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モーセ5書(トーラー)の時代錯誤とは?

こんにちは、ミルトス・ヘブライ文化研究所編のヘブライ語聖書対訳シリーズの1巻の巻末の解説によれば、 ~~~引用~~~~~~ 12世紀のユダヤ人聖書学者、アブラハム・イヴァン・エズラは、初めてモーセの五書に疑問を呈した、モーセの作と言われる5書の中にモーセ以降の事実が記されており、時代錯誤(アナクロニズム)の矛盾に気づいたのであった。 ~~~~引用終わる~~~~~ と記されていますが、具体的にはどんな時代錯誤があったのでしょうか? 浅学の私としましては、バベルの塔が出てくるからかな(単に同名の塔が出てきたという可能性もありますが、、)?位しか思い浮かばないのですが、他にもあるでしょうか? よろしくお願い致します

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noname#82568
noname#82568
回答No.7

こんばんは また来ました。 もしかして、これですかね? 創世記36章31節 イスラエルの人々を治める王がまだいなかった時代に、 エドム地方を治めていた王たちは次のとおりである。 この「イスラエルの人々を治める王がまだいなかった時代に」 というのは。。。たぶん、王が登場してからの記述ですよね 間違っていたら、すみません。 あと今回の質問がきっかけで、いろいろ調べていたんですが。。。 申命記16章18節 あなたの神、主が部族ごとに与えられるすべての町に、 裁判人と役人を置き、 正しい裁きをもって民を裁かせなさい。 これはどうも裁判所の制度があったみたいですね。 それからwikipediaによると 文書仮説というのがあるそうですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E6%89%B9%E8%A9%95 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%9B%B8%E4%BB%AE%E8%AA%AC クネセト・ハッ=ゲドーラー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%8D%E3%82%BB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%83%EF%BC%9D%E3%82%B2%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC たとえ神もメシアもいなくても トーラー(律法)とそれに関する制度はありますね。 今回それに気づかせてもらいました。

zatousan
質問者

お礼

こんにちは、 <創世記36章31節 イスラエルの人々を治める王がまだいなかった時代に、 エドム地方を治めていた王たちは次のとおりである。> これは、意外な発見です。 ここまで致命的な間違いをするのだろうか???と思い、、、何回も前後の文脈を読んで見ましたが、、、やっぱり、おかしいですよね。 サムエル記を読む限りでは、元々は王をイスラエルに置く気は無く民が王を欲しがる余り、、、やむやむサウルを先ず始めに王に立て、、、となっているので、、、モーセがイスラエルに王を立てようとしていたとは思えず、、、聖職者による、神の律法による統治を目指していたように感じます(結局、憶測なんだけど、、、。) これは、、、、後世の挿入の可能性大ですね。 他にも、王制に関する事で、ヤコブが12支族を祝福(?)して言った言葉の中に、「ユダが王杓を握る」だとか王家に関する予言が有りますが、、、、これは、後世の挿入の可能性と『予言的中!?』の可能性の二つが有りますからね~。 こちらはあんまり致命的な時代錯誤とは言えませんが、、、、。 <間違っていたら、すみません。> そんな事、誰にも分かりません。 <これはどうも裁判所の制度があったみたいですね。> これは元々、モーセが荒野を民とさまよっている最中に、一人であれこれ支持していたところ、舅に「百人の長、千人の長を、、、、(中略)、、、、小さな問題は民同士で解決させましょう。」とアドバイスさせられていて、モーセ自身も同意してそういう制度を作くったようですね。 <文書仮説というのがあるそうですね。> 少しだけですが、これは知っていましたが。 高等批評は、知らなかった!!!! クネセト・ハッ=ゲドーラーですか、、、もう少し、ユダヤ文化を勉強する必要がありそうです。 ご回答ありがとうございます。

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  • kigurumi
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回答No.8

