• ベストアンサー

因果応報説は 愚の骨頂

mmkyの回答

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

仏教の基本的教えは「縁起」ですから、「善因善果」「悪因悪果」は仏の教えそのものですね。 此岸から彼岸にわたる方法論として信仰を説いてますが確率論は否定しているのですね。 確率論の否定が因果論ですね。だから因果論を知らぬといった時点で仏教にあらずなんですね。 ☆ この《親鸞の悟り》を超える人間は いないということではないでしょうか? と分かっていることが さとりではないでしょうか? 親鸞の善人も悪人も念仏するだけ。因果論などしらない。では確率論にしかならないのですね。親鸞本人は叡山で学び、それなりの学問も修めてますのでそれでいいでしょう。それを信じて実践した者は確率論でということになってしまうのですね。親鸞の信仰はある意味立派だが広げるほどの仏教的信仰ではないですね。仏教ではなく救世主(阿弥陀)信仰としては認められますね。この阿弥陀信仰はキリスト教信仰と非常に酷似してますね。それ故、日本にはキリスト教が広まらないという説もありますね。 ☆ という命題においてこそ この説に もっとも基本的な批判を与えていると考えます。 同じようにコリント後書もつまるところ、信者には確率論でしかない。といったほうが明確ですね。

bragelonne
質問者

お礼

 mmky さん ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  親鸞の信仰は・・・仏教ではなく救世主(阿弥陀)信仰としては認められますね。この阿弥陀信仰はキリスト教信仰と非常に酷似してますね。  それ故、日本にはキリスト教が広まらないという説もありますね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《それゆえ》以下は 一般に《絶対》という概念を知らない・知ろうとしないという原因説もありえますので 保留しますが おっしゃるとおりだと考えます。  すなわち この質問に限っては 《ブッディスム》だからこうだとか これがブッディスムだという主張は 信用しないことにしています。クリスチアニスムにしても同じです。中身で勝負です。  いまは たしかに信仰がからまっていますが ここでの探索の基本はやはり哲学です。早い話が   ○ 因果応報の実態を――つまりは縁起=空観を――だれが完全に認識しかつ実行できるか?  ☆ という問いと同じことにもなります。ふつうの自然科学的な事実としての因果律にもとづく経験認識〔だけ〕ではないのですから。  ★ 確率論  ☆ とおっしゃる意味が採りかねていますが  ★ 確率論の否定が因果論ですね。  ☆ というところを見ると   ○ 賭け  ☆ の問題なのでしょうか? それなら 信仰のその踏み出しに当たると言っていいと思います。  これ以上すすめると 輪廻転生説に行きつくでしょうから 自重します。  ○ 自然科学によって認識しうる因果律と 因果応報説とは同じではない。  ○ 後者では けっきょく主観の数だけの説がある。  ○ いえいえ 一人のひとの主観が 事件ごとに次々とその見方を変えるとまで言い得るほどに  因果応報説は起きている。起きていると言っても 中身は定まらずのままであるはづだ。  ☆ とまとめます。どうしても間違いだというときには ご指摘をお寄せください。

関連するQ&A

  • なぜ神はイエスをこの世に送ったのか

    キリスト教に関する質問です。 神は全ての人々の罪を背負わせるために、一人息子のイエスを地上に送った、それほど人類を愛していた、とのことですが、その意図がわかりません。 なぜ人々が罪深いからといって誰かが犠牲にならなければいけないのでしょうか? 人類を創ったのは神です。親が子供たちの過ちの責任を、長男もしくは一番かわいいと思っている子供に負わせているかのように思えます。(キリスト教によると、人類は神の子ですよね?イエスの兄弟ですか?) 俺たちが悪いことをしたのに、何もしてない兄さんが警察に名乗り出てくれたよ。罪悪感感じるけど俺たちは罰を受けなかったし兄さんに感謝感謝、って感じですか?しかもそれを親(=神)がやらせたんですよね? そもそも誰かを身代わりにしたら許される、その身代わりになってくれた人を敬う、という発想がよくわかりません。 なんでこんなに理解しがたいことが、世界中の人が信じている宗教の根本なんだろう?とものすごく疑問に思っています。

