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「国民性」は危険

「国民性」という表現を頻繁に利用する人をよく見かけます。「国民性」とは国民の性質、性格、文化などのさまざまな要素の総称を非常に抽象的に表現したものだと思います。しかし人々をそのような表現で一括りにしてしまってよいものなのでしょうか?「国民性」と言う表現は実は非常に危険なものと私は考えます。危険だと思うことを数例上げてみます。 1.実はほとんどのケースで国民性などというものは存在せず個人のパーソナリティのみが存在するが「国民性」という表現を頻繁に利用することにより、ある種のプロパガンダ的、マス広告的に短絡的な国家への帰属意識を増大させる恐れがある。 2.国民性という表現を頻繁に利用することが人種的な差別を助長したり人権問題や地域別紛争などにつながる恐れがある。国民性という考えが其の国や地域の人々の誤解を生むであろうと考えられる。 3.「国民性」という尺度で人間社会を構成しようとする場合、誤った個人的パーソナリティを形成させてしまう恐れがある。「自己」を基準としたパーソナリティが形成されるのではなく、漠然とした「国民」のパーソナリティが形成され、しかもそれ自体はどこにも存在しないものであり極めて主観的な解釈に過ぎない。 ある主観の標準化は極めて危険なものと考える。 この議題に関するご意見、ご感想、反論などございましたらよろしくおねがいします。

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  • nightowl
  • ベストアンサー率44% (490/1101)
回答No.4

私もおおむね同様に考えていました。 今日では「国民」「国民性」という言葉は、プロパガンダの道具として 利用されることのほうが多いのではないでしょうか。 「国民性」をプロパガンダとして用いる人たちは、ともすればその「国民」一人一人が見えていない、 一人一人を見ていないと思えてなりません。 No.1 の方のご意見に逆らうわけではないのですが、 私は犬やカエルやヘビの料理は、うまく調理してあればぜひ食べてみたいと思っています。 私は議論したいところはとことん語りつくしたいたちなのですが、 どうしても周りの人には煙たがられてしまいます。 一口に「日本人」といっても、沖縄の人や北海道のアイヌの人たちも含まれるわけです。 表日本と裏日本(「裏日本」の住人としてあえてこの言葉を使わせてもらいます)の パーソナリティもポジとネガほどに違います。 南北三千キロにわたる日本列島全域に遍在する日本人に、「無口で勤勉できれい好き」という 画一化した「国民性」を当てはめるのには無理があることは明白です。 (別に沖縄やアイヌの人たちが怠け者、不潔だと言っているわけではありません) しかし、No.3 の方のご意見にもうなずけるところがありました。 >国の違いや文化や習慣の違いを無視して、個人対個人の尺度で相手を判断すると、誤解も出てくる場面もあるのではないでしょうか。 >その場合は「国民性の違い」としたほうが、お互い上手くいく場合もあると思います。 何より大事なのはこの国を構成する一人一人の人間なのです。 プロパガンダに乗ぜられる立場の人たち、政治家、官僚、財界の有力者たちには そのことを忘れてもらいたくはないと思います。

yurikago
質問者

お礼

私の説明不足を補う形で、的確で鋭いポイントを突いたご意見を頂きありがとうございました。 おおむね私もnightowlさんのような考えであります。 確かに私も、国民性というアプローチを完全否定するわけではなく、あくまでもその危険性について議論を展開できればと思いました。国民性という解釈があまりにも肯定的にとらわれがちな現代社会に警鐘を鳴らせて見ようと考えたのです。ただし私の議題も仮説にすぎないのでいろいろな方からさまざまな角度でのご指摘を希望しております。 >私は議論したいところはとことん語りつくしたいたちなのですが、どうしても周りの人には煙たがられてしまいます。 そうですね、日本人はもっと議論を繰り広げていって欲しいものですね。^^;nightowlさんは個性的であることを前面に出せる方というのが、ご投稿いただいた内容から感じ取れます。 ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (9)

