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ロマン主義について

ghostbusterの回答

回答No.12

自分よりおそらく詳しいであろう人に回答をするときの、なんともいえない、気まずい思いを抱いております(笑)。すでにご承知の箇所も多いかと思いますが、それがすべてではないことを願いつつ書いていきます。 まず > 蚕が繭の中にすっぽりと入っ〔た〕平和な状態 の「繭」について。 ロマン主義とは何かをいうとき、よく引用されるのが、初期ロマン派の中心的人物であるシュレーゲルのこの文章です。ちょっと長いんですが、重要な箇所なので。 読みやすさを考えて、手元の翻訳書にはない改行をしています。 「ロマン主義文学は発展的普遍文学である。その使命は、単に引き離されたあらゆる文学ジャンルをふたたび合一し、文学を哲学および修辞学と結びあわせるにとどまらない。さらに韻文と散文、独創性と批評、人為文学(Kunstpoesie)と自然文学(Naturpoesie)を混ぜあわせ溶かしあわせ、文学を社交のなかへもちこんで活気あらしめ、生活と社交を文学的なものに変え、機智を文学化し、芸術のさまざまの形式をあらゆる種類の緊密な形成素材によって満たし、フモール(Humor)のはばたきによって生動せしめんとするものであり、かつまたそうすべき使命を帯びている。ロマン主義文学は、さらにいくつもの体系をそのなかにふくんでいる最も大いなる芸術体系から始まって、夢想する子どもがその素朴な歌とともに洩らす溜息やくちづけに至るまで、文学的でさえあるならばあらゆるものを包括している。…… ロマン主義文学だけが、叙事詩とおなじように周囲の世界全体の鏡となることができる。時代の似姿となることができる。だがまたとりわけロマン主義文学は、いかなる実在的関心にも観念的関心にもとらわれず、文学的反省の翼に乗って、描写された対象と描写する主体との中間に漂い、この反省を次々に累乗して合せ鏡のなかにならぶ無限の像のように重ねてゆくこともできる。…… 他の種類の文学はすでに完成していて、したがって残るくまなく分析することができる。ロマン主義文学はまだ生成の途上にある。それどころか、永遠にただ生成しつづけていて、けっして完成することがないというのが、ロマン主義文学に固有の性質なのである。したがっていかなる理論によっても分析しつくすことはできない。予見的批評のみが、その理想型の特性描写をあえて企てることが許されるであろう。ロマン主義文学のみがひとり無限であり、ひとり自由である。そして詩人の恣意はいかなる法則をもわが身に甘んじて受けることはないというのが、その第一の法則である。ロマン主義文学はジャンルを超えたジャンルであって、いわば文学そのものであると言うことのできるただ一つの文学である。ある意味ではすべての文学はロマン〔主義〕的romantischであり、あるいはあるべきであるからである。」(「アテネーウム断片116」『ロマン派文学論』所収 山本定祐訳 冨山房百科文庫) 質問者さんは > この思想は18世紀後期からずっと現代まで、途切れることなく続いている―― と書いておられますが、そうして事実、文学の面では、象徴主義やシュルレアリスムとかたちを変えながら受け継がれていくわけですが、「ロマン主義思想」そのものは、19世紀も後半になると、ほとんどかえりみられることもない時期を迎える。そののち、フランスのポストモダン系の思想家であるフィリップ・ラクー=ラバルトやジャン=リュック・ナンシーによって、初期ロマン派が再評価、というか、ポストモダン的文芸批評の先駆者として、あらためて位置づけられるようになったというふうに、わたしは理解しています。 [116]のなかでシュレーゲルは、「ロマン主義文学」というのは、詩や散文、批評から、子供が歌とともにもらすため息までをも含むものだという。これはつまり、個々の作品が「ロマン主義文学」を構成するのではなく、逆に、「ロマン主義文学」というのは、個々の作品の背後にある集合的な想像作用である、とまとめることができるかと思います(質問者さんは「観念の共同」という言い方をなさっておられますが、わたしとしては仲正昌樹による「集合的な想像作用」という言葉の方が、より適切ではないかと思っています)。 だからこそ、「周囲の世界全体の鏡」にも、「時代の似姿」にも「合せ鏡のなかにならぶ無限の像」にもなるし、「永遠にただ生成しつづけていて、けっして完成することがない」。 つまり、ここにあっては個々の作品の読解は、無から作品を創造する神のような作者の意図をできるだけ正確に解読するものではなく、その作品の背後にある、絶え間なく進行している「ロマン主義文学」の一部として、読んでいくことになります。異なる作品と作品のあいだに、潜在的な関係を見いだし、インターテクストを発見していく、ということです。 質問者さんが「繭」と言っておられるのは、個々の作品ではなく、おびただしい糸によって統合されることによってできあがった集合的想像作用のテクストであるとするなら、「蚕」にあたるのは、その「繭」がこれからどのように展開していくのか、糸と糸のあいだの結び目を探していく「読み手」と言えるでしょう。この「蚕」は、一方で、繭からは独立しつつも、作品と作品のあいだをつなぐことによって、繭に対する創造的な役割も担っている。 さて、ご質問に答えられるかどうか、定かではないのですが、とりあえずの思いつきなど。 (1)「忌まわしい」かどうか。 それはその人によるかと思います。「集合的な想像作用」というのは、あるのかないのか、本当のところはわからない、あると証明できるわけではないものですから、そんなものはない、と無視することもできるだろうし(これは(2)の回答)、逆に「作用している」と前提し、積極的に繭作りに参加していくこともできるでしょう。繭に合わせて、自分の側を変えていくことも可能でしょう。 (3)「[53] 一つの体系をもつことも、いかなる体系ももたないことも、精神にとってはひとしく致命的である。したがっておそらくはこの二つを結合するよう決心しなければならないであろう。」 それが、生成を続ける、閉じられていない「繭」なんかじゃないか、と思います。 ちょっと時間がなくなってきたので、雑な書き方をしますが、シュレーゲルがアイロニーということを言っているのは質問者さんもご存じでしょう。「アイロニー」をきっちりと定義すること自体、非アイロニカルなことで、なかなかむずかしいのですが、「一つの体系」を手に入れた、という思い込み、逆に、自分はあらゆる体系から自由であると思い込み、そういうものから少し距離を取って、ずらす。そのことによって、わたしたちは「繭」とともに生きていけるのではないでしょうか(雑な結論で申し訳ありません)。

