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神を信じるってどう言う意味?

よく神様を信じている人と話すと、神様を信じて祈れば救われるとか、救われたとか話を聞きますが、どうも納得がいきません。 何故なら、神様を信じていなくても、それなりになる人は多くいますし、信じていても救われない人もいるからです。 まあ、そう言うと、「神を感じた事がないから」なんて事を聞きますがたとえ、何らかの存在や感動、快感、救いを感じたとしても、それが必ず結果に表れる訳でなく「感じた、体験した」だけで終わってしまう場合も在る訳です。 そんな人、何人も見てきました。 そう言う訳で、結果から考えると、神の存在と、救いは、ある意味、別のモノであり、神を信じれば救われると考えるのは変な思い違いなのではないでしょうか? そこで思ったのですが、「神を信じる」ってどう言う意味なのでしょうか?

みんなの回答

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.33

 例えば、目の前に猫がいたとして、それを見て「私は猫がいることを信じる」とは言いませんよね。信じるも何もなく、単にそこにいることを「知っている」のですから。  そういう意味で、「信じる」というのは、「神がいるかどうかわからないけど信じたい」という個人の希望、都合を表しているのです。  もし仮に真の神がいたとして、自分の都合で「信じる」とか「信じない」とか言う人間がいたら、「勝手なやつだ」と思うでしょう。  そういう意味で、「信じる」と言っている人は、「信じない」と言っている人と同じレベルです。傲慢であると言う意味において。

maimaisus
質問者

お礼

その意見に関して言えば、どう意見です。 分からないことや、見えないものの方が多いこの世界で、神は存在しないと言い切る事と、誰もがはっきりと存在を確認ないものを在るから信じると言い切る事。 どちらも確かに、傲慢に感じます。 回答ありがとうございました。

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noname#132831
noname#132831
回答No.32

 No.20です。「信じる者は救われる」というのは、頭で信じる者ではなく、心から信じる者が救われるという意味です。どんな状況に置かれても「自分は幸せ者だ!」とか「希望はある!」と心から信じている限りはその通りなんでしょう。「救いはある!」と信じていればこそ希望の光が見えるのです。まぁ、後になって『神も仏も無いもんだ』と落ち込むかも知れませんが、それはまた別の話。宗教というものは、どの宗教でも心から信じることを要求します。頭で信じてもご利益はないのです。  信じていればこそhttp://www4.plala.or.jp/k-k/komoku011.htmlマイナスをプラスに転換できるのでしょう。この類と一緒だと思います、ハイ。

maimaisus
質問者

お礼

再度、回答ありがとうございます。 なるほど、そう言う事で在るならば、信じる対象は、神でなくてもいい訳ですね。  本来、信じる信じないは個人の勝手なのに、心からを要求すると言う部分は宗教というものの必要悪みたいなものなんでしょうかね。

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  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.31

それじゃ聞くけど正しい信仰とはなんですか? 新約聖書に教会に行きなさいとは書いてないよ。 信仰とは神様と信じる人の間の契約ですから他人にはわかりません。 聖書には信じれば救われると書いてます、そのほかの条件をいれてしますとキリストが十字架にかかり私たちの罪を取り除くという事は意味はなくなりますよ。あなたのキリスト教に関する知識を取り除き御言葉に目を向けてください。 聖書は神は一人子を給うほどにこの世を愛してくださった。それは、御子を信じるものが一人も滅びないで、永遠のいのちを持つためである。 信じ方については書いてないですよね。だからあなたが信じたといえばそれが神様との契約です。もし条件をつけたら条件をクリアしたひとしか救われないと言う事になり上の御言葉とは反しますよ。 だから正しい信仰もなく 正しくない信仰もありません。もし間違っているなと思うなら悔い改める事が出来る。もう一度父の元に戻ろうと言えるのが正しい信仰です。 意味理解できますか?自分から見て判断するのではなく神様の立場から見て判断するの、だから教会に行きとなりの人がどのような信仰があるのかわかりません。しかし御言葉に目をとめているなら信仰があるのです。 信仰は神様と歩む事、だから正しいとか間違いとかもありません。 もし私の信仰が間違いだというならあなたが裁く権限あるの?あなたも裁かれる立場にあるはずだよ。 日本人悪い考えだよね。信仰とはいかにあるべきか?こうしなければいけない。○○してはいけない。永遠に感謝できないよ。もっと自由になりましょう。 >感じた、体験しただけで終わってしまう場合も在る訳です。 それでもいいよ。それがその方の信仰です。それでとめても問題はありません、その方の信仰の問題です。 聖書から学びましょうか?  12年もの間、病気が治らず、医者に全財産を使い果たしたが、誰からも治してもらえない女性は、イエスのことを聞き、信じました。このお方が私を治してくれる、と。そしてイエスの後ろから、そっとその服の端に触りました。「この方の服の房にでも触れれば必ずいやされる」と信じて。 彼女から見れば そこで人目を忍んで、後ろからこっそりと。しかし、縋(すが)る思いでイエスに触れた そしてイエスは言われた 娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。 このお方に触れさえすれば、かならず癒される、そう信じた。このお方にと信頼して触れた信仰。でも素晴らしい信仰であったかどうか、大きな揺るがない信頼であったかどうかは疑問です。もう他に頼れるものが無かっただけかも知れない。私たちにはわかりません ただどんなに小さな信仰・信頼であろうとも、からし種一粒ほどでもあれば、主は働いてくださる。と信じること これが本当の信仰です。

