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その価値観は本物か?
どうにも、価値観の違い、主観だから、とかいう言い訳で、問題の本質が見えていないことが多すぎると思います。この質問は、価値観の多様性を損なうものではなく、いかにリアル(真)に、物事をはかれているのかという事が、気になるので質問します。 あれが正しい、これが正しいというのではなく、あなたにとって、その価値観は果たして本物か?という点で、価値観の違いが起こす矛盾、不幸を是正できたらよいと思います。 あなたが疑っている、あなた自身の持つ価値観とは何ですか?どのようなものがありますか? 私の場合は、春は曙です。 曙もいいが、生暖かい風の吹く、宵がすごくいいと感じます。そのときには、そのときの最高があるということです。今ももちろんです。できてませんが。 CMなどの情報操作による価値操作は、もう有効期限が切れ掛かっています。明日にでも使えなくなると思っています。あれらは空虚になっています。 価値を、多少なりと共有する時代が来ているようです。 そんな中で、自分の持つ価値観は果たして本物か?という姿勢が、意味の足しにはならんかと思うのです。 どう思われますか?
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「その価値観は本物か?」というのは 「自分自身の価値観を絶対視しない」ということですか? 又別の言い方をすれば「いろんな人がいていい」ということではないですか? これらのものとの相違点はどのような点なのでしょうか? あと本物の価値観てなんだという気がします。 (それを決めるのはやっぱり価値観なのか?) 私が疑っている価値観といえば 「体育会系でない人間と付き合えない」ということでしょうか? こんな事はありえないと思いつつもやはり意識してしまうんですよね。 CMとかって元から空虚なものではないのですか?
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- may-river
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価値観と言うのは「あるひとつの現象に対する個人の考え方」の事でしょう? それに客観的事実があれば別ですが、 それが無い場合、間違っているとか言えないと思います。 本物も何も、偽物が存在しないのだから、全部本物です。 確かに、現代人の価値観は、マスメディアによって操作された部分が 多いかもしれませんね。 しかし、その個人にとっては、その価値観こそが自分のものなのだから 偽物ではありません。 つまり、多少なりとも外部からの影響を受けていたとしても 自分のものである「価値観」は自分にとって本物。 周りから歪んで見られていたとしても 客観的事実が無いのなら、「価値観」に 偽物のレッテルを貼る事はできない。 事例を挙げますと……お恥ずかしい話ですが 今の今まで、ayamatiさんの事、女性だと思ってました。 だって文章が女っぽいんだもの。(♯14の一人称でやっと気付いた) 自分の価値観を直すとしたら、「うわべに騙されるな」ですね。 女性は女性らしく、男性は男性らしく文章を書く訳ではない。 まあ、それでも「ayamatiさんの文章は女っぽい」というのは 価値観の話ですから とやかく言えないでしょう? 価値観ってそういうものだと思うのですが。
お礼
実力だよ。実力。 知的な全力投球。人生MAXでな。これから、GOOに顔出し発言するときもMAXにしよう。これから会話はキャッチボールじゃない。ピッチャーとバッターの呼吸の生み出す銀河だ。言いすぎだが。ようは、真剣勝負な。ピッチャーはバッターに手加減しない。大人気ないな(笑。でも、相手のストライクゾーンをはずしすぎると駄目だ。話にならん。 あまり、外部と内部を意識的に分けない方がいいと、俺は思う。体は内部か?外部か? どちらにも当てはまらないだろう。思考も、そうあって然りだ。思考に、風や痛みを感じれるくらいでちょうどいい。と、思ってる。体と思考も分けない。 >価値観の話ですから とやかく言えないでしょう? 価値観ってそういうものだと思うのですが。 俺は、君の価値観にとやかく言わない。自分の価値観に言うだけだ。君は、君自身の価値観にもっと干渉する余地がないのか?と、俺は聞いてる。ないならないでいい。が、これだけ人間模様の多様性が隠されると、人間の魅力が薄い。危機的だ。原因は、察しはつくだろう?君は君を、どんどん行って欲しいな。多様は、計り知れない驚きの渦巻きだ。それは、すごいぜ?