No.6のkigurumiです。 <トーラはモーセが書いたものではない>というのは本で読んだことがあります。 文字があまりにも変化しすぎているからだそうです。 少なくとも、ヤハウエスト、エロヒストなに3者以上の手によって書き変えられているのだとか。 ですが、それであっても、たとえ時代錯誤の箇所があっても、神からの啓示であることには変わりが無いのだそうです。 http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%B3-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%88-%E3%82%A2%E3%83%99%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%82%B9/dp/4042847013。 という本にそういうことが書いてありました。 (筆者は哲学者。その父親は高名なユダヤ教の思想家(哲学の教授)) >いえいえ、私が証明が難しいと言ったのは、地軸の方角と宗教の関係です。 >世の中にはユダヤ・キリスト教以外にも宗教がありますから。 え? 別に腑に落ちないことないです。 クムランシリーズの第三弾は日本が舞台だそうです。(未訳) サブタイトルは<最後の集落>だそうです。 つまり、世界最初の文明メソポタミアからエジプト、インド、中国と移動していったが、その中の一グループはとうとう一番東の日本にたどり着き、太陽信仰を広めたってことでしょうか。 その一グループはユダヤ教の色が濃かったようです。 神道の服は、古代ユダヤ教の祭祀の服と同じ。神道の神社につるされているのは生命の木。過ぎ越しの祭りは日本にもあることからも、そう言える。 映画で例えるなら、もっとリアリティーが増すでしょうか? カタカナはヘブライ文字の内の一種類と同じ。 マトリックスという映画の冒頭で緑のカタカナが描かれているとかありましたが、あれ日本のカタカナじゃなくてヘブライ文字。 どうです? 人が移動して、少しずつ内容がズレていくわけです。 人はインプットされたものをそっくり出力できない。 理由は脳がそういう作りだから。 正確に出力できない代わり、人間は創造ができる。 だから、物語を変化させ、自分たちで使われている名前を主人公にした物語にした。 だけど、オリジナルだと思っているため、それが輸入ものだと気づけない。 >文字化けして読めません、、、。 上のバーの<表示>→<エンコード>を自動にするか、他に変えたら、読めるようになるんじゃないでしょうか。 >><シュメール・アッカド神話 ご存知でしょうか?> >これも、例の辞典に載っている話なんでしょうか?  載っていますが、辞典ですから物語形式じゃないです。 解説書みたいなものなので。 現存する最古のものとしては、19世紀にニネヴェで見つかった石版に書かれたもの。 <エヌマ・エリシュ> http://www.toroia.info/dragon/index.php?%E3%82%A8%E3%83%8C%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A5 これもオリジナルではないかもしれない。 それより昔の伝承を、その民族に合わせて書き直したのかもしれませんが。 私が持っているのは http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%9C%80%E5%8F%A4%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E%E2%80%95%E3%83%90%E3%83%93%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%82%A2%E3%83%B3-1973%E5%B9%B4-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%95%99%E9%A4%8A%E6%96%87%E5%BA%AB-T-H-%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC/dp/B000J9BVFA 発見から翻訳過程までも書いてあります。 >>インドのマヌー、エジプトのミシス、ユダヤ人のモーセ。 同じ内容ですので、人が移動するとき、その伝承も移動したってことですね。> >そういう考え方も、ありますが、、、そうすると、インド人が自分たちがオリジナルだ! と言い、ユダヤ人が、、、、。となるんですが、単なる偶然の一致という可能性もあり、、、、。 ここが人類が頑固さゆえの不幸なところなんです。 詳細が違うことで、自分たちの方が正しいと言ってゆずらない。 その自分たちが正しいというもは、どれもオリジナルではない と証明したところで、そうなると自分の存在価値がゆらいでしまうので、認めるわけにはいかない。 だから共食いする。 差が憎しみを生み、拒絶を生み、他を殺す。 各グループはそれぞれ聖なる書物ってものを持っていますよね。 日本は? 新世紀エヴァンゲリオン。 エヴァンゲリオンとは<善い知らせ><福音>って意味です。 要するに<現代の聖書> このアニメには<魂のルフラン>って歌が挿入されている。 ティアマートですね。 新世紀エヴァンゲリオンではレイがティアマートの霊。(三位一体の女神) 彼女が全人類が共食い(殺し合い)を始めたとき、全人類を源に帰還させた。 キリスト教では「聖なる聖なる万軍の主よ」と歌っていますが、この万軍の主がティアマート。 ただし、キリスト教はどうしてもそれを認められないという悲しい頑固だがあるがゆえに、いつまでも不幸のままで、お互いいがみ合いを続けている。 同族ですら殺し合うのですから、そのほかの兄弟宗教も当然、自分たちこそ正しいとしか主張できない運命なわけです。 ATフィールド発生!(自我を維持するため) ゆがめられた複製にすぎないのに。 レイが言う、 「世界が悲しみに満ち満ちて行く、むなしさが人々をつつみこんでいく、孤独がヒトの心を埋めていくのね」 人類が死を望んだとき、リリスからアンチATフィールドが展開され、人類が一つになった って物語。 リリスとはティアマートのこと。 リリスにリリスの霊であるレイが戻って、体と心が一体化した。 そしてリリスに足が生えた。 (伝承では神が人間に知恵を与えた蛇の足を奪ったことになっている) Y染色体は獰猛ですよね。 でもY染色体はmtDNAが作った異種。 だから、Y染色体同士殺し合いをして、どうしようもなくなったとき、mtDNAに帰還することになる。 このままのスピードでいけば、帰還は1万5千年後だそうです。 時代錯誤とはもはや呼べない思想ですよね。 現実起こっていることだから。

zatousan
質問者

お礼

よくよく考えてみたんですが、kigurumi様のご回答は大変興味深いのですが、時代錯誤というより、聖書の混乱を指摘したご回答だったので、今回は他の回答者様のご回答を良回答に選ばせていただきます。 ご回答ありがとうございました。 また、よろしくお願い致します。

zatousan
質問者

補足

こんにちは、 <つまり、世界最初の文明メソポタミアからエジプト、インド、中国と移動していったが、その中の一グループはとうとう一番東の日本にたどり着き、太陽信仰を広めたってことでしょうか。> その可能性もありますが、結局始めがメソポタミアなのかインドなのか、中国なのか、日本なのか、誰にも分かりません。 インドとイスラエルは結構地理的に距離が有るように思えますが、1世紀には、『伝説では』聖トマスによってキリスト教がもう既に伝来していたとか、、、?(信憑性は、不確かな情報です。) ま~、確かにギリシアの歴史家ヘロドトスの時代からインドの存在は知られていた様なので、インドに旧約そっくりの話が伝わってもおかしくは無いのですが、、、、逆に起源がインドでもおかしくない、気もするんです。 しかし、、、、結局は、、、、そんな事が証明できても、神話の起源が分かるだけで、、、、神様について知れる訳じゃないんですけどね。 <カタカナはヘブライ文字の内の一種類と同じ。> 私も知り合いの牧師に習い、初歩レベルのヘブライ語は教わった事があるので、分かるのですが、コだとか、ユだとか、カに似た文字は確かにありますが、カタカナは漢字から作られた訳なので、これは100%偶然の一致でしょう。 <ここが人類が頑固さゆえの不幸なところなんです。 詳細が違うことで、自分たちの方が正しいと言ってゆずらない。> いや、これは、もうどうでも良い事だと思いますよ、、、、神話のオリジナルが分かった所で、もはや宗教として成長してしまったものは別物なのですから。 宗教観でいえば、ヴェーダとユダヤ・キリスト教はかなり違います。 そして、オリジナルが分かろうと、分からまいと、そのまんまで良いと思うんです。 例えて言うならば、ブラジリアン柔術は日本の柔道がオリジナルだけど、もう別物に進化しています。  それならそれで、別物で良いんだと思います。 と此処まで言っておきながら『見つかると面白いですね! オリジナルと伝達ルート!』。 ただ、いくら文章の成立年代が分かっても、口伝の年代までは分からないから、相当調べるのは困難だと思います。 ご回答ありがとうございました。