  • 因果応報について

    因果応報、カルマについてお聞きします。 因果応報とは、自分のした行為が良い事でも悪い事でも、その行為による影響が自分に返ってくる事。 自分に降りかかった災難は、全て過去に行った行為の業によるもの影響、という真理があると思うのですが、今回は、この業、因果応報について私自身が思った素朴な疑問をここで述べたいと思います。 例えば、私が誰かに殴られたとします。 何故、殴られたのか?…。 それは私が過去に誰かを殴ったから。 これは納得出来ます。 では、私に殴られた人は何故、私に殴られたのでしょうか? その人も過去に誰かを殴ったから?? そして、私に殴られた人に殴られた人も過去に誰かを殴ったから?? 稚拙な発想で大変申し訳ありませんが、私はこれらの業の根源は一体どこから発生したのか? そしてどこまでこれが続くのか、どうすれば悪因縁を断ち切る事が出来るのか。ふと考えたりします。 非科学的でとりとめのない質問で申し訳ありません。 真理を深く研究されている方、自分なりの考え方を持っている方、色々回答して頂けたらうれしいです。

  • ヒンズー教で

    天使について調べようと思い、辞書で引いてみると『ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などで、神の使者として神と人との仲介をつとめるもの』と載っていました。 そこで気になったのですが、ヒンズー教に天使(又はそれにあたるもの)はいないのでしょうか?ご存知の方、宜しくお願いします。

  • 因果応報って存在しますか?

    父は4人兄弟なのです。上から2番目の伯母が身勝手で、父親(私にとって祖父)の貯金は騙しとり、自分の給料は使わずにためて、子供達が小さいときは兄弟に育てさせ、ミルク代やおむつ代も全て出させていたそうです。 父の兄弟は迷惑がりましたが、勝手に預けていったとはいえ子供に罪はない、としぶしぶ面倒はみたそうですが、その子供達は「おじさん達に世話になった覚えはない」と言う始末。小学低学年までは周りに迷惑をかけたそうですが覚えていないそうです。 そんな伯母ですが、今は兄弟の中で一番幸せ。病気もせず間もなく80歳です。 また、その子供達も順調で結婚し家庭にも恵まれ仕事の方も出世しております。 結局、迷惑かけた方が幸せになり、迷惑かけられた方は病気になったり大変です。 伯母をみていると「因果応報」って無いな、と思いますが存在するのでしょうか?

  • 旧約聖書の律法は破棄されたのではないんですか?

