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「和を乱す」「心がバラバラ」という言葉が嫌い

運動会や合唱コンクールで、生徒のタイプって分かれますよね。   ●はりきって、皆を仕切る者   ●ことさらに興味がない者 私はいつも後者だったので、前者の心理が謎なんです。 興味がなくても、サボるのは論外でしょう。 しかし、ふざけもせずにキチンと参加していても 「一生懸命さが足りない」と、心理面にまで文句を付けられることがあります。 どうも、淡々とこなしているのが気に入らないようです。 居残り練習を提案されたときに 「自由参加にしない?皆がこれを最優先に生活してるわけじゃない」 と言おうものなら、「心が一つになってない!」「クラスの和が乱れる!」 と吊るし上げに会います。 各自で予定もあるし、私としては真っ当な意見だと思うのですが。 こういうことが何度かあったので、 私は「和が乱れる」と口にする人間に、今でも良い印象を抱いていません。 教員をやっていますが、むしろ冷めた生徒に共感を感じてしまいます。 そこで分からないんですが (1)やることはやっているのに、なぜ心にまで注文を付けるのか?  それをあつかましいとは思わないのか? (2)自分の理想に、他人を巻き込むことに疑問を感じないのか?  「和」の名をかりた、単なる趣味の押し付けではないのか? (3)「和が乱れる」と、何かマズイのか?  個人主義者にとっては、団結しないのが普通の状態だが、特に不自由は感じない。 (4)相手の気持ちを考えろというなら、なぜ相手は我々の気持ちを考えないのか? 分かる内容だけでよいので、ご教授願えると幸いです。 あ、もうひとつ。 (5)時々「お前がネクラなんだ!」と中傷されることもありますが、  なぜ彼らは、そんなに自分の正当性を信じて疑わないのか?  これが例えば、「クラス単位で、テストの点で勝負!」とかなら、  一致団結して猛勉強するのか?しないでしょう?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • nandakka
  • ベストアンサー率23% (45/190)
回答No.4

私自身もどちらかと言うと質問者様に近いタイプなので 戸惑っておられることは分かる気がします。 反面、さめてる人に対するもどかしさも共感できる部分もあり、 どう考えればいいものかと思いながら、 質問者様の過去のご回答一覧を拝見しました。 その中に「自分でやりますと言って欲しい、と職場の先輩に言われた」 という方への「成長のための事柄には、無駄がつきものなんです」 という質問者様のお答えを見つけました。 もしかして、このお答えの中にご質問の答えがあるような気がするのですが、 いかがお考えですか?

yamsaru
質問者

お礼

ああ!ああなるほど!! そうですね!自分で言っておいて、その通りです! 今、ものすごい勢いで納得しました。 ありがとうございます!いや、本当に。

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その他の回答 (5)