maimaisus
質問者

お礼

正直なとこ、私自身は神に関して言えば、存在しているとも、存在いないとも思っています。 神を信じない、人の意見にこんな理屈があります。 もし、本当に聖書に書いてあるような全知全能の神がいたとして、何故、最初から人間を苦しまないよう、間違いを起こさぬように創らなかったのか。 初めからそうであるならば、誰も苦しまず、今よりも遥に栄えた世界があるはずだ。 最初に、その考え方を聞いた時、成程ねって思いました。 それは、逆に神が存在すると考えれば、聖書の内容を読んだまま受け取ってはいけないと思ったからです。 出だしから、矛盾だらけだしね。 それにね、本当に、何も考えず、心で神を感じるのが信教ならば、聖書なんて必要ないでしょ。むしろ、邪魔な知識ではないでしょうかネ。 なのにあなたは、何故か、聖書までまんま信じているご様子。 本当の信教の在り方とは、心と体で、感じ考える事が本来の、姿勢らしいです。 あくまで、私の個人的な意見ではなく、この質問を通して得られた、私なりの回答ですが。

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  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.30

ごめん一つにして書けばよかった まるで、恋愛している時のような感じの、回答ありがとうございました。でも、それって、趣味ですよね。感覚味わうための。 趣味じゃないよ。信仰は頭で理解するんじゃないの、心ですよ。 心に植えつけられた御言葉を行いなさい。御言葉には魂を救う力があると言う言葉がありましたか。 信じるというのは信じると言う事、ある方は聖書の言葉であり、ある方はキリストと言う存在を信じ、ある方は教会を通し、ある方は賛美、祈りと色々ありますね~ 信仰と言うのは内に向かう聖書を通して自分を見ると言う方と 聖書に書いてある事を行うと言うタイプの2通りありますね。 まあキリストを信じれば救う。ここには条件がないので信じれば救われているんです。 あなたと神様の関係で聖書につながっているなら信じているという感じ。 ほんの少しでも信じているなら信じてます。完全に信じなければならないなんてありませんからね。後はその人の信仰の深さでその人が決める事になりますか?だからどのような状態で救われたのか? 多く許された者は多く愛すると言う事になります。

maimaisus
質問者

お礼

この質問は、神がいる事を前提になっている事にお気付きでしょうか。 その上で、どう言う形で神を信ずる事が正しいのかを問うのがこの質問の主題です。 katyan1234さんには申し訳ないですが、あなたの言っている事は、本来の正しい信教の形ではではないようです。 回答ありがとうございました。

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  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.29

聖書読めば読むほど、人間が望む神と、本来のそれとはかけ離れて思えるのは、僕だけでしょうかね。 まあ普通聖書知らない時に考える神様という知識はは私たちの希望をかなえてくれる神様で、神様に祈ってたらかなえられる。しかしよく考えたらその考えは私たちの奴隷になっています。 ところであなたはどんな神様だと思ってました?私は神なんて信じてどうなるの?馬鹿じゃない、毎週教会ばっかり行って馬鹿じゃないかと思ってた。 >内に存在している・・・って事は、神の存在も救いも自分次第って言うことですかね 信仰のある方の表現ですね。だって信じると言うのはあくまで自分の心だからね。信じてなく祈っても何もおこりません。 だから時々教会に行っても信じることが出来ないですよ~と言う方がいます。本当に信じたいなら神様の言葉聖書に目を向ける事になるかな~ 聖書を読んでいると言う事は信じないと言う方は聖書を読みません。 あなたの心の中にあるものが求めているんだと私たちは考えてます。 まだ理解はできていなくても 後はあなたの選択かな~ 信仰は求める。つまり心の中にある神様を呼ぶというのかな~

