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「和を乱す」「心がバラバラ」という言葉が嫌い

g-spaceの回答

  • g-space
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回答No.6

 仕切る立場になってしまう(仕切る気満々でなるのではなく、必然的に自分に役回りが来る)人間として、クラスに限らず、参考意見を。 (長くなります) (1)  組織(クラス)全体での目標・目的があって何かをやろうとしているときに、「やることはやっている」という人がいれば、その人は不作為の足枷行為をしていることになります。何かをするということは、単に動いていればよいというのではなく、創意工夫の積み重ねで目的へと向かう(そうしなければ到達できない)のが普通ですから、やること(=言われたこと、求められたことだけ)はやっているという人は、「自分は考えないよ(=やる気がないよ)。だから勝手にやってくれ(=あとは自分の好きにするから放っといてくれ)」と言っているようなものです。それでは、組織(クラス、学校、地域社会、国、etc.)は機能を失います。結局、そこに属す一人ひとりの個人の"不利益"につながります。(念のため言っておきますが、組織とは最終的には個々の人間のためにあるものであり、組織のために尽くせとか生きろと言っているのではありません。好むと好まざると、人は組織というものの中でしか生きられません。ひとりで生きられるというのなら生きてみなさい・・・個人主義者は社会という組織に依存して生きている、そのことを忘れるな・・・ですね。) ですから、ただ機械のごとく動くだけで頭を使おうとしない人には、私も「やる気あるの?」くらいは平気で言います。 (2)  組織が何を目的とするかによりますね。既婚者を増やそうなどという個人の領域に踏み込むことであれば、余計なお世話ですし、ひとりひとりの生活を保障する(のが理想である)国という組織、その組織が基盤とする国土を"守ろう"ということであれば、多様な立場はあっても、背を向けることはできないでしょう(背を向けるのであれば、組織(学校、国など)に保護を求めてはいけません。世の中、ギブ・アンド・テイクです)。 (3)  「和」があることを前提にする考えがあるとすれば、私も反対するし、反発します。「和」というものはそこに当たり前にあるものではなく、様々な立場や考えの人が意見や主張をぶつけあった結果成り立つ「一時的な安定状態」に過ぎません。状況が変われば、「和」の中身はいかようにも変わるでしょう。(1)の「やることはやっている」という立場を取る人は、この「和」を成立させることを拒否する人です。  「和」をいうものを「一時的な安定状態」と見なし、この一時的な安定状態の上に一人ひとりの組織内での生活が成り立っているものとするならば、「和」を乱す人というのは、初めから他者と"妥協"する気のない人なんですね。もちろん、「やることはやっている」人はこの「"妥協"する気のない人」に含まれます。  再度言いますが、「個人主義者は社会という組織に依存して生きている。そのことを忘れて、自由だの不自由だの言わない方が良いよ」・・・ですね。 (4)  (1)~(3)までのことから、言うまでもないでしょう。 (5)  「彼ら」はどうか知りませんが、私は「民主主義の世の中でリーダーシップを取るなら、これくらいの気概(疑いの気持ちを持ちつつ正当性を押し出す気概)がないとやっていけない」と経験上思います。尤も、私は「お前がネクラなんだ!」とは決して言いませんが。  ちなみに、私自身は、ある意味「徹底的な個人主義者」です。放っといてくれれば、「仕切り役」「リーダーシップ」なんて面倒なものには関わり合いたくないという人間です。ただ、社会から切り離されたら生きていけないことも十二分に知っています。個人主義者であるために、組織を活かすこと、組織の中で生きていく術を知っているとでも申しておきましょうか。

yamsaru
質問者

お礼

いえいえ、長いだけに、大変丁寧で分かりやすいです。 特に最後の段落は、とても共感できました。 そういうことなのですね、なるほど…

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  • 和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・

     ・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。:(α)  この(α)の命題についてお考えになるところをおしえてください。  参考になるかどうか 聖徳太子についての批判をつづります。  ・論文:聖徳太子は ただのくそったれ  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~  一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 最後の一文は いわば民主主義に通じる自由な言論 これを 基礎とすると言っています。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。    ▲ (五箇条の御誓文)  一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ    (2) 次に 同じ最後の一文の中からですが   ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて   ☆ については 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが:   ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~   【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に     《このころ聞く 諸国の役民 造都に労れ 奔亡するものなほ多し。禁ずと    雖も止まず》。    とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・   【上田正昭】 その翌年の正月にも      《諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日 食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。    溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの その類少なからず》。   というのが出ていますね。   【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。   【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。      《草枕旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か        国忘れたる 家待たまくに》  (万葉集 三・426)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (3) その(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。   ▲ (万葉集 三・415) ~~~~~~~     上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死(みまか)れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首      家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ     草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとに帰って行きなさいと声をかけていますが 聖徳太子の歌では ああ かわいそうにとだけ言っています。  (4) ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  ☆ と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。まねをして和をとうとぶと言われても けっきょく 人びとよ自分たちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。  (5) 聖徳太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになりそこで前者に味方し 後者の物部守屋を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらってもねぇ。  権力は握った もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。  (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。  (7) しかも・しかも 聖徳太子の場合には みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだとか。ちゃんちゃらおかしいわい。  (8) 人麻呂スサノヲの心意気なら 先の(α)の命題を飲みませんか?

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