補足
女っぽいことに価値があるのか? それで、今、俺が女だといえば驚くのか?(笑 女か男かを判断することが価値観の関わるところなのかというと、たぶんそうじゃない。 女だったらいいなぁとか、男だったらいいなぁとかいうのは、いわゆるタラレバ世界の話でな、叶わない欲求をごまかしてるだけだと俺は思うわけだ。 >自分の価値観を直すとしたら、「うわべに騙されるな」ですね。 おれは、見かけで判断しろ!だ(笑。 人は見かけで大体分かる。雰囲気とかな。そういう判断力がないと、危険な目にあうぞ?肩書とか、そういうものは、たいてい人を欺く。人間は、同じ地面を歩いてる姿、食い門を食べてる姿、俺の前に立ったときの姿、しゃべりの雰囲気、そういうリアルなもので判断できる。それ以外はあまり当てにならん。 俺は、君の文章を見ておかまっぽいと思うんだが(笑。正直、ギャグにしか見えん。どういうつもりや?みたいな(笑。 見方を変えれば何にでも見えるが、。そういう議論も、もう必要ない。 >つまり、多少なりとも外部からの影響を受けていたとしても 自分のものである「価値観」は自分にとって本物。 周りから歪んで見られていたとしても 客観的事実が無いのなら、「価値観」に 偽物のレッテルを貼る事はできない。 自分の価値観に偽物のレッテルを貼るのは自分だ。 自分で、自分の価値観を尋問するわけだ。 自分の価値観を、自由に更新することができるか? いつでも幸せを生むように働かせれるか? いつでも夢を追い越せるぐらいの足の速さを発揮できるか? まぁ、そこら辺だ。俺なりに言うとな。
- kxlu
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どうにも、価値観の違い、主観だから、とかいう言い訳で、問題の本質が見えていないことが多すぎると思います。この質問?の本質も中々見えてきません。 自分の解釈では、春の曙=好い、ではなく春=曙ってイメージです。春は宵・春は夜半・夜更け・星月夜・闇夜・日盛り・・・いろんな日本語の時間帯の言葉、それ以外春= 桜ではなく1000年前のお姉さんが春=曙と書いたから意味がありクール、多くの人が価値観を共有してると思います。かといって宵も好いです。北宋の詩人、蘇軾は、杯を傾けて「春宵一刻直千金」と詠じた。キュッと旨いのやりたくなりますね。春の宵=好い、価値を共有してますね。でも酒飲まない人はなんだそれと思うし飲む人でもなんだそれと思うし、人それぞれいるし全ての価値観が一緒ってのも怖いし、でも地球の人の価値観が一つになれば戦争のない平和な世界になるかもっても思います。 自分の持つ価値観は果たして本物?という姿勢が、意味の足しにはならんかと思うのです。思います。でも自分の持つ価値観は本物であり、偽者でもありとおもいます、価値観は時間と共にかわるし意味の持たない価値観もあります。自分は今日行う全ての行為の価値観の吟味はしません時間がないし、自分にとって価値がないからです。 >あなたが疑っている、あなた自身の持つ価値観とは何ですか?どのようなものがありますか? 今はないです。 しかし、教えてgoo侮れないです・・・
お礼
>この質問?の本質も中々見えてきません。 なかなか言うな(笑。もっとゆってくれ。 >人それぞれいるし全ての価値観が一緒ってのも怖いし、でも地球の人の価値観が一つになれば戦争のない平和な世界になるかもっても思います。 大多数の人が戦争が嫌いなのに、何故起こるのか? 戦争が嫌だという価値観は、ほぼ統一されてると思うのです。戦争が起こるには、理由が在る。そういう機構(システム)が働いている。そう思う。 こんなに堂々と、ぬけぬけと騙される俺ら地球市民は、かなり間抜けだと自覚しないといけない。 間抜けは間抜けなりに、騙されない方法があると思うわけだ。 自分の価値観を見直すというのは、かなり有効な手段だと思う。 > 今はないです。 そうか。ありがとう。ストレスのかからない回答で、非常に読みやすかったです(俺の姿勢の問題かな(笑。
補足
>桜ではなく1000年前のお姉さんが春=曙と書いたから意味がありクール、多くの人が価値観を共有してると思います。かといって宵も好いです。北宋の詩人、蘇軾は、杯を傾けて「春宵一刻直千金」と詠じた。 価値観とは、元来幅のあるもんだな。そう思った。 それは、個人においても。今働いてる価値観は、今だけのもので、幅を持って動いているのが正統的な見方だ。目が二つ、視点を移動して、様々な景色、事物、世界を肉眼で見るわけだが、心の中も、幻想世界も、同じ方法で探れるもんだと、思うな。二つセットの視点と、動く視点。 視点を動かすには本体がうごかなあかんな。幻想世界の本体、主体たりえるものは、自分の心のことかな? いい回答をもらったと思っています。 千年前のおねーさん、いいね、会ってみたい。 でも、現代にも、粋でクールなおねーさんはいるんやで~(笑。 俺も、もっと粋がろかな(笑。
- mktoolll
- ベストアンサー率22% (20/88)
私の価値観は果たして本当か?と考えてみた。私はどうやら自己矛盾は許さない生き物らしい、私の価値観は私の中においては真実のようです。 もちろん、他人との交流の中で偽りの価値観を利用することはありますが、そうすることも含めて私の中では真実であるのです。 もしも、私個人の価値観はどこかの誰かに意図的に作られ操作されているものだとしても、今現在の私にとってそんなことはどうでもいいことで。むしろ、私の価値観を弄ぶ何者かを誉めてあげたいくらいだと感じます。 さておき、価値にも色々な種類がありますが、敗戦後の日本で教育されてきた価値とはあくまでも資本主義経済国についての価値であり、その本質は「勝ち負け」なのでしょう。 今の日本人一般の価値観は全てが「勝ち負け」に収束しているように思えます。芸術的な価値観にさえ競争原理を持ち込んだりする。それが間違っているとは思いませんし、現実にそれによって経済が動いておりますので、すばらしい戦後教育だったと私は思っております。 家の95歳になるばあちゃんは、「最近の日本人は恥知らずが多くなった。」(ドラマのキスシーンを見て)と申しておりました。それも、また価値観。 彼女の価値観こそ日本人の本物の価値観かというと、そうではないですね。それは、彼女だけの価値観。 価値観を共有することは難しいけど、共感することは出来ますね。だって実態は無いのですもの。
