 「信じれば救われる。」といのは、それだけではとても不十分な言い方です。 よく街角でそういって布教活動そている方々がいらっしゃいます。 そういう彼らは、信仰を含めた意味でそうおっしゃっているのでしょうが、一般の人には意味不明で如何わしい言葉にしか聞こえませんよね。 大切なことは「信じ」、「信仰」し、「自分の生活を改める。」ことによって自分の生活の方向性を変えるのです。それは自分の周囲の状況をも大きく変える可能性を秘めています。 人間が生きていく上で一番の弱点は、主に自分が不条理(理不尽)な状況に置かれた時でしょう。こんな時「神」や「仏」の御言葉こそ救いなのです。 信仰が深い、浅いによって「救われる。」「救われない。」は当然あるでしょう。 それは、「神」や「仏」の御言葉に従い生きているかの度合いによるものではないかと思います。 ★神様を信じていなくても、それなりになる人は多くいますし、信じていても救われない人もいるからです。 「神様を信じていなくてもそれなりになる人」とはどういうことでしょうか、あなたから見てそれなりの人でも、その人自身はそうは思ってないか、あなたが知らない大問題を抱えているかもしれませんし、これからの人生どうなるか分かりません。 「それなり」とは金銭的に恵まれることでしょうか。 いくら経済的に恵まれている人でも、先程申し上げた人間の最も弱点である不条理(理不尽)な状況に陥るということは、大抵お金では解決できない問題が殆どです。 そういう時にこそ、人は「神」や「仏」の御言葉が必要なのです。 神様はいらっしゃいます。直ぐそこにいつも。 それに気付くかどうかはあなた自身の問題です。 、

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     § 1 不在と非在  たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった会話があります。  けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。  すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。  ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?  § 2 不在でありうる存在は 《感じる・考える》の対象となる  在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。  さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》ことをもおこなう。  では 《非在》とは 何のことか?  感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?    § 3 《非在》とは 想定である  《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。  世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。  この経験法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。  あるいは ○○さんであって 同時に別の人たる△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。  《非在》という想定は このような居たり居なかったりする経験存在を超えた場としてなのである。  § 4 《非在》という想定が 神のことである  《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?  ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。  ここにもあれば 同時にあそこにもある。  という存在(つまり非存在という別個の場 つまりお化け)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。  § 5 神は 人間やモノについて言う《存在》とは 別個の場として想定されている。すなわち 《考えるや感じる》の対象ではない。  非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。  この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。  出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。考えて分かったというのは この経験世界における思考や想像によって得た補助線――神を理解するための補助線のこと――を言っている。神本体ではあり得ない。  それゆえに・あるいはそれでも 分かったと宣言する人が出て来ても ほかの人においても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから分からないながら ある程度の人数の《賛同者やさらには崇拝者》が出る余地はある)。  § 6 神を受け容れるかどうか。受け容れるというのは 《考える》でもなく《感じる》でもなく 《信じる》と言う。  この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。  ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。  だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。  一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。  すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。  《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。  § 7  信仰とシュウキョウ  《信じる――または わが心なる非思考の庭としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシエとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考したオシエを 信じるという自己矛盾である。  § 8 この神をどうして理解できないのか?

  • 神は完全ではありえないのでは?

     キリスト教等の一部の宗教では、神は完全なる存在と見做されている場合があるようですが、果たして神は完全な存在と言えるのでしょうか?  もしも、完全な存在というものが存在するとしますと、それはその存在のみで自己完結した存在でなければならないと思います。  己のために、何か己以外のものを必要とする様な存在は、完全な存在とは言えないと思います。  ですから、完全な存在は、己以外のものを必要とする事は無い筈です。  又、完全な存在である以上、他の存在に影響されるなどという事も無い筈です。  又、完全な存在が自己完結している以上、己以外の存在に対して敢えて働きかけたり、逆に己以外の存在から何らかの影響を敢えて受けたりする必要はない筈です。  又、必要性の無い事をする存在は、完全な存在とは言えないと思います。  ですから、完全な存在は、己以外の存在に対して何かを働きかける事は無いと思います。  つまり、完全な存在というものが存在したとしますと、それは人間の役に立つ事は一切なく、人間に対して害のある事を行う事も無く、自ら動く事も、人間を含めた他の存在によって、何かの影響を受ける事も無い訳で、只存在しているというだけの存在であり、人間にとっては、何の役にも立たないものの、邪魔になる訳でもない、まるで道端の石ころの様な価値の無い存在という事になると思います。  しかし、キリスト教を始め、多くの宗教においては、神は世界を創造し、人間を始めとする全ての生き物を作り出し、人間を導く存在だとされています。  又、上記のものとは異なる性格を持つ神を信仰している宗教においても、神は人間との間に、何らかの関わりを持っている場合が殆どです。  もし神が完全な存在であるとしますと、神にとって、その様な行為は全く行う必要のない事の筈ですから、不要な事を行っている神は不完全な存在だという事になるのではないかと思います。  この「神は不完全ではないのか?」という命題に、「キリスト教等の『神は完全なる存在』としている宗教」や「その様な宗教から1歩離れた視点から考察している哲学者」は、それぞれ、どの様な考えから、どの様な結論を得ているのでしょうか?  もし、御分かりになるのでしたら、その考えと結論は、どういった立場の何という人物の考えなのかという事も、併せて御教え頂けたら幸いです。