  • g-space
  • ベストアンサー率44% (49/109)
回答No.6

 仕切る立場になってしまう(仕切る気満々でなるのではなく、必然的に自分に役回りが来る)人間として、クラスに限らず、参考意見を。 (長くなります) (1)  組織(クラス)全体での目標・目的があって何かをやろうとしているときに、「やることはやっている」という人がいれば、その人は不作為の足枷行為をしていることになります。何かをするということは、単に動いていればよいというのではなく、創意工夫の積み重ねで目的へと向かう(そうしなければ到達できない)のが普通ですから、やること(=言われたこと、求められたことだけ)はやっているという人は、「自分は考えないよ(=やる気がないよ)。だから勝手にやってくれ(=あとは自分の好きにするから放っといてくれ)」と言っているようなものです。それでは、組織(クラス、学校、地域社会、国、etc.)は機能を失います。結局、そこに属す一人ひとりの個人の"不利益"につながります。(念のため言っておきますが、組織とは最終的には個々の人間のためにあるものであり、組織のために尽くせとか生きろと言っているのではありません。好むと好まざると、人は組織というものの中でしか生きられません。ひとりで生きられるというのなら生きてみなさい・・・個人主義者は社会という組織に依存して生きている、そのことを忘れるな・・・ですね。) ですから、ただ機械のごとく動くだけで頭を使おうとしない人には、私も「やる気あるの?」くらいは平気で言います。 (2)  組織が何を目的とするかによりますね。既婚者を増やそうなどという個人の領域に踏み込むことであれば、余計なお世話ですし、ひとりひとりの生活を保障する(のが理想である)国という組織、その組織が基盤とする国土を"守ろう"ということであれば、多様な立場はあっても、背を向けることはできないでしょう(背を向けるのであれば、組織(学校、国など)に保護を求めてはいけません。世の中、ギブ・アンド・テイクです)。 (3)  「和」があることを前提にする考えがあるとすれば、私も反対するし、反発します。「和」というものはそこに当たり前にあるものではなく、様々な立場や考えの人が意見や主張をぶつけあった結果成り立つ「一時的な安定状態」に過ぎません。状況が変われば、「和」の中身はいかようにも変わるでしょう。(1)の「やることはやっている」という立場を取る人は、この「和」を成立させることを拒否する人です。  「和」をいうものを「一時的な安定状態」と見なし、この一時的な安定状態の上に一人ひとりの組織内での生活が成り立っているものとするならば、「和」を乱す人というのは、初めから他者と"妥協"する気のない人なんですね。もちろん、「やることはやっている」人はこの「"妥協"する気のない人」に含まれます。  再度言いますが、「個人主義者は社会という組織に依存して生きている。そのことを忘れて、自由だの不自由だの言わない方が良いよ」・・・ですね。 (4)  (1)~(3)までのことから、言うまでもないでしょう。 (5)  「彼ら」はどうか知りませんが、私は「民主主義の世の中でリーダーシップを取るなら、これくらいの気概(疑いの気持ちを持ちつつ正当性を押し出す気概)がないとやっていけない」と経験上思います。尤も、私は「お前がネクラなんだ!」とは決して言いませんが。  ちなみに、私自身は、ある意味「徹底的な個人主義者」です。放っといてくれれば、「仕切り役」「リーダーシップ」なんて面倒なものには関わり合いたくないという人間です。ただ、社会から切り離されたら生きていけないことも十二分に知っています。個人主義者であるために、組織を活かすこと、組織の中で生きていく術を知っているとでも申しておきましょうか。

yamsaru
質問者

お礼

いえいえ、長いだけに、大変丁寧で分かりやすいです。 特に最後の段落は、とても共感できました。 そういうことなのですね、なるほど…

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回答No.5

>なぜ昔から、こういう「団結信仰」は根強く残っているのでしょう? 結局社会にでたら、大半が一組織として動かされるし ある種の団体経験さす場なんですかね。 学校という組織の中にいる以上与えられた課題はしなければならないんじゃないですか。 「和」を感じたくもない と思う事は 悪 ではない、 でもそれを強いる組織にいる以上しなければならない。 となれば、しない事が 悪 で、しようとする事が 善 になちゃいませんか?

yamsaru
質問者

お礼

そうですね… でも、選択の余地がないのはちょっとどうなんでしょう…

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noname#86291
noname#86291
回答No.3