お礼
>だって実態は無いのですもの。 笑)。 ほうほうと、回答を読ませてもらいました。 ありがとう。
- H-hoko
- ベストアンサー率50% (6/12)
●さて 前回のわたしの回答で >価値観とは 真の自分を生きる事のなかの >「ひとつ」として在ります。 と表現したのは 価値観以外にも真の自分を生きる ために重要なことはたくさんありますよ・・・ ということを暗に申し上げているわけです。 価値観とは 「いかなること,いかなる物に いかなる価値をおくかという個人個人の評価的判断。」なわけで 価値とは「物のねうちに匹敵するもの。」 なわけです。たとえば 泣く・笑う・怒るなどの 感情は価値観には関係ないところから生まれます。 恋も愛も 価値観とは無縁です。 男性が娼婦を選ぶのでしたら 価値観が機能するかも しれませんが 恋には落ちるもので 価値観を 超えて踏み込んでしまう領域なのです。 価値とは 他者との関係を処理するために生まれた 概念ですから 社会の中で生きざるを得ない私たちは 価値観を持って当然であり それが機能して 社会生活が成り立つことは よく分かります。 でも わたしたちは 仕事をするためや 社会の一員として機能するために生きているだけでは無く その生きる意味を問うなら 本能や感情の誘導する 自分の在り方のために生きているわけです。 「自分の在り方のために生きる」と言うことに 「価値観」というものは 機能しないのです。 この宇宙に どこの誰でもない「自分」という 個性があるということは 生まれながらに既に 在ることであり それは最も稀有な在り方なのです。 それが人と関わることによって 価値観という ミームのフィルターを持ち 現代人の個性は平均化される 宿命を背負って生きているわけです。 あなたが もしわたしの言うことを理解できるのでしたら 価値観への疑問を乗り越え その先の価値観さえ 必要としない 真の自分を見つけてください・・・。 自然の生き物たちは 価値という概念では 生きていないのですから。 自分に必要か否か。体が欲しているか否か。 こころが欲しているか否か。 傷ついた者を いたわる・気遣うこころは 価値観がそうさせているのではないのです。 それは わたしたちのこころに刻まれた 46億年の いのちの結晶のやさしい輝きなのです・・・。
お礼
>・・・暗に申し上げているわけです。 おれが、意味の足しにはならんかなと、言っていることは、価値観以外に人間行動を支配するウェイトはかなりあるということを、暗に言ってる。君のこれがなければ、暗のままで終わるところだったな(笑。 > 「自分の在り方のために生きる」と言うことに 「価値観」というものは 機能しないのです。 そうやそうや。 >価値観への疑問を乗り越え その先の価値観さえ 必要としない 真の自分を見つけてください・・・。 なんや、侮られたな(笑。 >傷ついた者を いたわる・気遣うこころは 価値観がそうさせているのではないのです。 それは わたしたちのこころに刻まれた 46億年の いのちの結晶のやさしい輝きなのです・・・。 そうやな、価値観をちょっと拡大視してたな。 そこに価値判断はない。反射や、感応だ。 だが、価値観が、習性を、慣習を、生んでいることもあるわけだ。 価値というのは、まぁ、家族などには当てはまらんわけだ。家族というものには当てはまらんが、だけど、地位というものには当てはまる。 この価値観という奴は弱いが器用な奴で、精神に入り込むとちょっと厄介だと思うな。 「物の値打ちに匹敵するもの」 これでよいのかどうかは、ちょっと考えるわ。 「その時点での、物(ミームを含めた)の値打ちに匹敵するもの」 やな。詳しくわ。必要なときに、そのニーズを満たす類似的価値観があれば、それが想起されてしまうわけだ。それに、無条件で従ってはいけないな。脳は、こういうものがあるけど?どうする?って、価値観を提示してるわけだ。ちゃんと、自分の脳と相談しなきゃ駄目だ。
補足
で、俺が重要視できるようになったのが、季節だ。 地球の季節から宇宙の季節。自分の季節。花の季節。 一日のなかにも日の出と日の入りがあり、夜と昼がある。しかも、それらは天体の運行、空模様のように、劇的でもあり、とうとうとしておれば、こう、あらゆる優れた形容が可能なわけだ。 で、その季節なるものが、俺の中にも宿っていることを発見しなおしたんやな。これは、すごい発見よ? 俺にとって。俺って最高やん!って事だからな。 君は、昔から気づいてたんやろうけど、俺にしたらここ数年の話。この季節どうりに生きるのが、まず一歩。自分に到達する一歩だ。 無論、歩きたいといったが、空を飛ぶ夢も忘れてない。空を飛べることを知っていて、あえて歩くわけだな。歩きたいから(笑。 それで、いいんだよ。 歩きたいと思うのは、自然なことだ。 俺が、世界を裸足で歩きたいと思うのは、自然なことだ。 いつか、生き倒したときも、それは、自然なことだし、俺を超えて空を飛ぶようになったらなったで、それは自然なことだ。 それで、もう一度言い直そう。 俺が無い、自分が無い、ありゃ正しい表現ではない。 なぜなら、君や皆に伝わらんかったからだ。 自分が在る。これは、正しい表現だ。自分であるとかな。俺や皆に理解できるから。 だが、君はそのことを真に理解しているか? おれは、いまでも、心配だ。 これを、それなりに君は体得しているとは思ってるから、俺のほうが心配なわけだが、。 言葉というのは便利であるがゆえに、人を錆び付かせる。語ることも、自然体でいいのよ。 「俺?だれそれ?俺は俺だよ。」 