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本当の宗教

noname#107497の回答

noname#107497
noname#107497
回答No.12

宗教と科学の違いは、「目」にあるでしょう。 私の知っている範囲なので、間違った部分もあるかもしれませんが、 電気を発見したのはエジソンだったと思います。 電気は+からーに流れるとエジソンは言った。 その後、電気は、電子の移動であり、電子の移動は-から+になるとした。 森鴎外は、ビタミンの存在を認めなかった。 脚気の原因がビタミン不足であると認めなかった。 何を言いたいかと言えば、目、つまり、「認識」にあります。 物事は、 条件と法則で結果が生じます。 理想の結果にするためには、条件(状況)を把握し、理想の結果にするための決断・行動をする必要があります。 私は、センス、運と言っているのですが、どんなに条件、状況を把握しようにも、すべてを把握しきれません。 1つの誤算が失敗になるし、 信じて運に身を任せる時しかない時もあります。 認識の限界、人間の限界。 人間は、その限界をなんとか乗り越えようとしてきました。なんて、カッコイイことを書いているが、 特定の人が、物事の真理や深く細かい認識を求めため、 電気の流れが電子の移動であり、 脚気の原因が、ビタミン不足と解った。 宗教が不確かなのは、その法則や道理、あるいは信じなければならないことの条件の要素があいまい過ぎるという点でしょう。 目に見れる物質は、基本的に、細かい物が集まった出来たものです。 しかし、宗教の人間性や運気、健康気などは、目に見えるものでないです。ですので、条件と道理によって結果がなると捉えにくい。 宗教を信じる価値がない。それは上記のこともありますが、それ以上に理由があります。 人間は、悪魔、鬼、下衆な笑いのもとの人食う者です。 それを我慢し、しない者 それを愚かと思い、しない者 それを当然と思いする者 それ直接的にはしないが、そうする者 意識しなくてもしてしまっている者などなどがいると思いますが、人喰う悪魔な人間もこの世には存在します。 そういった人間にとって、宗祖や宗教による得る権力も、自分の欲望を満たすための有効な選択肢の1つです。 つまり、そういった人の元で行う宗教は不幸な事が多いでしょう。小さな幸せを得ると共にいつのまにか背負いきれない不幸に押しつぶされるでしょう。 それとは別に、世の中には、愚か者がいます。私もその一人です。 ある次元の人間は自分が愚か者だと認めたくない。 苦とはなにか、宗教とは何か、宗教の価値はなにか、自分がしていることの価値はなにか、 そして、自分が幸せ、良いと思っていることは、長い未来において本当に幸せ、良いことに続いているのか、 を考えない人もいます。 正しいことは正しいと思い、信じきる。信じきった瞬間、その人にとって、それは信じている事ではなく事実になる。 小学校の理科の教科書、それに書かれているか、自分で確認したことではない。実験もしてない。しかし、それが正しいことだと思い、事実だと思い、知識とする。 まあ、それは、その内容の信憑性が高いから。というのは大人の意見で、子供は疑わない傾向になり、覚えたものが良い子であるとされているから。 分数の割り算は逆数にして計算する。これを問う必要は無い。その説明を知る必要も無い。計算方法さえ知れば、テストでは100点は取れないかもしれないが、良い点は取れるようになる。 条件があり、法則があり、結果がなる。 そして、それを適切に使いこなし、人に対し施せる人は、その人を幸せにする力を持っている。 しかし、これだけは、足りない。 何が幸せかを知り、何が大事か、大切かをきちんと捉えている必要がある。 この2つが備わるなら、宗教は、科学であり、その科学を手にするなら、幸福になる。 故に、信じることにあらず、修得することにある。 しかし、今の科学の世界と同様、1から実験し、覚えていたのでは寿命が先にきてしまう。だから、ある程度は信じる必要がある。(事実と思い込まない程度に) と書けば、宗教を信じることもまんざら悪いことのないように思える。 しかし、人間は愚かである。たくさんあるから書ききれないし、自分ですべて把握はしていない。 その1つに麻薬的快楽執着がある。 麻薬のように、 禁断症状から脱するように 麻薬を求め 快楽を得て 自己破滅する。 