「みんなを仕切るけど本当は興味がない」者でした。 高校生くらいまでは気がつくとリーダーになってました。 大学以降は全然リーダーになることがないのでほっとしてます。 本当は全然リーダータイプじゃないので。 (1)やることはやっているのに、なぜ心にまで注文を付けるのか?  それをあつかましいとは思わないのか? 私がリーダーだったときは、私は一切そういうことを言わなかったのですが、なぜか嬉々として自分から「みんなで心をあわせよう!」とか「一生懸命やろう!」とか言いだす子って一人はいました。 すごい不思議でした。私は「部活と違ってクラスは嫌でもいっしょにいなきゃ寄せ集めの集団なんだから、いてくれるだけで感謝するべきところなのにな~」と思ってました。 そういうこと言う子って、あんまり人の気持ちを考えるのが得意じゃない子に多かったように思います。 「自分がこう思うんだから相手もそう思うだろう」って思って行動しちゃうタイプというか。 そういう人って大人になった今でもちらほらいますね。 なので、あつかましいと思わないというか、「それってあつかましい」と思うような人は、そんな押し付けしないと思います。 (2)自分の理想に、他人を巻き込むことに疑問を感じないのか? そこに疑問を感じる人は、他の人を自分の理想に巻き込もうとしないと思います。 ぶっちゃけ人を動かすのがへたっぴな人だと思います。 でもそういうのにカリスマ性を見出す人も多いからなんとかまわるんでしょうね。 (3)「和が乱れる」と、何かマズイのか? 何がまずいんでしょうね、ほんとに。 ただ、思うのは、日本の学校って、「和を乱さないようにみんなを注意する」ってすごく褒められる行為ですよね。 とくに小学校あたりでは、「みんなをまとめようとしてくれるいい子」って扱うと思います。 だから、「和を乱さないように注意する」=「素晴らしい行動」って刷り込まれてるのでは。 高校生くらいだとまだ学校の外を知りませんし、物事を判断する基準をあまり知らないので、「学校で褒められたか否か」を行動基準にしてしまう人も結構多いのだと思います。 (4)相手の気持ちを考えろというなら、なぜ相手は我々の気持ちを考えないのか? 相手の気持ちを考える人は「相手の気持ちを考えて」なんて言わないと思います。 相手の気持ちを考えていれば、わざわざ言葉に出して命令しなくても、「こうすればこう動くだろうな」ってわかりますから。 例えば、あんまり一生懸命やってない人に「忙しいのに来てくれてありがとう。練習に来てくれるだけでみんな助かるよ」って本当に感謝して言えば、その人の場合は次回もちゃんと来てくれるとか、いろいろやりようがあります。 こういうことを言葉で言っちゃう人って、あんまり人のことを見る力がなんでしょうし、人を動かす力もないんだろうなぁって思います。

yamsaru
質問者

お礼

おっしゃることが、いちいちうなずけます。 人を動かすコツを、心得ていらっしゃったようで 回答者さまのような人が仕切れば、 参加する側も、気持ちよく過ごせるでしょう。 教え子達にも、そういうことを考えてみるよう、伝えてみます。

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  • Kules
  • ベストアンサー率47% (292/619)
回答No.2

そんなに張り切ってないけど何となく仕切る側にまわることがある人間です。 >興味がなくても、サボるのは論外でしょう。 はりきってるけど遊んでたりする人もいます。そういう人を注意せずにあなたを責めるような人の相手をする必要はないですし、気にする必要もないでしょう。 運動会とかはよくわかりません。それほど身体能力に恵まれてなかったのでリレー競技などでも期待されていませんでしたし。ということで合唱コンに絞って話をします。 (1)やることはやっているのに、なぜ心にまで注文を付けるのか? 残念ながらやることをやっていません。気持ちを入れて歌わないと合唱にはならないです。全く心を込めずに歌っても周りの人が聞き惚れてしまうぐらい歌がうまいというなら話は別ですが。 >(2)自分の理想に、他人を巻き込むことに疑問を感じないのか?  「和」の名をかりた、単なる趣味の押し付けではないのか? これに関しては同感です。もちろん音楽好きとしてはぜひともみんなに全力で取り組んで欲しいですが、強制しても「和」は生まれません。(1)に対する答えと矛盾しているように感じるかも知れません。事実矛盾していますし、こういう行事を頑張る私にとってはジレンマでもあります。 >(3)「和が乱れる」と、何かマズイのか?  個人主義者にとっては、団結しないのが普通の状態だが、特に不自由は感じない。 まずいでしょうね。合唱をやる以上「調和」がないと成り立ちません。「調和」は、「みんなで合わせよう」という気持ちがあるからこそ達成されるもので、「やることはやっている」などと考えている人がいてはできません。 >(4)相手の気持ちを考えろというなら、なぜ相手は我々の気持ちを考えないのか? これは同感です。(2)でも書きましたが、私はみんなの積極的な参加を望みますが強制はしません。積極的に参加しない人がいれば「このクラスはこの程度か」と思うだけです。 >(5)時々「お前がネクラなんだ!」と中傷されることもありますが、  なぜ彼らは、そんなに自分の正当性を信じて疑わないのか? この中傷の仕方はおかしいですね。しかしクラスの大多数が本気でやる方に流れればそれが正当化されてしまうのがクラスというものです。個人主義の人と相容れない部分でもあります。 >これが例えば、「クラス単位で、テストの点で勝負!」とかなら、  一致団結して猛勉強するのか?しないでしょう? 「1組から5組までの平均点でクラスで勝負。1位のクラスには賞品が出ます!」とかでその賞品がすごく魅力的なら一致団結して勉強するんじゃないでしょうか。積極的に参加せずクラスの平均点を下げようもんなら袋叩きにあうかも知れませんね。 度重なるご無礼お許しください。参考になれば幸いです。