この台詞は、非自然と出逢った自然体の台詞でありうると思うんだよ。 自分が、真に自分になったとき、それは何を意味するのか?何も意味しない可能性はある。意味しまくる可能性もある。意味が及ばないのは分かってる。 俺、君という、自他という関係がきわめて健康的になるんだろう、予想がつかんが、体現はできると思うわけだ。自対自になるんだろうな。自然みたいに。 自と世界になる。これは、始まりだ。続きがある。 世界は広い。 想像のつかないことが、現れるのは世界だ。 全てにおいて、稀有の存在という意味で、自分というのは大事なんだとは、俺も思える。たった一人ということが、どういう意味か?そこに意味があるのであり、稀有とはそういう意味で言ってるのか?それとも、自他の次元で言ってるのか?全の次元で言ってるのか?自他の他に、自分は含まれているか?現在は、含まれてない場合が多い。自他の違いを強調するぐらいだからな。 自分と世界の世界に、自分は含まれているか? 大事なのはそこだ。 その次に、世界が何かだ。 そのとき、無が出てきたわけ。今は保留な。君にとっては魔球だから。無が世界を超えていることが、超えるということを超えているということが。 でも、世界は頭の中にあるわけじゃない。 だから、保留だ。 現代の自他観による多様をこえれなければ、多様は実現できない。俺は今でもそう思ってるし、事実そうだろう。 違うと思うなら、俺が間違っていると思うなら、ゆってくれ。君の意見を聞きたい。 雨が降って、桜は落ちただろうな。昨日見れた夜桜も、。雨は、桜を落とせて、幸せだな。 参道の桜は、アスファルトに落ちて、かわいそうだ。 季節を生きるというのは、今を生きるということだ。 季節を生きるというのは、自分を生きるということだ。 季節を生きるというのは、世界を生きるということであり、それは自然なことだ。あったりまえの、ことやな(笑。すまんすまん。季節はいいなぁ。 眠っているDNAがあるんだろうな。たたき起こしてやろうか、優しく起こしてやろうか(笑。 >価値観への疑問を乗り越え その先の価値観さえ 必要としない 真の自分 今だから言うが、この質問はそのための布石としてした。こえることを少しでも提示するのは、おれだけじゃ、できんかったかもな(笑。
- mr0823
- ベストアンサー率14% (19/133)
多くの方が回答されていますが、そちらの流れとは関係なく、ご質問に対する回答をさせていただきます。 >自分の持つ価値観は果たして本物か?という姿勢が、意味の足しにはならんかと思うのです。どう思われますか? そう思います。
お礼
そうでしょう? 私もそう思うんです(笑。 自分の持つ価値観を疑うなら、どのような価値観を疑いますか?
- H-hoko
- ベストアンサー率50% (6/12)
●真とは A=A ということです。 偽とは例えば A=A’ということです。 価値観とは すべて自分から発生しますので 真の自分を生きる事のなかのひとつとして在ります。 真の自分を生きるとは 自分=自分 として生きることです。 これが なかなかできないことなのです。 真理の探究は 科学がすることです。 哲学がその実証を得た時 科学に昇華します。 わたしたちが 生きていく上でさまざまに対峙する おおくの事柄は ほとんどが科学では解決できない ことばかりです。したがってそれぞれに哲学して 自分の行く道を決るしかないのです。 さて 価値観とは何でしょうか? こころの深い部分に 真善美という基準があります。 これを変化させているのは 知識や芸術です。 また その形成にかかわるのは 構造主義的には その人物の持つ肉体と脳の機能性のパーソナリティです。 わたしの考えでは 真に自分を生きる上での 価値観の構築は 生まれたままの自分が持っている 肉体と脳の機能性の個性を輝かせつつその延長線に ミームを構築していく作業にほかなりません。 平たく言えば 自分らしく生きることでもあります。 自分を知り 宇宙と地球と世界と社会と自分の身近な 環境をよく見聞きして 考えればおのずと 生きるべき自分の道は見えてくるのです。 それは ひとりひとり違うものです。 真理とは科学が希求するものです。 しかし その真理を哲学的に捉えなおすと その真理は 科学という枠のなかでの真理にすぎない ことは 言うまでもありません。 真に自分を生きるとは かくも凄絶な様相を呈する ワクワクドキドキの世界なのです。 なにが本物か?そんな疑問を持たずに生きている方々は 自分’を生きている可能性が高いのです。 まず疑問あり・・・ その先に哲学があり 哲学することは 必ず幸せに向かうのです。 不思議ですが 脳の機能はそのように出来ているのです。 ※過去の哲学者の哲学は あくまでも参考にしかなりません。 むしろ科学者の見出す ワンステップの方が大きな参考に なるものです。哲学とは他人のそれを覚えることでは ありません。自分で考えることなのです・・・。
お礼
>偽とは例えば A=A’ということです。 うまいな。手がないのは俺のほうか(笑。まぁいいや。魔球は封印したということで、。つぎは、正真正銘の剛速球で勝負できるようになっとくわ(笑。最高速の球ね。 >真に自分を生きるとは かくも凄絶な様相を呈する ワクワクドキドキの世界なのです。 はやく行きたい。いつでも行ける準備が、俺にはできてるぜ?季節が晴れたらな、。俺’が晴れたら。 君と話してるときは、何も心配はない。 ごくごく健康的に話せるし、そういうあり方ができる。 ただな、今日すごいいい天気で、気持ちいいわけだ。猫と一緒にごろごろ転寝してしまうぐらいだ。 。。この同じ空の下で、イラクは燃えている。 俺は悲しい。それらの不幸を、どうにかしようなんて思わない。 でも、どうにでもなれとも思わない。 俺を含め、人を見て、な、思うことはいっぱいあるんだよ。どうしようもなくな。憂いだ。 >なにが本物か?そんな疑問を持たずに生きている方々は自分’を生きている可能性が高いのです。 犬や猫には「’」はつきにくいもんな。 >過去の哲学者の哲学は あくまでも参考にしかなりません。 むしろ科学者の見出す ワンステップの方が大きな参考に なるものです。哲学とは他人のそれを覚えることでは ありません。自分で考えることなのです・・・。 そういうことだ。これを機に、閉めようかな。 自分で質問しておきながら、疲れた(笑。 人と話すのは難しい。疲れるようでは修行がたりんわ(笑。思考が閃いてない。 >価値観の構築は 生まれたままの自分が持っている 肉体と脳の機能性の個性を輝かせつつその延長線に ミームを構築していく作業にほかなりません。 体は正直やから、体に聞けって事で、拷問にかけられたりする。催眠とかも、本音を聞きだすのにつかわれて。誰が眠らされてるかって、自分’が眠らされてるんかな(笑。 >自分を知り 宇宙と地球と世界と社会と自分の身近な 環境をよく見聞きして 考えればおのずと 生きるべき自分の道は見えてくるのです。 それは ひとりひとり違うものです。 そう、同じだったらびっくりするわ。同一人物やんけ(笑。
- cse_ri2
- ベストアンサー率25% (830/3286)
No.6の返答についてのコメントです。 >自身の価値観を見直すという私の質問を、どうとらえま >すか? この質問が出てくる10年以上前から、そういうことを考え 続けています。 わかったことと言えば、この世の事柄はすべて一過性の内容 であること、時が経てばいずれ流れ去っていくということ ですね。 万物流転・諸行無常が世の常です。 ただこの世の価値観とは別に絶対不動の真理が存在し、真理に 近いものは長く世に残り、真理に反するものは短期間で過ぎ去る ということも、なんとなく理解しています。 流れ行く川の流れは不動の大地があってこそ認識できると いうことでしょうか。 ただ今の私の考え・行動が正しいかどうかについては、常に 点検しています。 誤った考え・誤った行いを続けていれば、いずれ社会的に パージされます。歴史を深く学ぶ中で、自分で得た結論の 一つです。 私はなるべくパージされたくないので、常に自らの考え・ 価値観に誤りがないか思索を続けています。 >あなたがそれをした場合、どんな価値観をまず疑いますか? まぁ世間でよいと思われていることは、たいてい疑いますね。 この世の人は、金持ちになりたいと願い、周囲からちやほや されたいと願い、異性にもてたいということを願う人が大半 ですが、それらの考えに落とし穴がないかどうか、いろいろ な事例を調べて点検します。 人間というのは存外進歩のないもので、過去の歴史を振り返れば 似たような事例はいくつか見つかります。 そしてその事例の結果をチェックすることで、正しいかどうか の判断の見極めがある程度つくというものです。
お礼
これで回答をいただけたと思っています。 ありがとうございました。 すんなりと、回答を聞くことができました。
- gon1234
- ベストアンサー率14% (42/293)
NO.2&NO.5です。 あまり一人で回答を繰り返すのも迷惑でしょうから今回の回答にて最後にいたします。 「本物」の定義をお聞きしたかったのですが、いまいち核心について語っていただけなかったようです。「後で嘘と分かるものは偽物」ということは現在の段階では本物を見極めることは不可能です。つまり、あなたの仰る「その価値観は本物か?」という質問は「本物」であることはありえない(現段階では証明できない)という前提(定義)から発せられた質問であり、いくら回答を重ねても「価値観が本物かどうか」を語ることは不可能です。「本物」は現段階では分からない(=後にならなきゃ分からない)という定義がある以上、これ以上の意見交換は不毛です。 ayamati様が「過去の日本の戦争における価値」を判断する基準を現在の視点から判断されているようですが、過去よりも現在の価値観が正しいとお考えであるならば、現在よりも未来の価値が正しいでしょう。よって、価値判断は不可能です。 戦前戦中の日本の政治体制が「誤り」だとしても、100年後になったら「正しい」と認識されるかもしれませんから、現在の価値観で判断することは無意味であり、そういう意味で過去の価値は過去の視点で考えるのが賢明だと思われます。 ※私の個人的見解として歴史認識がayamati様とは異なりますが、その点は今回の質問とは関係ありませんので触れません。 >過去というのは今に在るし、未来というものも今に由来しているのではないですか? 過去が今ある・未来は現在に由来するというのは錯覚に過ぎません。過去はどこにも保存されていません。 空間的考察との混同という意味で言えば、目の前を右から左に走る車は「空間」を移動しましたが、時間はそのようには流れません。右から左でもなく、後ろから前でもなく、過去から未来でもありません。時間の把握は「時間」を体験することでしか証明できません。 >それならば、時空的考察とはどの様なものでしょう? 時空的考察という言葉は私は初めて聞いたので説明できません。申し訳ございません。ご説明願います。 今信じているものが後に「嘘」だと分かったとしてもその価値観はやはり本物でしょう。もしこうした現在の価値観に疑問を感じつつ生きるというのであれば、現在の価値観に価値を置いていないという矛盾に陥ります。ayamati様はそのように生きるのが重要ではないかと仰られますが、価値観のない(自己の価値観に基準のない)人が何を頼りのものを考えることが出来るのでしょうか? ayamati様が「価値観を問い続けることが大切ではないか?」と仰った時、私は「確かに大切だ。反省の繰り返しからより高次の価値観が生まれるかもしれない」と思いましたが、ayamati様の定義をお聞きした後では「価値観を問い続ける価値」さえも否定しなくてはならないという矛盾に陥ってしまいます。
お礼