ri_rong
質問者

お礼

 ずっと待っていれば、回答をいただけるのではないかと思っていました。  ありがとうございます。    まず、そうですね。19世紀末期の戦争の時代を通じて途切れたようになり、けれどその頃に森鴎外によって日本は、初めてその洗礼を受けたのでした。村上春樹さんは、総合小説なんて言っておられるようですが、当時でいえば正岡子規などがたぶん、シュレーゲルと同じような思想で新文学を目指していたと思います。  福沢諭吉さんはじめ、鴎外にせよ、夏目漱石にせよ、明治の人たちは海外のものを日本へ紹介する(要するに翻訳ですよね)ということで、その後の日本を作った人たちです。けれどもそういった紹介は、一部の選ばれた人たちの「責務」として、あくまで翻訳であるべきだったのだと――作家の水村美苗さんは仰っていますね。  巷には、小さな鴎外や小さな漱石がたくさん生まれ、もはや翻訳ではなく、「そのもの」に手づかみで触れる――といった仕方で異国を知る時代です。僕たちは、はたして繭を紡げるのでしょうか。言葉の持つ意味は、はたしてあるのでしょうか。僕をはじめ、多くの回答者は、それを教えて欲しいと思っているように考えます。物事には、まっすぐに向き合わなければならないという道徳があり、曲がった見方はすべきないという倫理があり、それゆえ不器用でも、一生懸命、正直に汗をかいて生きています。  アイロニーって何でしょうか。

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