  • kigineco
  • ベストアンサー率28% (30/105)
回答No.10

ご質問と回答、そしてそのお礼をつらつらと読ませていただきました。 私が感じましたのは、ご質問者さんの「国民性」という言葉に対するとらえ方が逆ではないか、ということです。つまり、国民性なるものが最初に存在していると思っておられるのではないかと思ったわけです。 ある集団に対してアンケート調査をした。その結果、Aという性向を持った人が多く見受けられた。従って、この集団はAという集団性(国民性)を持っていると考えられる────。つまり、まず国民性ありきではなく、様々なパーソナリティを持つ多くの人たちのなかに、ある傾向を持った人が多かった。そこから「国民性」という言葉がスタートするのではないでしょうか。 そういう意味では、ご質問(1)について、個人のパーソナリティも存在するし、そのなかに多く見受けられる共通した傾向、「国民性」なるものも存在すると思います。しかし、多く見受けられる傾向(国民性)を前面に押し出すことによって国家への帰属意識を扇動し、増大させることはできないと思います。なぜなら、多く見受けられる傾向(国民性)は、全体の一部にしかすぎないのですから。 これはご質問の(2)(3)にも共通していえることですが、たとえば100人のなかにAという性向を持つ人が30%いたとしましょうか。しかし、Aではない性向を持つ人、つまり、B、C、D…という性向を持つ人は、そのパーセンテージは低くとも、「Aではない」という括り方では全体の70%を占めるわけですから。これでは全体をAという方向に向けて扇動することは困難だと思います。 ご質問者さんは、国民性なるものに強大な力がありそうだ、だから国民性なる言葉をむやみに振り回すことは危険だとお考えなのかもしれませんが、国家という大きな集団をある任意の方向へ持っていく、またはまとめあげるには、国民一人ひとりが共通して持つものを利用するしかないのではないでしょうか。たとえば、ひと昔の前の日本なら、それは「天皇」という存在であり、言葉であったでしょう。当時の日本人は、すべて「臣民」であったのですから。あるいは、下のご回答にあったように「民族の血」という言葉もあるでしょう。「ゲルマンの血」といえば、すべてのゲルマン人に共通するのですから。こういった言葉を振り回した場合に、ご質問者さんの懸念、つまり、差別であったり、個々のパーソナリティの否定であったり、短絡的な国家への帰属意識の増大という問題が発生するわけです。 しかし、「国民性」という言葉にそれほどの力はありません。先ほども書きましたように、それは傾向を表わしたものにすぎず、同時にすべての国民が共通して持っているものではないのですから。 危険なのは、どうにも否定しようがない共通項を持ち出し、それをある目的の達成のために喧伝しまくることだと思います。  

yurikago
質問者

お礼

>ご質問者さんの「国民性」という言葉に対するとらえ方が逆ではないか とても鋭いご指摘ありがとうございます。おそらくそのようなご指摘をいずれ受けると思っておりましたが私の「国民性」のとらえかたはkiginecoさんと変わらないと思います。 >なぜなら、多く見受けられる傾向(国民性)は、全体の一部にしかすぎないのですから。 そうですね全体の一部に過ぎないですね。にもかかわらず国民性はあたかももっともらしい表現であり安易に受け入れやすい尺度であるため私としてはむしろいろいろなケースで使われていることに疑問すら感じてしまうのです。 >ご質問者さんは、国民性なるものに強大な力がありそうだ、だから国民性なる言葉をむやみに振り回すことは危険だとお考えなのかもしれませんが そうですね。私が懸念しているものは愛国心と歪んだナショナリズムとの混同や歪んだナショナリズムのプロパガンダとしての位置づけの「国民性」ということかもしれません。また扇動という行為にとどまらず、過失的な国家間の誤解による暗黙の断定的判断や、「国民性」を強調することによる人々の同調意識の強化、それから、個人のパーソナリティへの理解に支障をきたす解釈などの非常に複雑な問題にまで十分危機意識として持ち合わせていたいと思います。いつ誰がどこでそのような行為を働き、それによって国家全体ではないにしろ、少数でも損害を被る人々があってはならないと考えております。 kiginecoさんのおっしゃるとおり、私の心配のしすぎであれば嬉しいのですが、実際私の周りではそのような現象が数多く見受けられたため問題意識が起こりました。 kiginecoさん、国民性の定義付けを具体的なケースでご説明いただき大変参考となりました。 kiginecoさん、ご回答ありがとうございました。

yurikago
質問者

補足

みなさんに評価点を差し上げたかったのですが、私の議題に肯定的、批判的な回答からそれぞれ1人づつ主観で選択させていただきます。貴重なご意見ご感想、反論ありがとうございました。