>過去よりも現在の価値観が正しいと・・・価値判断は不可能です。 そうではありません。正しいとか、正しくないとか言う話ではありません。 私の論理は、過去を超えて今、未来は今に由来するということですから、現在より未来の方が優れているのではなく、優れた現在は、優れた現在のあり方から生まれるといっているのです。 優れた優れてないということは、価値観の問題でもあります。 その価値観を今、吟味することは、現在のあり方を見直すことにつながるということです。 >ayamati様の定義をお聞きした後では「価値観を問い続ける価値」さえも否定しなくてはならないという矛盾に陥ってしまいます。 どうしてそうなったのか、器用なことをするなと思います。価値を問うのは今です。未来から人が来て、未来の価値を語るのではなく、私たちが、今を語れる未来にむかっているのであり、未来とはいつまでたっても到達しないものであり、過去とはいつまでたっても振り返れないものなのです。 だから、過去は今にあり、未来は今に由来するというのです。 >本物の定義 本物を定義して、本物かどうかの判断がつくのですか? はっきり言えば、全部本物だと思っている場合、その人の目は歪んでいます。ですから、見えるもの全てが歪みます。どれも違ってあたりまえのように見える。目が利かない。全部偽者だと思っている場合、それも歪んでいます。全部歪んで見えるのは、見ている目が歪んでいるからです。 歪みを歪みとして、本物は本物として見える場合、その人の目は正しく機能しているとなります。 本物の定義に意味を求めない。 本物かどうかが「分かる」か、です。ただ、無意味に感じるということ、それは中身のないことで、本物ではありません。真実ではありません。 この質問は、時代遅れであり、それにも関わらず私が質問してしまったのは、天動説が、今、はびこっているからです。あほらしいことが、私に起こっているからです。皆さんのには、そのようなことが起こっていますか?ということです。 あなたが価値観を問い続けることに価値を感じた。 私は、それをしなければならないことがあほらしいなぁと、。やってみれば、意外と楽しいものですが(笑。 あほらしいですが、このことに真剣に取り組まなければならないと感じているのです。目を見直す。
補足
迷惑ではありません。 >「本物」は現段階では分からない(=後にならなきゃ分からない)という定義がある以上、これ以上の意見交換は不毛です。 今考えなければ、後になってどうやって分かるのですか。後で考えるんですか? 流れ行く現象を眺めることと、自分の今もつ価値観を見直すこととは違います。今考えることで、今に分かることがあるのです。逆に言えば、今考えなければ、分かることはないということです。 考えるということは、疑える余地を考え付くし、消していくことです。それでも、余地が生まれてくるのが、普通の人でしょう。それはそれでよいのです。余地というのは、余裕でもあるのです。 >過去が今ある・未来は現在に由来するというのは錯覚に過ぎません。過去はどこにも保存されていません。 そうでしょうか?私はこう考えています。 過去を越えてきているので、今は、過去を満たしている。保存されているのではなく、今は過去を超えているのです。過去は、今、生きているのです。過去が更生しているものが、今なのであり、今、更生し続けているということが、大事なのです。それは、更なる今、つまり未来というようなものを生んでいるのです。 だから、そのときにはそのときの最高があるのです。 過去というものに固定的な形があると思っているのはあなたではないですか? 過去は生きているのです。 >時間の把握は「時間」を体験することでしか証明できません。 それは証明したといえるんですか?証明する必要のないものが時間だということですか?時間は方向のある流れではないと、受け取っています。 車は右から左に、太陽は西から東、海の波は前後ろ、そういう見方をすれば、目が廻るでしょう(笑。それは空間的思考とはいいがたい。 仮想空間思考です。そのような目の廻る思考を日常、我々がこなしているとは思えません。 あなたが否定する直線一方通行的時間思考も、仮想時間思考です。 >時空的考察という言葉は私は初めて聞いたので説明できません。申し訳ございません。ご説明願います。 私は、時間的考察や、空間的考察というものをあなたから聞きました。なかなか使えるものだと思いますが、その程度だという認識です。 時空的考察というものがあれば、それに期待しようという気持ちで、言ったものです。 あなたがおっしゃる時間的思考では、そのときの最高というより、その時しかありません。最高でもなんでもないのです。そうとらえています。 時空的考察とは、あり方を考察するものであり、時間でも空間でもありません。あり方を見るのが時空的考察と、言えなくもないでしょう。 自分の価値観は本物か?というスタンスよりも高位であり、根源的です。よりよい、より賢い思考法です。 なぜなら、価値観を問うているのではなく、自分のあり方を問うているからです。観方、視点の背景を問うているのです。
- welovekobe
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このカテゴリーに関しては、何度も投稿してまいりまし たが、「本物の価値観」というものを貴殿も求めて真剣な 議論をなさっていらっしゃるようですので、 是非、1度、過去の私の投稿もお読みくださいませ。 私も、真剣に今まで答えてきたつもりですので・・・。 さて、まず、本物の価値観という言葉を文字通り考えま す時に、人間が、単なる偶然にこの宇宙に誕生したの なら、そのような本物の価値観というようなものは無い。 と思うべきです。性善もないし、性悪もないです。 判断の基準となるべき絶対的なものさしがないのに、 本物の価値観も何もないです。 結局は、過去を振り返ったときに、利己的な価値観として 認定されてしまうでしょう。資本主義も民主主義もです。 その時々で、その国家主権が、あるいは、その地域が、 あるいは、その民族・氏族・家庭が、個人が、良しと 判断しただけのことであります。 