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  • em9845
  • ベストアンサー率33% (2/6)
回答No.28

聖書を読んでいて「信じる」という言葉は二種類の適応あるということを最近知りました。具体的には客観的に「信じる」ということと、主観的に「中へと信じる」(英語はbelieve into)という二種類の使い分けがあることを知って、わたしも「なるほど」と思ったので、参考までに抜粋を記載します。 以下は私が最近読んでいる、オンライン聖書回復訳(http://www.recoveryversion.jp/)の抜粋です。 ヨハネ3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、世の人を愛された.それは、彼の*2中へと信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つためである。 3章16節 フットノート2 主の中へと信じるとは、彼を信じること(ヨハネ6:30)とは異なります。彼を信じるとは、彼が真実であり、実際であると信じることです。しかし彼の中へと信じるとは、彼を受け入れて、彼と一つに結び付けられることです。前者は客観的に事実を認識することであり、後者は主観的に命を受け入れることです。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=43_3_16_0_2 ヨハネ6:29 イエスは答えて言われた、「神が遣わされた者の*1中へと信じること、これが神のわざである」。 6章29節 フットノート1 主の神に対する観念は、人が彼の中へと信じること、すなわち、彼を命また命の供給として受け入れることです。これが命の木の原則です。命の木は、創世記第2章に見られるように、命をもたらします。これは、死をもたらす知識の木の原則と正反対です。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=43_6_29_0_1 ヨハネ6:30 彼らは言った、「わたしたちが見てあなたを信じるために、あなたはどんなしるしを行なわれるのですか? どんなわざを行なわれるのですか? 1コリント2:9 このように書かれているとおりです、「目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かんだことのないものを、神はご自身を*3愛する者たちのために備えてくださった」。 2章9節 フットノート3 神がわたしたちのために定め、備えられた深く隠された事柄を認識し、それにあずかるために、わたしたちは彼を信じるだけでなく、彼を愛することが必要です。神を畏れ、神を礼拝し、神を信じる(すなわち神を受け入れる)ことだけでは不十分です。彼を愛することが、不可欠の条件です。神を愛するとは、わたしたちの全存在―霊、魂、体を、心、魂、思い、力と共に(マルコ12:30)―完全に彼の上に置くことです。これは、わたしたちの全存在を彼に占有していただき、わたしたちが彼の中で失われることです。その結果、彼がわたしたちのすべてとなられ、わたしたちは日常生活の中で、実際的に彼と一になります。このようにして、わたしたちは神と最も近く、最も親密な交わりを持ちます。そして、わたしたちは神のみこころの中に入って、心の秘密をすべて理解することができます(詩73:25.25:14)。こうして、神のこれらの深く隠された事柄を認識し、経験し、享受し、十分にあずかるのです。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=46_2_9_0_3 人の霊、魂、体については下記リンク参照 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=52_5_23_0_5 http://www.church-in-suzuka.com/suzuka_mystery_of_human_life.html 結論として、「神を信じる」ことを通して救われるためには、救いである存在を受け入れる必要があるということなんだと、理解しました。病人が癒されるためには薬を飲ま(受け入れ)なくてはならず、薬を飲むためにはそれを処方した医師を信じなければならない。聖書ではこの薬も医師も「神」という存在であり、医師(神)の言うことを信じて、薬(神)を受け入れるという事ではないかと理解しました。 あくまで、わたしの理解ですので参考までに。

maimaisus
質問者

お礼

救いである存在を受け入れることが、信じる事の意味だとお考えなのですね。 回答ありがとうございました。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.27