  • kigurumi
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回答No.6

No.2のkigurumiです。 >これは、中々実証が難しいですね。 そうかも知れないし、そうでないかもしれない。 いえいえ~。 歳差運動。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B3%E5%B7%AE グールグールって軸がずれているんです。 空には沢山の星がありますが、古代の人はその中からいくつかをそれぞれ基点とした。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%81%93%E5%8D%81%E4%BA%8C%E6%98%9F%E5%BA%A7 12の星郡に限定した。 イエスを太陽とし、12の星団を12使徒として物語を作れば、イエスは12人の使徒と共に旅をしたって物語ができちゃうわけです。 「ここから」って正確に分けられないので、人によって何年から何座の時代って違ってくるのですが、大まかにに分ければ、まさに聖書の時代のシンボルと一致する。 牡牛座(エジプトのアメン教)→牡羊座(モーセがアメン否定)→魚座(前の時代にシンボル羊が殺される)とそれぞれの時代に前の時代を否定し、新しい時代が到来したという内容になっている。 ちゃんと夜空を観察して、現実に即して物語は作られていたってことですね。 インドのマヌー、エジプトのミシス、ユダヤ人のモーセ。 同じ内容ですので、人が移動するとき、その伝承も移動したってことですね。 だから地域によって名前は違えど、内容は同じ物語が存在する。 >出版社とか本の題名もよろしければ教えていただけますか?日本語じゃなくても、英語位だったらなんとか、、、。 http://www.zeitgeistmovie.com/subs.htm ここのjapaneseの1。 前の方は共食い(戦争)の映像。 その後に、どうして人間は共食いするようになったかの原因として、神話の説明がされています。 どうして牛を拝むことになったのか、どうして羊が生贄に捧げられという風習になったのか。 何故 処女が子を生むとなったのか などなど。 すべては古代の天文観察からきたものというオチ。 >神話フェチなんです。 私も神話フェチなので、聖書より分厚い辞書持ってます。 高いですし、アンチキリスト教の人が書いたので、偏見?と思える箇所もありますが、参考になりますよ。 http://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%83%BB%E4%BC%9D%E6%89%BF%E4%BA%8B%E5%85%B8%E2%80%95%E5%A4%B1%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%A5%B3%E7%A5%9E%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E5%BE%A9%E6%A8%A9-%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%A9-%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC/dp/4469012203 >死者の書は、いつか読もうと思って、未だに読んでいません。 私も読んでません。ネットでみれます。 http://www.osoushiki-plaza.com/anoyo/takai/takai4.html <42の否定告白> <そしてキリスト教は神を賞賛するとき、自分たちが悪魔とする神の名アメンを喜びに満ちて唱えている。> >これも、偶然の一致と考えるべきなのか?  >難しいですね? そう難しくないと思います。 ・何故牛の偶像を壊したのか 本当のことを知らなかった。 ・何故イエスが12使徒と共に旅をしたという話になったのか、本当のことを知らなかった。 ・何故 羊が生贄として捧げられることになったのか、本当のことを知らなかった。 ・何故、1世紀頃の原始キリスト教が魚をシンボルとしていたのか、本当のところを知らなかった。 そのような人達が、宗教的なことで神に同意するという意味として「アメン」という言葉を使うようになっても、不思議でもなんでもない。 「アメン神の言う通り」という意味だと知らなくて使っていても不思議でもなんでもない。 「昔から、説教者の話を聞いたらその後にアメンって言うことになってるから」くらいじゃないかと。 預言者は神から授かった言葉を人々に伝える。 その預言を聞いた人達は、「アメン」と言ってたので、習慣化したんじゃないかと。 >イヴを誘惑したのも蛇で、モーセが荒野で民の癒したのも青銅の蛇 これは私も難解でした。 が、シュメール・アッカド神話 ご存知でしょうか? ティアマートが蛇の元だと思えます。 ドラゴンの原型で、ヨハネの黙示録にも登場する。 ティアマートはすべての神々を生み出した初源の神と神話ではなっている。 そのティアマートに「最高地位をくれ」と言ったのが息子のエア。 夫を殺して今度は最高権力をくれというエアに対して、ティアマートは激怒した。 それで神々はまっぷたつに分かれて大戦争をすることになった。 (ヨハネの黙示録の元ネタがこれ) で、そのとき、ティアマートはレビアタンなどの獣を創造し戦った。 だからティアマートは妖獣を生み出す悪い神って後になったんじゃないか と。 このときレビアタン(リバイアサン)も生み出したんだっけ??? 創造する能力があるのはティアマートだけで、戦いとなれば、それに見合うものを作り出すのも当然。 で、ティアマート自身も竜のような姿に変身して、孫のマルドゥックと戦った。 結局 マルドゥックの作戦勝ちで、マルドゥックはティアマートを殺して、最高権力を手に入れた。 そしてティアマートの体を引き裂き、それで天と地を作った。 だから大地はティアマートの肉体。 だから創造する能力を持つティアマートで作った大地が生命を養うって、地母神信仰が起ったのではないかと。 神々はティアマートを殺したことで、ティアマートがやっていたことをやらなければならなくなり忙しくなった。 身の回りの雑務をやる暇が無いと他の神々はマルドゥックに不満を述べた。 そこで、マルドウゥックは、身の回りの世話をする人間が必要となり、ティアマートから石版を授かって自分たちと戦ったキングーを殺してその血とティアマートの肉体で人間を作った。 (と物語には書いてある) そして人間はあくまで神の僕にすぎないことを忘れないように、契約として空に虹をかけた。 (これがキリスト教が虹は神との契約の証とするようになった由来。信者は虹を見るたびに、自分は神の奴隷だったと思い知らされることになった。) そして神の農場で奴隷として働いていた人間のところに、ティアマートがやってきて、「イヴさん イヴさん あんたはん騙され取りますがな」と言ってきた。 (イヴは生命という意味) 「知恵を得れば、真実が見えるようになります」 マルドゥックは、人間がティアマートに誘導されて知恵を少し得たと知った。 人間は真実がちょっとわかり、自分たちが神だとしていたものは、実は最高地位を奪うために、すべてを創造した神を殺したものだと知り、悲しみでいっぱいになり、神の農場を出た。 しかし、どうしたことか、後にティアマートは悪者で、自分たちの神を殺した神は善神だという話に変化している。 蛇を憎めと教わっている。 しかし 知恵者の中には、蛇は善で、自分たちはその神を守る者の血と、神の肉体で作られたものだと知っているものもいる。 だから、蛇の概念には2つ 善と悪の蛇ってものが混在しているんじゃないか と。 もともとは、もっとシンプルで、ギルガメッシュが永遠の命の素を手に入れ、帰還する途中で眠っている間、蛇がそれを食ってしまったって話で、「蛇のやつめー」って程度なんですが。 だから、蛇は永遠に生きるって概念になった。 >インド辺りの宗教だったら、蛇と神様は仲がいいみたいなんですがね。 はい 蛇は脱皮するので永遠に生きるというシンボルとして扱われているから。 ヨガでも解脱するとき、蛇の力を利用する以外解脱は無いとしています。 DNAの構造と同じで、ぐるぐる旋回して突破できない壁を突破するという思想。 古代の神話を紐解くと、どうしてこういう話になったの?ってのがわかってくる。