回答No.9

すいませんが全然わかりません。 本当にすいません。 >ではなにがちっぽけではなく、なにがたいしたものなのでしょうか?私は逆の見解です。 ちっぽけなものって、 自分がちっぽけだと認めたくないほとんど全ての人間(私もです)。 長い歴史の中で、ほんのたかが100年も生きられないほとんど全ての生物(私もです)。 広い宇宙の中で、ほんの一言に傷ついたり、ほんの一言に感動して涙する、愛すべき人間(私も)。 だと思います。 >そのまったく逆の人、両方食べれない人、両方食べれる人も存在するとおもいますが、それも画一的でなければならないのでしょうか? 存在しないとは言っていません。 例えば、人口1億人の国があって、その中で、9999万9999人が全く同じような性格で、「まったく逆の人」が1人でも、 「国民性」という言葉を否定するのでしょうか? どこで線を引くのかはわかりませんが、ほんの数割以上がそうであるなら、 「あの国の人間はそういう傾向にある」=「国民性」を語ってもいいのでは。 >国民性という極めて抽象的な尺度でさまざまな国家を判断してしまうことへの危険性 これは、ではどうしたらいいのでしょうか? 世界中の人間が、いっせーのせ、で、「国民性」というニュアンスのものの見方を捨てればいいのですか? 私は、 嫌いな人間と同じ名前、似た顔、同じ車に乗っている、…などの人の第一印象を好ましく思いません。 脳が、過去のデータから嫌な事を引き出して、それに結びつけて信号を出しているからだからだと思います。 ですから、例えば「ソニーの人間はこう考えるから嫌いだ」「イギリスの人間はこうだから嫌いだ」 「漁師ってこう思っているから嫌いだ」などと、すべてのソニーの人間がそうじゃない事も、 イギリスも漁師もそうじゃない事は誰でもわかっているけども、そう言った過去の脳のデータに頼って、 なにかの単位のひとくくりにしてしまわざるを得ないのが、全く新しい尺度で見切れないのが、 ちっぽけな人間の脳のプログラムだと思っています。 >頻繁に取り入れることで自分自身のパーソナリティや他者のそれを歪めて形成してしまうこと には肯定的です。100%そんな事はありえない、そんな人は絶対に1人もいないとは誰も言えないと思います。 しかしこれは、「雨がよく降ったら、濡れてしまう確率が高いよね」のように、 どうしても変えようが無い(に等しい程困難である)条件の1つであるし(変える方法があったら教えてください)、 それと「おっしゃるほど大した影響はないのではないか」と、ほとんどの人が考えるのではないでしょうか。 >国民性とは要するに国民の傾向の統計であり、平均であり、その内容であるわけです >あくまでも国民性とは、あるものを基準とした尺度にすぎず よく、わかっていらっしゃると思います。さすが問題を提起された方だと思います。 >特に個人と国民性を重ね合わせた場合ほとんど不一致であるという事を提示しました これを具体的に教えてください。「どこがー?」と思いました。 >大阪と東京ではおおきく文化が異なる場合もありますね 地域性は認めて、それが国単位だと突然認めなくなるのですか? >…さんは個性的であることを前面に出せる方というのが 「個性的」という言葉は、逆に、「地域性などにあてはまらない」=「少数派」で、 「個性的でない」=「国民性」「多数派」という事で、 「国民性」の多用・押し付けが危険とおっしゃっているのと、同じ危険があるのではないですか? 私はそうは思わないのですが。 要は、「ひとくくりにして人間を(間違っても)解釈しようとする」のはアリだと思います。 また、人間はそう考えてしまうようにプログラムされていると思います。 ただ、yurikagoさんは、そのような事に対して、考えられて、人に投げかけたという勇者だと思います。 危険性も再認識できましたし、自分の中での考えもまとまりました。ありがとうございました。 今後、また、新しい問題を投げかけてください。楽しみにしています。

yurikago
質問者

お礼

>自分がちっぽけだと認めたくないほとんど全ての人間(私>もです)。 >長い歴史の中で、ほんのたかが100年も生きられないほとんど全ての生物(私もです)。 >広い宇宙の中で、ほんの一言に傷ついたり、ほんの一言に感動して涙する、愛すべき人間(私も)。 >だと思います なるほどそういった考え方も可能だなと関心いたしました。 >「国民性」という言葉を否定するのでしょうか? 全面的な否定はしておりませんが、使われ方によっては否定したいと考えております。 >世界中の人間が、いっせーのせ、で、「国民性」というニュアンスのものの見方を捨てればいいのですか? いいえ、それも極端となってしまいますし、事実上不可能ですよね^^;。 それより私としましては、 例えば、Xの国民性にA、B、C、D、E、Fという要素があったとします。 そこで、X国民のある個人のパーソナリティや習慣に照らし合わせたところA、B、Cはおおよそ一致したもののD、E、Fがまったく当てはまらないケースやその他いろいろな組み合わせで千差万別のケースが考えられると思うのです。そのときの果たして「国民性」とは一体有意義な尺度なのか?と問われることになるでしょう。従いまして、「国民性」という表現を安易に受け入れることにワンクッション置きながら個々のパーソナリティのあり方を考えていくことを是非皆さんに薦めたいと思います。 majimemajimeさんが云わんとすることが大体理解できました。(NO.1でのご回答と照らし合わせながら) majimemajimeさんにとって私の問題定義がやや常識の枠から外れていただろうと思いますし、事実私自身今まで生きてきた中で、頭の中から自然と湧き出たテーマでもあったので皆さんへの問題定義とさせていただきました。 majimemajimeさんからの励ましのお言葉大変ありがたく感じております。再びご回答いただきましてありがとうございました。