yamsaru
質問者

お礼

回答ありがとうございます。そういう言い方なら、理解できます。 ちなみに、細かいことで恐縮なんですが… 「このクラスは『この程度』か」というのは、 見下しの意味があるのでしょうか? つまり「積極的になるべきなのに、そんなことも分からん奴ら」 という意味なのですか? もしそうだとすれば、「興味がない」という立場の人への 侮辱になると思うんです。 Aさんの意見「ぜひやりたい」と、Bさんの意見「興味が無い」は 同等の重さを持って、扱われるべきでしょう。 そこに、優劣などないと私は考えます。 勘違いでしたら、失礼しました。

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回答No.1

運動会や合唱コンクール ↑はチームプレーですね。 クラス単位で、テストの点で勝負 ↑は個人プレーですね。まず別物です で、 チームプレーはそれに欠かせない「和」が大事になります。 そこにいるだけじゃダメなんです。 皆で「和」を作る意味は「和」が成立した時にしかわかりません。 それ自体を拒むなら、仕切ってる人に噛むのではなく その行事を発起したものに意見するべきです。 私は特に仕切る側ではないですが。。。

yamsaru
質問者

お礼

う~~ん。どう言えばいいか… 二人の意見が対立して、 お互いに意見が排他的だったとしますよね。 Aさんの理想には、Bさんの協力が要る。 Bさんの理想は、「興味ない。放っておいて欲しい」。 ここでAさんにできるのは、「お願い」することだけだと思うんです。 勝ちに行きたくても、Bさんがどうしても乗ってこなければ 「しょせんお遊び」と意識を切り替えるべきではないでしょうか? 参加し、役割を果たしているだけで、「和」にはならないんですか? 「和」そのものに意味を感じない人間は、変なのでしょうか? 個人的には、自由参加にすべきだと思うんですが、 一教員にすぎないので、どうこうすることはできません。 なぜ昔から、こういう「団結信仰」は根強く残っているのでしょう?

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    運動会、体育祭、文化祭、合唱コン、絵画コン、マラソン大会、修学旅行… やりたい奴だけ集まってやればいいのに、何でやりたくない奴まで巻き込むの? 「思い出が残る」と言ったって、残る思い出が良い物ばかりとは限らない。 クラス一丸となってやりきったからって、所詮他人なんだからクラスがまとまる訳じゃない。 「やる気がある奴vsない奴」みたいな下らない争いも、自由参加なんかならまず起こらない。 やりたくもない行事の為に放課後居残りで練習とか、そんな無駄な時間を使う事もない。