zatousan
質問者

お礼

再度ご回答ありがとうございます。 <歳差運動。> いえいえ、私が証明が難しいと言ったのは、地軸の方角と宗教の関係です。 世の中にはユダヤ・キリスト教以外にも宗教がありますから。 <高いですし、アンチキリスト教の人が書いたので、偏見?と思える箇所もありますが、参考になりますよ。> 本当に高いですね! アンチキリストは全然問題なしです。  <私も読んでません。ネットでみれます。> 文字化けして読めません、、、。 どっちにしろ、図書館当たりに死者の書くらい有名な本だったら置いてると思うので、大丈夫ですが。 <シュメール・アッカド神話 ご存知でしょうか?> ご存知なわけなかろう!! これも、例の辞典に載っている話なんでしょうか? 神話フェチとしては、是非一度読んでみたいのですが、こんな本本屋で見かけた事ないしな~、 検索しても、全然違う本が出てくるし、、、。 http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss_gw?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%83V%83%85%83%81%81%5B%83%8B%81E%83A%83b%83J%83h%90_%98b&x=17&y=25 <それで神々はまっぷたつに分かれて大戦争をすることになった。> インドのバカバット・ギータもこの内容ですよね。 <インドのマヌー、エジプトのミシス、ユダヤ人のモーセ。 同じ内容ですので、人が移動するとき、その伝承も移動したってことですね。> そういう考え方も、ありますが、、、そうすると、インド人が自分たちがオリジナルだ! と言い、ユダヤ人が、、、、。となるんですが、単なる偶然の一致という可能性もあり、、、、。 どっちなのか? 分かりません。 <古代の神話を紐解くと、どうしてこういう話になったの?ってのがわかってくる。> 一番紐解きたいのは、ノアの酔っ払い事件ですが、、、(一番謎の話)。 こちらは既に過去質問がありますが、、、本当にこんな理由なのかいな? と思い、もう少し突っ込んだ質問してみようと思っています。 改めてご回答ありがとうございました。