yurikago
質問者

補足

●特に個人と国民性を重ね合わせた場合ほとんど不一致であるという事を提示しました >これを具体的に教えてください。「どこがー?」と思いました。 これは、例えば日本人は職人気質で、決め細やかで、集団主義で、平和ボケで、本音と建前的で、きれい好きで、サービス精神旺盛で、横並び的で、仕事熱心で、礼儀正しく等々・・・挙げればきりがないのですが、その国民性といわれる要素がすべて一致する人間などどこにもいないと思いますし、仮に一致してもほんの数要素のみであったり、もちろん外国人においても日本人以上に日本の国民性といわれるような要素を兼ね備えていたり、個人を見るとほとんど意味のない尺度でありそれは結局不一致と私はとらえております。 それより、人間の長い歴史の中で個人の潜在的無意識の要素はほとんど何も変わらず、無意識が深くなればなるほど全人類がある原点にたどりつくとある心理学者は述べております。したがって国民性という表現がいかに浅はかな尺度であるかを指摘した次第です。 ●大阪と東京ではおおきく文化が異なる場合もありますね >地域性は認めて、それが国単位だと突然認めなくなるのですか? いいえ、国にも地域性や個人のパーソナリティが存在するからこそ一概に国民性という尺度を安易に使いたくないと言う意味です。 ●…さんは個性的であることを前面に出せる方というのが >「個性的」という言葉は、逆に、「地域性などにあてはまらない」=「少数派」で、 >「個性的でない」=「国民性」「多数派」という事で、 >「国民性」の多用・押し付けが危険とおっしゃっている>のと、同じ危険があるのではないですか? >私はそうは思わないのですが。 そういった意味で個性的と言う表現をしたわけではありません^^;。個性的であることを前面に出せる方というのは、独自の自分の文化のようなものを人々にさらけられるということでして、もちろん今回ご回答していただいたmajimemajimeさんを含め皆さんがそうであると感じております。(特定の方だけに使ったことで誤解を生じさせてしまったことをお詫び申し上げます)

