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因果応報説は 愚の骨頂

mmkyの回答

  • mmky
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回答No.4

 因果応報説を批判しているともしていないとも言えない。 ☆ というご見解でしょうか? ● その通りです。因果応報というのは原因結果の連鎖をあらわしますので、 「人々の罪の責任を問うことなく」を因とすれば果がないからですね。 「罪」を因として「責任を問うことなく」を縁としても果をワープしているので因果応報説を批判しているともしていないとも言えない。ということですね。   ☆ 善因楽果・悪因苦果というのは 一般的に言ってブッダのおしえであるのですから とうぜん親鸞も知っているはづです。それを《知らない》というのは 明らかに否定して言っていませんか? 否定ではないですね。 親鸞は善因楽果・悪因苦果を良く知っていましたね。だから妻帯(悪因)で叡山には戻れなかった(悪果)ですね。 ここでの意味は念仏という因のみで浄土にいけるという果が得られるかどうか知らないという意味ですね。法然さえ知らなかったと思いますね。ただそれを信じたかったのは理解できます。 本人はそういってますが浄土宗系が広がったのは念仏で浄土にいけると信じさせた連中がいたからですね。・・・これ完全な詐欺ですね。 どの仏典にも念仏のみで救われるという教えは無いからですね。だから因縁果はわからないけれども「我は念仏のみを信じる。」ということでしょう。しかし実際は「念仏で浄土にいける。(善因善果)」と後代の弟子はみな詐欺ってますからね。宗教というのは広めるために割りとそういうとこあるんですね。それは否定しませんけど。それにくらべて親鸞は正直ですね。わからないといいながら、念仏のみでは地獄へ行くかもしれないといってるのですから(悪因悪果)。 どちらにせよ親鸞の悟りでは(善因善果)なのか(悪因悪果)なのかわかりようが無い。たとえ、修行すればそれがわかるといわれてもすでに破戒僧になり修行のよすがさえない。という状態ですね。

bragelonne
質問者

補足

 mmky さん ご回答をありがとうございます。  ですが 今回は いただけません。なんぼ mmky さんでも だめです。  理由を述べます。  ★ それにくらべて親鸞は正直ですね。わからないといいながら、念仏のみでは地獄へ行くかもしれないといってるのですから(悪因悪果)。  ☆ これは 最後の《(悪因悪果)》は 取り払ってください。そうすれば 親鸞の信仰(=非思考)がよく分かるはづです。  1. 掬われる(救われる)=つまり ブッダないし世界とわたしが和解するというのは この経験世界における原因結果の関係には拠らない。と言っています。  2. 人間の思惟もしくは行為に絞りましょう。そうすると たしかに一般にそして部分的には 因果関係がよく分かる場合があります。  3. たとえばいい加減な考えと思いで かのじょと付き合っているとします。たぶん肘鉄をくらうでしょう。ここには悪因悪果が見て取れます。  4. ですが 因果応報説というのは もっと深刻な善と悪の因果関係の問題ですね。――そんなものは 人間の考えでは捉えることは出来ず まして能力と努力とで善因善果の道を歩むということが出来るかの問題になります。  5. 親鸞は この救い=和解をめぐる《因縁果はわからない》と言っています。あるいは 分かっても《知らない》と言います。つまり 人間に分かるように救い=和解が決まっているのではなく 人間に自分の心の持ちようや努力次第でその成仏をえらぶ力があるというのでもないと言うのです。  6. すなわち 因果応報説を知らない。つまり否定しています。もしくは 肯定し得ないと言うことによって 因果応報説をひとが説くこと・心に思うことを 否定しています。  ★ 「人々の罪の責任を問うことなく」を因とすれば果がないからですね。  ☆ 親鸞のばあいとほぼ同じ考え方において この思想にかんしては  ★ 果がない  ☆ のではなく 微妙に違ってそうではなくこの《人々の罪の責任を問うことなく》がこの世界と人間にとって現実となったときから 因果関係が断たれたのです。つまりは 因果応報説が旧いものとなり あたかも割礼や板に書かれた律法が廃れたのと同じように廃れたのです。原罪が そのときから同じくもう問われなくなったのと軌を一にしています。  もっともすでに モーセの前に アブラハムのときには やはり因果応報説は否定されたのだと見ます。子をいけにえにささげよという注文をつけてその形の中で因果応報説を破り――なんで子を殺さねばならないのかという思いを抱かせることで 因果関係に破れを見させるようにして―― しかも翻ってその命令した子殺しをやめさせたことにおいて因果関係の問題をさらに超えよと伝えようとしているでしょう。信仰は 非思考だからです。  因業応報説を たしかにおっしゃるように《超えていて 知らない》のでしょうが これは《肯定しない》ことにおいて 《肯定することをやめなさい》と言っているでしょう。  つまりは 善行を積めば天国ないし極楽に行けるという人間の思考における思い込みは 意味がないとおしえています。悪行をつづける人間に対して おまえは地獄行きだと 他人が決めつけるような因果応報説は 意味がないとおしえています。きみたちは何さまだというわけです。神であるか あるいは ブッダになったというのなら まだ話は別なのでしょう。  ★☆ 因果応報説を批判しているともしていないとも言えない。  ☆ という命題においてこそ この説に もっとも基本的な批判を与えていると考えます。  ★ 親鸞の悟りでは(善因善果)なのか(悪因悪果)なのかわかりようが無い。  ☆ この《親鸞の悟り》を超える人間は いないということではないでしょうか? と分かっていることが さとりではないでしょうか?

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