それらは、仰せの通り、流れ去って行くものです。 永遠に流れないものがあるとしたら、つまり、真理 というものがあるとしたら、それは、「神様の原理」 以外にはあり得ません。ロゴス以外には無いです。 もし、偶然に心臓が完成し、偶然にその時、同時に、 血管が完結し、その時たまたま同時に血液が造成され、 たまたま、その時、肋骨が・・・ そのようなことを、狂信的に信じて、神を排除して 唯物的な思考を好まれるのでしたら、 もうこのような議論は残念ながらそれこそ意味が無い のです。ナンセンスなんですね。 分かりますよね。 その紐が何mあるか?は、その紐自体が決めることでは ないのですね。判断の基準となるものさし・尺度は、 その外になければなりません。 判断の基準・尺度が、測ろうとするモノそれ自体に 内在していては自己中心的にならざるを得ないのです。 ですから、家庭・民族・国家がより良くなるとすれば、 その国家の規範となる尺度・基準がより「外」になけれ ばならず、更には、世界がより良くなろとすれば、 その善の基準は、世界の外になければならないのです。 結局、人間の外に置かないとならないのですね。 それは即ち、人間を創造した神様の創造目的に合致した 生き方をすることこそが、善なのです。 創造目的=存在目的=存在価値=「善」なのです。 その創造目的が神の人間創造の目的であれば、 絶対的にならざるを得ないので、その価値観も絶対的 であり、「本物」だと言わざるを得ないのですね。 このことを十分に吟味した上で更に議論を進めて行かれ たらどうでしょうか? 私は、それを期待しています。 それでは、今日はこの辺で・・・ クリスチャンにせしめられた者より・・・ 祈
お礼
多数の人々の価値観が、流れをつくっているように見えるのは、正確には正しくありません。あれらは舞っているのであり、ほこりと同じように、風に舞っているのです。地に足が、着いていないからです。 空を飛ぶというのは、すごいバランス能力を必要とするのであり、バランスをものにしている、無意識に行えることで可能なのです。 >人間を創造した神様の創造目的に合致した 生き方をすることこそが、善なのです。 >このことを十分に吟味した上で更に議論を進めて行かれたらどうでしょうか? 私は、それを期待しています。 期待してもいいですが、その期待を私は意識しません。私は、偉くないのです。 >自己中心的にならざるを得ないのです。 自己に中心はありません。したがって、自己中心的というのは、錯覚です。 善なる生き方というのは、聖書を読んだだけで分かるものではありません。いろんなINPUTを、自分で消化して、善なるOUTPUTが可能なのです。 聖書をINPUTして、同じ事をOUTPUTしているようでは、消化されたとはいえない。 生き様とは、実に無限ではあるが、真に生きるとは、全方向という無限ヴェクトル、出発点のないヴェクトルによって、だましだまし説明しきることができるのです。神というのは全てですから、それを、神の方向と言うことはできます。しかし、神と言う意味がないのです。全方向とは一ではないのです。が、キリスト教で教える神は一でしょう。そういう意味で、神と神が行き違っています。神とは、人間の脳で捕らえれるようなものではないのです。永遠という世界を以って、はじめて触れることができるかもしれません。 つまり、いつでも、何処にでもいるのが神です。あなたの内にも、外にも、それはあるのです。 だから、あなたは、堂々と、あなたを生きればよいのです。
補足
イエスが、自らを慕って教えをこいに来た者達に、「自分の目で見、自分の耳で聞け。」というようなことが、神を知る前提条件として言ったと、聖書には書かれています。 神が自然を創ったとして、その自然は、あなたの内にも、私の内にも、外にもあるのです。 外に在るものは計り知れません。 内に在るものも計り知れませんが、内をとおして知れるものは、自分を通して、トンネル構造としての自分を以って知れるので、分かりやすい、納得がいくのです。 物事を、はかる必要はないと、私は思います。 しかし、いまある秤を、野放しにしておく気もありません。 >永遠に流れないものがあるとしたら、つまり、真理 というものがあるとしたら、それは、「神様の原理」 以外にはあり得ません。ロゴス以外には無いです。 ロゴスは永遠の流れ「でも」あります。流れが流れているとは言いません。ロゴスについては他の形容も可能ですが、私は、今は言いたくない。言えない。 言うと、うそになるからです。 言えば言うほど、不的確になります。 ロゴスは、各々が、知るものであり、直接に、教えられるものではないのです。イエスが教えても、知ることのなかったものは大勢います。最初に、示したとうりです。自分を見失うものは、ロゴスを知れません。 真に自分を生きるもの、それが自分です。 真に神を生きるもの、それは、神です。 あなたは、あなたを生きればよいのです。 あなたが神に生きるとき、それは誰が生きているのですか? 神があなたを創ったのなら、あなたが真にあなたを生きることは、神に叶うはずです。あなたがあなたであることは、神がそう創ったのですから。神にかなわないなら、あなたはあなたを生きれていないということになります。
- cse_ri2
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No.3の返答についてのコメントです。 >>その人の価値観が間違っていれば、いずれ淘汰され >>消えていきます。そういう実例は、過去の歴史や現在 >>の社会の中で多く見られます。 > >それは、公益性にもいえることではないですか? もっとはっきり言えば、絶対的な価値観とは宇宙の真理 それ自体です。真理が何かということに関しては、とても わずかな文面では伝えきれないので割愛します。 それに真理はとても私の拙劣な文章では伝えられませんので。 では公益性をなぜ一つの価値観として評価しているかについて ですが、すべて相対的なこの世の価値観の中にあって、比較的 マシな価値であるからです。 少なくとも自己中心的な事柄よりは、公益性のある事柄の 方が重要性を感じます。 もっとも公益性自体も、万物流転のこの世にあっては変化 していくものの一つに過ぎないことは明らかです。 絶対的な価値を求めるならば、真理を探し求めてください。 私に言えるのはそれだけです。
