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モーセ5書(トーラー)の時代錯誤とは?
taco8chの回答
- taco8ch
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五書がモーセの手によるものという神話は、 たとえば、エズラ6:18、ネヘミヤ13:1などに「モーセの書」という表現、 ネヘミヤ8:1にみられる、「朝から晩まで朗読した」何か、 「モーセの律法の書」などの表現に根拠をおいて、 もちろん、モーセという巨人の伝説も折り合わさって形成されたのではないかと思います。 ほか、ネヘミヤ8:18では「神の律法の書」、9:3では「ヤハウェの律法の書」なども見えます。 ただ、当時のユダヤ人の間でトーラとされていたものが、今日のそれのように、 律法に加えて神話や氏族物語の数々までをも含んでいたのかどうかまでは分かりません。 個人的にうがった見方ですが、聖書というものを金科玉条のごとくにするキリスト教と多少違って、 ユダヤ教はもう少し聖典に対して柔軟性を持っているのではないかと思います。 たとえば、律法に書かれてあることでは十分に対処できない事態が生じた場合、 キリスト教はしばしば頑迷なほど聖書に固執します。 神の言葉に解決策が見出せないのは聖書の不備ではなく、解釈する側、信徒の側の不備、 ひどいときには祈りや信仰心の不足などという暴力的な理屈が振り回されます。 これに対してユダヤ教はとことんまでその神の言葉の回路を組み替えて対処を試みます。 先人の議論に加えて新たなる議論を重ね、これを注釈し、ときには解釈しなおし、 そしてともすれば聖書に勝るとも劣らない新たな優れた「言葉」を加算します。 ――逆に言えば、絶え間なく新たな聖句を生み出すことにもなるのですが―― こうしたことは、今日でも行われているはずです。あいにく知人にラビはいませんが・・・ こうした習性といいますか、ともすれば教義の再構築をやすやすと許容する柔軟性は、 オリエント各地に散在し、あるいは交通し、奴隷となり、勝ち組となり、 異色の文化風習を硬に軟に仕込まれつづけた彼らの、 生き抜くために編み出した技術だと思うわけですけど。 このことに関して付け加えれば、しばしばユダヤ教とキリスト教では、 前者が後者に先立つ母体みたいな言い方をします。 西洋絵画などにも旧約と新約を比較して、古いモーセと新しいイエスという主題が描かれ続けましたが。 これは少なくとも両者の一側面をしか捉えていないように思います。 キリスト教に先立って(今日の)ユダヤ教があったことは間違いのない歴史的な事実ですが、 一方で今もなおユダヤ教は作り変えられ、進化し、生き続けているという事実もあります。 それはたとえばユダヤ教の事実上第二の聖典とも言えるタルムードが、 新約ののち数百年を経て完成されたことを見ても分かると思います。 さて、話がずいぶん逸れましたが、以上を踏まえて予測するのは次のようなことです。 五書は、おそらく、モーセやその弟子といったせまい世代の手によって書かれたものではなく、 相当の長い年月の間に、相当の人数の手を重ねて今日の形になったのではないかということです。 たとえば神話や律法内容やその表現、使用される語彙に明らかな重複箇所がある場合、 正確を期すため「一説に曰く」式に両者を盛り込み併記したとか、 同じ事件を別の違った観点から捉えたというこじ付けではなく、 その時代のその場所によって、多くの人、時には権力者、時には名もない人、の手を経ている傷跡なのだと思います。 まとめられては破棄され、破棄されては回復され、あっちから集め、こっちに移されを繰り返し、 今日の私たちの手元にあるのではないかと思います。 そもそも、律法集なんてものは、神の言葉以前に、 個人の人生から民族存続にいたるまでに生じるさまざまな問題や脅威に 果たして如何に対処するかということを収めた、 巨大マニュアル集としての側面がある以上、膨大な時間経過が必要なはずです。 貧弱なデータ量の統計なんて信頼が薄くて重宝するに値しないわけですから。 もちろんこうした膨大な時間量の視野は、#2にもあるような太古の神話群にも注がれていたはずです。 