  • taco8ch
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回答No.5

五書がモーセの手によるものという神話は、 たとえば、エズラ6:18、ネヘミヤ13:1などに「モーセの書」という表現、 ネヘミヤ8:1にみられる、「朝から晩まで朗読した」何か、 「モーセの律法の書」などの表現に根拠をおいて、 もちろん、モーセという巨人の伝説も折り合わさって形成されたのではないかと思います。 ほか、ネヘミヤ8:18では「神の律法の書」、9:3では「ヤハウェの律法の書」なども見えます。 ただ、当時のユダヤ人の間でトーラとされていたものが、今日のそれのように、 律法に加えて神話や氏族物語の数々までをも含んでいたのかどうかまでは分かりません。 個人的にうがった見方ですが、聖書というものを金科玉条のごとくにするキリスト教と多少違って、 ユダヤ教はもう少し聖典に対して柔軟性を持っているのではないかと思います。 たとえば、律法に書かれてあることでは十分に対処できない事態が生じた場合、 キリスト教はしばしば頑迷なほど聖書に固執します。 神の言葉に解決策が見出せないのは聖書の不備ではなく、解釈する側、信徒の側の不備、 ひどいときには祈りや信仰心の不足などという暴力的な理屈が振り回されます。 これに対してユダヤ教はとことんまでその神の言葉の回路を組み替えて対処を試みます。 先人の議論に加えて新たなる議論を重ね、これを注釈し、ときには解釈しなおし、 そしてともすれば聖書に勝るとも劣らない新たな優れた「言葉」を加算します。 ――逆に言えば、絶え間なく新たな聖句を生み出すことにもなるのですが―― こうしたことは、今日でも行われているはずです。あいにく知人にラビはいませんが・・・ こうした習性といいますか、ともすれば教義の再構築をやすやすと許容する柔軟性は、 オリエント各地に散在し、あるいは交通し、奴隷となり、勝ち組となり、 異色の文化風習を硬に軟に仕込まれつづけた彼らの、 生き抜くために編み出した技術だと思うわけですけど。 このことに関して付け加えれば、しばしばユダヤ教とキリスト教では、 前者が後者に先立つ母体みたいな言い方をします。 西洋絵画などにも旧約と新約を比較して、古いモーセと新しいイエスという主題が描かれ続けましたが。 これは少なくとも両者の一側面をしか捉えていないように思います。 キリスト教に先立って(今日の)ユダヤ教があったことは間違いのない歴史的な事実ですが、 一方で今もなおユダヤ教は作り変えられ、進化し、生き続けているという事実もあります。 それはたとえばユダヤ教の事実上第二の聖典とも言えるタルムードが、 新約ののち数百年を経て完成されたことを見ても分かると思います。 さて、話がずいぶん逸れましたが、以上を踏まえて予測するのは次のようなことです。 五書は、おそらく、モーセやその弟子といったせまい世代の手によって書かれたものではなく、 相当の長い年月の間に、相当の人数の手を重ねて今日の形になったのではないかということです。 たとえば神話や律法内容やその表現、使用される語彙に明らかな重複箇所がある場合、 正確を期すため「一説に曰く」式に両者を盛り込み併記したとか、 同じ事件を別の違った観点から捉えたというこじ付けではなく、 その時代のその場所によって、多くの人、時には権力者、時には名もない人、の手を経ている傷跡なのだと思います。 まとめられては破棄され、破棄されては回復され、あっちから集め、こっちに移されを繰り返し、 今日の私たちの手元にあるのではないかと思います。 そもそも、律法集なんてものは、神の言葉以前に、 個人の人生から民族存続にいたるまでに生じるさまざまな問題や脅威に 果たして如何に対処するかということを収めた、 巨大マニュアル集としての側面がある以上、膨大な時間経過が必要なはずです。 貧弱なデータ量の統計なんて信頼が薄くて重宝するに値しないわけですから。 もちろんこうした膨大な時間量の視野は、#2にもあるような太古の神話群にも注がれていたはずです。 膨大な時間に負けず劣らずの、広大な平面が五書とくに創世記や出エジプト記などには窺えるのではないでしょうか。 翻ってみると、こうした膨大なデータ群の編集者が、 モーセ個人か、せいぜいその周辺のわずかな人々の手によって、 ここ最後に至って編集されたというのは、むしろ表現の問題としてなお信じがたくもあります。 ましてやユダヤ人が出エジプト以前にもオリエント世界のあちこちにいたとすれば なおさら、「小さくまとまった五書」よりも「ダイナミックに展開する五書」という聖典像が相応しいのではないでしょうか。 勝手な自論だけを展開してしまいましたが、 最後に、ご質問のイブン・エズラを皮切りに、 16世紀のカールシュタット、17世紀以降の、ホッブス、スピノザ、サン・シモンなどの偉人たちが 「信仰深い」キリスト教徒の迫害に苛まれながらも、五書にさしはさんだ重大な疑問の数々は、 近代以降、今日にも受け継がれて、あれがそうだ、これがそうだの状況といったところでしょう。 たとえば、#1の指摘にあるように、 申命記の終わりモーセ自身の死を思わせる下りの存在は、やはり大きな事実で、 後のモーセの弟子が書き足したとするよりは、 やはり五書がモーセの手によるわけではないということの事実に牽引されてなりません。 ちなみに申命記34章5節には、 「こうして主のしもべモーセは主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ」の言葉があります。 その後の記述は、おそらく葬式を意味するのでしょうか。 余談として、今日こそ「モーセ五書」で落ちついていますが、 ある時期には「モーセ四書」とか「モーセ六書」などと捉える見方もあったようで、 要するに、モーセ五書にモーセの死があることによって、 はたして文書群の「切れ目」がどこか分らないということなのでしょう。 加えて律法には、ホームレスだったはずのモーセとその一群にはふさわしくない、 農事規定が細かに記されており、定住して農業に従事している時代状況を前提としているように見えること。 (もちろん抜け目ない聖書には「神がこれから与える土地は・・・」というお断りつきですが) 入植以前にもかかわらず土地所有と振り分け、嗣業地について記されていること。 入植以前に、頻繁に斥候を放っていた記述がありますが、それにしては都合がよすぎる。 のみならず、すでに彼らの間に債務や貧富の差が生じ、その対処が社会問題となっていること。 ご存知のように、貧富の差を生む主たる要因は、作物などの余剰生産物の偏った蓄積に生じますが、 エジプトからトンズラする際、がっぽり分捕ったとはいえ、 空飛ぶ白カビが主食の彼らに余剰生産物があるとは考えづらいこと。 さらには、外国人との利害関係が問題となっている。 すでにユダヤ人と外国人との間に既得権益をめぐって、 対立を孕んだ共生が生じていたことがうかがえること。 などなどだと思います。

