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因果応報説は 愚の骨頂

masa2211の回答

  • masa2211
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回答No.1

愚の骨頂と言うのは明らかに無理ですね。 愚の骨頂と言うのは、「どういう視点で見てもオカシイ」場合に限られるので、 聖書の記載がどうであれ、それだけでは否定不能です。 よって、愚の骨頂と客観的に主張するだけの根拠がありません。 で、因果応報ですが、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C より。 >因果応報は、ただ単に「行動」と「結果」は結び付いているという意味でしかない。 当然、コレは正しい。反証するには、タイムマシンを発明して、「親殺しのパラドクス」のような事例を発生させるしかないけど、そんなことはできない。 現時点では例外は観測されていないから正しいとしか言いようがない。 上記HPの別解釈 >因果応報とは、「善い行いをすれば、感謝などの善い行いで返り、悪い行いをすれば、懲罰などの報いで返る」と、いう意味である。 確かに科学的では判断不能です。何しろ、科学的には善悪という概念は無いから。 でも、これを否定するということは、 「因果応報論による犯罪の抑止」を否定すると言うことと同義です。 よって、「どういう視点で見てもオカシイ」ということには該当しないので、愚の骨頂ではないということに。 >5:19  つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、 >和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 これって、 神を信じない者(たとえば仏教徒)に対しては神と人間は和解していない。 としか読めません。 和解していないなら、因果応報は生きています、よね?

bragelonne
質問者

補足

 masa2211 さん こんにちは。いつもご回答をありがとうございます。  (§ はじめに) そうですね。まづ最もべらぼうな話をすれば この質問には回答がつかないと思っていました。その点でも やはり投稿を受けるとうれしいですね。謝謝。  (§1) さてまづ定義ですね。ここで因果応報説――説です――の定義は 触れておられるヰキぺの次の解釈のことです。  ▲ 定義:《善い行いをすれば、感謝などの善い行いで返り、悪い行いをすれば、懲罰などの報いで返る》  ☆ 何故なら 趣旨説明で  ◆ 人々の罪の責任を問うことなく  ☆ ということ(その内容)に注意することができると言っているからです。つまりは 善因善果・悪因悪果という思想が 考察の対象です。絞られています。  (§2) ありがたいことに聖書の論理に従う場合には 愚の骨頂であるとお認めになったと受け取ることができることです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    >(コリント後書)5:19  つまり、神はキリストによって世をご自   分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたした   ちにゆだねられたのです。  これって、 / 神を信じない者(たとえば仏教徒)に対しては神と人間は和解していない。 / としか読めません。  和解していないなら、因果応報は生きています、よね?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち これを逆に受け取るなら  ○ 神を信じる者は 神と和解しており 《人々の罪の責任を問うことなく》という文字通りの事態を受け容れている。  ☆ となるでしょうから。  (§3) そのほかの論点はどうでしょう。(§1)の定義に対して  ★ 確かに科学的では判断不能です。何しろ、科学的には善悪という概念は無いから。  ☆ とあります。これは 定義を 主観的な思想に絞ったということをそのまま意味するでしょう。しかしながらこの論点に続く議論があります。  (§4) すなわち続いて  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  でも、これを否定するということは、  「因果応報論による犯罪の抑止」を否定すると言うことと同義です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは どうでしょう?  ★ 「因果応報論による犯罪の抑止」  ☆ という仮説を検証することが まづ必要でしょうね。しかもこの場合には 《科学的ではない》善悪の問題を いとも簡単に因果応報論に含めて論じておられます。  ともかくこのご議論は 簡単に片がつくとは思えません。たとえば  ○ では抑止されなかった犯罪は その行為者が 因果応報論を知らなかった(あるいは 知っていても無視した)ということになるか。  ☆ とも問わなければならないでしょう。《知っていても無視した》のなら 抑止説は根拠が薄弱になるでしょう。《知らなかった》場合 では 学校でおしえることになるのでしょうか? きわめてむつかしい問題をかかえていて いま簡単に答えを出せないでしょうね。  言いかえると 《愚の骨頂》説とそうではない説と どちらも可能性があるということになります。  (§5) ★ 《愚の骨頂と言うのは、「どういう視点で見てもオカシイ」場合に限られる》――☆ ということだそうですが 《どの視点で見れば おかしくない・つまりまともで妥当な考えだ》となるでしょうか? 《〈どう見ても おかしくない〉という場合は 見当たらない》ゆえ 愚の骨頂だと見なしても それほど間違ってはいないのではないでしょうか?  (§6) ちなみに ブッディストは 神ととは言わずとも ブッダと・あるいは世界と和解をしていないのですか? できないのですか? 出来たひとは これまでにいないのですか? そのあたりについても お聞かせ願えればありがたいです。  ★ 和解していないなら、因果応報は生きています、よね?  ☆ 因果応報説という愚の骨頂なる考えが 頭の中に沁み込んでいるので 和解できないままでいるのではないですか? そうですよね?  つまり  ★ よって、愚の骨頂と客観的に主張するだけの根拠がありません。  ☆ どころか あり過ぎるのではないでしょうか? 少なくとも 愚の骨頂だと主張しないための根拠がありません。  いかがでしょう。  * §4で 《愚の骨頂ではない》可能性も半半であると述べましたが これは 論理的なものに限られるでしょう。実際にはないと言うべきではないでしょうか?

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