>内に存在している・・・って事は、神の存在も救いも自分次第って言うことですかね。 キリスト教は「神にゆだねる」ということをモットーとする他力救済なですね。 それに対して仏教は自力救済。 アリストテレスの師匠であるプラトンは、人間はイデア界(普遍・完全な世界)にもともといたとしたんですね。 ところが肉体という有限の属性の殻に閉じ込められたため、限界者となり苦痛を感じるようになったと考えた。 それで、元のイデア界を知りえる人の言うことに従っていれば、イデア界を知る能力が無いものでも、間違いを犯さないようになる って考えたんです。 プラトンの考えは、キリスト教にひきつがれ、教皇を頂点とするイデア界を知りえるとされる聖職者の言う通りにしていさえすれば、幸福になれるって信者に言ったんです。 プラトンの弟子のアリストテレスは、一部の人のみがイデア界を知りえるのではなく、誰でも可能だって考えた。 両極端は結局人に苦痛を与えるので、その中間がよろしい とした。 例えば食べることは幸福感を増しますが、食べ<過ぎる>と腹痛起こしますよね。 例えば、勇気が無いために、物を取られても黙っているしかなく、不自由な生活をするのなら、自分がいくじなしのせいで不幸になるわけです。 そういう勇気が不足な人は、勇気を出せばいいわけです。 あまりにも勇気がありすぎた人が、独裁者に立ち向かうとどうなるか。 勇気があるのではなく無謀も不幸を産む。 竜巻に喧嘩売っているようなもので、過剰な勇気のために殺されたり、戦って圧倒的戦力で負けて土地を奪われるのなら、少し抑える。 過剰と不足が不幸の発生原因だとしたのがアリストテレス。 過剰と不足の中間をアリストテレスは中庸とした。 人の美・アレテー・徳であるとした。 >なんか、仏教的な部分を感じさせる考えかたですね。 ぴんぽーん! http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BA%B8 『仏教の中道と通じる面があるとも言われるが、仏教学者によれば違う概念であるという。』 んーー 中道ねぇ・・・ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%81%93 『たとえば、厳しい苦行やそれと反対の快楽主義に走ることなく、目的にかなった適正な修行方法をとることなどが中道である。』 まっ 要するに過剰すぎたり不足すぎるのは、精神上もよろしくないってことですね。 で、、、、智恵のことが<神>という記号で語られている古代文書を理解せず直訳してしまうと、あらぬ方向に青い鳥を探すことになる。 灯台元暗し。 なんだぁ 自分の中にあったんだぁって気づける人は、他力じゃなくて自分の中に答えを見つけようとする。 1人じゃ無理な場合は、ここで質問して智恵を分けてもらったりする。 信者の神の概念は 智恵とは違う。 使徒信条にあるとおり、天地を作り、ピラトに殺されて3日後に生き返り、最後の審判で死人も蘇らせ裁判をして天国行きと地獄行きに分類をする者を神だとしている。 どうしてそういう概念になったのか、信者は知らない。 エジプトの神がイエスという名前になったと信者は知らない。 彼らは「神を知っている」とは決して言わない。 「神の存在を信じる」という。 <知っている>と<信じる>の違いわかりますか? 知っているって人は、自分の中に持っている。 信じるって人は、自分の外にそれが存在すると期待しているだけで、知っていなくてもかまわないわけです。 「わかった」と英語で言うとき「I know!」「I got it」と言う。 「I hope」とか「I believe」とは言わない。 旧約聖書のヨブ。 品行方正で、誰からも立派な人だと尊敬され、とっても敬虔深いユダヤ教信者って設定です。 彼は家を失い家畜を失い子供を失い自らも重い皮膚病になった。 彼はとうとう神の前に立った。 「私が一体どんなひどいことをやったから、こんな目にあうのか教えてください。私はバカだからこうなる原因がさっぱりわかりません」 この後、ヨブと神との対話が続くのですが、実はヨブ作家の自分自身の智恵の対話。 彼は自らの智恵をもってこの理不尽さに納得した。 自力救済ですね。

maimaisus
質問者

お礼

>知っているって人は、自分の中に持っている。 信じるって人は、自分の外にそれが存在すると期待しているだけで、知っていなくてもかまわないわけです。 そっかー、知らないっまま、期待してるんですね。 なるほど、それなら何となく分かるような気がする。 ギャンブルしたときによくある当得体の知れない確信、あれに近いですね。 最初は期待なのいつの間にか確信に変わっているあれですよ。当たる当たらないは別として。 回答ありがとうございました。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.26