zatousan
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 <農事規定が細かに記されており、定住して農業に従事している時代状況を前提としているように見えること。> 確かに、ここはツッコミべきなのかも? <入植以前にもかかわらず土地所有と振り分け、嗣業地について記されていること。> 確かに、地理的知識に関しては、前々から気になっています。 エジプトからイスラエルに向かって移動したモーセにしては、創世記のセム・ハム・ヤフェトの子孫が、何々の国民の先祖になったという件で、タルシシュってスペイン?(偶然タルシシと似ているだけ?) ヤワン=イオニア人って事はギリシア? だとか、気になりますが、当時の教養レベルなんてわかりませんしねえ、、、。 <のみならず、すでに彼らの間に債務や貧富の差が生じ、その対処が社会問題となっていること。> ああ、そういえば、色々と細かいですよね。 何年か起きに借金を帳消しにするだとか、、、。 <などなどだと思います。> 確かに、色々と想像力がたくましいと考えるべきなのか、入植後に書かれたと考えるべきなのか?  するどいツッコミありがとうございます。  改めてご回答ありがとうございました。

noname#82568
noname#82568
回答No.4

続けてすみません。 メルクゼデクの表記のほうが良いんですかね? あと下の回答者さんへの補足質問をみると 預言者と祭司はちがうんですね。 それでヤハウエストやエロヒストの対立もあったと。 あんまり気にしていなかったけど。。。 文章の下にある人々の利害関係。。。。 うーん。 創世記14章18節 いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、 パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを 祝福して言った。 「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。 敵をあなたの手に渡されたいと高き神がたたえられますように。 アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。」 サレムの王様。で、「神の祭司」 すみません。大祭司ではないんですね。 あとは新約のヘブライ人への手紙で キリストを大祭司にして、キリストはメルキゼデク並みに立派なんだ としたがっているんですね。 たとえば5章で 神は他の箇所で「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」 といわれています。 うーん。 イエスはいない。エリヤとメルキゼデクのパクリ 創作である。 。。。かどうかは、まぁ。。。おいといて このヘブライ人への手紙の作者の メルキゼデクへの崇拝ぶりはなんなんでしょう。 いったいこのサレムの王は 何ものなんですか? あ、 ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって 人が完全な状態に達することができたとすれば、 というのは民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと 同じような別の祭司がたてたられる必要があるでしょう。 祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。 。。。なるほど。 だから下の回答者さんのように 「祭司制度の変更」が問題になるのか。。。 みんなすごいな。。。 聖書の中で神や英雄を話題にすることで 隠蔽された、人間同士の争いの話。。。 こちらのほうが面白そうですね。 よかったら何か資料を教えてください。

zatousan
質問者

お礼

こんにちは、何か大変な誤解をしていらっしゃるようですが、私は単なる『神話フェチ』です。 回答者様も、相当聖書に詳しいご様子ですね。 <メルクゼデクの表記のほうが良いんですかね?> キーボードのIとUは隣にあるので、、、、重箱の隅をコツコツと、、、。 <創世記14章18節> この記述は覚えているんですが、、、。 だから一体何なの~~?というくらい私には分かりません。 そういえば、「アルケミスト」とかいう小説でも、メルキゼデクは登場していますね。 想像力が巧みな人は色々想像するようですね。 <いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと 同じような別の祭司がたてたられる必要があるでしょう。 祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。> レビ記を見る限りでは、犠牲の動物を食べていますが、それ以前の記述、例えばノアの箱舟後の犠牲では、「焼き尽くす犠牲」となっていますし、もしかしたらモーセが始めたのかも犠牲の動物を食べること。(推測) <こちらのほうが面白そうですね。 よかったら何か資料を教えてください。> いやいや、人様に教えるような資料はとても、、、ただ、資料を探すんだったらお近くの教会の牧師さんか神父さんに聞いて、近くのキリスト教関係の本を置いている本屋(というか、、キリスト教関係の本の専門店)に行くことです。 この質問文の冒頭の本も、そうやって聞いた本屋で買ったものです。 意外と、日本語でヘブライ語教本だとか、、専門的なものが置いてあります。 もちろん、その他の神話は、普通の文庫本で、、インド系の神話なんかは英語じゃないと本が存在しないものもありました、、、「ナラ王」「マハバーラタ」「(4大)ヴェーダ」等くらいだったら、日本語でもあるんですけどね。 では、また。

noname#82568
noname#82568
回答No.3

こんにちはzatousanさん。 ちょっと気になったので、教えてください。 エリヤの昇天ですよね。。。 列王記下なんて久しぶりに開きましたが 2章11節に火の戦車が火の馬に引かれて現れ。。。 とありますね。 そういえば買ったけど読んでいなかった 聖書外典偽典にモーセの昇天ギリシア語断片があることに 気づきました。 c アレクサンドリアのクレメンス『雑録』一・二三・一五三、一 (エジプト人によって命名される前に)その子供(モーセ)は 両親によってヨアキムという名を与えられていた。彼はさらに 昇天の後、天において第三の名を与えられた。それは 神秘主義者たちの言うところによればメルキである。 創世記の5章24節にはエノクは神とともに歩み、 神が取られたのでいなくなった。 ともあります。 スラヴ語エノク書によれば 23章にミカエルはその夜、子供のメルキゼデクを自分のつばさに乗せ エデンの天国に彼を置いた。ニルは朝起きて家に行ったがその子は見出せなかった うーん。大祭司メルキゼデクも昇天したって設定なのかな。 これはたんに預言者の死をそう表現しているだけなんですか? でも生きている間に昇天している表現の気もして。 昇天っていつからある概念なんですか? それにエリヤ、モーセ、エノク、メルキゼデクって 聖書の中で特別の扱いですよね。 ってなんかすみません。急に私の中でいろいろ疑問が 出てきました。