お礼
あなたのおっしゃる公益は、道徳的なものですか? 公益性の中にも、私は矛盾があると思います。 現実として、公益の中にも価値観の淘汰があり、淘汰された方は、いかに公共事業といえど、被害を受けるのです。そして、今までは、不平等な金が出回ることで、経済の指標が非常に偏ったものとなり、その指標にしたがってきたけっか、不具合が今、大量に起こっているのだと思います。 誰も欲しくないのに、金が動くならそれが実行されたのか。 自分がホントはしたくないのに、やってしまっていることとか、いっぱいあると思うのです。 そういう自分自身を虐げる、自分の持つ不遜な価値観は、是正した方がいいだろうと思います。誰しもそう思うと思います。 大体の人が、「自分に正直に生きたい」と、心底ではそういう欲求があるのではないかと思うのです。 人間の持つ、本来的な欲求ではないかと思うのです。 私には、それがあります。 私は、自分に正直に生きたい。 そのために、自身の価値観を見直すわけです。 自分の価値観のうち、疑えるものは疑います。 いつでも更新できる、自由なものであると同時に、その背景には、いつでも無意識にしたがっているわけです。 この背景を見つめるのは、自分に正直になってからです。私は、自分に正直になる前に背景を見つめていたので、ちょっとミスったのです。好奇心によるものか、ひきつけられたのか。それはそれで、そのミスを生かしたいと思います。ミスったなりに、いろいろ見えたこともあった。 あなたはどうですか? 自身の価値観を見直すという私の質問を、どうとらえますか?あなたがそれをした場合、どんな価値観をまず疑いますか? ありがとうございました。
補足
>私に言えるのはそれだけです。 そうですか。 >絶対的な価値を求めるならば、真理を探し求めてください。 絶対など必要ないと、私は思っています。そのような価値も求めていません。 相対的である必要もありません。 二項対立では無理があるのです。 一項(絶対)でも無理です。 真理が絶対だとは、背景が決めることであり、その背景が真理であるという保証はないのです。 真理とは、いつでも場合わけで考えられてきたものであり、その真理の置かれている背景そのものを論じることはないのです。 景色を、一つ二つとは言わないでしょう。 背景とは、観方ではなく、その観方がある背景のことを言うのです。 景色が広がるとか、垣間見えるとか、背景とはそんな感じでもあります。それは、シーンであり、切り取らなければ、今の人語では語れないのです。 真理というのは、絶対とか、相対とか、そういう意味ではないのです。ただあるということです。 >もっとはっきり言えば、絶対的な価値観とは宇宙の真理それ自体です。 ここも、今あなたがいる場所も宇宙ではないですか? ということは、あなた的には、真理もそこにあるということです。 私もそう思います。 私のいる場所に、真理があります。 とおい、宇宙が、今のここなのだと。 言うまでもないことです。 >公益性のある事柄の 方が重要性を感じます。 人権運動などのことですか? それとも、インフラ整備などのことですか? 他の何かですか? 公共が求めてない公共事業がなされることはあります。あなたのおっしゃる公益性とは、皆が喜ぶことと、もしくは、多かれ少なかれ、人の苦悩を取り去り、反作用で他に苦悩をもたらさないことと、とらえていいですか?
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お礼
>CMとかって元から空虚なものではないのですか? にもかかわらず、実体を持っているということは、少なくない人が、その価値観に「動かされて」いるからです。知らなかったことを知る。それまではいいが、その価値を吟味することなく実生活に取り込むのは、危険だと思います。その危険を、平気でやってのけてきたのが現代人だと見ています。 >これらのものとの相違点はどのような点なのでしょうか? あなたが、自分自身の持つ価値観、色々なものがあると思いますが、そのうちで、信用の置けない奴はどいつかということです。 >あと本物の価値観てなんだという気がします。 質問の趣旨はそういうことです。 あなたが疑わない、あなた自身の行動、その行動が由来する価値観です。 たとえば、朝、トイレに行く。そこで新聞を読む。 その行為は疑う余地のないことか? たとえば、コンビニに、ふらふらっと入ってしまう。 その行為は、疑う余地のないことか? 学校をサボる。その行為は、疑う余地のないことか? 仕事をやめる、お茶を出す、酒を勧める、罵倒する、褒める、オナる。そのときの現実に即して行動は起きますが、その、現実にとった行動に、疑う余地があるか? あるならば、考察するのがよいと思っています。 >「自分自身の価値観を絶対視しない」ということですか? 又別の言い方をすれば「いろんな人がいていい」ということではないですか? ほんとうに、現代にいろんな人がいるのか? 確かにいるが、同じような奴ばっかだという見方もできます。私が、巷でよくするのは後者です。げんなりすることが多い。 自分自身の価値観を、果たして持てているのか? 自分自身の持っている価値観は、自分自身心底納得のいくものか?いつでも更新できる自由なものか? それに従って、幸せになれているか? そういうことです。 公共に合わせて、幸せになったか? 公共に反して、幸せになったか? わたしは、何も信じないし、何も疑いません。 それを、意識せずにできるようになりたい。 それが、価値観の矛盾を超える、一つの方法でもあるからです。