>何か話が逸れていませんか?(-_-;) ん? 操作すれば、人に無いものをあると知覚させることができる って現実使われている方法を紹介したんですけど、、、 えっとですね。 「信じる者は救われる」という一文だけピックアップしたらダメなんですね。 例えば、<与えよ さらば与えられん> この一文だけだと、与えたらかならず自分も与えられれるようになるから、貯蓄せずにどんどん教会に寄付したほうがお徳 ってなりますよね。 そういう単純な意味じゃないんですよ。 その前に書かれている文書を読むと、智恵を伴って与えた場合は、善い報いがあると言っている。 <貧しいものは幸いなり> これは貧乏であることは幸福だって意味じゃあ ちっとも無い。 聖貧であることが幸福だって意味じゃあ ちっちも無い。 心が貧しくいじきたないものは、改心する機会があるから幸福だって意味じゃあ ちっとも無い。 貧しい者ってのは、神の前に立つまでになった人。 例を挙げるとヨブ。 (といってもヨブ物語知らないですよね。 まあ 機会があったら読んでみてください。) 要するにヤコブ(後のイスラエル)と同じく、神と対決した人がヨブ。 (ああ、イスラエルの物語も知らないですよね。) 哲学、フィロソフィア。日本語だと愛智。 古代は智恵を擬人化し、女性品詞として語った。 ダビデの歌など恋人へのラブレターだと思われているが、実はその恋人とは智恵のことなんです。 智恵を伴った信仰者は救われるってイエス作家は言っている。 目が見えない人を目が見えるようにしたというエピソード。 これは肉体的な問題ではない。 無知者に智恵を与えたことで、今まで分別できなかったことが、分別できるようになった という意味。 目が見える、目が見えないってのは、ヘブライ語の慣用句で、分別がつくつかない って意味であって、肉体的なものじゃあないんです。 智恵が人間を救ってきた。 智恵が人間の恋人。 智恵という恋人によって救われる。 これがユダヤ人の哲学。 >神の存在と、救いは、ある意味、別のモノであり、神を信じれば救われると考えるのは変な思い違いなのではないでしょうか? 智恵は存在しており、智恵がその人を救うってのは事実。 <神>という語彙を<智恵>という語彙におきかえみて考えてみてください。 智恵が存在すると私達は知っている、その智恵によって救われると私達は知っている。 キリスト教が、全知全能の神が人間の外に存在するとしているが、外じゃない 内です。 この事に気づいたのがアリストテレス。

maimaisus
質問者

お礼

内に存在している・・・って事は、神の存在も救いも自分次第って言うことですかね。 なんか、仏教的な部分を感じさせる考えかたですね。 回答ありがとうございました。

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回答No.25

 信仰に入る動機といったようなことから考えてみました。  今の苦しみから救われたいという‘逃げ道’から。(ご利益信仰)  神や仏の世界に少しでも近づきたいという‘向上心’から。(求道心)  神秘の世界に引かれて。(霊魂、あるいは霊感?)  いわゆる先祖供養。はたまた輪廻を信じて。  マインドコントロールによるもの。  まだあるでしょうか。  こうしてみると‘神を信じる’の意味の答えは一つではないのかもしれません。《これが今回の回答です。というより感想かな》  summerwintさんは、信仰には‘盲目的な要素が付きまとう’という点を疑問視しているのですよね。  食べられるからといっても、すべて身体に良いという訳ではないのと同じで、信じることが出来ても、必ずしも‘良い’とは言えないのでしょう。  また視点を‘動機’から‘「神」をどう捉えるか’に替えて考へてみると、別の答えが出てくるかも。  

maimaisus
質問者

お礼

・・・こうして皆さんの話をいて、考えてみると、神を信じるとその意味は、人それぞれ違い、個人的で、これまた善悪とは別の所にあるのだと思えてきました。 よくよく考えて見れば当たり前のことですが・・・。

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  • tokkey
  • ベストアンサー率42% (16/38)
回答No.24

私はプロテスタントのクリスチャンです。 質問者さんの問いへの答えにならないかもしれませんが、私はこう考えます。 神をただ、信じている人とは、神の存在を信じている人のことです。そして、神を信じ救われている人とは、神様から愛され大切にされていることを信じている人のことです。

maimaisus
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ですから、何故そう信じられるの?って言う質問なのですが・・・。