zatousan
質問者

お礼

こんにちは、浅学の身でありながら、私の知識では、 <それにエリヤ、モーセ、エノク、メルキゼデクって 聖書の中で特別の扱いですよね。> エリヤは、奇跡に関してはイエス以上に行っていますし、イエスの行った奇跡は「エリヤの物まね」みたいな感じの内容が多いですね。 ・病人を癒す。 ・死人を生き返らす。 ・天候を操る。 ・水を操る。(ただし、水上歩行はイエスのみ。) ・呪う。(ただし、人殺しはエリヤしかしてない。) モーセも、またしかりです。 イエスもモーセも変貌してますね。 エノク、メルクゼデクは、登場箇所が少ないので、、、謎の人ですが、モーセやエリヤみたいな人という設定なんでしょうね。 <これはたんに預言者の死をそう表現しているだけなんですか? でも生きている間に昇天している表現の気もして。 昇天っていつからある概念なんですか?> いつから或る概念なのか、私は知りませんが、昇天の話で、面白いものに、インド土着神でジャガンナートという神話があります。 http://en.wikipedia.org/wiki/Jagannath Indradyumna という信心深い王様が、昇天して、天国を見て回ってきてから、地上に戻る話なんですが。 実は、キリスト教でも神の一日は千年(ペテロ第二の手紙3章8節)ですが、ヴェーダの世界でも、天上世界の一日は千年、、、じゃ無かったかも知れませんが、兎に角千年位なんです。 そこで、地上に戻ってみると、Indradyumna 王は、浦島太郎状態になっているという話です。 そして、エリヤ、モーセは生きたまま昇天だったのか?という話になりますと、 新約聖書(マタイ17:1~3)で登場するモーセ、エリヤは、設定上は、ほんの数日しか昇天してから、時間が経っていない世界に住んでいるので、生きてる可能性がありますね。 昇天って本当になんなんでしょうね?  そんなもん分かるかい! と散々長々と書いた割には、椅子を蹴って私は退場します。

  • kigurumi
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回答No.2

んーー。 モーセ5書は、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことですよね。 以前 エクセルでアダムとイヴからの家系図を作ろうとしたことがある。 聖書から「誰の子供が誰」とか書いていった。 そのうち、「○○は誰の子」とか逆の書き方になったりもしたが、丁寧に拾い集めていった。 とろこが、書によって、<Aの息子B>とあるのに、「Bの父C」って書いてあったりした。 同姓同名か? と思ったが、さかのぼると後は一緒、その箇所だけ父親と子供の名前が違う。 結局 系図だけでも矛盾が出てきて、作成をやめた。 他にはこの書だと預言者が上的な扱だが、こっちだと祭祀の方が権限を持っているとか、書によってどっちの権限が高く書かれているか違う。 それは派閥があってヤハウエスト、エロヒストのどっちが権力を持った時代に書かれたかで、表しかたが違うとわかった。 今回の件、時代錯誤という言葉、例えばモーセの時代になかったことが、登場した場合、時代を錯誤しているとなりますよね。 時代劇で江戸時代に無かったものをうっかり使ってしまうと、「それは明治になってから日本に入ってきたものとクレームがつく。 で、「これが後の時代に法律として定められたものなのに、モーセの時代に定められたように書かれている」となっている箇所は、残念ながら私は思いつきません。 だったら 出てくるな~! とおっしゃりたいでしょうが まあ まあ。 もうちょっと聞いてください。 モーセはシナイ山から降りてくると、牛の偶像を拝んでいた人々に激怒し、牛の偶像を破壊させた とある。 人々はこう考えた、エジプトの神の偶像である牛を拝んでいたからだ。 うーん 遠くないが近くも無い。 モーセの時代は、牡牛座から牡羊座に変わる頃だった。 新しい時代到来のために、古い時代を破壊するって意味。 それまでは牡牛座を中心に回っていた地球が、それ以降(紀元前2150年頃から1世紀頃まで)は牡羊座の方角を向いたから。 従い、お祝い事で羊の角であるホルンを吹くのは、牡羊座の時代ならオッケー。 紀元前1世紀頃から地球は魚座の方角を向いているので、新しい時代として、その頃から魚をシンボルとする集団が出た。 原始キリスト教。 創世記もモーセ5書ですが、これはオリジナルではない。 シュメール・アッカド神話の創世記(紀元前2600年頃作られた)。 モーセの祖先が、シュメール・アッカド人なら彼らの祖先の伝承として語り継いでもおかしくない。 モーセの出生の内容は、紀元前2250年のアッカド神話のサルゴンの出生内容と同じ。 古さでいけば、アッカド神話の方が時代的に古い。 モーセは紀元前13世紀頃 とされる。 サルゴン神話は、紀元前2250年より前。 モーセが神から石版をもらうというモチーフ。 シュメール・アッカド神話だと、キングーが神から石版をもらったことになっている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BC ちなみにエジプトのミーシースも石版を運んだことになっている。 ミーシース→モーセース。 石版に書かれているとされる10戒はエジプトの死者の書から来ている。 従ってモーセがシナイ山に登ってリーダーの権限を神が与えたとして石版をもらったってのは、要するに、エジプトの神官からエジプトの植民地であるカナン地方のリーダーとして権限を与えられた とか そういうことじゃないか と。 モーセの出生は他の人の神話ですので、時代がずれており、やはり時代錯誤だとしても、エジプトの王を出した家系に生まれた子供は、一度川にひたされ、神から生まれたとするってことからも、モーセはエジプト人だったので、そのエジプトの儀式を生まれてすぐ受けたってことになります。 もし、モーセのモデルとなる人物がいたとしたら ですが。 割礼もそう。 エジプトの王家を出した家に生まれた男の子は、女神に一部を捧げて誓いを立てるため、割礼を受けていた。 本当にモーセがいたら、この民族を率いたモーセは少なくともエジプト人だったことになる。 (といってもエジプトはいろんな民族が混在していたので、どの民族から王が出ても不思議じゃなかったようですが) 過ぎ越の祭りもエジプトの風習だったようです。 エジプトのアテン教というものがあったそうです。 そう長く続かなかったようですが、その一派がエジプトの植民地だったカナン地方を新天地として移り住んだ可能性がある。 アテン教は迫害され、エジプトはアメン教に戻った。 ユダヤ教にも名残がある。 アメン と唱えているから。 アテン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%B3 アメン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%B3 アモンはキリスト教では悪魔とされている。 そしてキリスト教は神を賞賛するとき、自分たちが悪魔とする神の名アメンを喜びに満ちて唱えている。 時代錯誤とうより、混乱ですね。