    聖書中一人だけ律法を破ることを教えている者がいます、 エフェソス 2 「15 この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されました。それは,二つの民をご自身との結びつきのもとに一人の新しい人に創造し,平和を作り出すためでした。」 確かにここで、パウロは律法は廃棄されたと言っているので、イエスの言葉を参考にすると、 パウロは天の王国に関連して一番小さい者ということになるんですが、実際にパウロは自分の事を一番小さい者と言っています。 エフェソス 3 「8 すべての聖なる者たちの中で最も小さな者よりさらに小さな者であるわたしにこの過分のご親切が与えられ,こうしてわたしは,キリストの測りがたい富に関する良いたよりを諸国民に宣明し, 9 定めのない過去から,すべてのものを創造された神のうちに隠されてきた神聖な奥義がどのように管理されるかを人々に示すことになりました。」 さらに、イエスは、 マタイ 10 「34 わたしが地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣を投ずるために来たのです。」 で、平和を投ずるために来たと考えてはなりませんと言っていますが、パウロは平和を作り出すだめでしたと、エフェソス2の中で、続けてダブルでイエスの言葉と対立しています。 しかし、パウロは自分のことを一番小さい者であると理解した上でこれらの言葉を言っているのが非常に気になったのですが、まず、 テモテ第一 1 「15 キリスト・イエスが罪人を救うために世に来られたとは,信ずべく,また全く受け入れるべきことばです。わたしはそうした[罪人]の最たる者です。 16 それなのにわたしが憐れみを示されたのは,わたしの場合を最たる例としてキリスト・イエスがその辛抱強さの限りを示し,永遠の命を求めて彼に信仰を置こうとしている人たちへの見本とするためだったのです。」 ここで、パウロは自分が最たる者で、イエスが辛抱強さの限りをしめした見本であるということ、 ローマ 9 「3 わたしは,自分の兄弟たち,肉によるわたしの同族のために,自分自身がのろわれた者としてキリストから引き離されることをさえ願うのです。」 キリストから引き離されることを願うと言っており、 ヨハネ 16 「8 そして,その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。」 で、真理の霊は罪と義と裁きの証拠を与えると書いてあるのに、パウロは、義と自制と裁きについて話すと書いてあります。 使途 24 「25 しかし,彼が,義と自制と来たるべき裁きについて話すにつれ,フェリクスは怖れを感じ,「今のところはもう下がってよい。よい時があったらまた呼ぶだろう」と答えた。」 この3つの証拠がなんなのかは聖書中誰も触れていないので、この証拠を提示できる組織は真理の霊から来ている組織であるのは間違いないと思いますが、すくなくても、ここではパウロは罪と義と裁きに関してではなく、自制と義と裁きに関して話しているのは間違いないと思います。そう書いてあるからなのですが。 じゃあ、パウロは何なのかと考えると、イエスがマタイ5で言っていて、自分自身でも言っているように、天の王国には関連しているが、イエスが辛抱強さの限りをしめして助ける一番小さいものと呼ばれる者達の見本だというのは話がつながっています。 そうすると、 イザヤ 48 「10 見よ,わたしはあなたを精錬した。しかし銀[として]ではない。わたしは苦悩の溶鉱炉であなたを選んだ。」 で、再び集められるヤコブの家の特徴として、苦悩の溶鉱炉と、イエスが辛抱強さの限りを示した最たる例をつなげると、このイザヤ48はパウロを見本としてパウロの言葉通りに行動している者ということを考えると、この者達は 同章「1真実によらず義によらずに語り告げる者たちよ。」 と書かれていて、同じく 同章「あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば!そうすれば,あなたの平安は川のように,あなたの義は海の波のようになるであろうに。」 と書かれているので律法を破ることを教える者とここで繋がります。 さらにこの者達は、 同章「9 わたしはわたしの名のために怒りをとどめ,わたしの賛美のためにあなたに対して自分を制し,あなたが断ち滅ぼされることのないようにする。」 で、神の名の為に怒りをとどめて助けられる者達は誰なのか、 同章「2 彼らは自分を聖なる都市からの者と呼び,イスラエルの神に寄り掛かったからである。その方の名は万軍のエホバという。」 で、聖書に神の名を署名したのは誰なのかというのが、OKWaveで最初に質問した質問の詳細なのですが、さらにエホバの証人が嘘を教えているというのであればキリストに属する最たる例であると(イザヤ48「真実によらず」により)自ら証明していることになるんですが、まず、 モーセの律法は本当に破棄されたのか、本当に破棄されていないのか、どちらかを強力に証明する聖句を使って詳しく教えてください。 エホバの証人は助からないというのであれば、このイザヤ48章に当てはまる組織はどこですか? 聖書だけを使って、さらにその聖句の解釈を裏付ける他の聖句を使って教えてください。 ・パウロは自分にねたみをおこし、それによって神を学ぼうとすることでも喜ぶと書いてある。 ・パウロは分裂している者達に誰の、何が正しいのかとは言わず、あなたたちは皆キリストに属しているのですの一言で終わっている。 ・パウロは全てを知っているが全ては話さないと言っている。 ・パウロは自分がヤコブの家のベニヤミンの部族なのだと言っている。 ・パウロは分裂、分派、敵意を示し続ける者は滅ぼされると言っている。 ヨハネ 13 「33 小さな子供らよ,わたしはあと少しの間あなた方と共にいます。あなた方はわたしを捜すようになるでしょう。そしてわたしは,『わたしの行く所にあなた方は来ることができない』とユダヤ人たちに言いましたが,今はあなた方にも同じように言います。 34 わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。」 これらの理由によりどこについて行けばいいのか、今すごく悩んでいるのですが、 本当にエホバの証人以外はすべて背教だったのか? 本当にエホバの証人は世界3大悪宗教なのか? 律法が破棄された、破棄されてないという対立教理に関してどちらかをとることになった証明の聖句を教えてください。お願いします。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて   子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • キリスト教について教えてください。