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     § 1 不在と非在  たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった会話があります。  けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。  すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。  ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?  § 2 不在でありうる存在は 《感じる・考える》の対象となる  在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。  さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》ことをもおこなう。  では 《非在》とは 何のことか?  感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?    § 3 《非在》とは 想定である  《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。  世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。  この経験法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。  あるいは ○○さんであって 同時に別の人たる△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。  《非在》という想定は このような居たり居なかったりする経験存在を超えた場としてなのである。  § 4 《非在》という想定が 神のことである  《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?  ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。  ここにもあれば 同時にあそこにもある。  という存在(つまり非存在という別個の場 つまりお化け)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。  § 5 神は 人間やモノについて言う《存在》とは 別個の場として想定されている。すなわち 《考えるや感じる》の対象ではない。  非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。  この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。  出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。考えて分かったというのは この経験世界における思考や想像によって得た補助線――神を理解するための補助線のこと――を言っている。神本体ではあり得ない。  それゆえに・あるいはそれでも 分かったと宣言する人が出て来ても ほかの人においても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから分からないながら ある程度の人数の《賛同者やさらには崇拝者》が出る余地はある)。  § 6 神を受け容れるかどうか。受け容れるというのは 《考える》でもなく《感じる》でもなく 《信じる》と言う。  この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。  ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。  だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。  一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。  すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。  《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。  § 7  信仰とシュウキョウ  《信じる――または わが心なる非思考の庭としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシエとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考したオシエを 信じるという自己矛盾である。  § 8 この神をどうして理解できないのか?

  • 神は完全ではありえないのでは?

     キリスト教等の一部の宗教では、神は完全なる存在と見做されている場合があるようですが、果たして神は完全な存在と言えるのでしょうか?  もしも、完全な存在というものが存在するとしますと、それはその存在のみで自己完結した存在でなければならないと思います。  己のために、何か己以外のものを必要とする様な存在は、完全な存在とは言えないと思います。  ですから、完全な存在は、己以外のものを必要とする事は無い筈です。  又、完全な存在である以上、他の存在に影響されるなどという事も無い筈です。  又、完全な存在が自己完結している以上、己以外の存在に対して敢えて働きかけたり、逆に己以外の存在から何らかの影響を敢えて受けたりする必要はない筈です。  又、必要性の無い事をする存在は、完全な存在とは言えないと思います。  ですから、完全な存在は、己以外の存在に対して何かを働きかける事は無いと思います。  つまり、完全な存在というものが存在したとしますと、それは人間の役に立つ事は一切なく、人間に対して害のある事を行う事も無く、自ら動く事も、人間を含めた他の存在によって、何かの影響を受ける事も無い訳で、只存在しているというだけの存在であり、人間にとっては、何の役にも立たないものの、邪魔になる訳でもない、まるで道端の石ころの様な価値の無い存在という事になると思います。  しかし、キリスト教を始め、多くの宗教においては、神は世界を創造し、人間を始めとする全ての生き物を作り出し、人間を導く存在だとされています。  又、上記のものとは異なる性格を持つ神を信仰している宗教においても、神は人間との間に、何らかの関わりを持っている場合が殆どです。  もし神が完全な存在であるとしますと、神にとって、その様な行為は全く行う必要のない事の筈ですから、不要な事を行っている神は不完全な存在だという事になるのではないかと思います。  この「神は不完全ではないのか?」という命題に、「キリスト教等の『神は完全なる存在』としている宗教」や「その様な宗教から1歩離れた視点から考察している哲学者」は、それぞれ、どの様な考えから、どの様な結論を得ているのでしょうか?  もし、御分かりになるのでしたら、その考えと結論は、どういった立場の何という人物の考えなのかという事も、併せて御教え頂けたら幸いです。

  • 何人も神について語るべきでない。

           ある人の考え。 神についての教えはその一切が無意味であるとゆー。 全ての神学、あらゆる宗教は神について教えるものであり無意味であると。 神は考えて分かるものではないからであると。 神は一つであるとゆー。 イエス・キリストもアラーもイワシノアタマも皆同じであると。 また神は有っても無くても同じであるとゆー。 有る神も無い神も変わりはない、全て同じであると。 すると人間にとって神は存在しないに等しいことになる。 そして神については何を語っても無意味となる。 神については何も語る必要もなくなる。 何人も神について語るべきでないのか。        