  • neil_2112
  • ベストアンサー率73% (196/268)
回答No.8

「国民性」という視点がナショナリズム扇動のツールに使われはしないか、という懸念をお持ちのようですが、果たしてそう単純なものでしょうか。むしろ逆にこの言葉で共感し得る何かの価値を括り出すことは益々困難になっているように私には思えます。 例えば、ご指摘のようにこれだけサブカルチャーがはびこる様相は、社会の中で多様な価値観が許容され得ること、そしてその中で個人が意味の充足を得られることを意味しているわけでしょうから、サブカルチャーの進展は、論議の筋道としては当然、より一般的な価値で社会を括ることが困難になっていることを示している、という風に解釈すべきだと思います。 (サブカルチャーが常に“サブ”であることに社会の抑圧性を見る人もいますが、メジャーに対抗する現象は常に対抗性を持つもので言わば本質的にアンダーグラウンドなものですし、そもそもメジャーなものの存在を前提にするものです) あるいは質問者氏は、かつてのドイツで、個別化して精神的紐帯を失った国民が、「ゲルマンの血」という大きな民族的物語にからめとられる格好でファシズムに走ったようなことを念頭においていらっしゃるのかも知れません。 確かに「国民性」という言葉も使い様によっては、自分を超えるものへの回帰というストーリー性に満ちた高揚感、生きる意味の充足感を与えることができるでしょうが、しかしやはりそれが扇動力を持つには、ドイツがまさにそうであったように、国民の間に「意味への飢餓」というべき必要条件が整っていないと難しいでしょう。 あるいはフロムが書いたように、自己決断を迫られる自由の厳しさに大衆が耐えかねる、という形でファシズムの前に国民が思考停止に陥った、という分析もありますが、今の日本にそれが当てはまるとも思えません。サブカルチャーで多様化したから国民性という言葉で一般化するのがそぐわない、のではなく、もう現にそれは困難になっているのです。 サブカルチャーはひとつの例にすぎませんが、今の日本では個々人の生きるうえでの意味づけを与えてくれるチャンネルが膨大に張り巡らされていますから、ある価値観は必ずカウンターとしての反‐価値観の存在を浮き彫りにします。それが、何をやってもどうにもならない、という意味で今の社会に閉塞感をもたらす淵源でもあるのですが、それは裏返せば、社会全体に対して単純な言葉で単純に何かの価値観を切り出して提示できない、ということでもあるのです。 従って現実問題として、「国民性」という言葉が使われるとしてもかなりリアリティを欠いた色褪せたものにならざるを得ませんし、実際にこういう言葉が正面切って使われるのは、もはやせいぜいliteracyの程度に問題のある政治家の発言の中ぐらいではないでしょうか。 また、言葉の面で言えば「国民性」という単語は、他のいかなる言葉も意図すれば差別的に用いることができる(例えば「アレ」というだけでも差別感を込め得る)のと同程度には潜在的危険性があるけれども、それは言葉の本質ではなくて用法の問題に過ぎない、ことを指摘しておきます。 全てのサラリーマンが「サラリーマン根性」を持っているわけでもなく、全ての公務員が「お役人」然たるわけでないのは当然ですが、コノテーション(文脈的意味)として特別にある社会的ニュアンスを付与されてこれらの語は流布しています。裏から言えばそのようなニュアンスがこの言葉の本質なのであって、共示的意味のない無色の時点で「国民性」という言葉をあげつらっても始まりません。これはいわゆる「差別語」の問題と同じ構造です。 例えば、先の大戦中の「非国民」という言葉は国民に対して使われたわけですから、本来無意味な言葉ですが、これが意味を持ったのは「国民ならばかくあって然るべき」という絶対的な価値観をコノテーションとして持つ、非常に強制的な言葉だったからです。「国民」という言葉自体が理想をまとっていたが故に抑圧性を秘めていた、と言えるでしょう。しかしこれと比べてみても、「国民性」は本来無色な言葉であって、抑圧性があるとすればそれは用法によるわけなのです。 「国民性」という言葉が国民個々人の様々な「パーソナリティ」を十把ひとからげに、乱暴にまとめあげてしまう、という不信感についても、この語に限らず言葉一般の性質に過ぎません。 何となれば言葉というのは全て一般化を通じて物事を認識するための手段に過ぎないのであって、そのことは常に差異を前提とせざるを得ないからです。物事の認識というのは、突き詰めれば差異化と言わざるを得ないし、認識を広げようとするのは人間のほとんど根本的な属性です。 問題が用法にある以上、国民性という尺度で「誤った個人的パーソナリティ」が形成される、と書かれていることも、すこし突飛な印象を拭えません。そのことは、例えば子供を育てる際に、誉めすぎるばかり(つまり批判性や悪意の全くない言葉群)でスポイルしてしまったり、「お前は伝統ある~家の長男だから」と強調し過ぎた結果グレてしまったり…といった世間でよくある例と一体なにほど違いがあるのでしょうか。これはふざけている訳ではなく、私には理解ができません。 より根本的な面で言えば、私はこの質問には、社会制度をめぐる“共同体主義論”対“自由主義論”の対立の論点が持ち込まれているように思えます。つまり、“個人は社会に属しその社会の持つ一定の価値観や共通善を学習することを通じて初めて個人たり得る”、という立場に対し、この質問では“社会に先だって個人が存在する、個人はそれぞれ相対的な価値を生きるのであってライフスタイルの採用には社会は全く関与すべきでない”という立場が暗に前提とされているように思えます。 それが問題の本質だとすると、その点が真正面から問われることなく、「国民性」という言葉の問題に矮小化されているところに私はすっきりとしないものを感じてしまいます。 その姿勢は例えば、質問者氏が「国民性」に対する価値として「個(人)性」という言葉を使わずに敢えて「パーソナリティ」という曖昧な表現をされたり、あるいは「自己を基準としたパーソナリティ形成」といったような曖昧さによりかかった、独創的ではあるがイメージの湧きにくい(=自己を基準とするなら自己はその基準をどうやって獲得したのか、自己の定義とは何かetc.)表現群を使用していることと通じているように思えるのは私だけでしょうか? (おわかり頂けると思いますが、私には質問者氏の意見や人格を否定しようという意図はありません。言葉のうえでしか通じ合えないわけですから、互いに正確な用法が必要だろう、という意味です)