膨大な時間に負けず劣らずの、広大な平面が五書とくに創世記や出エジプト記などには窺えるのではないでしょうか。 翻ってみると、こうした膨大なデータ群の編集者が、 モーセ個人か、せいぜいその周辺のわずかな人々の手によって、 ここ最後に至って編集されたというのは、むしろ表現の問題としてなお信じがたくもあります。 ましてやユダヤ人が出エジプト以前にもオリエント世界のあちこちにいたとすれば なおさら、「小さくまとまった五書」よりも「ダイナミックに展開する五書」という聖典像が相応しいのではないでしょうか。 勝手な自論だけを展開してしまいましたが、 最後に、ご質問のイブン・エズラを皮切りに、 16世紀のカールシュタット、17世紀以降の、ホッブス、スピノザ、サン・シモンなどの偉人たちが 「信仰深い」キリスト教徒の迫害に苛まれながらも、五書にさしはさんだ重大な疑問の数々は、 近代以降、今日にも受け継がれて、あれがそうだ、これがそうだの状況といったところでしょう。 たとえば、#1の指摘にあるように、 申命記の終わりモーセ自身の死を思わせる下りの存在は、やはり大きな事実で、 後のモーセの弟子が書き足したとするよりは、 やはり五書がモーセの手によるわけではないということの事実に牽引されてなりません。 ちなみに申命記34章5節には、 「こうして主のしもべモーセは主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ」の言葉があります。 その後の記述は、おそらく葬式を意味するのでしょうか。 余談として、今日こそ「モーセ五書」で落ちついていますが、 ある時期には「モーセ四書」とか「モーセ六書」などと捉える見方もあったようで、 要するに、モーセ五書にモーセの死があることによって、 はたして文書群の「切れ目」がどこか分らないということなのでしょう。 加えて律法には、ホームレスだったはずのモーセとその一群にはふさわしくない、 農事規定が細かに記されており、定住して農業に従事している時代状況を前提としているように見えること。 (もちろん抜け目ない聖書には「神がこれから与える土地は・・・」というお断りつきですが) 入植以前にもかかわらず土地所有と振り分け、嗣業地について記されていること。 入植以前に、頻繁に斥候を放っていた記述がありますが、それにしては都合がよすぎる。 のみならず、すでに彼らの間に債務や貧富の差が生じ、その対処が社会問題となっていること。 ご存知のように、貧富の差を生む主たる要因は、作物などの余剰生産物の偏った蓄積に生じますが、 エジプトからトンズラする際、がっぽり分捕ったとはいえ、 空飛ぶ白カビが主食の彼らに余剰生産物があるとは考えづらいこと。 さらには、外国人との利害関係が問題となっている。 すでにユダヤ人と外国人との間に既得権益をめぐって、 対立を孕んだ共生が生じていたことがうかがえること。 などなどだと思います。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 <農事規定が細かに記されており、定住して農業に従事している時代状況を前提としているように見えること。> 確かに、ここはツッコミべきなのかも? <入植以前にもかかわらず土地所有と振り分け、嗣業地について記されていること。> 確かに、地理的知識に関しては、前々から気になっています。 エジプトからイスラエルに向かって移動したモーセにしては、創世記のセム・ハム・ヤフェトの子孫が、何々の国民の先祖になったという件で、タルシシュってスペイン?(偶然タルシシと似ているだけ?) ヤワン=イオニア人って事はギリシア? だとか、気になりますが、当時の教養レベルなんてわかりませんしねえ、、、。 <のみならず、すでに彼らの間に債務や貧富の差が生じ、その対処が社会問題となっていること。> ああ、そういえば、色々と細かいですよね。 何年か起きに借金を帳消しにするだとか、、、。 <などなどだと思います。> 確かに、色々と想像力がたくましいと考えるべきなのか、入植後に書かれたと考えるべきなのか? するどいツッコミありがとうございます。 改めてご回答ありがとうございました。