zatousan
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 回答者様なら、てっきりご存知だと思ったのですが、流石に12世紀になるまで誰も気付かなかっただけあって、相当探すのには努力が必要なのかも知れません。 でも、バベルの塔だけは同名じゃなくて、バビロン捕囚中に見た塔なんですよね? 実際にバビロニアにあった巨大な塔は現在は跡しか残っていないようですが。 <同姓同名か? と思ったが> 確かに同名の人が多いですよね。 系図を作ろうとした事はないので、まさか矛盾が出てくるとは知りませんでした。 <他にはこの書だと預言者が上的な扱だが、こっちだと祭祀の方が権限を持っているとか、書によってどっちの権限が高く書かれているか違う。> 言われてみれば! サムエル記なんて、祭祀の方が権限が高くなっているけど、その他には預言者の権限の方が上のものも、、、。 <それまでは牡牛座を中心に回っていた地球が、それ以降(紀元前2150年頃から1世紀頃まで)は牡羊座の方角を向いたから。> これは、中々実証が難しいですね。 そうかも知れないし、そうでないかもしれない。 実際にインドでは牛は未だに神聖な生き物だし。 神が魚の化身になったのはヴェーダ的にはノアの箱舟そっくりの事件が起きた時、、、つまり大昔ですしね。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%84%E3%83%A4 <創世記もモーセ5書ですが、これはオリジナルではない。> 創世記に似た話は世界中にあり、どれがオリジナルなのか、それともオデュセウス(ユリシーズ)と百合若大臣と同様の偶然の一致なのか? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%90%88%E8%8B%A5%E5%A4%A7%E8%87%A3 私には分かりません。 <モーセの出生の内容は、紀元前2250年のアッカド神話のサルゴンの出生内容と同じ。> <シュメール・アッカド神話だと、キングーが神から石版をもらったことになっている。> <ちなみにエジプトのミーシースも石版を運んだことになっている。> 出版社とか本の題名もよろしければ教えていただけますか?日本語じゃなくても、英語位だったらなんとか、、、。 神話フェチなんです。 <石版に書かれているとされる10戒はエジプトの死者の書から来ている。> 死者の書は、いつか読もうと思って、未だに読んでいません。 なんと、、、そうでしたか!  <そしてキリスト教は神を賞賛するとき、自分たちが悪魔とする神の名アメンを喜びに満ちて唱えている。> これも、偶然の一致と考えるべきなのか?  難しいですね? イヴを誘惑したのも蛇で、モーセが荒野で民の癒したのも青銅の蛇。 インド辺りの宗教だったら、蛇と神様は仲がいいみたいなんですがね。 何か時代錯誤で思い出す事があったら、また宜しくお願いします。 改めてありがとうございました。

noname#82568
noname#82568
回答No.1

あきらかに聖書に詳しいzatousanさんに 回答するのは私が恥をかくようなものですが 申命記34章5節以降に モーセの死が書いてあります。 死んだ人は自分の死を書けませんよね。 しかも誰も葬られた場所を知らないそうです。 モーセも実在したとかしないとか 世の中そんなものですかねぇ。

zatousan
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 <申命記34章5節以降に モーセの死が書いてあります。> それは、そうなんですが、一応それはモーセの時代に書かれたものなので、それくらいは弟子が書き足してもOKかな?  なんて思ってしまったのですが。 <しかも誰も葬られた場所を知らないそうです。> 単純に考えると、イスラエル入国の際にした大量虐殺を神の名を語って民にさせた事の罪悪感から懺悔の旅にでも出たんじゃないかと思えるんですが、、、 エリヤのように神の使者に、天に連れられて行ったと信者の方は考えたんでしょうね。 <モーセも実在したとかしないとか> ま~、それは証明が難しい問題ですね。 改めてご回答ありがとうございます。

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    出エジプト 3:14  神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。 ミルチア・エリアーデ著、荒木美智雄他訳「世界宗教史」によると、 「この神の名を巡って、膨大な量の論議が闘わされてきた。」 そうです。 さて、質問です。 神が名を名乗らず無名を押し通した理由を述べた有力な説がありますか。 私の当てずっぽうでは、難しい理屈は全て後世の後付けで、本当はバアルが幅を利かせていて、表立ってユダヤ教徒と名乗り難い状況があったのではないかと推理します。程度は兎も角として、ちょうど江戸時代の仏教にはバアル、隠れキリシタンにはユダヤ教徒が対応するような事情があったのではないかと考えます。ヘブライ勢が非力な時期には非バアル、反バアルであることを無闇には知られたくなかったためヤーウェだの主だのという呼び方は存在しない方が無難だったのではないかと想像します。この阿呆であることを自認しているが故に何でも恥ずかしくなく質問できてしまう特権の所有者の仮説を、否定するなり肯定するなり識者の見解を希望します。 よろしくお願いします。

  • 神みづからによるみづからのアウフヘーベン

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて   子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • クリスチャンの方は エレミヤ書31:31以降をどう

     クリスチャンの方は エレミヤ書31:31以降をどう解釈されますか?  新約聖書においても このエレミヤ書のくだりは取り上げられています。  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち たたき台として 次です:  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかも昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示しています。  板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われます。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが 指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。