yurikago
質問者

お礼

>・・・国民の間に「意味への飢餓」というべき必要条件が整っていないと難しいでしょう。 現在日本において実は「意味への飢饉」が蔓延しているように思うのは私だけでしょうか?情報の氾濫により自己の位置づけがとても困難な時代もかつては存在しなかったと思います。そんな中で「国民性」という表現を安易に受け入れてしまうことで誤った自己形成をなしてしまうのではと感じております。neil_2112さんのように聡明な方は物事を捉える能力に長けているのでそんなばかなとお考えになることでしょうが、実際「国民性」を安易に受け入れてしまう国民はどれだけ多いことでしょう? >・・・例えば「アレ」というだけでも差別感を込め得る 理屈っぽく言わせていただくと「アレ」は確かに人間に向けて示す表現ではありませんね^^;アレって物や現象にさす言葉ですよね。 neil_2112さんのおっしゃるとおり、言葉とは常にややこしさをはらんでいますね。私の問題とする本質は確かに“共同体主義論”対“自由主義論”のようにも見て取れますが、実際私が提議したい本質とは、個人の集合である国家と国家の一員としての個人とは相反するものではなくそれは物事の表裏であるだけに過ぎず、もちろんそのことをテーマとしてあげたのではなくあくまでも、尺度であるはずの「国民性」という表現が個人のパーソナリティを形成させる上で先んじてはいけないのではないかといったことであり、世の中は常に変化するわけで「国民性」とはある意味においてレッテル的な拘束を果たす「恐れ」がある危険性と、個人や地域住民の誤解を招く「恐れ」がある危険性とを皆さんと一緒に考えて行ければなと思い質問させていただきました。 詳細な分析のもと深いご指摘とても勉強になりました。 neil_2112さん、ご回答ありがとうございました。

回答No.7

『国民性』 それはたいていの場合 実体も根拠もなく、個人の主観や主張を他人に一方的に押し付けたい時に使う 「言葉の道具」にすぎないと個人的には思っています。 例えれば「幽霊」見たいなものですかね。存在するかどうか分からないけど とりあえずあることにして上手いこと言い包めよう…みたいな。 いろんなジャンルで使われてますけど、いつも疑問符しか出てきません。 あまりにも僕と同意見なので思わず書き込んでしまいました(#^.^#)

yurikago
質問者

お礼

>それはたいていの場合 実体も根拠もなく、個人の主観や主張を他人に一方的に押し付けたい時に使う 確かにネット上や匿名性の高いコミュニティにおいてはそのような傾向が強いかもしれませんね。 また友人同士や家族間でも頻繁に国民性を持ち出すケースもありますね。 その国の理解を前提として正しい場面で「国民性」という表現を使われるならばよいのですが、ただ単に安易に国民性を多用することは慎むべきことかもしれません。今日私の妹がヨーロッパ旅行から帰国したのですが、父と真っ向から国民性に対する議論で花が咲きました。妹はフランスは街が臭くて食事がまずかったがイギリスは清潔感があり食事もうまかったと述べると、父親はフランス料理はうまいと述べ、またイギリスの食事がうまかったということには驚いていたようです。 それからフランスのホテルは体臭くさかったためフランス人は清潔感に欠けるとイメージされた部分もあったようです。会話はこんなに単純ではありませんでしたが、なんともその国のある一面から、あたかも知り尽くしているかのような会話がなんだか滑稽にも思えました。 地域や宿泊先によって料理やサービスは変わってきますし旅行者としての視点でその国の「国民性」を到底知りうるものではないですよね。もちろん国民性という表現事態非常に漠然としており曖昧ではあるのですが。 このケースではまだレベルの低い話題と認識にとどまりますが、思想や政治、宗教、人権問題などが絡みより複雑化されると、その「国民性」の使われ方によっては大きくイメージの開きが生じてしまいます。それはより深刻な事態を生む恐れがあると私は考えます。 nanase1960さん、ご回答ありがとうございました。

回答No.6

あまり四角四面に考えずに、「国民性とはその国民の志向などの傾向である」 と考えるようにすればよいのではないでしょうか? というよりも、国民性という言葉を絶対のものとして考えている人間が どれだけいるか、と考えてみればわかります。 1についてですが、これは自称愛国者が使う場合ですね。 しかし、個人のパーソナリティ以上に、例えば「細かい作業が得意」とか 「技術の応用が得意」という文化的というか風土的というか、 そういう傾向は存在すると思います。 2については、むしろ民族主義といってしまったほうが良いと思います。 国民性と民族主義は混同されるようなものではないと思います。 3は、国家的全体主義への危惧かと思われますが、 それを論ずるならば、芸能界に毒されたという点で、既に全体主義的 傾向が見られます。 ちょっと、国民性という言葉を拡大解釈しすぎているように見えます。 ほかの要素や概念とあわせて悪用すればyurikagoさんの危惧も わかりますが、単に国民性を多用するだけではここまで至らないと思います。

yurikago
質問者

お礼

>それを論ずるならば、芸能界に毒されたという点で、既に全体主義的 傾向が見られます。 そうですね。私もneue_reich指摘はポイントを突いているとおもいます。芸能界はなにかを扇動するにはもってこいなカリスマ的存在ですもんね。 >ちょっと、国民性という言葉を拡大解釈しすぎているように見えます。 おっしゃるとおりだと思います。しかし最近の社会の風潮では二極化する傾向が顕著に現れていますよね。今、世の中の流れに逆行する形でさまざまな現象が起きています。代表的なものがアメリカの独善的な戦争美化ともいえる言動(昔から変わらないことこそが現代社会における逆行といえる)ではないでしょうか?今世界規模で動く世の中で一つ一つの言動が大きく影響することがあると私は考えております。私は変わるべきものが変わらないということに非常に大きな問題を含んでいると思っているのです。 neue_reichさん、ご回答ありがとうございました。