    最近、新約聖書を人からもらって読んでいるのですが、疑問がいくつかあるので教えてください。 イエス・キリストが説いた教えと従来のユダヤ教との違いは何だったのでしょうか。 イエス・キリストが亡くなるとき神よなぜ私を見捨てたのですかと言ったということですが、 イエスは磔刑になったときに神が助けてくれると思っていたということでしょうか。 なぜ聖書にいわゆる神の子であるイエス・キリストが神に見捨てられたという、彼を否定するようなエピソード が残されたのか疑問に感じました。 また新約聖書が編纂されたのはキリストの死後100年後という話ですが、なぜ編纂者は内容が重複しているような話を なんども掲載したのでしょうか。 イエス・キリストは死後3日後に復活して、その後しばらく弟子と過ごしたということですが、イエス・キリストを 裁いた人々がコノヤローまだ生きてたのかっ!ということにはならなかったのでしょうか。 最近バチカンとロシアの正教会が和解したというニュースがありましたが、なぜ対立していたのでしょうか。 質問多数ですが、どうかよろしくお願いいたします。

  • 教えていただけると嬉しいです

    質問なのですが 聖書にこのような事が書いてあると聞きました。 人は死ぬと“みんな”自動的に地獄に行きます。それは誠の神様に対して罪を犯しているからです。 しかし、正直に罪を認め、悔い改めて、神様が備えてくださった「唯一の救い主」イエス・キリストを信じるならば、罪赦され、永遠の楽園(天国、神の御国)に入れてもらえます。 「イエス・キリストによる救いの知らせ(福音)」 http://inochinomizu.hatenablog.com/entry/2017/07/01/113257 自分はキリスト教には入っていません。このような話を聞いて恐怖があらわになりました。 本当のところはどうなのでしょうか教えてほしいです

  • 因果応報は、ウソ?

    最近自分の環境だとか、友人の環境だとかを見ていて、なんというか不思議に思ったことがあります。 周りを見ていると凄く卑怯な手を使って、幸せを手に入れて、「自分が幸せになるためなら、他人に大きな迷惑さえかけなければ、ウソだってつくし、裏から手を回すことだってする。」と言っている知人がいます。 そうして、大好きな相手と結婚した知人は本当に幸せそうです。その子は、私が知る限りそれ以外のことでそんな卑怯なことをするような人ではないです。 それが、卑怯なことをしたら、望んだものが手に入っています。だから、それは正しい選択だったと言っています。彼女は、結婚4年目、子供もいます。 とても、正義感が強く正直な知人がいます。その子は、1年前に大好きだった彼氏に振られました。彼氏の方に振った理由を聞いてみると、明らかに私が知ってる事実と違っていました。 人のことなので詳しくは書けませんが、全部その知人が悪いことになっていて、被害者は彼氏という感じ。 その知人は、彼を好きだから彼を縛りたくなくて、真実は黙っているようでした。それを言うと、彼にも責任を負わせてしまう。好きだからそんな風に縛りたくないとのことです。 もう1年も経ったのに、今でも辛そうです。 私から見てみると、後者の彼女の方が心が綺麗というか、善悪で言うなら善な気がしますが、それでも前者の彼女の方が幸せそうです。 人生なんて、良いことをしていれば幸せになれて、悪いことをしたら不幸になるとかそんな簡単な物じゃないのでしょうか。 悪いことをしたら、不幸になる気がするのは罪悪感の所為で、幸も不幸も運みたいなものなのでしょうか。 私の話をすれば、今まで、真面目に生きてきたのに、今幸せとは言え無い状況になっています。 奇麗事ではなくて、正直な考えを聞きたいと思っています。

  • キリスト教についての質問です

    キリスト教の教えについて、次の事について教えて下さい。 (1)キリスト教は過去天動説をとき地動説のガリレオを神が言った嘘によって  正しいガリレオが殺されましたが何故なんでしょうか? (2)「汝の敵を愛せ!」と言うながら歴史上絶え間なく戦争を起こし、  罪のない人の血を、なぜ流せるでしょうか? (3)「神を信じ・・天国に行ける」と有るのでうが、ザビエルが布教に来る前の  日本人は全て地獄に落ちる事になるのですが、之は日本人が全て悪いからなのでしょうか? (4)神が全能の神だと言うならなぜ悪魔や罪を作ったのでしょうか? (5)ノアの方舟で1家族だけ残し全人類を殺した相応の理由とは何でしょうか? (6)私は「俺はキリスト教なんて信じない!」と否定する多くの人を、 「侵略」や「魔女狩り」と称して殺す相応の理由とは?。