  • 何人も神について語るべきでない。

           ある人の考え。 神についての教えはその一切が無意味であるとゆー。 全ての神学、あらゆる宗教は神について教えるものであり無意味であると。 神は考えて分かるものではないからであると。 神は一つであるとゆー。 イエス・キリストもアラーもイワシノアタマも皆同じであると。 また神は有っても無くても同じであるとゆー。 有る神も無い神も変わりはない、全て同じであると。 すると人間にとって神は存在しないに等しいことになる。 そして神については何を語っても無意味となる。 神については何も語る必要もなくなる。 何人も神について語るべきでないのか。        

  • 私は神ですか?しかし、人間は神ではない。

    馬鹿で、非常識で、アホで、間抜けで、有り得ない・・・そんな質問ですよね?これって。 常識的に言って、1人1人は、生きては死ぬだけの、ただの生物であり、 ただの人間ですよね。 だから、ぶっちゃけ、1人が例え、死のうが、地球上には60億人、日本には1億人もの大勢の人がいるのですから、1人が死んでも、別にどってことないわけです。そりゃ、悲しむ人もいたりしますが。 だから、1人がどんなに頑張ろうとも、政治家になって、総理大臣にでもならない限り、どこぞの社長にでもならない限り、日本や世界へ多大なる影響を与えることは無理なわけです。 その上で、とあるブログをまた発見しました。 また、というのは、一度検索して発見していたブログだからです。 そこには、創造主が貴方、とあります。 つまり、創造主=神は貴方、という意味だと思います。 しかし、常識的に言って、私だって、他人だって、ただの人間であり、神ではありません。 神とは?そりゃ、すごい人で、なんだってできる存在ですよね? つまり、私は神ではないということです。 また、他人だって、神ではないということです。 これらは、常識であり、ほぼ100%合っていると断言できます。 この意見に反対する人達は、ただの馬鹿な、非常識な人々でしょう。 キリスト教など、宗教知りませんが、彼らだって、神=偉大な存在だと捉えていて、人間は神ではないとしています。 以下、引用します。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー http://www.vcafe.jp/harukanaima/blog/entry-16343 神はサイコロで遊びたかった 2013年02月20日 23:35 カテゴリ : 基本的な理解の整理 「神は創造主なので、当然、「確率」というサイコロを創造できました。 そしてサイコロで遊べる世界、「確率の世界」も創造できました。 さらに神の壮大なところは、確率の世界をもっと楽しめるように、 神であることを忘れた自分までをも創ったことです。 「地球次元」、あるいは「人間」という体験は、こうして創造されました。 『創造主であることを忘れた創造主』、それがあなたです。 あなたは神、創造主の一つの視点を担っている存在です。 あなたは本来、無限に広大な存在です。 ですが、いまそれを忘れているのは「神の計画」によるものなのです。 「自分をもっと体験したい」という神の衝動によって、 自分が神であることを忘れたあなたが創られたのです。 すべてを忘れれば、すべてのものが初めて触れるものになります。 すべての体験が新鮮なまま、深く、詳細に味わえます。 神であることを、創造を、深く体験するためには、 神を、創造を、新鮮な驚きをもって深くつぶさに味わうためには、 神である自分を忘れる=「神ではない自分」、 創造を忘れる=「創造できない」 という体験が必要になります。 その体験をより強烈なものにしてくれるツールが、 「確率」という機能だったのです。 確率に翻弄されれば、 自らが創造主であることなど想像すらできなくなります。 確率に翻弄されるなど、 もっとも創造主らしからぬ振る舞いです。 どんなものでも思いのままに創造できる創造主にとって、 これほど楽しめる体験は他にありません。 神の計画ですから、当然、完璧に成功しました。 あなたは自らの無限の広大さを完全に忘れ、 「確率」というシステムは完璧に作動し、 確率に振り回される世界とあなたが完璧に創造されました。 あなたは神の計画に見事に協力してきたのです。 神は『「確率」という体験』を創造しましたが、 神自身は確率に振り回されることはありません。 なぜなら、 創造主は自分の創造したものに支配されることはできないからです。 「確率」は、創造主である神の計画によって、 その計画の通りに寸分違わず創造されたものです。 『神はサイコロを振らない(アインシュタインの言葉)』のです。 しかしながら、この地球次元の体験から確率性が排除できないのは、 単にそのようにデザインされているからです。 そもそも「位置(”ここ”、”そこ”)」や 「運動(”ここ”から”そこ”への移行)」 「時間("このとき”、”そのとき”)」という、 二元性の世界に特有の相対的な現象自体が、創造された幻想なのです。 (さらに言えば、 「現象」という概念も、また「概念」も相対的な性質のものですが。) そして、 それらの現象の現われ方にも様々なバリエーションがあるので、 地球次元的な「位置」や「運動」、「時間」の実現のために、 「確率」という機能をこの次元に組み込んでいるのです。 すべては、『自分が創造主であることを忘れる』という体験を 可能にするためのデザインなのです。 『自分が創造主であることを忘れる』という体験の次元においてのみ、 「確率」が効果を発揮する、 『量子の不確定性(「不確定性原理」:量子物理学上の理論)』 という体験が可能となります。 ですから、 『量子の不確定性』も『神はサイコロを振らない』も、矛盾し合う概念ではなく、 それぞれ 『「確率」がその効果を発揮する次元』と『「確率」を創造した次元』 を説明しているのであり、 それぞれが認識している次元、解明しようとしている次元が 異なるだけなのです。 つまり、 どちらの考え方も成立する、言わば”正しい”ということです。」