  • keroppi
  • ベストアンサー率35% (61/172)
回答No.5

文化論という分野の学問があります。ある国の国民の習慣などを書いた論文もありますし、エッセイ的なものもあります。そんな本を読む時「え?!」と反論したくなることもありますし、笑えることもあります。 しかし、この文化論のパーセンテージって、大学教授から聞いたところによると、20~25%だそうです。つまり、人口の20~25%がそういう行動をするなら、そうだと言及することができるんだそうです。 数字だけみると低いですよね。 でも、一家に一人、あるいは視聴率と比べて考えると、そんなものかな、と思います。 質問の直接の答えではないかもしれませんが、深く考えていらっしゃるなら、別の観点からの「言葉の定義付け」も必要かな、と思いレスしました。

yurikago
質問者

お礼

文化論のご説明、非常に参考となりました!ありがとうございます。 わたしも、国民性の調査が統計と言うことはわかっておりましたが正確な数値までは存じませんでした。数値というものの材料は議論の時に非常に説得力がありますね。 お言葉を返すようですが、統計は非常に優れたツールですが、人間に関しては意外と脆い側面があるのではないかとも疑問視しております。人間ほど複雑で分からないものもありませんからね。もちろん宇宙とか哲学など余りにも広大でわからないものもありますが、それも実は人間あっての問題なんですよね。経済もマクロとミクロの研究がなされてますが、国民性とはマクロ的であり、しかしマクロからだけでは経済の実態が見抜けないように、国民性だけでその国の民の実態を見るなんてそりゃ、傲慢すぎますもんね^^;しかし国民性はいろいろな場所で利用されていると思うと深く考えずにはいられませんでした。 keroppiさん、ご回答ありがとうございました。

  • wncek
  • ベストアンサー率27% (55/200)
回答No.3

言葉は使う人の意思によって、いろいろな受け止め方が出来ますね。 国民性という言葉は抽象的な表現ではありますが、善い意味で使われる場合もあります。例えば、イギリス人が日本人を褒める時には、「日本人は礼儀正しい」と言います。しかし、日本の全国民が礼儀正しい訳ではないことは、誰でも知っています。人それぞれなのは当たり前のことで、「全体的に礼儀正しい人が多い」ということです。 国が違えば、教育、文化、習慣、宗教など様々です。ある程度は行動や思考に共通した特徴が出てきても不思議ではないでしょう。 アメリカ人の友人は私の意見にすぐ反論します。あまりにも頻繁なので、私は不愉快です。そこで、尋ねました。すると、「反論するのは、あなたの意見を真剣に聞いている証拠です。賛成の時もあるけど、何か意見を言わないと悪いかなと思って、とりあえず反論する時もあります。誰かが反対の意見を言わないと、議論にならないでしょう」と言う。勿論、それは友人の考え方で、全てのアメリカ人がこうではありません。ただ、彼らは議論すること、自分の意見をハッキリ言うことを学校でも家庭でも職場でも教育されます。日本人はあまり議論が好きではありません。なぜでしょう。私だけでしょうか? ヨーロッパは多くの国が、狭い地域に密集していますが、国が違えば人々の生活習慣もかなり違います。統合されたり、独立したりと歴史を繰り返してきた国々でさえこうなのですから、あるていど「国民性」は存在するのではないかと思います。 面白いのは、日本人からするとそれほど違いを感じないのに、彼ら同士は明らかに違いを感じている事です。そして、それをお互いに楽しんでいる様にも見えます。 日本人は、食事の時にお皿やボール(茶碗)を持ち上げて食べる。 ヌードルをすすって食べる。音まで出す。 なんて、マナーのない人達なんだ。 ヨーロッパ人は、家の中でも靴を履いたままだ。 衛生観念が無いのではないだろうか。 国の違いや文化や習慣の違いを無視して、個人対個人の尺度で相手を判断すると、誤解も出てくる場面もあるのではないでしょうか。 その場合は「国民性の違い」としたほうが、お互い上手くいく場合もあると思います。 個人的には、国民性という言葉に問題を感じることは少ないですが、使う人に悪意があれば、差別的な側面が強調される場合もあるとは思います。