私は、それを麻薬的快楽執着と名付けました。 人は、生きていれば、恐怖、恥、苦痛、不安などの拒否したいものが生じる。その拒否したいが故に自分の身にならないことを求めてしてしまう。 幸せになるということは決して、 恐怖、恥、苦痛、不安などから逃げるようにして満たすことではない。 恐怖、恥、苦痛、不安を克服し、 良質に生きようとすることだと自分は思っています。 人の多くはこれに弱い。弱いからこそ、組織の中に入ると、信じずにはいられなくなる。いや、それを正しいと思い込む、思い込みたい、または、違うと思いたくない。そうしないと人から認められないから、そうすることで自分は良い子だと思えるから。 そして、上に立つ人も同じである。自分はこの立場であるからこうしなければいけない、以下略として、結局、自分は良い子でありたいとする。 以上の事を踏まえれば、宗教に入ることは、荒唐無稽な事を教え、あるいは行動し、自分のためにはならない。だから、宗教はするべきはないと思う。 しかし、人生の価値や大事な事、大切な事、救われることを求めるのが人間である。 人生の価値を求める人は、虚しさの苦痛に悩まされ 大事な事や大切な事を求める人は、物事の深さに悩み、あるいは、楽しければ良い第一主義に馴染めず、 救われることも求める人は、幸福になる運命や因縁の壁を乗り越えられない人 つまり、言い換えれば、その人にとってこの世は地獄である。言葉の印象の強い、弱いがあれど、幸せに満ち足りぬもの、あるいは、苦しみから抜け出せないということ。 そこに、現在の解っている科学では役に立たず、その範囲から外れる、宗教や霊的なもの、超常現象に目を向ける。 しかし、上記に書いたように人の中には悪魔なような人、愚か者がいて、その人方に騙されるかもしれない。しかし、中には違うかもしれない。 それでも信じるなら、それは「ギャンブル」。 ちょっと違った視点で現実を見るなら、現実は不透明である。 進路、就職、結婚、夢、さらには日常の小さな選択、決断、それが、自分にとって幸せになる道なのかと問えば誰しも絶対的な答えを出すことはできない。それでなんとかなるかもしれないという点でするギャンブル。 宗教を信じるということは、 人生において救われるかもしれないというギャンブルに賭けること。 まあ、それで救われるかどうかは、その人の運命や運性が必要不可欠ですが。 と前を置き、質問の回答 >本当の宗教はありますか? 私には解りません >真理を扱っている宗教ってありますかね? 私には解りません。 >僕は宗教は多かれ少なかれ、証明不可能な(以下略) 宗教を信じる人は学ぶ立場と修得する立場であり、 教える側は、法則を教える立場にあります。 教える側は、研究しようと体制ではありません。 まし、そんな体制なら、教えはブレます。 そして、それは、開祖からの教えが曲がっていく事です。 >宗教に入るなら信じなくてはいけない。だから信仰なんでしょうか? そうです。ですが、信じきる必要はないです。 信じきらなければならないと思うのは、信じる人の弱さであり、 信じきらさせ なければならないというのは信じさせようとする人の愚かな行為だと私は思っています >なんらかの宗教に入っていて幸せだと感じていますか? 私はある仏教の宗教に入っています。以上に書いたことは宗教に入ってから身に染みて感じたことです。 >その宗教は荒唐無稽な事は教えていませんか? そう思えることもあります。しかし、そう思えないこともあります。だから、それが解ろうと時間を費やしています。しかし、それが報われるかどうかは私には解りません。報われることを「願う」だけです。まあ、けっこう報われています。 >完全な宗教を求めようとすること自体が間違いなのでしょうか? 間違いというより不可能に近いと思われます。 質問者さんが、完全な宗教が解ることができるのか? または、完全な宗教を提示されたとしても、信じる域が出ない範囲が出てくるのではないでしょうか? 完全な宗教というより、質問者さんによって実際にやってみるだけの納得のいく説明ができる宗教、宗教をする人に巡りあえるかどうかの問題だと思いますが、これは運としか良いようがありません。 長文、散文ですが、質問者さんの人生の何かになれば幸いです。

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