  • 和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・

     ・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。:(α)  この(α)の命題についてお考えになるところをおしえてください。  参考になるかどうか 聖徳太子についての批判をつづります。  ・論文:聖徳太子は ただのくそったれ  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~  一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 最後の一文は いわば民主主義に通じる自由な言論 これを 基礎とすると言っています。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。    ▲ (五箇条の御誓文)  一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ    (2) 次に 同じ最後の一文の中からですが   ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて   ☆ については 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが:   ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~   【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に     《このころ聞く 諸国の役民 造都に労れ 奔亡するものなほ多し。禁ずと    雖も止まず》。    とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・   【上田正昭】 その翌年の正月にも      《諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日 食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。    溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの その類少なからず》。   というのが出ていますね。   【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。   【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。      《草枕旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か        国忘れたる 家待たまくに》  (万葉集 三・426)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (3) その(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。   ▲ (万葉集 三・415) ~~~~~~~     上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死(みまか)れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首      家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ     草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとに帰って行きなさいと声をかけていますが 聖徳太子の歌では ああ かわいそうにとだけ言っています。  (4) ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  ☆ と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。まねをして和をとうとぶと言われても けっきょく 人びとよ自分たちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。  (5) 聖徳太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになりそこで前者に味方し 後者の物部守屋を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらってもねぇ。  権力は握った もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。  (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。  (7) しかも・しかも 聖徳太子の場合には みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだとか。ちゃんちゃらおかしいわい。  (8) 人麻呂スサノヲの心意気なら 先の(α)の命題を飲みませんか?

  • 勉強嫌い克服

    大学生の者です 自分は典型的な勉強嫌いで、机に座って、勉強をするのをとても嫌っています 勉強をするのはテスト前のちょっとした期間や一夜漬けをする時くらいです 自分では勉強の重要性を強く感じていますし、興味のある教科・分野であれば、それなりに主体的に勉強をすることもあります しかしながら、そういうことは稀で、やはり根本には「勉強から逃避」という心理があり それ故に、「勉強しよう」と心に思いながらも、最終的には「何もせず」に一日が終わることが多々あります。 どうすれば、いわゆる「勉強の習慣」というものを身につけることが出来るでしょうか? (抽象的・精神論的(がんばる・やるしかない等)なことではなく、具体的な方策を示していただけると幸いです)

  • 心が狭い彼氏

    付き合って3年、お互い20代後半です。 付き合った頃フリーターだった彼氏が就職して2年経ち、そろそろ結婚を考えているのですが、度々彼氏の心の狭さが気になります。 例えば、、、 (1)スーパーでお菓子の詰め合わせをしている場所があり、袋を広げながら一生懸命詰めている主婦を見ながら彼氏が「あんなの一生懸命にやったってモト取れないだろ。真剣にやってバカじゃねーの。やるだけ無駄だろ!」という言葉を相手に聞こえるほどの大きさで喋ります。主婦の方に睨まれたので、私は慌てて「でも◯個以上入れば得だよー?」と言いますが彼氏は「いや、無理だろ」と笑うだけでその場を後にしました。私としては詰め合わせをやるかやらないかは個人の自由ですので何とも思わないのですが、わざわざ大声で主婦をバカにする心の狭さに呆れます。 (2)車を運転していて、トロトロ走る高齢者に「ジジババが運転してんじゃねぇーよっ」や、無茶な割り込みなどしてきた女性ドライバーを顔を見ずに「ふざけんなババァ」など車内で悪態を吐きます。私としては譲り合いの運転が出来ていない彼氏に呆れます。 (3)ビュッフェなどで大盛りをバクバク食べている体が大きい人に対して、ギリギリ聞こえないくらいの声で「デブが!そんなに食うからデブなんだわ!」と言ったり、、、 このように、人は人!自分は自分!と考えて相手にしなければ良いのに、彼氏はすぐ人を馬鹿にします。(2chのまとめなど好きな人です) 幸い私に対しては馬鹿にする言動はありません。おそらく自分の基準より少しでも逸脱する行為の人を見るとダメなんでしょうね、、、 彼氏と付き合い始めてから、タバコを辞めさせたり、就職させたり、食生活を改善したりなど、努力してきたのですが、さすがに性格まではなかなか治りませんね、、、彼氏の心構えを変えさせるアドバイスは無いでしょうか? お願いしますm(_ _)m