yurikago
質問者

お礼

>・・・ないことは、誰でも知っています。 そうですね、それが漠然とした常識や知識の中だけにとどまらず、正しい解釈と信念として確立できるといいですね。とは言うものの、人間見たことも触れたこともないものをなかなか理解できないものですね、「百聞は一見に如かず」とは表現力が優れたことわざだと思います。 私が国民性という表現に、ある意味において否定的なのは国民性とは要するに国民の傾向の統計であり、平均であり、その内容であるわけです。数学としての統計は有意義なものでも「国民=人の集団」を統計で表すことは厳密に言えば不可能であると考えます。あくまでも国民性とは、あるものを基準とした尺度にすぎず(経済指標なようなもの)国民性のもつある表現的な側面は重要なのですが、判断材料としては実は当てにならないケースが多く、特に個人と国民性を重ね合わせた場合ほとんど不一致であるという事を提示しました。例えば日本においても大阪と東京ではおおきく文化が異なる場合もありますね。しかし「本質的な個人」としてはなんの変わりもないのです。また個人レベルではみな「性格」は異なりますね。 また国民性を強調することによって異なった考え、文化を排除する人間心理が働きます(働かないなら良いのですがね・・)。しかしこのような同調メカニズムは、なにも島国である日本にだけある現象ではないということです。そういった観点からも国民性がいかに乏しい判断基準かということがお分かりいただけますか?しかもこれだけサブカルチャーが浸透している日本においては、国民性が特にあいまいな表現であると私は考えます。 国民性という表現は其の国特有の文化を表す際には適切な使われ方だと思います。しかし、サブカルチャーにおいては必ずしも適切な表現とはならず、むしろそれはグローバリズムによる世界的な文化共有であると私は考えております。以上のことより私は国民性の表現に関する危険性を提議した次第です。 おそらく説明がうまくできていないと思いますがこの辺でご勘弁ねがいます^^; wncekさんご回答ありがとうございました。

  • macaron
  • ベストアンサー率10% (1/10)
回答No.2

生まれ育った環境・価値観・教育・宗教等々いろいろな要因があります。 それらを国単位で見れば国民性とし、またより小さな単位で見れば地域性というものも存在します。 国民性=ナショナリズムとお考えでしたらかなり発想が飛躍してるかと思われますが。

yurikago
質問者

お礼

>国民性=ナショナリズムとお考えでしたらかなり発想が飛躍してるかと思われますが。 そうですね。私が特に憂慮する点が「国民性」をナショナリズムのプロパガンダに使われてしまうことです。 ここで私が議題に上げているのは、国民性とは何か?国民性とは存在するか?という問題ではありません。 国民性という表現を頻繁に取り入れることで自分自身のパーソナリティや他者のそれを歪めて形成してしまうこと、また国民性という極めて抽象的な尺度でさまざまな国家を判断してしまうことへの危険性についてを問題にしております。 質問が800字以内とお厳しい制約があるものでして、うまい具合に提議できていないかもしれませんが、実は議題にはそのような趣旨が盛り込まれております。 macaronさん、さっそくご回答していただきありがとうございました。

回答No.1

では、「国民性」なる傾向は無いというお考えでしょうか? ないとお考えだったら話になりませんのでコメントはありません。 たかがちっぽけな人間、なかなか生まれ育ったお国柄、環境を超える「個人的パーソナリティ」なんてもてません。 お刺身を平気で食べられるでしょう?私は食べられます。 犬って食べれないでしょう?私は食べられません。 一事が万事そうですよね。 殺人を犯す人間の幼少時代すら似通った環境であったり。 もしかしたら、全く違うパラレルワールドでも、天候から親の一言一句まで、まったく同じように育てたら、全く同じ性格の人間になるかもしれません。 反射があって、五感があって、気持ちよかったらよくて、痛かったら嫌で。動物、人間なんてたいしたものでもないでしょう。 ちなみに、 「『○○○』は危険」って言う人は、ストレスがあって何かを否定することによってそれを解消したいと考えている。それよりよっぽど危険ないろんな事が見えない訳ではない。 と、言われますがどうでしょう。

yurikago
質問者

お礼

>たかがちっぽけな人間 >人間なんてたいしたものでもないでしょう。 ではなにがちっぽけではなく、なにがたいしたものなのでしょうか?私は逆の見解です。 >お刺身を平気で食べられるでしょう?私は食べられます。 >犬って食べれないでしょう?私は食べられません。 そのまったく逆の人、両方食べれない人、両方食べれる人も存在するとおもいますが、それも画一的でなければならないのでしょうか? >「『○○○』は危険」って言う人は、ストレスがあって何かを否定することによってそれを解消したいと考えている。 その根拠がわかりませんが、これは個人レベルで投げかけた議題ではありません。 majimemajimeさんのご意見十分ありがたく思っています。さっそくご回答くださいましてありがとうございました。

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