  • 神様は存在しますか?

    まず、私の考えをいいますと・・・ 神様は存在しないだろうと思っています。 これに対して、いや、違うというお考えがあれば教えてください。 神様が存在するという証拠も、存在しないという証拠もない。 だから厳密にはどちらとも言うことはできない。 でも、存在しそうか、しなそうかということは考えることができる。 存在しなそうという根拠は 1)宗教で考えられている神様は、民族によって内容がバラバラである。これを統一的に考えるのは困難。これらの宗教のうちどれか1つの神様が正しいということを考えることも難しい。どちらかと言うと宗教は衰退しているようにみえる。ヨーロッパやアメリカでのキリスト教信者の減少など。 2)神様が存在するなら、その神様をつくったのは誰か?どうやってつくったのか?という問題が発生する。それに対し、神様はもともと存在したのだという意見も聞くけど、私は納得できない。やはり、最初に誰か(何か)がつくらないと存在できない気がする。 神様説に対する反論として・・・ 神様が存在する根拠として世界があまりにもすばらしくできていて神様なしには考えられないというのがあります。インテリジェント・デザインとか。 1)たしかに生物の体はほんとうによくできていると思います。でも誰かがデザインしたにしては無駄が多い。痕跡器官など。これらは生物進化の結果だと思います。 2)地球は人間が住みやすい環境です。これは偶然で説明できるのか?という意見があります。それに対しては人間原理で考えることができます。つまり地球の環境がうまくできているのは、もしうまくできていなかったら人間が存在できない。つまり、「当たり」の環境にしか人間は存在できないので、なんで「当たり」しかないのだろうね、不思議だね。という話になるということ。 「神様を信じるとしあわせになる。だから神様を信じる」というのは、ありだと思います。 ただ、「信じるとしあわせになるから、神様は存在する」というのは論理的につながっていないと思います。 念のために申しますと信仰は各人が選択するもので、そこに立ち入るつもりはありません。神様の存在について客観的なお話を聞きたいだけです。 論理的に神様が存在しそうという考えがありましたら教えてください。 以下、余談になります。 神様の存在を信じている人と議論して不満に思うのは、神様はいないだろうというと、「君は神様が存在しないということを信仰しているのだ」と言われてしまうことです。つまり「君も自分も信仰の方向が違うだけで信仰しているのは同じなのだ」という相対的なあつかいに持ち込まれてしまうのです。 私としては神様が存在する証拠や根拠が納得できれば、神様が存在するほうに考えを変えるつもりなのですが、やはりこれも信仰なのかな?と。 私が「妖精は存在しない」と言ったら誰も「君は妖精が存在しないという信仰を持っているのだ」とは言わないですよね。もし、神様と妖精はどこが違うのでしょうね。もしよかったらこの点もお教えください。

  • なぜ神は、助けてくれないのですか?

    現在、各地で起こる内戦・戦争で、流れてはいけない血が流れ、そして貧困などの理由で、病気、餓えなで産まれながらも、死んでしまう子ども達。 なぜ、この様な事が起きていも神と呼ばれる存在は助けてくれないのでしょうか? 人間の行く末を見守っているだけなのでしょうか? 仮に神と呼ばれる存在が居たとするのなら、何様のつもりなのでしょう? という訳で私は、神は、いないと言う結論に出たのですが、皆さんはどう思いますか?

  • 《神は有る》のみや《神は無い》のみはアホバカ教

     神は 《神は有る》なる表現も《神は無い》なる表現をも 許容する。  どちらか一つに定まったとしたら それはどちらにしても 人間が勝手にそのように神を規定し創ったに過ぎない。  あるいはつまり その人間たる人が 神は何であるかが分かったと言っていることになる。  つまりは その人は神になったか もしくは神と同等の存在になったことを意味する。  あり得ない。  あり得るのは 神をその人の人間という見方に引き下ろして来たというだけである。  《かみ》は 言葉でもあるから いかようにも想像し作文することが出来る。  《神は存在する。これを信じないのはバカだ》派も《神などはいない。いるというのは阿呆だ》派もいづれも ひとしくアホバカ教である。  人間が神になったつもりでいる。  なんで神の心が人間に分かるのか。  という問いです。