  • 私は神ですか?しかし、人間は神ではない。

    馬鹿で、非常識で、アホで、間抜けで、有り得ない・・・そんな質問ですよね?これって。 常識的に言って、1人1人は、生きては死ぬだけの、ただの生物であり、 ただの人間ですよね。 だから、ぶっちゃけ、1人が例え、死のうが、地球上には60億人、日本には1億人もの大勢の人がいるのですから、1人が死んでも、別にどってことないわけです。そりゃ、悲しむ人もいたりしますが。 だから、1人がどんなに頑張ろうとも、政治家になって、総理大臣にでもならない限り、どこぞの社長にでもならない限り、日本や世界へ多大なる影響を与えることは無理なわけです。 その上で、とあるブログをまた発見しました。 また、というのは、一度検索して発見していたブログだからです。 そこには、創造主が貴方、とあります。 つまり、創造主=神は貴方、という意味だと思います。 しかし、常識的に言って、私だって、他人だって、ただの人間であり、神ではありません。 神とは?そりゃ、すごい人で、なんだってできる存在ですよね? つまり、私は神ではないということです。 また、他人だって、神ではないということです。 これらは、常識であり、ほぼ100%合っていると断言できます。 この意見に反対する人達は、ただの馬鹿な、非常識な人々でしょう。 キリスト教など、宗教知りませんが、彼らだって、神=偉大な存在だと捉えていて、人間は神ではないとしています。 以下、引用します。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー http://www.vcafe.jp/harukanaima/blog/entry-16343 神はサイコロで遊びたかった 2013年02月20日 23:35 カテゴリ : 基本的な理解の整理 「神は創造主なので、当然、「確率」というサイコロを創造できました。 そしてサイコロで遊べる世界、「確率の世界」も創造できました。 さらに神の壮大なところは、確率の世界をもっと楽しめるように、 神であることを忘れた自分までをも創ったことです。 「地球次元」、あるいは「人間」という体験は、こうして創造されました。 『創造主であることを忘れた創造主』、それがあなたです。 あなたは神、創造主の一つの視点を担っている存在です。 あなたは本来、無限に広大な存在です。 ですが、いまそれを忘れているのは「神の計画」によるものなのです。 「自分をもっと体験したい」という神の衝動によって、 自分が神であることを忘れたあなたが創られたのです。 すべてを忘れれば、すべてのものが初めて触れるものになります。 すべての体験が新鮮なまま、深く、詳細に味わえます。 神であることを、創造を、深く体験するためには、 神を、創造を、新鮮な驚きをもって深くつぶさに味わうためには、 神である自分を忘れる=「神ではない自分」、 創造を忘れる=「創造できない」 という体験が必要になります。 その体験をより強烈なものにしてくれるツールが、 「確率」という機能だったのです。 確率に翻弄されれば、 自らが創造主であることなど想像すらできなくなります。 確率に翻弄されるなど、 もっとも創造主らしからぬ振る舞いです。 どんなものでも思いのままに創造できる創造主にとって、 これほど楽しめる体験は他にありません。 神の計画ですから、当然、完璧に成功しました。 あなたは自らの無限の広大さを完全に忘れ、 「確率」というシステムは完璧に作動し、 確率に振り回される世界とあなたが完璧に創造されました。 あなたは神の計画に見事に協力してきたのです。 神は『「確率」という体験』を創造しましたが、 神自身は確率に振り回されることはありません。 なぜなら、 創造主は自分の創造したものに支配されることはできないからです。 「確率」は、創造主である神の計画によって、 その計画の通りに寸分違わず創造されたものです。 『神はサイコロを振らない(アインシュタインの言葉)』のです。 しかしながら、この地球次元の体験から確率性が排除できないのは、 単にそのようにデザインされているからです。 そもそも「位置(”ここ”、”そこ”)」や 「運動(”ここ”から”そこ”への移行)」 「時間("このとき”、”そのとき”)」という、 二元性の世界に特有の相対的な現象自体が、創造された幻想なのです。 (さらに言えば、 「現象」という概念も、また「概念」も相対的な性質のものですが。) そして、 それらの現象の現われ方にも様々なバリエーションがあるので、 地球次元的な「位置」や「運動」、「時間」の実現のために、 「確率」という機能をこの次元に組み込んでいるのです。 すべては、『自分が創造主であることを忘れる』という体験を 可能にするためのデザインなのです。 『自分が創造主であることを忘れる』という体験の次元においてのみ、 「確率」が効果を発揮する、 『量子の不確定性(「不確定性原理」:量子物理学上の理論)』 という体験が可能となります。 ですから、 『量子の不確定性』も『神はサイコロを振らない』も、矛盾し合う概念ではなく、 それぞれ 『「確率」がその効果を発揮する次元』と『「確率」を創造した次元』 を説明しているのであり、 それぞれが認識している次元、解明しようとしている次元が 異なるだけなのです。 つまり、 どちらの考え方も成立する、言わば”正しい”ということです。」

  • 神様は存在しますか?

    まず、私の考えをいいますと・・・ 神様は存在しないだろうと思っています。 これに対して、いや、違うというお考えがあれば教えてください。 神様が存在するという証拠も、存在しないという証拠もない。 だから厳密にはどちらとも言うことはできない。 でも、存在しそうか、しなそうかということは考えることができる。 存在しなそうという根拠は 1)宗教で考えられている神様は、民族によって内容がバラバラである。これを統一的に考えるのは困難。これらの宗教のうちどれか1つの神様が正しいということを考えることも難しい。どちらかと言うと宗教は衰退しているようにみえる。ヨーロッパやアメリカでのキリスト教信者の減少など。 2)神様が存在するなら、その神様をつくったのは誰か?どうやってつくったのか?という問題が発生する。それに対し、神様はもともと存在したのだという意見も聞くけど、私は納得できない。やはり、最初に誰か(何か)がつくらないと存在できない気がする。 神様説に対する反論として・・・ 神様が存在する根拠として世界があまりにもすばらしくできていて神様なしには考えられないというのがあります。インテリジェント・デザインとか。 1)たしかに生物の体はほんとうによくできていると思います。でも誰かがデザインしたにしては無駄が多い。痕跡器官など。これらは生物進化の結果だと思います。 2)地球は人間が住みやすい環境です。これは偶然で説明できるのか?という意見があります。それに対しては人間原理で考えることができます。つまり地球の環境がうまくできているのは、もしうまくできていなかったら人間が存在できない。つまり、「当たり」の環境にしか人間は存在できないので、なんで「当たり」しかないのだろうね、不思議だね。という話になるということ。 「神様を信じるとしあわせになる。だから神様を信じる」というのは、ありだと思います。 ただ、「信じるとしあわせになるから、神様は存在する」というのは論理的につながっていないと思います。 念のために申しますと信仰は各人が選択するもので、そこに立ち入るつもりはありません。神様の存在について客観的なお話を聞きたいだけです。 論理的に神様が存在しそうという考えがありましたら教えてください。 以下、余談になります。 神様の存在を信じている人と議論して不満に思うのは、神様はいないだろうというと、「君は神様が存在しないということを信仰しているのだ」と言われてしまうことです。つまり「君も自分も信仰の方向が違うだけで信仰しているのは同じなのだ」という相対的なあつかいに持ち込まれてしまうのです。 私としては神様が存在する証拠や根拠が納得できれば、神様が存在するほうに考えを変えるつもりなのですが、やはりこれも信仰なのかな?と。 私が「妖精は存在しない」と言ったら誰も「君は妖精が存在しないという信仰を持っているのだ」とは言わないですよね。もし、神様と妖精はどこが違うのでしょうね。もしよかったらこの点もお教えください。

  • なぜ神は、助けてくれないのですか?

    現在、各地で起こる内戦・戦争で、流れてはいけない血が流れ、そして貧困などの理由で、病気、餓えなで産まれながらも、死んでしまう子ども達。 なぜ、この様な事が起きていも神と呼ばれる存在は助けてくれないのでしょうか? 人間の行く末を見守っているだけなのでしょうか? 仮に神と呼ばれる存在が居たとするのなら、何様のつもりなのでしょう? という訳で私は、神は、いないと言う結論に出たのですが、皆さんはどう思いますか?

  • 《神は有る》のみや《神は無い》のみはアホバカ教

     神は 《神は有る》なる表現も《神は無い》なる表現をも 許容する。  どちらか一つに定まったとしたら それはどちらにしても 人間が勝手にそのように神を規定し創ったに過ぎない。  あるいはつまり その人間たる人が 神は何であるかが分かったと言っていることになる。  つまりは その人は神になったか もしくは神と同等の存在になったことを意味する。  あり得ない。  あり得るのは 神をその人の人間という見方に引き下ろして来たというだけである。  《かみ》は 言葉でもあるから いかようにも想像し作文することが出来る。  《神は存在する。これを信じないのはバカだ》派も《神などはいない。いるというのは阿呆だ》派もいづれも ひとしくアホバカ教である。  人間が神になったつもりでいる。  なんで神の心が人間に分かるのか。  という問いです。